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もっとつながる!研究員と歩く門前町

総門

▲大正5年ころの本願寺両堂門前の風景。左に御影堂がそびえ、中央に御影堂門、そして右に総門がみえて、現在の堀川通は境内地になっていることがわかる。(『真宗写真宝典』より)

▲現在の総門

本願寺の前を南北に走る堀川通の東の歩道の上に、東面して建っているのが総門です。本願寺は織田信長との争いで大坂本願寺(今の大阪城の地)を退去してから、天正19年(1591)に、京都七条堀川の現在地に寺基を移しました。それから阿弥陀堂や御影堂などの諸堂を整備し寺内町が形成されますが、『法流故実条々秘録』(ほうりゅうこじつじょうじょうひろく)によりますと、元和3年(1617)に両堂が焼失するまでは、正面の門は二重塀になっていたようです。その光景は林原美術館蔵の「洛中洛外図」によって見ることができます。正面の門を入ると北に御影堂門、南に阿弥陀堂門が別々にあり(現在と両堂は逆になっています)、人々が往来している姿が描かれています。

荘厳な佇まいをみせている両堂が再建されるころには、この本願寺の周りは正面の総門、北総門、南総門、七条総門など七つの門で囲まれていました。これらの総門は、御影堂門のように塀を伴っているものではなく、通りからの入出のために設けられたものです。正面の総門は、本願寺の御影堂門の前にあり、左右は常楽寺などの寺院がありました。これが明治の中ごろになると、それらの寺院が移り白州境内となって、町屋と本願寺との間にある門となったのです。現在、堀川通は国道一号線となって車の往来が激しいのですが、戦後しばらくの間まで、ここは正面と南北の総門に囲まれた本願寺の境内でした。その北総門は本願寺吉崎別院(福井県)に、南総門は龍谷大学大宮学舎の猪熊通りにそれぞれ移され、正面総門も少し東に移りました。この正面総門は、切妻屋根(きりつまやね)をもつ桟瓦葺(さんかわらぶき)の高麗門で、門前町を通って本願寺の境内に入る、いわば宗教的な世界に入る扉のような雰囲気を漂わせています。

 

文・三栗章夫
2013(平成25)年3月31日