HOME > 教えて! > 布教伝道の基礎 > 讃題の例と解説

讃題の例と解説 / 解説12

それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。

(信文類・別序、註釈版209頁)

現代語訳

さて、考えてみると、他力の信心を得ることは、阿弥陀仏が本願を選び取られた慈悲の心からおこるのである。その真実の信心を広く明らかにすることは、釈尊が衆生を哀れむ心からおこされたすぐれたお導きによって説き明かされたのである。(『教行信証(現代語版)』155頁)

全体の味わい

親鸞聖人が『教行信証』「信巻」の始め(「別序」)に、これから顕そうとする信心は、阿弥陀如来の大慈悲心と、釈尊の巧みなおはからいによって恵まれた本願力回向の信心であることを示されたご文です。

私の上に恵まれている信心は、自らが起こした信心ではありません。一切衆生を救おうと願いをおこされた阿弥陀如来の深い慈悲のお心によって、まことの信心をたまわっていることを、ともによろこばせていただきましょう。

み教えのポイント

信楽を獲得する

  • ・「信巻」に「疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく」(註釈版235頁)、『一念多念文意』に「「信心」は如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」(註釈版678頁)と示されている様に、「信楽(信心)」とは、疑いを雑えないで本願を聞き受けている「無疑心」のことをいう。
  • ・信楽は「如来選択の願心より発起す」といわれている様に、阿弥陀如来の願心によって起こされるものであり、決して衆生の心から起こったものではない。

信楽=無疑心

  • ・「無疑心」とは「疑心」の無いことを意味する。「疑心」とは自力のはからいそのもののことで、本願を疑うことをいう。
  • ・自力のはからいとは、自らの思いで本願の救いを聞き受けないことである。
  • ・「正信偈」に「生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもつて所止とす」(註釈版207頁)と示されている様に、疑いの心をもつ者は、迷いの世界から離れることが出来ず、救われることはない。

釈尊の善巧

  • ・「善巧」とは「善巧方便」のことであり、仏・菩薩が衆生をさとりに導くために、衆生の素質や能力に応じて巧みに教化する大悲の具現としての手段・方法をいう。
  • ・「方便」は近づく・到達するという意味の言葉で、暫く用いて還りて廃すという、仮(かり)の意味で用いられる「権仮方便」の意味や、巧みな方法を用いて衆生を教化する「善巧方便」の意味がある。
  • ・私たちに真実の信心の道理を説き示し、知らせてくださったのは釈尊の説かれた『大無量寿経』であり、広くいえば「浄土三部経」の教説である。親鸞聖人は『入出二門偈』に「釈迦・諸仏、これ真実慈悲の父母なり。種々の善巧方便をもつて、われらが無上の真実信を発起せしめたまふ」(註釈版550頁)と讃仰されている。

法話作成のヒント

信心が無疑心であることを語る

  • ・迷いの世界を抜け出すのに何一つ役立つものを持っていない私のためにおこされたのが、「必ず救う」という本願です。この本願の仰せを疑いなく聞くところに私の救いが恵まれます。
  • ・無疑心とは、何の想いも持たない心を意味するものではありません。そこには浄土への往生は間違いなしという、大きなよろこびと安堵の想いが具わっています。

信心は如来よりたまわるもの

  • ・信心は如来の願心よりたまわったものであることを詳しく述べられているのが、「信巻」・三一問答の法義釈です。そこには、煩悩を離れることが出来ず、迷いの境界を流転し続けている私たちには、本来、真実信心のないことが示されています。
  • ・しかし、そのような私たちをあわれまれた阿弥陀如来は、慈悲のお心をもって、真実清浄である信心を、すべての迷える者に恵み与えられていることが明らかにされています(註釈版234~235頁参照)。
  • ・往生成仏の因となる真実の信心をもちえない私に、往生成仏の因である信心が恵まれているという事実は、まことに不思議なことといわねばなりません。私に信心を回向してくださる阿弥陀如来の慈悲のお心とともに、信心のいわれをお説きくださった釈尊のおはからいを味わわせていただきましょう。

語釈

  1. 如来選択の願心
    阿弥陀如来が因位において一切の自力の行信を選び捨て、他力の行信を選び取り、万人を平等に救おうと誓願した大慈大悲心のこと。
  2. 真心
    真実の信心のこと。
  3. 開闡
    ひらきあらわすこと。
  4. 矜哀
    深く哀れむこと。

補足説明

  • ・親鸞聖人は『高僧和讃』(善導讃)に、「釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり」(註釈版591頁)と詠われています。この和讃の左訓に、「釈迦は父なり、弥陀は母なりとたとへたまへり」とあります様に、釈尊を父親、阿弥陀如来を母親にも喩えられています。