「音楽を聴かない音楽家を信用できないように、法話を聴聞しない布教使は信用できないよ」
ある僧侶の友人が何気なくもらした一言です。私はなかなか面白い言葉だなと思いました。
皆さんはこの言葉を聞かれて、どう思われるでしょうか?
「音楽家とはたくさんの音楽を聴き、常に音楽に浸っているものだ。布教使も同じようにできるだけたくさんお聴聞の回数を重ねるべきである」ということでしょうか。
今私はお聴聞する機会は結構あるのですが、それでも、その時この言葉は私の胸にグサッと突き刺さりました。何とも言えない恥ずかしさが込み上げてきたのです。
ある時、自分の法話原稿で、なかなか思うように話せない箇所がありました。パソコンに向かっていくら考えても自分の頭の中からは出てきません。しかし、頼まれたご法座は近づいてきます。私は藁にもすがる思いで「何か打開策はないものか?」と総会所にお聴聞に行ったのでした。
その時の法話は、自分の今考えている法話とリンクしていて、内容も表現も、気付かされることや学ぶべきことが多いものでした。しかしそれ以上に法に出遇われた御講師の生き生きとした喜びを通して、おみのりがひしひしと伝わってきたのです。
また、一緒にお聴聞する御同行の表情や、時折思わず口をつくお念仏の声なども大変有難く、いつしか私は自分の法話のことなど忘れて聞き入ってしまったのでした。
私は「今日の法話は自分の法話に利用できないか?」という思いでお聴聞をしていたのですが、阿弥陀さまのお救いの確かさを切々と説かれる法話を聞きながら、次第に自らの身勝手な聴き方に恥ずかしくなりました。
冒頭の友人の言葉は、本当の意味でお聴聞していなかった、その時の経験を思い出させたのです。お聴聞は「どれだけ聴くか」という量だけではありません。もちろんお聴聞する機会は多いに越したことはないのですが、この言葉は、「布教のための手立て」としてお聴聞するのではなく、今仏法に出遇えたことに喜びを感じ、感謝しているお聴聞なのかという問いかけであったように思います。