最近は3D映画、テレビなどが市場に出始め注目されている。3Dとはthree-dimensional、いわゆる立体映像のことである。辞書には「三次元、立体映画、立体効果」とある。人間は左右の目で捉えた異なる映像を脳によって融合し、単一の3D映像として認識するといわれている。
ところで、私たちが法話を聴聞する場合、「きく」ことの第一は耳からとなるが、そのすがたを目で「みる」ということ、さらにはどう「かんじとる」か、という心の領域が重要な要素となる。
法話では讃題をあげ、それを受けながら因縁談・事例へと展開し、やがて法義で結ばれていくことが通例となっている。展開のところでは、法話者の体験にもとづく実例や物語性のある内容となれば、ぐっと興味が惹かれる。興味が惹かれるとは聞き手の想像力が引き出され、立体効果が生まれやすいということを意味している。
映画などでは主役と全く同じ体験をすることはありえないはずなのに、自分が主人公になったように錯覚し、知らず知らずのうちに映像の世界に引き込まれてしまうことがある。これは自分と異なる人生の疑似体験といえる。映画の魅力は平面的スクリーンから発せられる映像力をもって様々に観客から想像力を引き出し、3D化させていくという点にあるともいえよう。したがって昨今注目されている3D映画は、観客の脳内を立体化させるという映像の魅力をかえって奪ってしまうことにならないかとも思う。
映画とは「観る食糧である」と評した人がいたが、疑似体験を重ねることは食事を楽しむことと同様に、バラエティーに富んだ多様な人間像を知るうえで意義深い。
真宗の救いの法は南無阿弥陀仏であり、仏のよび声といわれる。法話では仏のはたらきを身近な親の心、親の行動として様々に喩えられ取り次がれてきた。例えば法蔵菩薩の五劫思惟、兆載永劫のご修行は、幾歳月をかけてのわが子へのいちずでひたむきなかかわりを実例としてあげ、物語られることによって、聴衆の心に受け入れられ易くなる。法話者が仏のはたらきを人格的に、具体性をもって、より身近に示すことで、聞き手に想像力が引き出され、ときに脳内での映像化がおこり、忘れていた懐かしい記憶がよみがえり、新たな意味づけがもたらされるなどして、心に深くとどまることになる。
映画評によせていえば、法話は「聞く食糧」であり、「きいて」「みて」「かんじて」、心豊かに生きる日々の糧となっていくものといえよう。
近年のめざましい映像技術の進展に、聞き手の脳内がよびさまされ、心に法がとどめられていく「立体感ある法話」の魅力について、思いを巡らせている昨今である。