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聖教解説 ― 書名

仏説無量寿経 康僧鎧訳

この経は『大無量寿経』ともいい、略して『大経』とも称される。浄土真宗の根本所依の経典であり、阿弥陀仏の本願が説かれる。
 おおよそ、経典は序分、正宗分、流通分に分けられるが、この経の序分には、それが王舎城の耆闍崛山において、すぐれた比丘や菩薩たちに対して、釈尊が五徳の瑞相をあらわして説かれたものであり、如来が世間に出現されるのは、苦悩の衆生に真実の利益を与えて救うためであるといわれている。
 正宗分にはいって、第一に法蔵菩薩が発願し修行して阿弥陀仏となられた仏願の始終が説かれる。まず「讃仏偈」において師の世自在王仏を讃嘆し、続いてみずからの願を述べる。次いで諸仏土中における選択と、それによってたてられた四十八願が説かれるが、なかでも、すべての衆生に名号を与えて救おうと誓う第十八願が根本である。次に四十八願の要点を重ねて誓う「重誓偈」が、さらに兆載永劫にわたる修行のさまが説かれ、この願と行が成就して阿弥陀仏となりたもうてから十劫を経ているといい、その仏徳と浄土のありさまがあらわされている。下巻にいたると第十八願が成就して、衆生は阿弥陀仏の名号を聞信する一念に往生が定まると述べ、さらに浄土に往生した聖衆の徳が広く説かれる。こうして第二に釈尊は弥勒菩薩に対して、三毒、五悪を誡め、胎生と化生の得失を判定し、仏智を信じて浄土往生を願うべき旨が勧められる。

最後に流通分にいたって、無上功徳の名号を受持せよとすすめ、将来聖道の法が滅尽しても、この経だけは留めおいて人々を救いつづけると説いて終っている。

仏説観無量寿経 

『無量寿仏観経』ともいい、略して『観経』とも称される。この経は釈尊在世当時、王舎城におこった事件を契機として説かれたもので、その事情は序分に示されている。悪友の提婆達多にそそのかされた阿闍世太子が、父頻婆娑羅王を幽閉し、その王のために食物を運んだ母の韋提希夫人をも宮殿の奥に閉じこめた。夫人は遥かに耆闍崛山におられる釈尊を心に念じ、仏弟子を遣わして説法してくださるよう求め、これに応じて釈尊みずから王宮の夫人の前に現れたもうた。そこで夫人は、この濁悪の世を厭い、苦悩なき世界を求め、とくに阿弥陀仏の極楽浄土を選んで、そこに往生するための観法を説かれるよう請うた。

こうして、正宗分にはまず定善観法十三観を説かれる。定善観法というのは精神を統一して浄土と仏・聖衆を観想することである。これらのうち第七の華座観(阿弥陀仏の蓮華台の座を観ずること)を説かれる前に、「苦悩を除く法を説こう」という釈尊の声に応じて阿弥陀仏が空中に住立される。この定善観の中心は第九の真身観(阿弥陀仏の相好を観ずること)である。

さらに、釈尊はみずから精神を統一しない散心のままで修する善である散善三福を、九品に分けて説かれる。三福とは世・戒・行の三であり、上品には行福(大乗の善)、中品の上生と中生には戒福(小乗の善)、中品下生には世福(世間の善)を説き、下品には三福を修し得ない悪人のために念仏の法を説かれるのである。

ところが、流通分にいたって、念仏一行を阿難に付属されたので、釈尊の本意は上来説かれてきた定散二善の法を廃して、他力念仏の一行を勧められているとして、親鸞聖人はこの経には隠顕があるとみられた。


仏説阿弥陀経 鳩摩羅什

略して『小経』とも称される。この経は舎衛国の祇園精舎において説かれたもので、無問自説の経(問いをまたずにみずから説かれた経)、また一代結経(釈尊一代の説法の結びの経)といわれる。
 正宗分は大きく三段に分けて見ることができる。初めの一段には、極楽浄土のうるわしい荘厳相と仏・聖衆の尊い徳を示される。次に、この浄土には自力の善根では往生できないのであって、一心に念仏することによってのみ往生ができると説かれ、終りに、東南西北、下方上方の六方の諸仏が、この念仏往生の法が真実であることを証誠し護念されている旨を説き述べられるのである。

『大経』には阿弥陀仏の本願が説かれ、『観経』にはあらゆる善根功徳(定散二善)と弥陀念仏の法とを説いて、最後に他力念仏の一法を勧められるが、この経にはもっぱら念仏一法のみを説いて結ばれるのである。

なお、浄土三部経については、親鸞聖人は一致と差別と両様の見方を示されている。それは『観経』『小経』には顕説と隠彰の両義があるからである。『観経』は顕説からいえば定散二善の法を説くもので、第十九願諸行往生の法を開説したもの、『小経』も顕説からいえば多善根多福徳の自力念仏の法を説くもので、第二十願の法を開説したものと見られる。このように見る場合は三経差別である。

しかし、『観経』もその本意は定散二善の法を廃して他力念仏を説き、『小経』もその本意は他力念仏の法を説く。それが隠彰の義であって、『大経』と同じ本願の法を説く。これが三経一致である。その一致のなかで、『大経』は法の真実、『観経』は機の真実、『小経』は機法合説証誠というふうに、それぞれあらわされるのである。


顕浄土真実教行証文類 親鸞聖人

本書は親鸞聖人の主著で、『教行信証』『教行証文類』『広文類』『本典』などとも称され、浄土真宗の教義体系が示されている。すなわち本願力回向を往相・還相の二回向に分け、その往相の法義を教・行・信・証の四法として明かされたもので、立教開宗の根本聖典である。初めに総序があり、続いて教・行・信・証・真仏土・化身土と六巻に分けて詳細に宗義が明かされ、終りに後序がある。そのなか、最初に、真実の教とは、釈尊の説かれた『大経』であって、本願を宗とし、名号を体とする釈尊出世の本懐の教である。この経に説かれた法義が、次の行信証の因果である。第二の行とは、本願の名号であって、破闇満願の力用をもち衆生を往生成仏させる行法である。第三の信とは、この行法を領受した三心即一の無疑の信心をいう。この信の体は名号であり、また仏の大智大悲心であるからよく真実報土に到って涅槃のさとりを開く因となる。これを信心正因という。第四の証というのは験現という意味で、如来回向の行信の因が、果としてあらわれることをいう。この証果は弥陀同体のさとりであり、涅槃とも滅度ともいう。またこの証果の悲用として、衆生救済の還相が展開するという。このような証の現れる境界が第五の真仏真土であって、光明無量・寿命無量の大涅槃の境界である。それは同時に往還二回向のおこる本源でもある。以上五巻で顕真実の法義は終るが、第六化身土巻において、権仮の教と邪偽の教とを区分し明かされる。権仮の教とは、聖道門と浄土門内の方便教である要門、真門のことである。また邪偽の教とは、仏教以外の外道のことをいう。このように「仮」と「偽」を簡ぶことによって、いよいよ真実を明らかにされるのである。


浄土文類聚鈔 親鸞聖人

『教行信証』(広文類)が、仏典だけでなく、他の典籍までも引用して、広い視野のもとに浄土の教相を明らかにしようとしているのに対して、本書は、浄土三部経と龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・善導大師の四師の論釈を引くのみで簡略化されているところから『略文類』(略典)ともいわれる。しかし内容は、教・行・証の三法を中心にその基本的な意味を明らかにし、また往相・還相についても要点を説き、さらに三心一心を論じて、『大経』『観経』『小経』の三経が一致して浄土往生の真因は本願力回向の信心であることを述べて、いわば『教行信証』の肝要が記されている。

製作年代は明らかでなく、とくに『教行信証』との前後関係について、広前略後、略前広後の両説があって、容易に決しがたいが、おそらく『教行信証』の推敲が重ねられるなかで、その大綱を別な観点から構成して作られたのではないかと考えられる。

「真仏土巻」「化身土巻」に対応する内容を省いているのは、『教行信証』を前提としているからであろう。とくに大行を釈するなかに、大行・浄信を併記して行から信を開き、また『大経』の第十七願・第十八願成就文を一連に引き、あるいは行一念の釈に続いて、成就文の信一念を釈するなどは、行信不離を明らかにするものであろう。いわゆる行信論の核心が、ここに示されていると見ることもできる。

『教行信証』が、親鸞聖人の教えをあらわす根本聖典であることは言うまでもないが、本書は『教行信証』の構成や内容の重点を知り、その理解を助けるものとして極めて大きな意義を持つ著作である。


愚禿鈔 親鸞聖人

本書は上下二巻に分れているところから、『二巻鈔』とも称される。上巻は、仏教全体のなかでの浄土真実の教えの意義を、親鸞聖人独自の教相判釈によって示し、下巻は、とくに善導大師の『観経疏』の「三心釈」について、その内容が整理されている。

