悪性さらにやめがたし
悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる
(「正像末和讃」『註釈版聖典』六一七頁)
現代語訳
悪い本性はなかなか変わらないのであり、それはあたかも蛇やさそりのようである。だからたとえどんなよい行いをしても、煩悩の毒がまじっているので、いつわりの行というものである。
私たちは平生、外見では当たり障りのない振る舞いをしていますが、心のなかでは良い人、嫌な人、・・・と周りの人を当てはめて生活しています。自分勝手な物差しで人をはかり、枠にはめていきます。良い人と思っている人に少し気にくわないことをされると、「良い人と思っていたけれど・・・」と思い、枠を微調整していきます。それでもニコニコと接していきます。
他人(ひと)を枠にはめていくのは、自分の身を守るためです。そして、ひとたびその枠から大きくはみ出て、自分の心が傷つけば、とんでもない思いを心に抱き、時にはその思いを口から発し、人を傷つけるようなことをしてしまうのが、私の本当の姿であると、親鸞さまはご自身の心を徹底的に見つめ述べておられます。
そのおこころは、何ひとつ真実を見通すことのできないものを等しく救い取りたいと常にはたらいてくださっている阿弥陀さまのお姿を鏡として、私たちは煩悩の毒に冒されて自己中心の生き方しかできない身であるということを常に思い起こしながら、人生を歩んでいかなければならないということでしょう。
文・堀祐彰
2014(平成26)年3月
十方微塵世界の
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
(「浄土和讃」『註釈版聖典』571頁)
現代語訳
ありとあらゆる
ご本願のはたらきを信じて、お念仏申す生きとし生ける者をご覧になって
摂(おさ)めとりむかえ取って、決してお捨てにならない如来さまでいらっしゃるので
「阿弥陀さま」とお呼び申しあげるのです
お釈迦さまは「人生は苦なり」とおっしゃっておられます。もちろん生きていく中で、楽しいと思うこと、快く感じることもあるでしょう。しかしそれは、よくよく考えてみると、一時的なものであって、「自分の欲望が充足している状態」に過ぎず錯覚でしかないのです。普段の実感としても「しんどいなぁ」「生きづらいなぁ」ということが本当のところではないでしょうか。
そういう「しんどい」「生きづらい」という悩み苦しみのところにこそ、至り届き響いてくださるのが南無阿弥陀仏、「必ず救う。お願いだからまかせておくれよ」という阿弥陀さまの喚び声(よびごえ)です。「たとえ万人に見捨てられようとも、お前はひとりではないんだよ。この阿弥陀が、その人生をそのまま丸ごと抱きかかえて決して捨てない、救わずにはおれない。どうか安心しておくれよ、大丈夫だからね」と言って寄り添ってくださるその声を、素直にスッと受け入れるところに、あたたかで確かな依りどころが私の中に確立するのです。それによって、ギリギリのところでなんとか踏ん張ってこの人生を生きていくことができるのではないでしょうか。
文・長尾隆司
2014(平成26)年3月
心を弘誓の仏地に樹て
慶ばしいかな、心を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶつじ)に樹(た)て、念を難思(なんじ)の法海(ほうかい)に流す
(「顕浄土真実教行証文類」『註釈版聖典』473頁)
現代語訳
我欲にとらわれてばかりで、仏さまのような智慧と慈悲をそなえた眼(まなこ)は私たちには無いけれど、心配しなくていいんだよ、我執に充ちた私と気づいたとき、苦海の闇で惑う私たちを、阿弥陀さまの願いの船が、かならず私を乗せて浄土へみちびいてくださる。まるで、暗闇にともる灯台の灯火(あかり)のように。
まことによろこばしいことである。心を本願の大地にうちたて、思いを不可思議の大海に流す
(同『現代語版聖典』645頁)
