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日本人の死生観を読む 明治武士道から「おくりびと」へ
書評
  • 島薗 進 (しまぞの すすむ)
  • 出版社・取扱者 : 朝日新聞出版
  • 発行年月 : 2012年2月25日
  • 本体価格 : 本体1,400円+税

プロローグ
第1章 「おくりびと」と二一世紀初頭の死生観
第2章 死生観という語と死生観言説の始まり
第3章 死生観を通しての自己確立
第4章 「常民」の死生観を求めて
第5章 無惨な死を超えて
第6章 がんに直面して生きる
エピローグ

本書のタイトル「死生観」については、仏教の知識を持つ者なら、「生死観」と理解しそうである。この点は、本書の中でも検討が加えられ、「生死」は「生死即涅槃」のように仏教の教えの根幹に関わる用語であり、仏教教理を示す「生死」と「死にどう向き合うか」「死後についてどんな考えをとるのか」といった「死生観」とは、ストレートに結びつくものではないとし
ている。
したがって、本書で取り扱う「日本人の死生観」とは、「死生観」という語が使われるようになった日露戦争前後の時期から1970年代以後までを視野に入れ、その間の多様な「近代日本人の死生観を読む」という内容である。それは、伝統的な宗教的死生観から一度は離れ、あらためて自分なりの死生観を組み立てようとした人たちの死生観である。

著者はいくつかの系譜を示す。先ず第一に、加藤咄堂に代表される「修養」の系譜に位置づけられるもので、「死を意識しつつ、死を超える大いなるものに一体化し、死を恐れず生きる」ことを理想とするもので、武士道にその典型を見出すものである(第2章)。

また、志賀直哉に代表される「教養」の系譜に位置づけられるもので、自ら死を身近に強く意識した経験から、死に向き合いつつ得た心の安らぎを指し、文人・思想家・表現者としての確固たる信念というべきものである(第3章)。これらは戦前に力をもった死生観言説の典型であり、言わば「悟りの境地」を志向する死生観である。

第二に、個人の悟りとは異なる所に焦点を合わせた死生観の系譜を示す。柳田国男や折口信夫という民俗学者が、民族信仰を通して日本独自の宗教原理を明らかにしようとしたことを取り上げる、すなわち、個人の悟りではなく、古くからの文化伝承を引き継ぐ死の意識や表象に焦点を合わせ、生活の深層にある死生観を自覚すべきとした系譜である(第4章)。

第三に、悟りを目指すような死生観が打ち破られるような非常に困難な経験に直面し、そのような亀裂の経験に焦点を合わせた死生観を表現した人物として、『戦艦大和ノ最期』の著者吉田満の死生観を取り上げる。戦争という無惨な死に対してどう向き合うかが意識された死生観である(第5章)。

第四に、1970年代の死生観の隆盛に先立つものとして、60年代にガンによる死を予期した宗教学者岸本英夫や作家で詩人の高見順の死生観を取り上げている(第6章)。

この中で、岸本による人類史上の死生観の分類が示されているが、
(1)肉体的生命の存続を希求するもの
(2)死後における生命の永存を信ずるもの
(3)自己の生命をそれに代わる限りなき生命に托するもの
(4)現実の生活の中に永遠の生命を感得するもの

著者はこれについて、「来世への信仰」と言えるような伝統的宗教の生命永続の信仰は(1)と(2)の類型に入り、それに対して(3)と(4)は「来世への信仰」とは言えないが「生命永続の信仰」と言えるようなものであると規定している。

そして、「(3)と(4)の類型は、たぶん現代日本人にもだいぶ支持者が多いのではないか」と予想している。

この予想は、第1章で取り上げた『納棺夫日記』や「おくりびと」に見られる「死生観」に繋がるのであろうか。著者は70年代以降の死生観については、客観化するには時間が足りないとしているが、この予想は「探りを入れるにとどめたい」と述べる部分なのかもしれない。

今後は、著者自身が「仏教の影響の濃い人たちの死生観はもっと見ておきたい」と述べている人々の死生観が著されることを期待したい。


評者:森田 眞円(京都女子大学教授)


掲載日:2012年07月10日