本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
(高僧和讃、註釈版580頁)
現代語訳
本願のはたらきに出会ったものは、むなしく迷いの世界にとどまることがない。あらゆる功徳をそなえた名号は宝の海のように満ちわたり、濁った煩悩の水であっても何の分け隔てもない。
(『三帖和讃(現代語版)』78頁)
全体の味わい
本願力を信ずる者は、南無阿弥陀仏の広大な功徳を恵まれるから、煩悩を抱えながらも、もはや再び迷いの生死を繰り返すことがないと詠われています。
とくに「むなしくすぐるひとぞなき」の意を中心として、本願力を信ずる者の人生は、真実に裏づけられた浄土への確かな歩みとなることを、ともに喜ばせていただきましょう。
み教えのポイント
本願力と名号(功徳の宝海)
- ・「功徳の宝海」について『一念多念証文』には、「功徳」とは名号のことで、「宝海」とはあらゆる功徳が欠けることなく満ちていることが海にたとえられていると示されている(註釈版692頁)。
- ・南無阿弥陀仏の名号は、「全徳施名(すべての徳を名に施す)」とも言い習わされるように、如来のさとりの一切の功徳がおさめられている。
- ・この和讃には本願力と名号(功徳の宝海)の二つが出されているが、両者は別ものではない。本願力とは、南無阿弥陀仏の名号による救済のはたらきのことで、いずれも如来の本願の成就したすがたを表している。
「遇う」は信心を表わす
- ・「本願力にあひぬれば」の「あう」は、『浄土論』の「遇」の字(七祖註釈版31頁)が仮名で表記されたものである。「遇」とは「出あう」ということで、「出あう」というのは、本願のはたらきを信じることである(註釈版691頁参照)。
- ・「遇」の字には「思いがけなくあう」の意があり、親鸞聖人は「たまたま」と訓まれている(原典版164頁、註釈版132頁)。本願を信じる身となったことは、私のはからいによるのではなく、遠い過去世からの因縁、「仏の御はからひ」(註釈版741頁)によるものであることが表されている。
功徳の宝海と煩悩の濁水
- ・「功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」の句は、衆生の煩悩を障りとすることなく救いとる名号のはたらきが、流れ込む濁水をすべて一味の海潮と変える広大な海のはたらきにたとえて示されている。
- ・煩悩はあっても、迷いの果報を引く因としてのはたらきはすでに絶たれている。『唯信鈔文意』異本に「罪をけしうしなはずして善になすなり」(註釈版701頁脚注)と示されるように、煩悩悪業をかかえた身のままで、必ず仏となる位に定まるのである。
法話作成のヒント
むなしく過ぎる人生とは
- ・ 蓮如上人は『御文章』に「人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし」(註釈版1100頁)と、人間の一生の無常なることを示されています。また「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず」(註釈版1100頁)と、世間的な成功を求めるだけの人生のむなしさを教えておられます。
- ・むなしく過ぎる人生とは、生死輪廻の世界にとどまり、出離の縁に遇うことなく終わっていく人生のことであると言えます。
本願力に出遇った人生を語る
- ・本願力に出遇ったその時に、私たちの人生には、浄土へと続く人生という確かな方向性と尊い意味が与えられます。
- ・私たちがいかなる境遇や状況になろうとも、本願のはたらきは揺らぐことがありません。この確かな拠り処をいただいていることが、人生のさまざまな苦悩を受けとめながら生きていく力となります。
- ・曇鸞大師は阿弥陀如来を「畢竟依」(衆生の究極のよりどころとなる仏という意、七祖註釈版162頁)と讃えられました。
語釈
- 本願力
阿弥陀如来の本願にかなって完成された救いのはたらき。南無阿弥陀仏のはたらきのこと。 - 功徳の宝海
名号にあらゆる功徳がおさまっていることが、宝の海とたとえられた言葉。御草稿和讃の左訓には「ミタノミヤウカウヲウミニタトヘマフスナリ」(原典版解説・校異245頁)とある。 - 煩悩の濁水
煩悩を濁った水に喩えた言葉。御草稿和讃の左訓には「ニコレルミツニタトヘタリ」とある(原典版解説・校異245頁)。
出拠とその解説
- ・この和讃は、天親菩薩『浄土論』総説分の「仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」(七祖註釈版31頁)の意を述べられたものです。このご文は、浄土・仏・菩薩の三厳二十九種の荘厳功徳成就のなか、仏荘厳功徳成就の一つである荘厳不虚作住持功徳成就の意が表わされたものです(七祖註釈版37頁)。
- ・親鸞聖人は、『浄土論』のこのご文を『教行信証』に三箇所引かれています(註釈版145頁、197頁、361頁)。また、『尊号真像銘文』(註釈版653頁)ならびに『一念多念証文』(註釈版691頁)には、このご文に詳しい解釈が加えられています。