法話を聴聞している際、最初はありがたく聞いていたのに、話材がつぎからつぎへ出てくると、だんだん頭が話に追い付かなくなり、途中から法話の筋が理解できなくなってしまうことがある。
一方、自分自身が法話をする際は、話材をふんだんに盛り込んで話しても、きちんと筋が通っていて、分かり易く話せているように感じる。
聴聞している時と、法話している時とで、違いがでてくるのはなぜだろうか?
こんな風に考えてみた。
聴聞している時には、暗算するように、頭の中で整理しながら聞いている。それに対して、法話者は事前に答えを知っていて、それを順序立てて読み上げるように話すのである。両者の間には、当然、処理のスピードに大きなずれが生じるだろう。
いくら簡単な計算でも、
3+5+2+6+5+4+2+9+4+8=48
というような計算だと暗算は難しい。
たとえ簡単でも、
4+4+4+4+4・・・+4+4=48
のような計算式だと単調過ぎて眠たくもなる。
私が思うに、
(2+2)×12=48
のような、すっきり且つ大胆な展開の法話が、暗算のように整理しながら聞く聴聞者の立場には適っているのではないのだろうか。
では具体的にはどのすればよいか?
方法は様々考えられるが、その一つとして「物語」というキーワードをここではあげたい。
こども向け法話の研修会で、次のように指導いただいたことがある。
「ストーリのある話は子どもを惹きつけ、心に残る。大人になっても忘れない。場面や情景が浮かぶような話をしてください」と。
理論的な事柄も、ストーリー性をもたせることで、感動とともに聴聞者のこころにとどくのではないだろうか。