数年前テレビで、宇宙飛行士が船外活動をしている映像を見ました。その宇宙飛行士は片方の手で宇宙船の取っ手を掴みながら、もう一方の空いた手で窮屈そうに作業をしていました。一般的なイメージとして、宇宙空間は重力に縛られない自由な世界であって、この地球上は重力に縛られた不自由な世界であると思われているのではないでしょうか。しかし実際は逆なのです。宇宙空間のようなところでは何かの拍子で宇宙船から離れてしまうと、自分の力ではもう戻ることができません。もちろん命綱はつけているでしょうが、基本的には自分の力で取っ手を掴んでいないと安心して何もできないのが宇宙空間です。一方、私たちが暮らすこの地球上では、大地がしっかりと私を繋ぎとめていてくれるので、両手を離しても安心して自分の力で自由に様々なことに取り組むことができるのです。
私たちが生きていく上でも、確かなものに間違いなく支えられているという実感が実はとても大事なのです。その安心感があるからこそ、本当の意味で自立をして生きて行くことができるのです。「心を弘誓の仏地に樹て」というお言葉は、まさに親鸞さまご自身が、阿弥陀さまの広く大きなご本願の大地に確かに支えられているというよろこびを述べられたものなのです。
文・芝原弘記
2014(平成26)年3月
無明長夜の灯炬なり
無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ
(「正像末和讃」『註釈版聖典』606頁)
現代語訳
我欲にとらわれてばかりで、仏さまのような智慧と慈悲をそなえた眼(まなこ)は私たちには無いけれど、心配しなくていいんだよ、我執に充ちた私と気づいたとき、苦海の闇で惑う私たちを、阿弥陀さまの願いの船が、かならず私を乗せて浄土へみちびいてくださる。まるで、暗闇にともる灯台の灯火(あかり)のように。
長いトンネルを通ると、いつまでこの中にいるのだろう。もしかしたらもう抜けられないかも。出られなかったらどうしよう?なんて思ったこと、ないですか?
人生も同じですね、辛い時には、だれも分かってくれないと感じたり、また、もしかしたら一生このままじゃないのかと、暗い闇につつまれたまま、途方に暮れたことって、ありませんでしたか。
でも、そんな暗い闇を、明るく照らしてくれる大きな灯火(ともしび)が、実はこの世にあるのです。その灯火に気がついたとき、誰かが私のそばにいてくれると感じる、ひとりじゃないんだと安堵する。そして、その灯火を求めて歩み出そうとするとき、なぜかしら、我が進む道に安らぎを感じる、もう暗い道じゃないんだと気がつく。その灯火に向かってしっかり脚を踏み出し、暗闇を歩けるような気がする。
その灯火は、私に寄り添い「元気になって」と照らしづけてくれるのです。
その光とは「阿弥陀さま」という仏さまの光です。阿弥陀さまは、いつでも何処でも私に寄り添ってくださる心のよりどころとなる仏さまです。
阿弥陀さまと共に歩ませていただける人生があるのですと、親鸞さまはそう教えてくださいました。
文・田中真
2014(平成26)年3月
煩悩にまなこさへられて
煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり
(「高僧和讚」『註釈版聖典』595頁)
現代語訳
煩悩という色眼鏡をかけて物事を見ているわたしたちは、阿弥陀如来の救いのおはたらきに気付くことができませんが、私を救おうとしてくださる広大な慈悲は、怠ることなくこの私に向けられているのです。
子どもたちを見ていますと、実に色々な子がおります。かけっこが速い子、お遊戯が上手な子……しかし、なかには「目立たない子だなぁ」と特徴をつかみきれない子もいます。
詩人の金子みすゞさんは「星とたんぽぽ」という詩を書かれていますが、そのなかに「見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ」(新装版『金子みすゞ全集』Ⅱ・108頁)というフレーズが出てきます。昼には見ることのできない星は、夜になればキラキラと輝きを現します。星は常に同じ場所に存在しており、夜を縁として私たちにその姿を知らせてくれます。枯れて春をまつタンポポは、春になると綺麗な花を咲かせます。タンポポは枯れてしまった後も土のなかで根を張って一生懸命に生きており、春を縁として私たちにその姿を知らせてくれます。子どもたちも同じではないでしょうか。
私たちは煩悩という色眼鏡をかけているため、ものごとのありのまま、本当の姿を見ることができません。言い換えれば、子どもたちが内に秘めた本質に気づかずに、勝手に「この子はこういう子」と決めつけてしまいがちです。しかし、どの子もみな、置かれた環境や外から受ける刺激によって、とりどりの芽を出す種(可能性)を持っています。あたたかくやさしい眼をもって一人ひとりと真摯に向き合い、その種にさまざまな角度から愛情という水をあげて、大切に育んでゆきたいものです。
