如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。
(仏説無量寿経、註釈版9頁)
現代語訳
如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。
(『浄土三部経(現代語版)』14頁)
全体の味わい
お釈さまがこの世にお出ましになった本意(出世本懐)は、阿弥陀如来の本願を説くことにあったことを、お釈さまご自身がお告げになったご文です。
阿弥陀如来の本願を説くことを出世の本懐とされたその仏意を通して、あらゆる者が救われていくことのできる本願の教えに、いま出あっていることをよろこばせていただきましょう。
み教えのポイント
釈一代の教
- ・お釈さまが生涯を通して説かれた教え(「釈一代の教」、註釈版1036頁)は、八万四千の法門とも称されるように、その数は大変多い。
出世本懐の教
- ・「出世本懐」とは、お釈さまがこの世に出られた本来の目的のこと。「出世本懐の教」とは、釈一代の教のなかでも、その教えを説くことこそ出世本懐であったとされる教えを意味する。
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他にも出世本懐とされる経典はあるが、親鸞聖人は阿弥陀如来の本願の教えが説かれた『大無量寿経』こそ出世本懐の教と示されている。その意が「正信偈」には「如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり」(註釈版203頁)と説かれている。
真実の利
- ・親鸞聖人は『一念多念証文』に「「真実之利」と申すは弥陀の誓願を申すなり」(註釈版689頁)と示されている。阿弥陀如来の本願名号によって得る利益をいう(註釈版10頁脚註参照)。
法話作成のヒント
弥陀の本願を出世本懐とした釈尊のこころを語る
- ・釈一代の教には様々な教えがありますが、法然聖人が『選択集』に「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」(七祖註釈版1258頁)と示されるように、もっとも救われがたい者を救う教えこそ、もっとも勝れた教えであると言えます。
- ・お釈さまが阿弥陀如来の本願の教えを出世本懐の教としてお説きになったのは、本願の教えこそ、救われがたい凡夫がそのままで救われていくことのできるただ一つの教えであったからです。
救われがたい凡夫とは私のことといただく
- ・本願を建てられた阿弥陀如来のお心も、その教えを説かれたお釈さまのお心も、救われがたい凡夫へと向けられています。
- ・お釈さまが哀れまれた「三界」(迷いの世界)とは私のいる世界であり、救おうとされた「群萌」(一切衆生)とはこの私のことであったといただきましょう。
語釈
- 無蓋の大悲
いかなるものにもおおい隠されない、この上ない大慈悲心。 - 三界
欲界・色界・無色界のことで、衆生が生死流転する迷いの世界を三つに分類したもの。 - 道教
釈一代の教説のこと。ただし『尊号真像銘文』(註釈版671頁)、『一念多念証文』(註釈版689頁)に引かれるご文ではこの言葉(「道教を光闡して」)が省かれており、これは親鸞聖人が、「道教」を出世の本意ではない聖道教とみたためだと考えられている(註釈版672頁脚註参照)。 - 群萌
一切の衆生を、雑草が群がり生えているさまに喩えていう。