本書の成立は、古写本の奥書によって、一応聖人晩年の撰述と考えられるが、その内容から、法然聖人門下での研鑚期における覚書を後に整理されたものとする説もあり、確定しがたい。親鸞聖人ご自身の解釈や説明は少なく、ほとんど項目だけが列挙されているようにみえるが、構想そのものには、聖人の独自の発揮がある。

上巻の教判は「二双四重」と呼ばれ、仏教を大乗・小乗、頓教・漸教、難行・易行、聖道・浄土、権教・実教等と分類した従来の説をうけながら、竪超・横超、竪出・横出という二双四重の対立概念で区分し、本願他力の教えこそ、「横超の一乗真実の教」である旨を示されるのである。また上巻の前半では教法が、後半ではその教法を受ける機が分類されている。

下巻では、善導大師の「三心釈」を引いて、三心の真仮と、行業の真仮分別等が詳細に示されている。また「二河の譬喩」をめぐって、詳細な解釈が施されている。


入出二門偈 親鸞聖人

本書は、世親(天親)菩薩の『浄土論』の入出二門と、曇鸞大師・道綽禅師・善導大師の釈義についての讃嘆の偈頌である。

初めに『浄土論』の「願生偈」によって、世親菩薩が真実の教によって阿弥陀仏に帰命されていることを讃え、さらに曇鸞大師の解釈にもとづいて、「願生偈」がまったく阿弥陀仏の本願力を讃嘆するものと理解されている。

すなわち礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五念門と、それに応ずる近門・大会衆門・宅門・屋門(以上が入の四門)・園林遊戯地門(出第五門)の五功徳門(入出二門)について、元来は往生人の所修として論じられていたものを、親鸞聖人はすべて法蔵菩薩の修められたところとみなし、「願力成就を五念と名づく」といわれている。こうした解釈は、曇鸞大師が『浄土論』の文にしたがって五念門を修行者である菩薩の行として論じつつ、最後に五念門の因果が「阿弥陀如来を増上縁とする」ことを明らかにし、他利利他の釈をなされた意をうけて、親鸞聖人が釈顕されたものである。

さらに道綽禅師の聖浄二門の釈義を讃え、善導大師が念仏成仏の法門を真宗といい、一乗海と呼び、信心の行者を称讃されたことを述べられている。


三帖和讃 親鸞聖人

和讃とは和語をもって讃嘆する詩という意味で、親鸞聖人が撰述された今様形式の和讃は五百首をこえる。とくにそのなかで『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』をまとめて「三帖和讃」と呼ばれている。

『浄土和讃』(百十八首)は、経典などによって阿弥陀仏とその浄土の徳を讃嘆したもので、「冠頭讃」二首、「讃阿弥陀仏偈讃」四十八首、「大経讃」二十二首、「観経讃」九首、「弥陀経讃」五首、「諸経讃」九首、「現世利益讃」十五首、「勢至讃」八首からなっている。とくに「讃阿弥陀仏偈讃」のはじめの六首は、「正信念仏偈」とともに門信徒が朝夕読誦する和讃で、ひろく知られている。

『高僧和讃』(百十九首)は、「正信念仏偈」の依釈段と同様に、龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信和尚・源空聖人というインド・中国・日本の三国にわたる七人の浄土教の先達の教えを、その事蹟や著作に即してわかりやすく讃嘆されたもので、「龍樹讃」十首、「天親讃」十首、「曇鸞讃」三十四首、「道綽讃」七首、「善導讃」二十六首、「源信讃」十首、「源空讃」二十首と、「結讃」二首からなる。

次に『正像末和讃』(百十六首)は、その成立が聖人八十五歳以降とみられ、最晩年の信境の深まりと、三時通入の本願念仏の讃仰の気持がよくうかがわれる。「夢告讃」一首、「正像末浄土和讃」五十八首、「誡疑讃」二十三首、「皇太子聖徳奉讃」十一首、「愚禿悲歎述懐」十六首、「善光寺和讃」五首、それに「自然法爾」の法語と二首の和讃が終りに収められている。


浄土三経往生文類 親鸞聖人

一般には『三経往生文類』といわれている。「三経往生」とは大経往生、観経往生、阿弥陀経往生のことである。

大経往生とは、『大経』にもとづいて阿弥陀仏の第十八願の法を信じ、現生に正定聚に住して真実報土の往生をとげることであり、これを難思議往生という。ここでは、第十八願・第十一願の願文や成就文によってそれが示され、さらに『論註』の文で助顕されている。なお本書には広略の二本があるが、本聖典依用の広本では、この大経往生の部分で第十七願の願文や成就文等が加えられている。

観経往生とは、『観経』顕説の教えにもとづいて、自力心をもって諸善万行を修し、方便化土に往生することであり、これを双樹林下往生という。ここでは、第十九願の願文と成就文、第二十八願の成就文、『悲華経』の文によってそれが示され、さらに『往生要集』の文によって報土と化土の違いがあらわされている。

阿弥陀経往生とは、『小経』顕説の教えにもとづいて、自力の称名を行じ、七宝の牢獄といわれる疑城胎宮に往生することであり、これを難思往生という。ここでは、第二十願の願文・成就文によってそれが示され、「定善義」や『述文賛』の文で助顕されている。

このように本書は、いわゆる三願・三経・三往生という真宗教義の基本を簡潔に述べたものである。


尊号真像銘文 親鸞聖人

本書題号の「尊号」や「真像」とは、礼拝の対象とされていたものを指している。「尊号」とは本尊としての名号という意味で、六字・九字・十字などの名号があるが、その銘の文からみて恐らく十字名号であろうと推定される。また「真像」とは善導大師・法然聖人などの浄土真宗伝統の祖師方の肖像画のことである。そしてそれらの名号や画像の上下に書かれた経・論・釈の讃文のことを「銘文」という。したがって本書は、親鸞聖人が、その当時に本尊として安置された名号や祖師の画像の讃文を集め、そのこころを解説されたものである。しかし、どの讃文がどの真像の銘文にあたるのかは、にわかには判断しがたい。

本書には建長本と正嘉本の二本があるが、本聖典依用の正嘉本では、本末二巻に分かれ十三種二十一文があげられる。本巻は『大経』の三文、『首楞厳経』の一文、『十住毘婆沙論』の一文、『浄土論』の二文、迦才の一文、智栄の一文、善導大師の三文、太子礼讃の二文、末巻は源信和尚の一文、劉官(隆寛)の一文、法然聖人の三文、聖覚法印の一文、親鸞聖人ご自身の一文からなっている。

全般的に言えば、冒頭に挙げる『大経』の第十八願に誓われた本願力によって、どのような悪人も本願を信ずる一念に正定聚に住し、往生を遂げて成仏の証果をうるという浄土真宗の肝要を、それぞれの銘文によって解説し、そのことを示された祖師方を讃嘆されたものである。


一念多念文意 親鸞聖人

本書の親鸞聖人真蹟本の表紙には『一念多念文意』と題されているが、また『一多証文』『証文』とも称される。同じ法然聖人門下の隆寛律師が著された『一念多念分別事』に引証された経釈の要文、および関連する諸文をあげて、それに親鸞聖人が註釈を施されたものである。

法然聖人門下におこった一念多念の諍論に対して、一念や多念に偏執してはならないことを諭されたのが隆寛律師の『一念多念分別事』であり、その意をうけてなったのが本書であるが、内容を二段にわけ、前段を「一念をひがごととおもふまじき事」として、一念に関する要文を十三文(あるいは十四文)引証し、また後段を「多念をひがごととおもふまじき事」として、多念に関する要文八文を引証される。そして専修念仏は一念多念のいずれも偏執せぬ、念仏往生の義であることを明らかにされた。

しかも本書の前段に引かれる十三文(または十四文)の証文のうち、『一念多念分別事』からの引文はわずかに三文(または四文)であり、また後段では八文のうちの五文ほどが同書からの引文であることなどからしても、本書が単なる『一念多念分別事』の註釈書ではないことが知られるのである。


唯信鈔文意 親鸞聖人

本書は親鸞聖人が、同じ法然聖人門下の先輩にあたる聖覚法印の著された『唯信鈔』について、その題号および引証された経釈の要文に註釈を施されたものである。このなか題号の釈および初めの三文(法照禅師の『五会法事讃』の文、慈愍三蔵の文、善導大師の『法事讃』の文)の釈が詳しく、重要な法義上の釈顕がみられる。

親鸞聖人が『唯信鈔』を尊重され、また門弟にしばしばこれを熟読するよう勧められていることは、御消息の記事や数回にわたる写伝の事実などから知られるところであるが、『唯信鈔』に引用される経釈の文について、聖覚法印は詳細な解釈は施されていない。本書は巻末の文からもうかがえるように、この『唯信鈔』の要文を註釈し、人々に領解しやすいように懇切に説き示されるとともに、「極楽無為涅槃界」の釈に見られるような深遠な解釈を施して、浄土真宗の法義をより明らかにされたものである。


