煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきに、なほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。
(「親鸞聖人御消息」第二通、註釈版739頁)
【概要】
毒と薬のたとえは、親鸞聖人が関東の門弟に宛てたお手紙のなかで、造悪無礙の異義を誡める上に用いられたたとえです。わざと悪を造ることを勧める理解に対して、それは薬があるから好きこのんで毒を飲みなさいというようなもので、あってはならないことであると、その理解の誤りであることを教えておられます。
【解説】
- ・造悪無礙の異義とは、本願の救いは悪を犯しても往生の礙げにならないからといって、わざと悪を造ることを勧める誤った理解のことです。
- ・薬とは本願の救いをたとえたもので、毒を飲むとは悪を造ることをたとえたものです。
- ・薬があるからといって毒を勧めるようなものであると誡められた人たちは、はたして本当に薬を飲んでいたのでしょうか。薬の効き目は眺めているだけでは出てきません。救いを観念的に捉えて誤解するのではなく、私たちに向けられた如来の親心を、わがことといただいていくことが大切です。
【補足】
- ・本願の救いを信ずる念仏者には、罪をつくるわが身を悲嘆し慚愧する心が恵まれます。親鸞聖人は自らを省みて「恥づべし傷むべし」(註釈版266頁)と述懐されておられます。