著者・訳者解説
康僧鎧(こうそうがい)
(3世紀頃)インドの僧と伝えられるが、康の姓より、康居(現在の中央アジアのウズベキスタン共和国内にあったソグディアナのこと)の人とみられる。嘉平4年(252)前後に洛陽に来て白馬寺に住し、『大経』2巻などを訳出したといわれる。
(きょうりょうやしゃ)
(5世紀頃)西域の僧で、ひろく三蔵に通じていた。劉宋の元嘉年間(424~453)のはじめ、建康(現在の江蘇省南京)に至り、『観経』1巻などを訳出した。その後甘粛・四川方面を巡遊して仏教を弘めたが、60歳で江陵(現在の湖北省江陵)に没したと伝えられる。
鳩摩羅什(くまらじゅう)
(344-413。一説には350-409)略して羅什という。『小経』1巻『十住毘婆沙論』17巻などの訳者。西域亀茲国の王族の生れ。仏教に精通し、とくに語学にすぐれ、弘始3年(401)後秦の王姚興に国師の礼をもって迎えられて長安に入り、没するまでに300余巻の経論を訳出した。
(ぜんなくった)
生没年未詳。経録・高僧伝等にその名が見えず、事績については不明である。
菩提流支(ぼだいるし)
(6世紀頃)菩提留支とも書く。北インドの僧。北魏の永平年中(508-511)洛陽に来て永寧寺に住し、『金剛般若経』『入楞伽経』『十地経論』『浄土論』などの経論を訳出した。曇鸞大師は、菩提流支の勧めで陶弘景から授けられた仙経を焼きすてて浄土教に帰入したと伝えられている。
龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)
(150-250頃)龍樹は梵語ナーガールジュナの漢訳。南インドの生れ。空の思想を大成して大乗仏教の教学の基盤を確立した。中観学派の祖。インドはもとより中国・チベットにおいても大きな影響を与え、日本では古来、八宗の祖とされる。また『十住毘婆沙論』の「易行品」を著したことで浄土教の祖師とされる。その他の著書に『中論』『十二門論』、『大智度論』(現在では龍樹撰述に疑問が出されている)などがある。真宗七高僧の第1祖。
天親菩薩(てんじんぼさつ)
(400-480頃)天親は梵語ヴァスバンドゥの漢訳(旧訳)。新訳では世親と漢訳する。ガンダーラ地方のプルシャプラ(現在のペシャワール)に生れ、はじめ部派仏教の説一切有部・経量部に学び、『倶舎論』を著した。その後、兄無着の勧めで大乗仏教に帰し、無着とともに瑜伽行唯識学派を組織し大成した。『唯識二十論』『唯識三十頌』『十地経論』『浄土論』など多くの著書があり、千部の論師といわれている。真宗七高僧の第2祖。
曇鸞大師(どんらんだいし)
(476-542)雁門(現在の山西省代県)の生れ。神鸞とも尊称された。四論や『涅槃経』の仏性義に通じ、『大集経』の註釈を志したが、健康を害して果せなかったことから、不老長生の法を求めて江南に道士陶弘景を訪ね、仙経を授かった。帰途洛陽で菩提流支に会い、浄土教の典籍を授けられ仙経を焼きすてて浄土教に帰したという。 東魏の皇帝の尊崇をうけ、并州(現在の山西省太原)の大巌寺に住し、のちに石壁山(現在の山西省交城北)の玄中寺に入った。その後、汾州の平遥山の寺に移り、ここで示寂した。天親菩薩の『浄土論』を註釈して『往生論註』2巻(『浄土論註』『論註』ともいう)を著し、五念門の実践を説き、浄土教の教学と実践を確立した。著書は他に『讃阿弥陀仏偈』1巻などがある。真宗七高僧の第3祖。
道綽禅師(どうしゃくぜんじ)
(562-645)俗姓は衛氏。并州文水(現在の山西省文水)の生れ。14歳で出家し『涅槃経』を究めたが、石壁玄中寺の曇鸞大師の碑文を読み、48歳で浄土教に帰依したという。以後、日々念仏を称えること七万遍、『観経』を講義すること200回以上に及び、民衆に小豆念仏(小豆で念仏の数量を数えること)を勧めた。その著書の『安楽集』2巻は、曇鸞大師の教学を受け、末法到来の時代の認識、聖浄二門判などの浄土教の主要な問題について述べたものである。真宗七高僧の第4祖。
善導大師(ぜんどうだいし)
(613-681)中国浄土教の大成者。光明寺和尚・宗家大師・終南大師等とも呼ばれる。臨(現在の山東省臨)の出身、あるいは泗州(現在の江蘇省宿遷)の生れともいう。各地を遍歴し、西方浄土変相図をみて浄土教に帰し、のち并州の玄中寺に道綽禅師を訪ねてその門に投じた。師の示寂後、長安に出て終南山悟真寺、光明寺にあって念仏弘通につとめた。
当時、『観経』にもとづく浄土教の研究・講説がさかんであったが、善導大師は浄影寺慧遠等の聖道諸師の説を批判して『観経疏』4巻を著し、曇鸞大師・道綽禅師の伝統をうけ、凡夫入報の宗旨を明らかにした。著書は他に『観念法門』1巻『往生礼讃』1巻『法事讃』2巻『般舟讃』1巻がある。真宗七高僧の第5祖。
