昔、あるところに大金持ちの長者がいました。長者は多くの宝物や宝石を持っていて、普通の白い真珠はたくさん持っていたのですが、赤い真珠は持っておらず、どうしても赤い真珠が欲しくてたまりませんでした。
長者は、どうにかして赤い真珠を手に入れようと考えたのですが、それを手に入れるまでには、命がけのさまざまな苦労がありました。赤い真珠貝を探すために雇われた漁師はサメと格闘したり、いったん赤い真珠を手にした長者は、それをうらやむ友人たちに騙され、井戸に突き落とされて殺されそうになったりと。
長者は、どうにかして赤い真珠を手に入れようと考えたのですが、それを手に入れるまでには、命がけのさまざまな苦労がありました。赤い真珠貝を探すために雇われた漁師はサメと格闘したり、いったん赤い真珠を手にした長者は、それをうらやむ友人たちに騙され、井戸に突き落とされて殺されそうになったりと。
やっとのことで長者は赤い真珠を自分のものにして、家へ帰ることができました。赤い真珠を見た二人の子どもたちは、長者の苦労も知らずに、それをおもちゃのように扱いながら、「この真珠はどこにあったんだろう」「僕の財布の中にあったんだよ」「そうだね。こんなものは、台所のかめのなかにだってあるよね」などと会話をしています。そんな無邪気な子どもたちを見た長者は、思わず微笑んだのでした。
このお話は、アーナンダが釈尊に「釈尊は六年間の修行の後に悟られたということですが、ずいぶん簡単にさとりをひらかれたように思えるのですが…」と問いかけたことに対して、釈尊がアーナンダに説かれたお話です。そしてこのお話を説きおえたあとで釈尊はアーナンダにこうも語っておられます。「今だけのこと、表面だけのこと、また一部分だけのことを見て、物事を判断してはいけない」と。
【解説】
- ・釈尊の開かれたさとりが「赤い真珠」に例えられています。直接のお弟子であるアーナンダであっても、すでにさとられた釈尊の穏やかなお姿から、さとりに至る道のりの凄まじい厳しさを知るのは難しいことであったようです。この説話を通して、釈尊がさとりを開かれるまでに、命がけのさまざまなご苦労があったことを知らされるとともに、「今だけのこと、表面だけのこと、また一部分だけのこと」から物事の背景を知ることの難しさを教えられます。
- ・「南無阿弥陀仏」をただの文字、ただの言葉にすぎないと受け止めることもあるかもしれません。しかし、この六字の名号には、法蔵菩薩が私たちを救おうとされるお心や修行の徳が全てほどこされています。名号のおいわれを聞くことによって、法蔵菩薩の五劫の思惟や、兆載永劫の修行などのご苦労を知り、「南無阿弥陀仏」は私たちを必ず救うという名のりであったことに気付かされます。
- ・私たちは、目の前にあるものや人が現在のすがたとなった背景について、ついつい見逃してしまいます。仏法についても当たり前のように聞いてはいないでしょうか。「仏法聞き難し」といわれるように、仏法に出遇えたことは、本当に希有なことです。釈尊が大きなご苦労によって仏法を説き、先人のご苦労によって仏法が今に伝わっている背景について、よくよく思いを馳せて味わわせていただきたいものです。
【補足】
- ・この話は『仏説譬喩経』(『衆経撰雑譬喩』27話(大正蔵4、537頁下~583頁上)に説かれています。
- ・「ごちそうさま」という言葉があります。この「馳走」という言葉には、「いろいろな人が走りまわってできたもの」という意味があります。それに丁寧語の「御」「様」が付いた言葉が「御馳走様」です。例えば「焼き魚」について考えてみますと、それは、漁師さんが捕って、運送業者さんが運び、魚屋さんが売って、調理人が調理し、店員さんが配膳してくれたから、私がその焼き魚を食べることが出来るわけです。このようにいろいろな人が走り回ったお陰によって食べることが出来るので、「ごちそうさま」と言うわけです。「ごちそうさま」は、食事の由来に対する深い視点をもった言葉ということができます。さらに深く「焼き魚」に思いを馳せるならば、魚自身のいのち、また、その魚の食べてきた多くのいのちに気が付きます。