如来二種回向文 親鸞聖人

本書は、往相回向・還相回向について釈されたものである。初めに、『浄土論』の回向の文を釈して、本願力の回向に往相と還相の二種があることを示し、その往相回向に真実の行・信・証のあることが説かれる。続いて第十七・十八・十一願文が引用されて、行・信・証のそれぞれがこれらの願にもとづいていることが示された後、真実信楽によって正定聚に住する信心正因の意義が明かされる。続いて『如来会』の第十一願文が引用され、等正覚・次如弥勒について釈される。次に『浄土論』の出第五門の文によって、還相回向をあらわし、第二十二願文を引用して、還相がこの願にもとづいていることを明かされる。最後に、自利利他ともに法蔵菩薩の誓願にもとづき、行者のはからいではないと結ばれている。

浄土真宗の立教開宗の書である『教行信証』は、往相・還相の二回向のなか、往相の四法である教・行・信・証と真仏土を広説されているが、本書は、そのうちの二回向を中心にして阿弥陀仏の救済の構造を略説されたものである。

なお、本書と『浄土三経往生文類』略本とが統合整理されて、『浄土三経往生文類』広本が成立したとも推察されている。


弥陀如来名号徳 親鸞聖人

本書は完本ではなく一部落丁があり、全体の構成は推定にたよるしかない。

本書の構成を述べれば、まず十二光の一々について釈される。すなわち無量光・無辺光・無礙光・清浄光・歓喜光・智慧光・無対光・炎王光・不断光・(欠落)・超日月光の順に、そのはたらきを示される。

続いて再び無礙光の釈があり、「帰命尽十方無礙光如来」(十字名号)について釈され、難思光・無称光の釈の後、両者が合されたものとして「南無不可思議光仏」(八字名号)について釈されている。

このうち十二光の釈の一部(難思光・無称光か)と、「帰命尽十方無礙光如来」、「南無不可思議光仏」のそれぞれの釈の中間を欠いている。

なお、「南無不可思議光仏」の釈の前にも、難思光・無称光の釈があるが、超日月光の釈の後に、「十二光のやう、おろおろかきしるして候ふなり」とあることから、超日月光の釈までに一応十二光の釈が済んでいると見るべきであろう。

本書の題名が「名号徳」とあり、十二光の釈から名号の釈に移っていることからみて、光明は名号の徳義をあらわすものであるという領解を示されたもので、一部を欠いているとはいえ大切な聖教の一つである。


親鸞聖人御消息 親鸞聖人

本書題号の「御消息」とは、親鸞聖人が関東から京都に帰られて遷化されるまでに、関東各地の門弟に与えられた手紙のことである。四十三通あって、そのほとんどは『御消息集』『血脈文集』や従覚上人が編集された『末灯鈔』などに収録されているが、近年公表された真蹟消息や古写本等も含まれている。その内容は門弟の質問に対する返事や聖人の身辺のことであり、門弟からの懇志に対するお礼に添えて書かれたものなどもある。これらの消息集におさめられたものには、互いに重複するものや、真蹟などとの異同が認められるものがある。このため『原典版』では、年代の確定できるものおよび年代の推定が確実視されるものを年代順に、次いで年代の推定に疑問が残るものおよび年代が不明のものを月日順に配列する編綴方法をとった。そして本聖典では、各消息の簡単な内容紹介と消息集諸本における該当通数とを各通の初めに示した。

この消息を通して、関東の門弟たちの間で、教義的にどのようなことが問題になっていたかを推測することができる。誓願名号同一や「如来とひとし」ということについての説明、また造悪無礙の異義に対する厳しい批判などがそれである。さらに念仏停止の訴訟に関することや善鸞義絶と関連するものがいくつかみられることも注意すべきである。その他、「自然法爾章」のような短篇の法語も収録されている。

全体としては、晩年の聖人の信心の領解がうかがわれるとともに、指導者としての聖人の態度や門弟の信仰態度などを知ることができ、初期の真宗教団の動静をうかがうのに欠かせないものである。


恵信尼消息 恵信尼公

恵信尼公(親鸞聖人の内室)の自筆の文書は本山に蔵されているもので、末娘の覚信尼公宛ての消息八通と譲状二通からなる。消息八通は弘長三年(一二六三)から文永五年(一二六八)までの六年間に書き送られたものであり、譲状二通は建長八年(一二五六)に書き記されたものである。譲状二通はいわゆる証文であり、八通の消息とは性質を異にするため、本聖典には収録しなかった。

消息八通のうち最初の四通は、聖人の御往生について覚信尼公から書状を受け取った際に、聖人のことを懐かしく回想されて書かれたものである。これらの消息のなかでとくに注目すべきものは、聖人が比叡山で堂僧をつとめられていたことや、法然聖人との出会いに至るまでのことを示した記事であろう。また親鸞聖人がかつて三部経千回読誦を中止されたことを回顧された記述や、法然聖人が勢至の化身であり親鸞聖人が観音の化身であるという恵信尼公の夢のことなども注意すべきである。他の四通には恵信尼公の身辺のもようが記されている。

このようにこれらの消息は、親鸞聖人の生涯、さらには聖人と恵信尼公、覚信尼公と恵信尼公との間柄を伝える貴重な資料である。


歎異抄

本書は、親鸞聖人滅後、主に関東の門弟の間で故聖人の口伝の真信に背く異義が生じたことを歎き、聖人面授の門弟である著者(おそらく唯円房)が同心の行者の不審を除くために著したもので、題号も著者自身によって付せられたことは明らかである。

内容は、巻頭に撰述の趣旨を示した漢文の序があり、本文は十八箇条からなっている。それは前半と後半に分れ、初めの十条は、著者が直接聖人から聞いて耳底に留まるところの法語を記したものである。このうち第十条の後半には、聖人の滅後に異義の生じたことを歎く文があって第十一条以下の序の体裁をとっている。後半の第十一条から第十八条までは、異義を挙げて歎異されたもので、このなかにも聖人の御法語が回顧されている。次いで、総結の文で、聖人の吉水時代の信心一異の諍論や聖人の常の仰せを挙げている。前後両段のなか第一、第二、第三条と、第十一、第十二、第十三条は対応しているが、他は必ずしも対応するものではない。

本聖典では、第八代宗主蓮如上人書写本を底本としているので、承元の法難(承元元年、一二○七)のときの流罪記録の文が存するが、これの存在しない写本もある。


執持鈔 覚如上人

本書は、題号に示されるように阿弥陀仏の名号を信受し、かたく執持(とりたもつ)する他力信心の要義を説示された書である。本文は五箇条の法語より構成され、前四条は親鸞聖人の法語により、後一条は第三代宗主覚如上人みずからのお心を述べられ、信心を正しくたもつことを勧められている。

まず第一条は、平生業成の宗義について論じられている。臨終来迎は臨終業成を説く諸行往生の行者においていうところであり、第十九願のこころである。これに対して、第十八願の他力信心の行者は、摂取不捨の利益にあずかって、この世で正定聚に住するから、臨終の来迎を期待しない旨が示されている。

第二条は、往生浄土のためには信心が根本であって、ただひとすじに阿弥陀仏にまかせまいらせるべきであるといい、師教に随順すべきことを法然・親鸞両聖人の関係の上より論じられている。

第三条は、阿弥陀仏の浄土への往生は、凡夫のはからいによるのではなく、阿弥陀仏の大願業力のすぐれた因縁による旨を善導大師の釈文により説明されている。

第四条は、光明(縁)名号(因)の因縁を信ずるという他力摂生の旨趣が述べられている。

第五条は、信一念往生・平生業成という真宗教義の要義についての覚如上人の自督が説示されている。

乗専の『最須敬重絵詞』に、「平生業成の玄旨これにあり、他力往生の深要たふとむべし」と本書の旨趣について評しているゆえんである。


口伝鈔 覚如上人

本書題号の「口伝」とは、口づてに伝えるという意味で、口授伝持・面授口決などというのと同じである。冒頭に「本願寺の鸞聖人、如信上人に対しましまして、をりをりの御物語の条々」とあり、また第三代宗主覚如上人自筆本の識語には「先師上人(釈如信)面授口決の専心・専修・別発の願を談話するのついでに、伝持したてまつるところの祖師聖人の御己証、相承したてまつるところの他力真宗の肝要、予が口筆をもつてこれを記さしむ」と記されている。これによれば、本書は、親鸞聖人が第二代宗主如信上人に物語られた他力真宗の肝要を、如信上人が覚如上人に伝えられ、その面授口決の祖師聖人の己証の法門を二十一箇条に分けて筆録し、聖人の教えを顕彰しようとしたものであるといわれるのである。覚如上人が五年前に編述された『執持鈔』には、如信相承は説かれていない。本書にいたってはじめて法然-親鸞-如信という三代伝持の血脈を主張し、法然聖人の正しい教義の伝承は親鸞聖人においてなされ、さらにそれが如信上人をとおして覚如上人に伝授されてあることを主張し、師資相承を明確にしようとされたのである。すなわち、一には法然聖人門下の浄土異流の中心である鎮西・西山派に対し、その派祖の弁長・証空を本書のなかで批判し、親鸞聖人の一流が正しく法然聖人を伝統するものであることを示し、二には親鸞聖人の直弟を中心とする門弟系の教団に対し、覚如上人を中心とする大谷本願寺が一宗の根本であることを顕示し、三には真宗教義の中核が、信心正因、称名報恩義であることをあらわそうとされたのである。


