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初版 古寺巡礼
書評
  • 和辻 哲郎 (わつじ てつろう)
  • 出版社・取扱者 : 筑摩書房(ちくま学芸文庫)
  • 発行年月 : 2012年4月10日
  • 本体価格 : 本体1,200円+税

1 アジャンター壁画の模写
希臘との関係
宗教画としての意味
波斯使臣の画
(中略)
四十七 中宮寺以後
挿画目次
解説『初版 古寺巡礼』の魅力(衣笠 正晃)

Eメール全盛期の昨今、書簡を受け取ることはめっきり少なくなった。見慣れた風景に埋没する日常の中で、旅先から詩情豊かに古都の情景を語りかける手紙を手にすることがあれば、その感慨はいかばかりであろうか。ましてや、その書き手が、日本精神史の偉大なるアルケオロジスト、和辻哲郎だとしたら、なおのこと…。

1919年、若干30歳の和辻は『古寺巡礼』を世に出した。後に『日本精神史研究』をはじめとする厳密な文献考証学を展開することになる彼は、一面、豊かな空想を繊細な筆致で表現できる文筆家でもあった。お疑いの御仁は、『和辻哲郎仏教哲学読本2』(書肆心水)に収められた「ガンダアラまで」と題された小説をご覧あれ。表現者としての彼の才能が遺憾なく発揮されている。若き日の和辻は、ロゴスの世界とパトスの世界——相反する二つの世界の狭間を生きた。その揺れ動く心情は、本書(22ページ)に挿入された父親との葛藤の中に凝縮されている。古美術の研究を「耻ずべき事とは思わない」と思い切りながら、「僕は自分が安逸を求めて自分の要求を誤魔化しているという印象から脱(のが)れる事が出来ない」と懊悩する。そこに、『倫理学』を著した思想の巨人の姿は見当たらない。

そう、この『初版 古寺巡礼』こそは、後に改訂が加えられ、現在の私たちに馴染みのものとなった『古寺巡礼』の原型、若々しい感受性の息吹が全篇に立ち込める、幻のテキストなのである。自身のことを「僕」と呼び、「君」に語りかける書簡体のスタイルを通して、私たちは、友人・和辻哲郎の声を聞く。

東西の文献資料を縦横に引用しながら、自由に飛翔する和辻の精神は、異文化の交差点の上空を旋回する。アレキサンダーの東征以降、ギリシア文化とインド文化が邂逅したところから、大乗仏教が生まれたのではないか。大乗経典の文学性、儀礼の発達、そして仏像をはじめとする仏教美術の隆盛、そのひとつひとつの背後にシンクレティズムの残光が輝いてはいないか。それが、ガンダーラをはじめとする交通の要衝を経て、西域の人々によりもたらされ、天平文化として花開いたのではないか。万葉の歌にもなく、藤原家の文化にもない、奇跡のような芸術作品に潜む疑問の数々を解きほぐしつつ、仏像や寺院建築のみならず、音楽、演劇、はては風呂の文化にいたるまで、該博な知識に裏付けられた、独創的な考察が続く…。

というと、いかにもとっつきにくい本であるかのように思われるかもしれないが、そうではない。随所に挿入される、古都への郷愁に彩られた抒情的な文章は、これがあくまでも旅の文学であることを思い出させてくれる。

私たちはページを繰る毎に待ち続けるだろう。友人・和辻哲郎が次に差し出す手紙を。そこに描き出されるであろう絢爛たるアジャンターの壁画を、彼が「わが聖女」と呼ぶ中宮寺観音の美しき横顔の描写を。


評者:護山 真也(信州大学准教授)


掲載日:2012年08月10日