源信和尚(げんしんかしょう)
(942-1017)比叡山横川の恵心院に住したので恵心僧都ともいう。大和(現在の奈良県)当麻の生れ。父は卜部正親、母は清原氏。比叡山に登り良源に師事し、天台教学を究めたが、名声を嫌い横川に隠棲した。寛和元年(985)44歳の時に『往生要集』3巻を著し、末代の凡夫のために穢土を厭離して阿弥陀仏の浄土を欣求すべきことを勧めた。真宗七高僧の第6祖。
源空聖人(げんくうしょうにん)
(1133-1212)浄土宗の開祖。法然聖人。押領使漆間時国の子として、美作久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町里方)に生れた。9歳の時、父の不慮の死により菩提寺観覚のもとへ入寺、15歳で比叡山に登り(13歳登山説もある)、源光ついで皇円に師事して天台教学を学んだが、隠遁の志あつく、18歳の時、黒谷の叡空の室に入り法然房源空と名のった。
承安5年(1175)43歳の時、善導大師の『観経疏』の文により専修念仏に帰し、比叡山を下りて東山吉水に移り住み、念仏の教えをひろめた。浄土宗ではこの年を立教開宗の年とする。文治2年(1186)大原勝林院で聖浄二門を論じ(大原問答)、建久9年(1198)『選択本願念仏集』(『選択集』)を著した。
建仁元年(1201)親鸞聖人は、法然聖人に出会い、専修念仏の門に帰入した。元久元年(1204)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので「七箇条制誡」を草して法然聖人以下190名の署名を添え延暦寺に送るが、興福寺の奏状により念仏停止の断が下され、建永2年(承元元年・1207)法然聖人は土佐(実際には讃岐)に流罪となった。建暦元年(1211)、赦免になり帰洛し、翌年正月25日に示寂。法然聖人の法語や事績をつたえるものには、『西方指南抄』『黒谷上人語灯録』などがある。真宗七高僧の第7祖。
聖徳太子(しょうとくたいし)
(574-622)親鸞聖人が「和国の教主」と讃仰した日本仏教の始祖。厩戸王子・上宮太子とも称される。父は用明天皇。高句麗の慧慈に仏教を学んだ。法隆寺、四天王寺等の寺院を建立し、また『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の義疏(三経義疏)を製作したとも伝えられ、仏教の興隆に力を尽した。他方、推古天皇の摂政として政治を行い、遣隋使を派遣し、冠位十二階を制定し、憲法十七条を作った。
聖覚法印(せいかくほういん)
(1167-1235)親鸞聖人の法兄。藤原通憲の孫。比叡山東塔北谷八部尾の竹林房静厳に師事した。また父澄憲の開いた安居院流の唱導(説教)師として安居院法印聖覚と呼ばれた。後に法然聖人に帰し、『唯信鈔』を著すなど、専修念仏の教えの弘通に努めた。
隆寛律師(りゅうかんりっし)
(1148-1227)法然聖人門下の一人で、長楽寺流の祖。藤原少納言資隆の3男。比叡山で範源、慈円(慈鎮)に師事して天台教学を学び、山を下りて洛東長楽寺に住し、法然聖人から教えを受けて念仏行者となる。法然聖人の示寂後、専修念仏教団の指導的地位にあったが、天台僧定照の『弾選択』に対して『顕選択』を著して反論したため、嘉禄3年(1227)に念仏弾圧が起り、隆寛は奥州に遠流となった。しかし門弟西阿の斡旋で相模飯山(現在の神奈川県厚木市飯山)に留り、同年示寂した。著書に『自力他力事』『一念多念分別事』などがある。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)
(1173-1263)浄土真宗の開祖。日野有範の長子。『御伝鈔』によれば、9歳の時に慈円(慈鎮)について出家し、範宴と名のったという。以後20年間、比叡山で修学したが、その間には常行三昧堂の堂僧をつとめていたとみられている。建仁元年(1201)、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠し、95日の暁、聖徳太子の夢告をうけて、吉水に法然聖人を訪ね、その門弟となった。元久元年(1204)、比叡山の圧力に対して法然聖人が提出した「七箇条制誡」に「僧綽空」と署名している。翌元久2年(1205)、『選択集』を付属されてこれを書写し、法然聖人の真影を図画した。また夢告により、綽空の名を善信と改めたという。
建永2年(承元元年・1207)念仏弾圧によって、法然聖人や同輩数名とともに罪せられ、越後(現在の新潟県)に流された。恵信尼公と結ばれたのはこの地であったともいわれる。建暦元年(1211)、赦免され、建保2年(1214)、妻子とともに常陸(現在の茨城県)に移住し、関東で伝道の生活をおくった。62、3歳の頃、京都に帰ったが、その理由は明らかでない。