改邪鈔 覚如上人

本書は、奥書に『改邪鈔』と名づけられた由来が述べられているように、親鸞聖人の門弟のなかに、師伝でない異義を主張し、聖人の教えをみだす者があらわれたため、邪義を破し、正義を顕すために、述作されたものである。第三代宗主覚如上人は三代伝持の血脈(法然-親鸞-如信)を主張し、自分がその血脈の正統を受け継ぐものであることを示し、当時の教団内の邪義二十箇条を挙げて批判し、もって大谷本願寺を中心として真宗教団を統一しようとされたのである。二十箇条の異義は大別すると大体三点に分けられる。その一は、寺院観である。第二十条には大谷本願寺を無視する門弟達の傾向を誡め、大谷本願寺に教団全体を統一しようとする覚如上人の意図が示されている。その二は、門徒の行儀についての批判である。ことさら遁世のかたちを装い、裳無衣や黒袈裟を用いる時宗の風儀をまねる者、わざとなまった声で念仏する者など、門徒の風儀・言動について批判している。さらには同行の与奪等の行為の禁止を説示し、対同行の態度について述べられている。その三は、安心論上の問題であって、仏光寺系の名帳・絵系図を異義とし、知識帰命の異義を破斥し、安心と起行についての分別をなし、起行を正因とすることを否定して、信心正因の立場を主張されているのである。本書は当時の真宗教団における異義を是正した書であって、『口伝鈔』とともに覚如上人の代表的著作の一つに数えられる。


教行信証大意

本書は、『教行信証大意』の題号のほかに、『教行信証名義』『教行信証文類意記』『文類聚鈔大意』『教行証御文』『広略指南』『真宗大綱御消息』などと称される。撰者については覚如上人説、存覚上人説など諸説があり、今日なお定説を見ない。

本書は、『教行信証』一部六巻の大綱を述べあらわした書である。初めに親鸞聖人が、『教行信証』を撰述し、浄土真宗の教相をあらわされた意趣を明らかにし、次いで教・行・信・証・真仏土・化身土の内容について述べられている。第一に、真実の教とは、阿弥陀仏の因果の功徳を説き浄土の荘厳を説いた『大経』であると説示される。第二に、真実の行とは、真実の教に明かすところの浄土の行である南無阿弥陀仏であると説示している。この行は、第十七諸仏咨嗟の願に誓われてあり、名号を信行すれば無上の証果を得ることができると説明している。第三に、真実の信とは、南無阿弥陀仏の妙行を真実浄土の真因なりと信ずる心であり、第十八至心信楽の願の所誓であると説示している。第四に、真実の証とは、上述の行信により得るところの果であり、第十一必至滅度の願に誓われてある旨が明かされている。第五に、真仏土とは、第十二光明無量の願・第十三寿命無量の願に誓われている真実の報仏報土であると説いている。第六に、化身土とは化身化土のことで、仏は『観経』の真身観に説く化身であり、土は『大経』に説く疑城胎宮である旨を説示している。このように本書は、『教行信証』にあらわされた浄土真宗の教義の綱格を簡潔に解説されている。


浄土真要鈔 存覚上人

本書は、建武五年書写本の奥書によれば、『浄土文類集』(著者不明)なる書をもとにして述作されている。同書には安心上の問題点が種々あり、存覚上人は、この書の疑義のある点を修正し、浄土真宗の正統な立場より論を展開し、一宗の要義を詳論されている。

本書は本末二巻に分れている。本巻の冒頭の総論にあたる部分において、まず一向専修の念仏を決定往生の肝心といい、その旨趣を善導大師・法然聖人・親鸞聖人の伝統の上に論じられている。以下巻末にいたるまで十四問答を展開して、親鸞聖人の浄土真宗の一流は、平生業成、不来迎を肝要とする旨を主として説示されている。まず第一問答においては平生業成、不来迎の宗義について明らかにし、第二問答において、その理由として第十八願、第十八願成就文について論じられている。末巻に至って、まず第三問答においては現生不退について論証し、第四問答では、『観経』下下品の一生造悪の者が臨終に善知識にあい、往生をとげるのは、平生業成の義と矛盾しないことの釈明がなされている。第五・六問答においては第十八願の十念と成就文の一念について釈し、平生業成と一念往生について詳論されている。第七・八・九問答において臨終来迎は念仏の利益か諸行の利益かについて論じ、第十問答は念仏と諸行の利益の相違について明らかにしている。第十一・十二・十三問答においては、胎生と化生、報土と化土について分別し、最後の第十四問答においては、善知識について論及されている。


持名鈔 存覚上人

本書は題号に「持名」とあるように、南無阿弥陀仏の名を持つことで、一向専修の念仏を勧めることをその根本主張とするものである。

本書は本末二巻に分れている。本巻においては、まず生死を離れ仏道を求めるべきことを述べ、求道心を確立すべきことを勧め、次いで仏教に八家九宗あるなか、聖道門の教えを捨てて、念仏往生の一門に帰すべきことが説かれる。今の世は末法であり、この末代相応の要法、決定往生の正因は専修念仏の一行であるというのである。この旨を浄土三部経や善導大師の釈によって詳論し、それを法然聖人、親鸞聖人が伝承されていることが記されている。また念仏の功徳について、天台大師智や慈恩大師窺基の釈をもって説明し、念仏一行が諸行よりすぐれている点を讃仰されている。

末巻においては、三問答をあげて浄土真宗の要義を述べられている。第一問答においては、親鸞聖人の一流を汲む念仏者は神明につかえるべきでないことが教示されている。第二問答においては、念仏の行者が諸仏菩薩の擁護と諸天善神の加護を受けるというが、それは浄土に往生させるために、ただ行者の信心を守護したもうのみか、あるいは今生の穢体をまもり、もろもろの願いをも成就させんためかと問い、仏菩薩は信心をまもることを本意とするが、さらに信心の行者もまもられ、現世と後生に大きな利益を得ると論じられている。第三問答では、信心と念仏の関係について論じ、一向専修の念仏は信心を具足した他力念仏であるとして、信心具足の念仏を勧められている。


正信偈大意 蓮如上人

本書は、題号に示されるように、親鸞聖人の『教行信証』「行巻」の末尾に置かれる「正信念仏偈」の文意を簡明に訳し述べられたものである。

第八代宗主蓮如上人には漢文体の『正信偈註』と『正信偈註釈』との著作があるが、いずれも本書以前の撰述と推定されている。

内容は、その多くを存覚上人の『六要鈔』の釈をうけ、それに準拠しながらも、より平易に釈されている。初めに「正信偈」一部を二段に分けて釈すべきことを述べ、前段は『大経』の意、後段は七高僧の意をあらわされたものとするなど、「正信偈」の見方の基本を示されたものといえる。次いで題号を釈し、本文を追って解釈を施されるが、そのなかに随所に蓮如上人独自の釈義をうかがうことができる。


御伝鈔 覚如上人

本書は、『本願寺聖人親鸞伝絵』『善信聖人親鸞伝絵』、あるいは単に『親鸞伝絵』とも称されている。

もと宗祖親鸞聖人の曾孫にあたる第三代宗主覚如上人が、聖人の遺徳を讃仰するために、その生涯の行蹟を数段にまとめて記述された詞書と、各段の詞書に相応する図絵からなる絵巻物として成立したが、写伝される過程でその図絵と詞書とが別々にわかれて流布するようになった。そしてこの図絵の方を「御絵伝」、詞書のみを抄出したものを『御伝鈔』と呼ぶようになったのである。

本書の初稿本であろうとされるものは、親鸞聖人三十三回忌の翌年、永仁三年(一二九五)覚如上人二十六歳の時に著されたものとされているが、覚如上人は晩年に至るまでそれに増訂を施して諸方に写伝されており、その過程で生じた出没、異同、構成形態の変化などが諸本に見られる。