文・佐竹真城
2014(平成26)年3月
煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり
煩悩(ぼんのう)を断ぜずして涅槃(ねはん)を得るなり
(「正信偈」『註釈版聖典』203頁)
現代語訳
自ら煩悩を断ち切らないまま、浄土でさとりを得ることができる
(同『現代語版聖典』144~145頁)
仏教一般では、さとりを得るためには煩悩(身と心とをまどわす欲望やいかりなど)を取り除いていく必要があるとされます。ところが親鸞さまはさとりを得るためには煩悩をなくす必要はなく、煩悩を抱えたままのわたくしがそのまま仏さまに救われるのだとおっしゃるのです。一見矛盾がありそうな言葉ではありますが、これは「自分の問題点をみつけて、この問題点が悪いので、これをなくしましょう」というのではなく、その問題点を問題点として見ないことに大きな意義があるかと思います。自分の問題点に悩み苦しんでいる人に対して、悩み苦しんでいる姿を受け入れて「無理しなくていいよ、そのままでいいんだよ」と語りかけている仏さまのぬくもりがこの言葉から伝わってきます。日頃の私たちの生活では、「あっちがいい、こっちが嫌い」という「心」の色眼鏡をつけて人やものを見てしまっています。しかし、それらの思いが叶わないところに私たちの苦悩があり、また欲望の増える原因があるのです。煩悩をたずさえて、それをなくすことのできないのが私たち人間であり、この言葉は人間の本質をみごとに見抜かれた親鸞さまの教えのエッセンスそのものといえるのではないでしょうか。
文・野村淳爾
2014(平成26)年3月
前に生まれんものは
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前(さき)に生れんものは後(のち)を導き、後(のち)に生れんひとは前(さき)を訪(とぶら)へ
(「教行信証化身土巻」『註釈版聖典』474頁)
現代語訳
前に生まれたものは後のものを導き、後に生れるものは前のもののあとを尋ね
(『現代語版聖典』646頁)
私はお寺に生まれました。でも、小さい頃は取り立てて理由もなかったのですが、お寺を好きになれませんでした。それを知ってか、両親も無理矢理に何かお寺のことをさせるということはありませんでした。ですが、小学校高学年の頃だったでしょうか、今からある方がお参りに来られるから私も本堂に来るように、と母から言われました。不思議に思いながら本堂へ行くと、年配の女性が一人合掌されている姿が見え、さらに少し近づくと女性の鼻に透明な管があることに気づきました。その女性は、ご病気で外出時には酸素ボンベが手放せない方だったのです。それほど大きなボンベではなかったと思いますが、お経が終わり、タクシーが到着していたにもかかわらず、女性は「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏することをやめられませんでした。
私は、今まで様々な方法でたくさんの事柄を教わり、そのことを今度は我が子や後輩たちに伝えようとしています。どのような方法が最善であるかはその時その時で異なるでしょうが、その女性の姿が「なぜ念仏するのか」、「なにがそうさせているのか」といった疑問を私に投げかけ、私をお寺や阿弥陀さまの教えに向き合わせるきっかけとなりました。ですから私も、子どもや周りの方々が阿弥陀さまの教えに気づいていただけるような、そのような姿を見せられるように、日々の生活を送りたいと思います。
凡夫といふは
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、…
(「一念多念文意」『註釈版聖典』693頁)
現代語訳
「凡夫」というのは、わたしどもの身にはあるがままのありようを理解できないという、最も根本的な煩悩、迷いの根源が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終ろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、…
