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コラム伝道 / 「 経 験 」

昨年度まで私が本願寺にて布教専従職員の任を承っていた時、後輩の僧侶に「法話はどうやってつくってます?」という質問をよく受けた。この質問は私自身も住職課程を出たばかりの頃、多くの先輩布教使にたずねていた質問である。

その頃の私の法話といえば、いくつかの話題を繋いだ内容盛りだくさんの法話をつくっていた。そのような自分の話が嫌で、御讃題の言葉一つひとつにしても、様々な視点からみた広がりのある自分独自の味わいをもった法話をしてみたいと模索していた。そういう考えの中、先輩方に「ご法義の一つのテーマを様々な視点から味わえる法話はどうすればつくれますか?」とよくたずねていた。そしてこの質問をすると必ず返ってきていたのが、「経験が大切だね」という答えであった。当時の私はこの「経験」の意味がわからず、この言葉を聞くたびに、大きな違和感と反発をもっていた。

確かに様々な苦労を味わった経験とはすごいことかもしれない。だが、阿弥陀さまの教えは人生経験の多きものを救うといった教えではない。人生経験がないからといって法話ができないなんておかしいのではないか。反対に人生経験さえすれば法話ができるようになるのか…。しかし、そのようなことを考える私は、現実になかなか深く仏法を味わえないし、話も出てこない。そんな自分のすがたと考えとが矛盾した中で「経験」という言葉が大きな壁となり、法話することへの行き詰まりを感じていたのである。

最近になって「経験が大切」とおっしゃった先輩方の言葉を私自身が大きく取り違えていたのだと知らされている。先輩方がおっしゃった「経験」とは人生経験の有無ではない。言うならば「仏法に出遇った経験」であろう。法話をすることは、仏法を取り次ぐことであると同時に、私自身が念仏者として仏法を中心とした日常を送っているかを問われているご縁でもある。日常のなかに仏法なきものが仏徳讃嘆できるはずはないからである。

今の私にとっても、もちろん法話に対する悩みは数多くある。法座の度に反省の繰り返しである。しかし、今後そこをどう乗り越えるかは、念仏の日暮らしという当たり前のことのなかにある。法話はつくるのではなく日常で味わうもの。最近その大切さを強く思う。

2008/07 元布教研究専従職員 藤川顕彰