現行のものは上・下二巻、計十五段からなっている。上巻八段にはそれぞれ、(一)出家学道、(二)吉水入室、(三)六角夢想、(四)蓮位夢想、(五)選択付属、(六)信行両座、(七)信心諍論、(八)入西鑑察の記事が、また下巻七段にはそれぞれ、(一)師資遷謫、(二)稲田興法、(三)弁円済度、(四)箱根霊告、(五)熊野霊告、(六)洛陽遷化、(七)廟堂創立の記事が掲載されている。


報恩講私記(式文) 覚如上人

本書は、『報恩講式』ともいい、単に『式文』ともいわれる。宗祖親鸞聖人の報恩講に拝読する聖教で、聖人に対する深い謝意が表明されている。永仁二年(一二九四)、聖人の三十三回忌に第三代宗主覚如上人が撰述された。内容は、総礼、三礼、如来唄、表白、回向よりなり、表白は、(一)真宗興行の徳を讃ず、(二)本願相応の徳を嘆ず、(三)滅後利益の徳を述す、の三段に分けられる。

第一段では、聖人は、天台の慈鎮和尚に就き、顕密の諸教を学び、修行に専念されたが、さとりを得難きことを知って法然聖人に謁し、出離の要道は浄土の一宗のほかにないことに気づき、聖道の難行を捨てて、浄土易行の大道に帰し、自信教人信の生涯を送られた。真宗は親鸞聖人によって開かれたのであるから、念仏して報恩すべしと述べられている。第二段では、念仏修行の人は多いが、専修専念の人は稀であり、金剛の信心の人は少ない。しかるに聖人はみずから他力回向の信を得て、易行の要路を人びとに明かされた。まことに本願相応のご化導、これにすぎるものはないと述べられている。第三段では、遺弟たるものは、親鸞聖人の祖廟に跪き、その真影を仰ぎ、聖人が撰述された数々の聖教を拝読して、この教法を弘めていこうとする決意を新たにするが、それが滅後利益の徳であると讃嘆されている。


嘆徳文 存覚上人

本書は、詳しくは『報恩講嘆徳文』と称される。第三代宗主覚如上人の著『報恩講私記』の上に、さらに重ねて存覚上人が宗祖親鸞聖人の徳と法門を讃嘆されたものである。

本書には、聖人の行蹟が略述され、その高徳が讃嘆されており、古来、覚如上人の『報恩講私記』(式文)とともに報恩講のとき諷誦されてきたものである。

その内容は、聖人の博覧は内外にわたっていたこと、聖道の教えを捨てて浄土真実の教えに帰せられたこと、『教行信証』述作のこと、二双四重の教判のこと、『愚禿鈔』の述作の意趣と愚禿の名のりの意義、流罪化導のことなど、聖人の宗義を中心に簡潔に要を得て讃嘆されており、その文体もまた華麗である。


御文章 蓮如上人

本書は、第八代宗主蓮如上人が門弟の要望に応えて、真宗教義の要を平易な消息の形式で著されたものである。宗祖親鸞聖人の御消息に示唆を得て作られたともいわれている。したがって、どんな人にも領解されるように心がくばられ、文章を飾ることもなく、俗語や俗諺までも駆使されている。

本聖典に収められている五帖八十通の『御文章』は『帖内御文章』ともいい、多数のなかよりとくに肝要なものを、第九代宗主実如上人のもとで抽出・編集されたものである。時代別にみると、吉崎時代四十通、河内出口時代七通、山科時代五通、大坂坊舎時代六通、年紀が記されていないもの二十二通となっていて、教団が飛躍的に拡大した吉崎時代のものがもっとも多く、上人が一般大衆を精力的に教化されたことがうかがえる。

全般の内容をみれば、当時の浄土異流や宗門内で盛んに行われていた善知識だのみ、十劫秘事、口称正因などの異安心や異義を批判しつつ、信心正因・称名報恩という真宗の正義を明らかにすることに心を砕かれている。とくに「なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり」という傾向に対して、他力の信心の重要性が説かれている。また本書の随所に、他力回向の信心を「たすけたまへと弥陀をたのむ」と表現されることは、上人の教学の特色である。


夏御文章 蓮如上人

二百数十通ある御文章のなかから肝要なものを抽出して『五帖御文章』を編纂する時、初めに八十五通が選定されたといわれている。そのなかで、当時本山においてのみ儀式として読誦され、門徒に付与されない『夏御文章』四通と『御俗姓』一通の五通を別行し、五帖八十通とされたのである。すなわち、『夏御文章』は夏中九十日の夏安居に拝読され、『御俗姓』は御正忌報恩講に拝読されるという『御文章』の儀式的な読誦の端を開いたものであった。

この『夏御文章』四通は、明応七年(一四九八)第八代宗主蓮如上人が八十四歳の時に述作されたものであり、第一通と第二通は五月下旬、第三通は六月下旬、第四通は七月下旬と『名塩御文』に年紀が記されている。第四通目は内容より二通が一通となっていることが知られるので、第十七代宗主法如上人がこれを両軸とされてから本願寺派では五通としているのである。

蓮如上人は明応七年の四月初めに昨年の病が再発し、当時の著名な医師の診察を受け、同五月七日には山科の親鸞聖人影像に暇乞いのために上洛されている。そうしたなかで聞法の肝要なることを厳しく諭し、「もろもろの雑行をすてて一心に弥陀如来をたのみ、今度のわれらが後生たすけたまへと申す」(第一通・第二通)と安心の相状を詳らかにして信心を勧められている。


御俗姓 蓮如上人

本書は、『俗姓の御文』とも称される。これは宗祖親鸞聖人の御正忌報恩講に際して示された教語である。

本文は五段に分かれる。第一段には、宗祖の俗姓を明かし、聖人は藤原氏で、後長岡の丞相(内麿公)の末孫、皇太后宮の大進有範の子であると説かれている。

第二段は、聖人は阿弥陀仏の化身であり、あるいは曇鸞大師の再誕であって、ただびとではないといい、九歳で出家し、楞厳横川の末流を伝え、天台宗の碩学となり、二十九歳の時法然聖人の禅室に至り、上足の弟子となり、真宗一流を汲み、専修専念の義を立て、凡夫直入の真心をあらわされ、在家の愚人を浄土に往生するよう勧められたことを記されている。

第三段は、十一月二十八日の親鸞聖人遷化の御正忌に報謝の志を運ばないものは木石にも等しいと誡められている。

第四段は、報恩謝徳をなすことこそ、報恩講の眼目であるが、もし未安心であるならば、真の報謝にはならないことを、ねんごろに教示し、真の正信念仏者になるのでなければ、祖師の御恩に報いることにはならないと説かれている。

第五段は、真実信心の人の少ないことを嘆きつつ、一念帰命の真実信心を勧められている。


領解文 (蓮如上人)

本書は、真宗教義を会得したままを口に出して陳述するように第八代宗主蓮如上人が作られたものとされ、山科本願寺落成の頃から読むようになったといわれている。大谷派では『改悔文』とも称する。内容は簡潔で、一般の人にも理解されるように平易に記されたものではあるが、当時の異安心や秘事法門に対して、浄土真宗の正義をあらわしたものである。

第一の安心の段には、自力のこころを離れて阿弥陀仏の本願他力にすべてを託する、いわゆる捨自帰他の安心が示されている。

第二の報謝の段には、信の一念に往生が定まるから、それ以後の念仏は報恩にほかならないという、いわゆる称名報恩の義が示されている。したがって、この第一・第二の両段において、信心正因・称名報恩の宗義が領解されたことになる。

第三の師徳の段には、上記の教えを教示し伝持された親鸞聖人や善知識の恩徳を謝すべきことが述べられている。

第四の法度の段には、真宗念仏者の生活の心がまえが示され、『御文章』などに定められた「おきて」にしたがって生活すべきことが述べられている。


蓮如上人御一代記聞書

本書は、主として第八代宗主蓮如上人の御一代における法語や訓誡および上人の行動などを収録し、さらに蓮如・実如両上人に関係する人々の言動も記録されたものである。すべて箇条書きになっていて、本聖典には三百十四条を収めているが、その他条数の異なる諸本もある。これは本書が、数種の語録からの抜き書きを集めて構成されていることを示している。なお、編者については諸説があって定かではない。

内容は、真宗の教義、倫理、生活、儀礼など多岐にわたり、故実や多くの人物の動静によって、懇切に興味深く記されている。しかし、全体を通して主題となっているのは、信心獲得することがいかに大切であるかにつきるといってよい。

本書は誰にでも分りやすく、簡潔に浄土真宗の肝要を述べることに努められた上人の態度が、もっともよくあらわれている法語集であり、浄土真宗の信者はこれによって念仏者としての生活の規範を知り、座右に置いて反省の資にすることができるであろう。


唯信鈔 聖覚法印

本書の著者である聖覚法印は、隆寛律師とともに、師法然聖人よりあつく信任されていた人である。本書は聖人より相承する念仏往生の要義を述べて、題号のごとくただ信心を専修念仏の肝要とすることを明らかにされたものである。

