最近はスピリチュアルのブームなど、宗教が安易な形で広まっています。あなたの不幸は先祖のたたりや前世のせいだとか、とりあえず説明されれば、なぜなのか深く考えることもなく現代人は納得してしまうようです。「癒し」の流行もそうですが、その場限りの気休めには「救い」がありません。
「千の風になって」という歌がブームになっていますが、死の悲しみを一時的に癒せても、その歌詞のままでは、御法義とは違う方向に導くことになりかねません。
お墓の中で眠ってはいない、ということは、妙好人の庄松の「おらぁ、墓の下にじっとしてはおらんでのぉ」という言葉にもつながりますが、風となってこの世に留まって生きているように考えるならば、草場の陰で故人がまるで霊魂のように見守っているような理解になり、浄土往生も本願も阿弥陀仏も関係がなくなります。
なくなられた方は、お墓のなかで眠っておられるのではなく、浄土へ往生してちゃんと仏さまとなっておられること、そしてその仏さまが還相として働いてくださるあり方が、姿形は見えないけれど、木の葉が揺れることでそのはたらきを感じることのできる風のように、私たちにはたらいてくださっていることが「心」で感じることができる、というように説明してはどうでしょうか。
時代に迎合して安易に流行を利用するだけでなく、きちんと御法義に結びつけて、「救い」を法話では説く必要があるのではないでしょうか。
2008/03 教学伝道研究センター委託研究員 清基秀紀