「阿弥陀さまの話ではなかった」
この言葉は、以前私の法話を聴聞されたある御同行からの感想です。私自身もうすうす感じていたことでしたから、痛切に心に響きました。当時私は、法話をする上で「分かりやすく、伝わる話」を心がけていました。しかし肝心の仏法が欠けていたのでは、それはお取り次ぎではありません。
その一方で、一体何が「阿弥陀さまの話」なのか。そんな疑問すら湧いてきました。お経の解説をすることでしょうか。妙好人の話をすることでしょうか。さまざまな布教法、法話の本を読み、自分なりに考えてみたものの、なかなかその答えは見つかりません。
こんな状態で布教の場に立つべきではないと考え始めた頃、ふと私が布教使を志した原点を思い出しました。
布教使を志す半年前、父が亡くなりました。私にとってそれは、絶望と悲しみの極みでした。そんななか、摂取不捨の阿弥陀さまのお心に出遇わせていただいたのです。この私を見捨てない親さまがいて下さった。当時の私には、それが何よりの慶びでした。この慶びを一人でも多くの人と共にしていきたい。だからこそ、布教使として阿弥陀さまのお心をお取り次ぎしたいと思ったのでした。
御同行がご指摘された「阿弥陀さまの話」とは、私の法話のスタイルや話の材料を指していたのではありませんでした。法話のスタイルは様々です。話の材料も、お経の解説や妙好人の話、また日常のどんなエピソードでも良かったのです。大切なのは、その話に「阿弥陀さまのお救いの心」が流れていること。そう教えて下さったように思います。
ご法座のご縁の度に、「お聴聞したいのは阿弥陀さまの話です」と、御同行の声が聞こえてくるように思います。