本書の前半には、まず仏道には聖道門と浄土門の二門があり、浄土門こそが末法の世の衆生にかなうものであると選びとり、その浄土門にまた諸行をはげんで往生を願う諸行往生と、称名念仏して往生を願う念仏往生とがあるが、自力の諸行では往生をとげがたい旨を示して他力の念仏往生こそ仏の本願にかなうことが述べられる。さらにこの念仏往生について専修と雑修とがあることを示して、阿弥陀仏の本願を信じ、ただ念仏一行をつとめる三心具足の専修のすぐれていることを明らかにし、念仏には信心を要とすることが述べられる。

また後半には(一)臨終念仏と尋常念仏、(二)弥陀願力と先世の罪業、(三)五逆と宿善、(四)一念と多念の四項についての不審をあげて、それを明確に決択されている。すなわち前半は顕正の段、後半は破邪の段である。

親鸞聖人は関東在住の頃から本書を尊重され、門弟にもしばしば本書の熟読を勧められた。しかも、帰洛後には本書を註釈されて『唯信鈔文意』を著され、本書の意義をさらに説き明かされている。


後世物語聞書 伝隆寛律師

本書は、略して『後世物語』ともいい、作者については異説が多く、未詳であるが、隆寛律師の作であろうと伝えられている。

初めに念仏往生に関する種々の疑問に対して、京都の東山に住むある聖人が答えるという成立の由来を述べ、続いて以下の九つの問題について問答がなされている。

(一)悪人無知の者も念仏によって往生するということ。(二)聖道門の教えと浄土門の念仏往生の教えとの優劣を論ずるよりも、みずからの能力に応じた念仏往生の道を選ぶことが肝要であること。(三)念仏には必ず三心(至誠心・深心・回向発願心)を具するということの意味と、三心の意義を心得ても、念仏を申さないようならば所詮がないということ。(四)至誠心とは、他力をたのむ心がひとすじであるということ。(五)深心とは二種深信のことで、本願を疑わないこと。(六)回向発願心とは、往生決定のおもいに住することをいう。(七)三心の意義のまとめ。(八)阿弥陀仏をたのみて称える念仏に、自ずから三心を具するということ。(九)ただ念仏するほかに三心はないということ。

なお、親鸞聖人の御消息には、「よくよく『唯信鈔』・『後世物語』なんどを御覧あるべく候ふ」(『親鸞聖人御消息』第十七通)とあり、聖人がしばしば本書を関東の門弟たちに書き写して与え、読むことを勧められたことがうかがわれる。


一念多念分別事 隆寛律師

本書は、法然聖人の門弟である隆寛律師の著作といわれている。

法然聖人在世の頃より、その門下の間において、往生の行業について、いわゆる一念・多念の異説が生じ、その諍論は聖人滅後にも及んだ。その諍論とは、往生は一念の信心あるいは一声の称名によって決定するから、その後の称名は不必要であると偏執する一念義の主張と、往生は臨終のときまで決定しないから、一生涯をかけて称名にはげまねばならないと偏執する多念義の主張との諍論である。

本書はこの諍論に対して、一念に偏執したり多念に偏執したりしてはならないということを、経釈の要文を引証して教え諭すものである。

親鸞聖人は、本書をもととして『一念多念文意』(『一念多念証文』)を著され、さらに本書の意義を明らかにされた。


自力他力事 隆寛律師

本書の内容は、自力の念仏と他力の念仏との相違を明らかにし、他力の念仏を勧めるものである。

まず、自力の念仏とは、みずからの行いを慎み、悪事をとどめて念仏しようとするものであるが、実際には不可能であり、たとえできたとしても、極楽のほとり(辺地)にしか往生できず、そこで本願に背いた罪をつぐなった後、真実の浄土に往生するのであることを明かされる。

次に、他力の念仏とは、みずからの罪悪の深いことにつけても、ひとえに阿弥陀仏の本願力をあおぎ、願力をたのめば、常に阿弥陀仏の光明に照らされ、いのち尽きたときには、極楽に必ず往生せしめられることを明かされる。

最後に、迷いの世界を出て悟りの世界に至ることは、まったく阿弥陀仏の本願力によるのであり、念仏しながら自力をたのむということは、はなはだしい心得違いであると誡めて全体を結ばれている。

なお親鸞聖人が関東の門弟たちに与えられた御消息(『親鸞聖人御消息』第十八通等)から、繰り返し本書を書き写して与え、読むことを勧められたことがうかがわれる。


安心決定鈔

本書の著者は不明であるが、第八代宗主蓮如上人が尊宗されたことにより大切な書とされている。その内容は本末二巻に分かれ、三文の引用と四事の説明によって成り立っているところから、古来三文四事の聖教といわれている。三文とは、『往生礼讃』の第十八願加減の文、『往生論』(『浄土論』)の「如来浄華衆正覚華化生」の文、『法事讃』の「極楽無為涅槃界…」の文であり、四事とは、(一)自力他力日輪の事、(二)四種往生の事、(三)『観仏三昧経』の閻浮檀金の事、(四)薪火不離の喩えである。

本書の中心思想は、機法一体論である。まず本巻では、第十八願加減の文によって衆生の往生(機)と仏の正覚(法)の一体を示し、続いて機法一体の名号について論じて、念仏衆生の三業と仏の三業とが一体であることを示す。末巻では、『往生論』の文を引き、如来の機法一体の正覚について論じ、『法事讃』の文を引いて、正覚は無為無漏であり、名号は機法一体の正覚と不二であるところから、念仏三昧もまた無為無漏であると説いている。最後に(一)自力と他力を闇夜と日輪に喩え、(二)正念・狂乱・無記・意念の四種の往生が、阿弥陀仏の摂取によって可能であることを明かし、(三)念仏三昧の利益を閻浮檀金に喩え、(四)行者の心と阿弥陀仏の摂取不捨の光明との不離を薪と火との不離に喩えて、これによって南無阿弥陀仏の義意をあらわされている。


御裁断御書 本如上人

本書は、本願寺派最大の安心上の騒動であった三業惑乱に際して、第十九代宗主本如上人が出された消息である。

内容は、三段に分かれ、第一段においては、経論所説の他力の信心を、親鸞聖人は、「ふたごころなく疑なし」と無疑の信楽をもって示し、その信心の相を蓮如上人は、『御文章』のなかで、「後生御たすけ候へとたのみたてまつる」と教えられたとして、信楽帰命説が正義であると決択されている。

第二段において、三業帰命説を異義とし、信決定の年月の覚不覚を論ずることの誤りであることを指摘される。

第三段においては、迷心をひるがえして本願真実の他力信心にもとづくよう教化して全体を結ばれる。

前後十年に及んだ三業惑乱の騒動に、教義上の決着をつけられた消息である。


御裁断申明書 本如上人

本書は、前の『御裁断御書』とほとんど同時(日付は一日前)に出されたものであるが、両者の関係は定かではない。超然師の『反正紀略』には『御裁断書』として『申明書』の文を挙げ、『御裁断写』として『御書』の文を挙げている。

内容は『御裁断御書』とほとんど同じであるが、三業派の異解が、「たのむ一念」の語に対する誤った理解にもとづくことを明らかにし、信心のすがたとして二種深信を引いて願力にまかせきる心であることが詳しく説示されている。また誤りと知って誤るものはないので、明師の指南によるべきことを説くなど、懇切丁寧な教示となっている。


横川法語 伝源信和尚

別名『念仏法語』という。源信和尚の法語と伝えられるが定かではない。本書には、妄念煩悩の凡夫であっても、本願をたのんで念仏すれば、臨終の時に来迎にあずかって浄土に往生できるということが、次の三段に分けて説かれている。

第一段では、三悪道を離れて仏法に遇うことのできる人間に生れたことは大きな喜びであると説かれる。これは『往生要集』の厭離穢土欣求浄土の意を述べたものと見られている。

第二段では、信心は浅くても本願が深いから、本願をたのむ人は浄土に往生することができる。また懈怠がちの念仏であっても、莫大な功徳を具しているから、称えれば、仏の来迎にあずかることができると説かれている。

第三段では、凡夫は臨終まで妄念から離れることはできないが、念仏すれば、必ず来迎にあずかり、浄土に往生して妄念をひるがえすことができると説かれている。


一枚起請文 法然聖人

本書は、法然聖人の晩年の念仏の領解を述べられたもので、内容は二段に分かれる。第一段では、自身の念仏は、一般に行われている仏のおすがたを観ずる念仏や、学問をして念仏の意義を知って称える念仏ではなく、ただ南無阿弥陀仏と申せば往生せしめられると信じて称えているほかにはないといい、三心も四修もそこにこもっていると専修念仏の極意を述べ、このほか、奥深いことがらを知ろうとすれば本願の救いからもれると誡められる。次に、第二段では、念仏を信ずるものは、いかに学問をしたものであっても愚鈍の身にかえって念仏すべきであるといわれている。

