ずいぶん以前の話になるが、布教に出講させていただいたある御法座でのこと。何を気負っていたのか、前席では勢いこんだものの、なかなか聞く側との一体感がもてず、空回りをしたまま一席の法話が終了。休憩時間に案内された別室で、後席は何とか挽回したいものだと考えていたところ、ふと部屋の隅を見ると小型の額縁法語が置かれてあり、その言葉にしばし目が釘付けになった。
作者は妙好人源左の語録から長谷川富三郎氏が版画にされたもので、そこには「人を助けうと思ふけ、助けられる吾が身を忘れつだいな」と書かれていた。私はすっかり「助けられるわが身」を忘れて法話をしていたことに気づかされ、ご住職のお諭しでもあろうかと思うと、全身恥ずかしさでいっぱいになった。
「同行の一言は三年の仏学にまさる」と聞いた覚えがあるが、私はこの御同行の一言によって意識過剰の自分から解放され、ありのままの自分に立ち返らせていただいたように感じた。しきり直した後席の法話の評価は別にして、何とも身にいたくも有り難い聴聞のひとときであったと記憶している。
布教にはたゆまぬ修練が求められるが、誠実にして謙虚に語ることは基本の要件であろう。自信のなさも問題だが、自信がついて話の慣れも加わると、どうしても自信が過信へと移行しやすい。伝えたいという情熱と聞かせたいという気負いは紙一重で、そこを間違うと阿弥陀さまという一座のあるじを見失い、自分が主人公となりかねない。我執にとらわれ、第一に聞かねばならない自分自身を忘れてしまうのである。
源左語録では先の言葉に続いて『われに「えゝの」があつちやならけんえのう。なむあみだぶつ、々々』と記されている。今も相変わらず、つい「われにええの」が顔を出してしまうが、そのたびに”初心にもどれ”と自戒を繰り返す日々である。