ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
(総序、註釈版131頁)
現代語訳
わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。(『教行信証(現代語版)』3頁)
全体の味わい
親鸞聖人が『教行信証』を書き始めるにあたり、これから顕わそうとされる浄土真宗の教えの中心は、救いの根本である阿弥陀如来の本願と、何ものにもさまたげられない阿弥陀如来の光明であると示されるご文です。
救われ難い私を必ず救うとお誓い下さる阿弥陀如来の本願は、私たちの煩悩の闇を破るはたらきをしてくださっていることを、ともに喜ばせていただきましょう。
み教えのポイント
難思の弘誓
- ・阿弥陀如来の本願は、衆生の思議を超え勝れた「難思(思議することが難しい)」の願いであり、あらゆる者を平等に救う広大無辺の「弘誓(弘き誓い)」である。
- ・「難度海(度すことの難しい海)」と表現される迷いの世界のあらゆる者を、さとりの岸へと渡して下さることから、「大船(大きな船)」に喩えられる。
無碍の光明
- ・阿弥陀如来の本願のはたらきは、何ものにもさまたげられることなく、私たちの煩悩の闇を照らし破って下さる。そのはたらきは、夜の闇を照らし破る太陽の光に喩えて「恵日」と表現される。
- ・阿弥陀如来の光明には、私たちの煩悩の闇を破るはたらき(破闇の光明)、信心をいただくように導くはたらき(調熟の光明)、信心の念仏者を摂取して捨てないはたらき(摂取の光明)といった側面がある。
法話作成のヒント
「ひそかにおもんみれば」
- ・「竊以」は、善導大師『観経疏』「玄義分」の冒頭にある表現です。「玄義分」では、「自らの思慮分別を超えたさとりの領域を、私なりに考えてみると」という意味で用いられています。「総序」においても同様の意味で受け止めることができます。
- ・教えに触れる際、自分勝手な受け止めを誡め、お聖教に基づいた受け止めが大切なことを確認しましょう。
私を目当てとした本願
- ・「難度海」とは、超えることの難しい迷いの世界を海に喩えた表現であり、五濁悪世と言われる私の今まさに居る世界のことです。この世界では、自らの力によってさとりを開くことは、大変に難しいことです。
- ・阿弥陀如来は、自らの力によって迷いの世界を抜け出ることの決してできない私を目当てとして、本願を建立されました。
- ・その不可能を可能とする、絶対的なはたらきが「大船」と喩えられています。
私を救うためのはたらき
- ・無明の闇をかかえ生死流転し続ける者は、何ものにも決してさまたげられることのない、絶対的なはたらきでなければ、決して救われることはありません。
- ・私を救うためのはたらきとして、煩悩の闇を照らす太陽や渡ることの難しい海を渡す大船として表現される、阿弥陀如来の本願について味わいましょう。
語釈
- ひそかにおもんみれば
仏意に対して、へりくだる意をあらわす。(註釈版131頁) - 難思の弘誓
思いはかることのできない広大な誓願。(註釈版131頁) - 難度海
渡ることが難しい迷いの海。(註釈版131頁) - 無碍の光明
阿弥陀仏の本願のはたらきのことで、何ものにも碍げられることがないので無碍といい、煩悩の闇を照らすことから光明という。 - 恵日
智恵(智慧)の輝きを太陽に喩えた語。(註釈版131頁)
文体について
- ・漢文では「難思弘誓 度難度海大船 無碍光明 破無明闇恵日」と書きます。この表現は、四字と六字を対句でリズム良く並べられた四六駢儷体(しろくべんれいたい)といわれる、格調高いものです。
- ・「難思弘誓 度難度海大船」は、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』にでてくる「かの八道の船に乗じてよく難度海を度す」による表現です。
阿弥陀仏の本願を「大船」、迷いの世界を「海」に喩えられ、それぞれが難思と難度と表現される、対句表現が用いられています。 - ・「無碍光明 破無明闇恵日」は、無碍と無明、光明と闇の対句表現が用いられています。