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例話の紹介 / (8)共命の鳥
提婆達多は釈尊から仏法を聞きながら、釈尊に対して怨みを抱いていました。このことに疑問を持った弟子達は、「素晴らしい利益を得る仏法を聞きながら、何故、提婆達多は釈尊に怨みを抱くのですか?」と釈尊に尋ねられます。この質問に対し、釈尊は「このことは今に始まった事ではない」といわれ、お話になられたのが以下の共命鳥の話です。

昔、雪山の麓に身体は一つ、頭が二つの二頭鳥がいました。一頭の名前をカルダ、もう一頭の名前をウバカルダといい、一頭が目覚めている時、もう一頭は眠っています。ある時、カルダは眠っているウバカルダに黙って、たまたまあった摩頭迦という果樹の花を食べます。摩頭迦の花を食べることは、二頭ともに利益があると思ったからです。しかし、ウバカルダは目を覚ました後、黙って食べられた事に対し腹を立てて憎悪の思いを起すのでした。
またある時、二頭が飛び回っていると、今度は毒花に遭遇します。憎悪の思いを抱いているウバカルダは思います。「この毒花を食べて、二頭ともに死んでしまおう」と。そしてウバカルダはカルダを眠らせ、自ら毒花を食べてしまいます。眠りから覚めたカルダは瀕死の状態のなか、ウバカルダにいいます。「昔、お互いに利益があると思って摩頭迦の花を食べたことに対し、あなたはかえって憎悪の思いを起しました。まことに瞋恚や愚癡というものに利益はありません。この様な愚かな心は、自らを傷つけ、他人をも傷つけてしまうからです」

そして釈尊は弟子達に、続けて次の様にもいわれました。

この摩頭迦の美花を食べたカルダが私であり、毒花を食べたウバカルダが提婆達多です。私があの時、利益をなしたのにも関らず、提婆達多はかえって憎悪の思いを起したのです。そして今もなお、提婆達多は私が仏法の利益を教えても、かえって私に怨みの心を抱いているのです。

【解説】

  • ・釈尊と提婆達多の関係が、「共命鳥(二頭鳥)」の例話を通して説かれています。
  • ・仏法というものが、自身に利益を与えるものであることを知らなければ、その素晴らしさに当然、気付くことはできないでしょう。この例話に出てくるウバカルダ(提婆達多)の様に、仏法に出遇っているのにも関らず、反対に憎悪の思いを起すことは、仏法の利益の素晴らしさに気付いていない者の姿を私たちに教えているといえるでしょう。
  • ・また、本来は一つのものであるにも関わらず、自己中心的な考え方を主張することによって、共に害を被るということは、私たちの生活の上にもあてはまるのではないでしょうか。自分勝手な思いを押し通すことは、自らを傷つけ、他人をも傷つけてしまうことになりかねません。そこには自己中心的な思いで生きている私たち凡夫のあり様を見てとることができるでしょう。
  • ・例話にも説かれている様に、仏法の利益の素晴らしさに気付かず、瞋恚や愚癡という自身の愚かな心に気付く事がなければ、私たちは自他共に傷ついていくばかりです。しかし私たちは自らの力によって、自身の凡夫の姿に気付くのは大変難しいことです。私に凡夫の気付きを与えて下さるのも、その様な私をお救い下さるのも、阿弥陀如来の本願の利益であることを、よくよく味わわせていただきたいものです。

【補足】

  • ・この例話は『仏本行集経』(大正蔵3、923下~924中)や、『雑宝蔵経』(大正蔵4、464 上)に説かれています。
  • ・「共命鳥」は「命命鳥」ともいい、美声を発し、人面禽形で、身に両頭をもつといわれる鳥です。インド北部の山地に住む雉子の一種ともいわれています。『阿弥陀経』(『註釈版』123頁)では、浄土で仏法を説く六鳥の一つとして、「共命鳥」の名が挙げられています。
  • ・「摩頭迦」(Madhuka)は、『仏本行集経』では「美華」と訳されていますが、「美果」・「末 度迦」とも訳されるアカテツ科の高木です。『倶舍論』には「末度迦の種より末度迦の果を生ず、其の味、極美なり」(大正蔵29、97中)と説明されています。(『仏教植物辞典』国書刊行会、99頁~100頁参照)
  • ・提婆達多は釈尊の従弟で阿難の兄といわれています。提婆達多は釈尊の弟子となりましたが、後に背いて五百人の弟子を率いて独立を企てました。また、阿闍世をそそのかして父王を死に至らせ、ついで釈尊をも害して教権を握ろうとしましたが失敗し、生きながら地獄に堕ちたと伝えられています。
    (『註釈版』巻末註 1515頁参照)
  • ・『浄土和讃』には「弥陀・釈迦方便して 阿難・目連・富楼那・韋提 達多・闍王・頻婆娑羅 耆婆・月光・行雨等」「大聖おのおのもろともに 凡愚底下のつみびとを 逆悪もらさぬ誓願に 方便引入せしめけり」(『註釈版』570頁)と詠まれています。親鸞聖人は提婆達多をはじめとする『観経』に登場する方々は、本来皆、浄土の聖者であり、私たちを救うために様々な姿を示して、お念仏の教えに導いて下さっている方々であると讃えられています。