建長初年の頃から、関東の門弟中に法義理解の混乱が生じたため、息男慈信房善鸞を遣わしたが、かえって異義を生じ、建長8年(1256)、善鸞を義絶した。弘長2年11月28日、弟尋有の坊舎で、90年の生涯を終えた。なお、弘長2年のほとんどの期間は西暦1262年に該当するが、11月28日は新暦の1月16日にあたるので、入滅の年を1263年と表示する。その撰述は、主著『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』をはじめとして、『浄土文類聚鈔』『愚禿鈔』『入出二門偈頌』『三帖和讃』『浄土三経往生文類』『尊号真像銘文』『一念多念文意』『唯信鈔文意』など数多い。
恵信尼公(えしんにこう)
(1182-)親鸞聖人の妻。越後(現在の新潟県)の豪族、三善為則(為教)の娘といわれている。結婚の時期については、一般に聖人の越後流罪中といわれる。聖人と行動をともにし、晩年は越後で暮した。覚信尼公に宛てた消息が現存しており、親鸞聖人の行実を知る上での重要な史料となっている。文永5年(87歳)の時の消息が最後のものであり、まもなく没したと推定される。
覚如上人(かくにょしょうにん)
(1270-1351)本願寺第3代宗主。覚信尼公の孫で、覚恵法師の長子。諱は宗昭。はじめ慈信房澄海について内外の典籍を学び、ついで宗澄から天台、行寛から唯識を学んたが、弘安10年(1287)奥州大網の如信上人に会って宗義を受得した。その後、父覚恵法師とともに関東の親鸞聖人の遺蹟を巡拝し、帰洛して『報恩講私記』『御伝鈔』2巻を著した。
正安3年(1301)、『拾遺古徳伝』9巻を作り、浄土門流における親鸞聖人の地位を明らかにした。翌年覚恵法師から留守職譲状を受け、延慶3年(1310)、留守職に就任し、以後越前大町をはじめ諸地方を巡って教化し、また『口伝鈔』や『改邪鈔』を著して三代伝持の血脈を強調し、仏光寺系の教学を批判するなど本願寺教団の確立に尽力した。しかし長子存覚上人との不和が絶えず、元亨2年(1322)に義絶してより、和解、義絶を繰り返した。著書には上記のほか『執持鈔』『願願鈔』『最要鈔』『本願鈔』『出世元意』などがある。
存覚上人(ぞんかくしょうにん)
(1290-1373)本願寺第3代覚如上人の長子。諱は光玄。嘉元元年(1303)東大寺で受戒し、南都、比叡山で諸宗の教義を学んだ後、京都大谷に帰って父覚如上人に従い教化を助けた。正和3年(1314)覚如上人より大谷廟堂留守職を継職するが、8年後、父上人との間に不和を生じ、義絶され留守職の地位を剥奪された。その後、和解と義絶を繰り返したが、再び留守職に就任することはなかった。晩年は大谷今小路の常楽台に住した。初期本願寺教団の教学を学問的に組織した功績は大きい。著書に『六要鈔』10巻『浄土真要鈔』2巻『持名鈔』2巻『歩船鈔』2巻『顕名鈔』『決智鈔』『嘆徳文』などがある。
蓮如上人(れんにょしょうにん)
(1415-1499)本願寺第8代宗主。第7代存如上人の長子。諱は兼寿。院号は信証院。17歳の時、青蓮院で得度し、父に真宗教義を学び、近江・北陸の教化を助け、関東の親鸞聖人の遺蹟を巡拝した。長禄元年(1457)、43歳で本願寺を継いで近江の教化を進めたが、寛正6年(1465)、延暦寺衆徒の本願寺破却によって、河内・近江等に移った。
文明3年(1471)、越前吉崎に坊舎を建て、御文章等による独創的な伝道を展開し、北陸を中心に東海・奥州に教線を拡めた。同6年(1474)頃から加賀において領主、在地武士などの擾乱が絶えず、本願寺門徒の一部もその渦中に陥るようなこともあって、翌7年(1475)、吉崎を退去した。その後摂津・河内・和泉に布教し、同13年(1481)、京都山科に御影堂、阿弥陀堂を建てて本願寺の再興をなしとげ、延徳元年(1489)に隠居した。
親鸞聖人、覚如上人、存覚上人の教説をうけて直截で明解な文体の御文章や法語をもって伝道につとめ、今日の本願寺教団の基盤をつくり、本願寺教団中興の祖と仰がれている。著述に『御文章』『正信偈大意』などがある。
本如上人(ほんにょしょうにん)
(1778-1826)本願寺第19代宗主。第18代文如の2男。諱は光摂。院号は信明院。寛政11年(1799)本願寺宗主を継職した。寛政9年(1797)から10年間続いた三業惑乱と呼ばれる教学論争によって教団は混乱状態に陥ったが、その収拾に尽力し、文化3年(1806)『御裁断御書』を出して、三業惑乱による教学上の混乱に決着をつけた。文化7年(1810)に御影堂を修復し、同8年(1811)親鸞聖人の550回大遠忌法要を修した。