奥書には、法然聖人自身の領解はこのほかに別になく、滅後の邪義をふせぐために、所存を記したのであるとその由来が示されている。


憲法十七条 聖徳太子

本書の「憲法」という語は、現在用いられているような法制上の用語ではなく、本書は聖徳太子の政治理念・政治哲学が表明されたものである。その内容は、例えば「和らかなるをもつて貴しとなし」(第一条)、「篤く三宝を敬ふ。三宝は仏・法・僧なり」(第二条)、「われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず。ともにこれ凡夫ならくのみ」(第十条)など、仏教理念を根本としたものである。とくに第十条は、『歎異抄』(後序)の「聖人の仰せには、善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」というものへの影響も考えられよう。

親鸞聖人は太子を観音菩薩の化身と崇められ、『正像末和讃』のなかに「皇太子聖徳奉讃」十一首、その他『皇太子聖徳奉讃』七十五首、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』百十四首を製作されている。また『尊号真像銘文』には「皇太子聖徳御銘文」を挙げておられ、門弟たちに太子の真像の讃銘を書き与えられたことが知られ、聖人の太子に対する讃仰の念の深さをうかがうことができる。


十住毘婆沙論(易行品) 龍樹菩薩鳩摩羅什

本書は、龍樹菩薩の著『十住毘婆沙論』(17巻35品)の中から別出したものである。『十住毘婆沙論』は、『十地経』(『華厳経』の「十地品」)をはじめとする諸大乗経典から大乗菩薩道についての所説の要点をとりあげ、それを解説したもので、「易行品」はその第5巻第9品にあたる。

「易行品」の内容を見ると、まず不退の位に至る道について、難行道と易行道の2種があることを示し、根機の劣った者に対して信方便易行の法を説き与える。最初に恭敬心をもって善徳等の十方十仏の名を称えることを易行の法として示し、『宝月童子所問経』の文を引用してその明証とする。つぎに問答を設けて、阿弥陀等の百七仏、毘婆尸等の過去七仏、未来の弥勒仏、東方八仏、三世諸仏、諸大菩薩等を憶念称名することも同じく易行の法であると示して、一品の説述を終えている。

本書には、阿弥陀仏のみならず、諸仏菩薩についてもその名を称えることが易行として示されている。しかしながら、諸仏菩薩に関してはただ称名不退を説くだけであるのに対し、阿弥陀仏についてはとくにその本願や往生の利益が示され、あわせて龍樹菩薩自身の自行化他が述べられている。このことから浄土真宗では、一品の主意を阿弥陀仏の易行にあると見て本書を重視し、所依の聖教の一としている。


浄土論 天親菩薩菩提流支

本書は、天親菩薩が無量寿経によってみずからの願生の意を述べたもので、つぶさには『無量寿経優婆提舎願生偈』といい、略して『浄土論』とも『往生論』とも、また『論』とも呼ばれる。

本文は、24行96句の偈頌(詩句)と、三千字たらずの長行(散文)とからなっている。その偈頌の部分は、最初に帰敬頌がおかれ、天親菩薩自身の阿弥陀仏への帰依と願生浄土の思念とが表白される。ついで、造論の意趣が示され、つづけて、安楽国土と阿弥陀仏およびその聖衆の三種の荘厳相が二十九種にわたって讃詠されている。末尾には、偈頌の結びとして、あまねく衆生とともに往生することを願う回向の意が示されている。つぎの長行は前の偈頌を解釈した部分で、そこでは往生浄土の行としての五念門(礼拝・讃嘆・作願・観察・回向)が開示され、その五念門の果徳としての五果門(近門・大会衆門・宅門・屋門・園林遊戯地門)が説かれている。

本書は、往生浄土の行を大乗仏教の実践道として明確化したものであり、本書の最初の註釈書である曇鸞大師の『往生論註』をとおして、後世の浄土教思想に多大な影響を与えた。


往生論註 2巻 曇鸞大師

本書は、曇鸞大師の著作で、つぶさには『無量寿経優婆提舎願生偈註』と題され、『往生論註』とも『浄土論註』とも、また『無量寿経論註』とも呼ばれ、あるいは略して『論註』、『註論』などとも称される。

天親菩薩の『浄土論』(『無量寿経優婆提舎願生偈』とも『往生論』ともいう)に註解を施したものである。本書は『浄土論』の註釈書として代表的なものであるが、その『浄土論』は韻文で書かれた偈頌と散文で書かれた長行との二部からなっている。『往生論註』ではこれを上下2巻に分けて、上巻ではその偈頌の部分を註釈し、下巻では長行の部分を註釈をしている。

ことに上巻では偈頌を釈するのに、『浄土論』の長行にあらわされた礼拝、讃嘆、作願、観察、回向の五念門行を配当して釈し、また下巻では長行を(1)願偈大意、(2)起観生信、(3)観行体相(観察体相)、(4)浄入願心、(5)善巧摂化、(6)障菩提門(離菩提障)、(7)順菩提門、(8)名義摂対、(9)願事成就、(10)利行満足という10科の章に分けて解釈されている。そこには阿弥陀如来とその浄土の因果の徳用を説き、衆生往生の因果もまた阿弥陀如来の本願力によって成就せしめられるという他力の法義が示されている。


讃阿弥陀仏偈 曇鸞大師

本書は、曇鸞大師が主に『大経』によって阿弥陀仏とその聖衆、および国土の荘厳相を讃嘆された七言一句の偈頌(詩句)である。

内容の上から本書を大別すると、総讃・別讃・結讃の三つの部分よりなっていると考えられる。まず総讃の部分では、浄土の方処を西方安楽土と指定し、仏を阿弥陀と標して、曇鸞大師自身の帰命の意を示し、阿弥陀仏の光寿二無量の徳を讃嘆する。これにつづく別讃は、本書の中心部分で、阿弥陀仏・聖衆・国土の三種荘厳を詳しく讃嘆したものである。とくに十二光の名を釈して阿弥陀仏の徳を讃じている点は曇鸞大師の創意になるものであり、教学の上からも注目される。最後の結讃の部分では、相承の本師であるところの龍樹菩薩を讃じて、本書製作の意趣を明かし、阿弥陀一仏に帰するゆえんを示して、一部の結びとしている。

なお、本書の現行流布本には、「南無至心帰命礼西方阿弥陀仏」の帰礼の文や「願共諸衆生往生安楽国」の願生の文など、行儀に関する文言が各節の前後にあるが、これらは善導大師の『往生礼讃』の形態に準じて後世に付加されたものであるので、本聖典所収にあたっては、『讃阿弥陀仏偈』の原型を重んじて、これらの文を省き、三百五十句の偈頌のみのかたちとした。


安楽集 2巻 道綽禅師

本書は、諸経論の文を援引して『観経』の要義を示し、安楽浄土の往生を勧めたものである。全体は、上下2巻、12大門(上巻3大門、下巻9大門)の組織よりなっている。

その内容を見ると、第1大門では、教法が時代と根機にかなっていなければ効がないことを指摘し、現今の人々は称名念仏によって往生を願うべきであると主張して、『観経』の宗旨や阿弥陀仏の身土などについて説示する。第2大門では、菩提心が願生心に結帰することを示し、あわせて別時意説など種々の論難に答える。第3大門では、龍樹菩薩の難易二道判、曇鸞大師の自力他力判を受けて、聖道・浄土二門の判釈をくだし、末法の時代には浄土の一門こそ通入すべき道であることを力説する。第4大門以下は、上の3大門を補説したもので、第4、第5大門は主として往生の因行について、第6大門から第11大門までは浄土の意義や往生者のありさまなどについて述べ、最後の第12大門は全体を結ぶものとして疑謗を誡め信順を勧めている。

本書は、往生浄土の教えが大乗仏教の基本理念の上に立脚するものであることを種々の観点から巧みに論証しており、浄土門の理論的基礎を築きあげたものとして大きな思想的意義を有している。


観経疏 4巻 善導大師

本書は、善導大師の教学上の主著で、諸師の『観経』解釈をただし、同経の真意を明らかにしようとしたものである。「玄義分」・「序分義」・「定善義」・「散善義」の4帖(巻)からなっているので『四帖疏』ともいわれる。大師の著作は本書の他に、『法事讃』2巻、『観念法門』1巻、『往生礼讃』1巻、『般舟讃』1巻があり、古来本書と合せて「五部九巻」と総称されている。またこの『観経疏』を「本疏」とも「解義分」とも呼ぶのに対し、他の4部を「具疏」とも「行儀分」とも呼びならわしている。

