- 出版社・取扱者 : 筑摩書房(ちくま新書)
- 発行年月 : 2017年12月10日
- 本体価格 : 本体760円+税
目 次 |
はじめに 第一章 「ブッダ」とは 第二章 ゴータマ・ブッダと原始仏教 第三章 展開する仏教 第四章 悟りと教え 終章 日本仏教の今 |
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著者は仏教研究者であり、初期仏教を専門とする。
仏教の歴史について、このような説明がよく見られる。――仏教が始まってしばらくの間、「ブッダ」と言えば釈尊(ゴータマ・ブッダ)だけを指していた。ブッダの教えは、経典としてまとめられた(後の大乗経典との区別のため「初期経典」などと呼ばれる)。後に大乗仏教が興ると、新たに大乗経典が作成され、阿弥陀如来など複数のブッダの存在が説かれるようになった。――しかし著者は、仏教の初期の様子について、このような説明に異議を唱える。初期経典を検討していくと、釈尊(ゴータマ・ブッダ)だけでなくその弟子に「ブッダ」と呼ばれていた者がいた形跡を確認できると指摘する。そもそも、「ブッダ」とは「目覚めた者」を意味する言葉で、本来は固有名詞ではない。したがって、ブッダが複数存在して問題ないのだが、やがて「ブッダ」は「最高のブッダ」である釈尊だけを指すようになっていった。
経典には多様な教えがあり、時として矛盾しているように見える場合がある。これは伝統的に、対機説法(聞き手に応じて説法を変える)として理解されてきた。これについて著者は、初期経典における「仏説」は、釈尊の直説だけでなく、「ブッダ」と呼ばれる仏弟子の説が含まれている可能性を指摘する。いずれにせよ、後世の論師たちは多様な教えの中から「ブッダの真意」を明かそうとした。その研究成果である論蔵(仏教の論書の集成)が、部派仏教における「最高の仏説」になったと本書は述べる。また、大乗仏教も新たな経典(大乗経典)を「仏説」と位置づけた。これらが「仏説」であるのは、「たとえゴータマ・ブッダの直説でないとしても、その教えが永遠の真理である法性に適うものであればよいと考えた」(28ページ)からであると語る。「ゴータマ・ブッダが体得した真理とゴータマ・ブッダの教えを分けて考える視点は、仏教とは何かを考える上で極めて重要であろう。」(186ページ)という著者の指摘も、興味深い。
さて最近、「仏教は元来こうであった。日本仏教はそこからかけ離れている」という、日本仏教に批判的な論が見られる。しかし歴代の仏教者たちは、原形に固執してきたのではない。その地域・時代の仏教者たちが、何が真実であるかを追究し続けることによって受け継がれてきたのである。そこに、仏教が地域ごとに異なる展開を示した理由がある。
仏教を伝えていくとは、経典などの聖典だけを伝えていくことではない。経典が示そうとした真実や、今の時代にふさわしい教えを追い求めることと言えよう。それを考えるにあたって、本書は示唆に富んでいる。