地域によってさまざまですが、ご法話は、お葬式ではなくお通夜にされる場合が多いかと思います。しかし、私が十年前に参列したお葬式では、導師によるご法話がありました。その法話は、今でも私の心に残っています。
それは、友人であるA君のお葬式です。A君は大学の同級生でしたが、事故にあい二十二歳で亡くなりました。「A君が亡くなった」この一報を受けたとき、何が起こったのか理解できませんでした。何もかも現実味を感じないふわふわとした感覚につつまれ、それがしばらく続きました。今になって感じることですが、私そのものが不確かな存在であることを知らせてくれたのが、このふわふわとした感覚だったのではないかと思います。
三日後、A君の実家に行き、お葬式に参列しましたが、式が始まってもしばらくはA君が亡くなったとは感じられませんでした。
式の最後に、ご導師からご法話をいただきました。「死は大変悲しい。けれどもこれが生死の現実です」。この言葉により、私のふわふわとした感覚は消え、悲しみが一気にこみ上げてきました。
私にとってA君のお葬式とは、A君の死別を悲しむ場であると同時に、私に「生とは何か」「死とは何か」が問われている場であったのです。その「生死の現実」を知らせて下さったのがご導師によるご法話でした。
よく日本の仏教は、「葬式仏教」と揶揄されたりもします。この言葉は、世間一般から、お葬式にのみ特化したあり方の批判とも受けとめることも出来るでしょう。
たしかに、仏法にであうご縁は、お通夜・お葬式に限定されるものではありません。しかし、「生とは何か」「死とは何か」ということが、私の問題として感じられるのは、身近に死が訪れた時ではないでしょうか。
少なくとも私にとってその時の「ご法話」は、生死の現実を教えてくれた、仏法とであう欠かせないご縁でした。