- 出版社・取扱者 : 法蔵館
- 発行年月 : 2016年10月10日
- 本体価格 : 本体1,300円+税
目 次 |
はじめに(楠 淳證) 修験の修行(宮城 泰年) 回峰行のこころ(光永 覚道) 若き日の親鸞聖人(淺田 正博) |
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評者が山口の寺に帰ったとき、近所の人から「まだ京都で修行されているのですか?」と尋ねられた。僧侶が本山のある京都にいるということは、一般的には修行しているというイメージなのだろう。浄土真宗では、私たちは修行を積み重ね仏に成ることなど及びもつかない身だと考える。そこで、「浄土真宗には、あなたが想像するような修行は無いのですよ」と思いながらも、先のような問いに対して「ええ、まだ……」と、歯切れ悪く答えるしかなかった。
『歎異抄』に、「いずれの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」という親鸞聖人の言葉が示されている。親鸞聖人がどのような修行をされていたか、詳しい記録はないが、淺田正博・龍谷大学名誉教授は、比叡山の修行や伝承を元に「親鸞聖人も千日回峰行をなさった」と推測する。そして先の『歎異抄』の一節について、「体験者でなければ発することの出来ない言葉だと思います。『どのような修行も成就できなかった私』という意味でしょう。」と述べている。
この一文にハッとさせられた。確かに親鸞聖人は、比叡山で修行されていた。だからこそ、「いずれの行もおよびがたき身」であると気付かれたのであろう。そこには体験に裏付けられた言葉の強さが籠もっている。私が「浄土真宗には修行は無いのに」と思いながら歯切れ悪く答える時、どうせ修行しなくても救われるのだから何もしなくてもよい、という思いがあったのではないか。自分の怠慢さを棚に上げ、「いずれの行もおよびがたき身」という言葉を表面的に、自分に都合のよいように解釈していたのである。
本書では上記の他に、宮城泰年・聖護院門跡が修験道の修行ついて、光永覚道・北嶺大行満大阿闍梨が比叡山の回峰行について語る。宮城氏は、限られた物の中で、修験者相互の助け合いによって修行してきた経験から「感謝して生きる、少欲知足で生きる」ことを教えられたと話す。光永氏は「回峰行を楽しみました。苦しいことを楽しめるということが、一番大切なのではないかと思っています。(中略)幸せだなと感謝をさせてもらうことによって、本当に幸せになっていくのです。それがまた、仏に近づいていくということなのです。(中略)それこそが『回峰行のこころ』なのです」と言う。
修行において行うことは、日常生活とは大きく異なる。それをしたからこそ、見えてくるものがある。三者の語りから、それが垣間見える。
親鸞聖人の「いずれの行もおよびがたき身」という言葉を深く受けとめ、先の質問に今度は歯切れよく答えたい。