「聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。」
(註釈版1260頁)
この御文は『蓮如上人御一代記聞書』の御文です。そして、私が大切にしている御文の一つです。
二年前、私は註釈版聖典を第二版へ変えました。その時、日頃同じ町内のお寺としてお世話を頂いているだけではなく、布教面でも指導や相談に乗って頂いている先生に「この註釈版の最初のページに一筆書いて下さい」とお願いしました。先生は快諾下さり、私の註釈版を持ち帰られました。そして、書いて下さったのが冒頭の御文です。
先生は私に註釈版を渡される時、一緒にこの御文を読みながら一言「わかるな?」と仰いました。「はい。『聞書』の御文ですね」と答えましたが、何となく雰囲気に違和感がありました。家に戻ってからすぐに現代語訳と照らし合わせながら、再度この御文にあたりました。この御文には続きがあるんですよね。
「私にして会釈することしかるべからざることなり」と。
これまで私は「これって浄土真宗っぽい」と軽率に話材を選び、法話を作成してきた気がします。どの仏語を表現しているのか?どの御讃題を頂いているのか?を尋ねることはいつも後回しになることが多かったのです。
先生はこの御文を通し「自分勝手な解釈で布教をしてはいけません」と私のこれまでの布教のあり方について、厳しく指導下さると同時に「宗祖が大切にされた御聖教を、まずはあなたが大切にしていって下さい」と私の背中をやさしく押して下さったように思います。
この出来事は先生から私への予防接種のようなものであったと感じています。ただし私の場合の予防接種は期限つきですから、しばらく経つとついつい忘れてしまいがちです。ですから、ことあるごとにこの御文を頂きながら、またこの出来事を思い出しながら、自身の布教のあり方について問い続けていきたいと思います。