「玄義分」は、経の要義をあらかじめ述べたもので、はじめに「帰三宝偈」(「勧衆偈」・「十四行偈」)と呼ばれる偈頌がおかれ、以下7門にわたって善導大師独自の『観経』に対する見方が示されている。

「序分義」以下の3帖は、経の本文を詳しく註釈したものである。「序分義」は、経の序説にあたる部分を註釈したもの、「定善義」は、経の本論にあたる正宗分の中、定善十三観の文について註釈したものである。「散善義」は、正宗分の中、散善を説く九品段と、得益分、流通分、耆闍分について註釈し、後跋を付したものである。その後跋の部分では、古今の諸師の誤った『観経』解釈をあらため、仏意を確定するという「古今楷定」の意趣が示されている。


法事讃 2巻 善導大師

現存する善導大師の五部九巻の著作のうち、『観経疏』(「本疏」・「解義分」)以外の4部(『法事讃』・『観念法門』・『往生礼讃』・『般舟讃』)はいずれも浄土教の儀礼・実践を明らかにしたものであるので、「具疏」とも「行儀分」とも呼びならわされている。

『法事讃』は、『阿弥陀経』を読誦讃嘆して仏座の周囲を繞道し、浄土を願生する法会の規式を明かした書で、上下2巻よりなる。上巻はその首題を『転経行道願往生浄土法事讃』とおき、尾題を『西方浄土法事讃』と示している。下巻は首尾ともに『安楽行道転経願生浄土法事讃』と題している。

内容の上から見ると、全体は前行法分、転経分、後行法分の3段よりなっているものと考えられる。前行法分では、『阿弥陀経』読誦に先立つ儀礼としての三宝の召請や懺悔の次第などが説かれている。転経分では、『阿弥陀経』の本文が17段に分けられ、各段ごとに讃文を付して、これを読誦唱和する作法の次第が示されている。後行法分では、経の読誦後の儀礼としての懺悔や歎仏呪願などが明かされている。

本書は、浄土教における壮麗な別時の行儀を示したものとして注目されるが、同時に善導大師の『阿弥陀経』に対する見方が窺えるものとして教学の上からも重要な意味を持っている。


観念法門 善導大師

本書は、その首題に『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門』とあり、尾題にはこれに「経」の一字が付加されて『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門経』とあるが、一般には略して『観念法門』と称されている。阿弥陀仏の相好を観想する方法やその功徳について詳述した書で、全体は三昧行相分、五縁功徳分、結勧修行分の3段よりなっている。

第1段の三昧行相分では、最初に『観経』『観仏三昧経』によって観仏三昧の法を明かし、次に『般舟三昧経』によって念仏三昧の法を説き、さらに諸経によって入道場念仏三昧の法や道場内懺悔発願の法について説き示している。第2段の五縁功徳分では、念仏行者が現世と来世に五種の利益を得ることを証明し、第3段の結勧修行分では、三つの問答を設けて信謗の損益や念仏の功徳、懺悔滅罪の方法について述べ、一部を結んでいる。

なお、第2段の五縁功徳分については、その冒頭に「依経明五種増上縁義一巻(経によりて五種増上縁の義を明かす一巻)」という標題があることから、本来は独立した一巻の著作であり、流伝の過程で本書の中に収められたのではないかとする説があるが、本聖典では、従来のとおり『観念法門』の中の一段として取り扱うことにした。


往生礼讃 善導大師

本書は、つぶさには『勧一切衆生願生西方極楽世界阿弥陀仏国六時礼讃偈』(一切衆生を勧めて、西方極楽世界の阿弥陀仏国に生ぜんと願ぜしむる六時礼讃の偈)といい、略して『往生礼讃偈』とも『六時礼讃』ともまた『礼讃』ともいう。その題号が示すように、願生行者が日常実修すべき六時(日没・初夜・中夜・後夜・晨朝・日中)の礼法を明かしたものである。

全体は前序と礼讃の行儀について明かす正明段、および後述の3段よりなっている。前序では、安心・起行・作業という願生行者の実践法について述べ、さらに称名念仏を専修する一行三昧の意義、専修と雑修の得失について説き述べている。正明段では、『大経』の十二光仏名による日没讃、『大経』の要文による初夜讃、龍樹菩薩の「十二礼」による中夜讃、天親菩薩の「願生偈」による後夜讃、彦の「礼讃偈」による晨朝讃、善導大師自作の「十六観偈」による日中讃を示して、六時行儀の次第を明かしている。後述の部分では、『十往生経』・『観経』・『大経』・『小経』を引証して、現世と当来の得益に言及し、一部を結んでいる。

本書は、浄土教の敬虔な日常行儀を説き述べたものとして長く勤式に依用されたばかりでなく、教学の上からも、善導大師の独創的な儀礼論が窺われるものとして重要な意義を有している。


般舟讃 善導大師

本書は、その首題に『依観経等明般舟三昧行道往生讃』とあり、尾題には『般舟三昧行道往生讃』とあるが、一般には略して『般舟讃』と呼ばれている。『観経』をはじめとする諸経によって、浄土を願生し阿弥陀仏の徳を讃嘆する別時の行法を説き示したもので、全体は序分、正讃、後述の3段よりなっている。

第1段の序分では、まずこの行法を修める者の心構えを示し、般舟三昧の意義について述べている。第2段の正讃にあたる部分は、七言一句の偈頌の形式による長大な讃文で、浄土の荘厳相と阿弥陀仏の徳、および九品往生の相を讃詠している。第3段の後述の部分では、諸の行者に対して浄土を願うべきことを勧め、一部の結びとしている。

本書は、教学の上からも注目すべき諸多の点を含んでいるが、文学的にも価値が高く、一大詩篇と呼ぶにふさわしい内容のものとなっている。


往生要集 3巻 源信和尚

本書は、諸経論釈の中から往生極楽に関する要文を集め、同信行者の指南の書としたもので、源信和尚43歳から44歳の時にかけて撰述された。

全体は(1)厭離穢土、(2)欣求浄土、(3)極楽証拠、(4)正修念仏、(5)助念方法、(6)別時念仏、(7)念仏利益、(8)念仏証拠、(9)往生諸行、(10)問答料簡という整然とした組織で構成されている。このうち(1)(2)(3)は本書の導入部にあたるもので、(1)六道輪廻の穢土を厭うべきこと、(2)極楽を欣うべきことを説き、(3)その極楽が十方浄土や兜率天よりもすぐれていることを指摘する。(4)以下(9)までは本論にあたる部分である。(4)は念仏を実践する方法を述べた本書の中心部分であり、(5)はその念仏を助成する方法を7項目に分けて示したものである。(6)は特定の日時を限って修める尋常の別行と、臨終念仏の行儀について説いたもの、(7)は念仏の利益を7種あげたものである。(8)は念仏によって往生を得る証拠として経論から10文を示したもの、(9)は念仏以外の諸行について述べたものである。最後の(10)は全体を結ぶもので、上の所論に関連する諸問題を問答形式によって解釈している。

本書は、日本における最初の本格的な浄土教の教義書であり、撰述後まもないころよりひろく流布して、思想面はもとより、文学や芸術面など広範囲に大きな影響を与えた。


選択集 源空聖人

本書は、選択本願に立脚して称名一行の専修を主張し、浄土宗の独立を宣言された、浄土宗の立教開宗の書である。冒頭に「選択本願念仏集」と題号をあげ、次いで「南無阿弥陀仏往生之業念仏為先(本)」と念仏往生の宗義を標示し、以下16章に分けて、称名念仏こそが、選択の行業である旨を述べられている。

各章ともに、理路整然とした論旨によって標章の文、引文、私釈の順で構成されている。標章の文は、その章で明らかにしようとする主題を簡潔に示し、引文では、標章の文を証明する経典や解釈の文を引き、さらに私釈では、「わたくしにいはく」として、法然聖人自身の解義が明示されている。なかでも第1の二門章、第2の二行章、第3の本願章の3章には、本書の要義が説かれている。すなわち、二門章では、道綽禅師によって一代仏教を聖道門と浄土門に分け、聖道門を廃し、浄土一宗の独立を宣言し、そのよりどころを三経一論(浄土三部経と『浄土論』)と定め、それが、曇鸞大師・道綽禅師・善導大師などの師資相承によることを示される。二行章では、善導大師の『観経疏』(就行立信釈)などをうけて、五正行のなか、称名念仏こそ、仏願にかなった往生の正定業である旨を明かし、かくて雑行はすてるべきである旨を示され、本願章では、第十八願において、法蔵菩薩は一切の余行を選捨して、念仏一行を選取されたといい、その理由は称名念仏こそが、最も勝れ、また最も修めやすい勝易具足の行法だからであると説かれるのである。この3章の意をまとめたものが本書の結論ともいうべき「三選の文」(結勧の文)であり、それが初めの題号および標宗の文とも呼応しているのである。