これまで宗教ということにご縁が無かった方にとって、ただただ「救い」を押しつけられても、自分が救われるべき存在であると思っていなければ、その言葉はむしろマイナスのイメージを抱かせてしまうかもしれません。しかし、それすらも見通され、「摂取不捨」、おさめとって捨てない、背を向けて逃げるものを見放さず、追いかけて抱きとめるというのが、浄土真宗の救い、阿弥陀さまのはたらきなのです。
浄土真宗の教えに生きられた親鸞さまのご著書の中には、このご文のように、私たちを、というよりもご自身を深く見つめられ、その姿をごまかすことなく、とりつくろうことなくありのままに示されているところがいくつもあります。しかし、これは親鸞さまが悲観的な人物であったからではありません。本当の自分を知ることができるのは、そのありのままの自分を受け止めてもらえるという確信があるからこそできるものです。逃げ出したくなるような自分の姿、そんな私だからこそ見捨てはしないと抱きとめてくださっている。だからこそ、そんな自分の本性に向き合うことができ、いよいよ私こそが最も救われるべきものであったということが知られてくるのです。
文・紫雲龍教
2014(平成26)年3月
面々の御はからひ
詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり。
(「歎異抄」『註釈版聖典』833頁)
現代語訳
つきつめていえば、愚かなわたしの信心はこの通りです。この上は、念仏して往生させていただくと信じようとも、念仏を捨てようとも、それぞれのお考えしだいです。
(同『現代語版聖典』7頁)
親鸞さまは法然さまに出会われ、お念仏の道こそが最もすばらしい道だと確信されました。その親鸞さまの晩年、関東から門弟たちが京都まで「極楽に往生する道」を問いただしに来られました。親鸞さまはその門弟たちの問いに対して、「私はただ法然さまの言われた道をそのとおりに信じているだけで、ほかに特別な理由はないです」と、阿弥陀さまから法然さままで継承された道を私もただ信じているだけだという、ご自身の理解を述べられた後、この「この上は、念仏して往生させていただくと信じようとも、念仏を捨てようとも、それぞれのお考えしだいです。」(面々の御はからいなり)というこの言葉を述べられました。
普通でしたら、そのような状況の場合、人情としましては「私の信じるこの教えこそ正しい、これしか信じてはいけません。」と弟子たちを囲いたくなるものですが、この「面々の御はからひなり」という言葉には、それと反対に人を縛らない自由さがあります。鎌倉時代のものとは思われず、信仰の自由がうたわれる現代にも通ずるところがあります。また、一見弱々しい信仰の態度、あるいは、弟子たちを突き放した態度のようにみえますが、よくよく思いますと、その底流に迷いのない強い自信をうかがい知ることができます。
文・佐々木大悟
2014(平成26)年3月
摂取の心光
摂取の心光、つねに照護したまふ。
(「正信偈」『註釈版聖典』204頁)
現代語訳
阿弥陀仏の光明はいつも衆生を摂め取ってお護りくださる。
(同『現代語版聖典』145頁)
「どうしたの、暗い顔して、何かあったの?」 大切な人が悲しそうにしていたら、思わず声をかけてしまいます。その人の心の中は見えないけれど、そこにある悲しみや苦しみが顔や態度に出ているのを感じることができるからです。しかもそれは大切な人であればあるほど、その心の中の闇が自分自身の痛みとなって敏感に感じられます。そんな時、「私にできることがあったら何でも相談して、力になってあげるから。」と励ましたりします。それは大切な人に早く明るく元気になってほしいからです。ふだん私たちは、顔の表情や性格などを、明るいとか暗いとか、まるで光に照らされているか、いないかのような言い方をしていますが、親鸞さまは、ご自身が阿弥陀さまからどれほど大切にされているかという思いを、「つねに私を摂め取って捨てない心光に照らされている」、つまり「摂取の心光」という言葉で表現されています。心光とは太陽や電灯のように目に見える光ではありません。心の中の暗闇を照らす光です。心の闇を見通され、心配で心配で、何とかして安心感を与えたいと願われている阿弥陀さまのお慈悲を、いつでも、どこでも、つねに護ってくださる光に喩えられたことばなのです。
文・西河雅人
2014(平成26)年3月