宗教科の専任教員を数年前までしていました。この学校では、花祭り、成道会などの法要があります。その時はご講師に法話をお願いします。
どのような方にお願いするかという基準はありませんが、若い人たちに慣れているという意味で、日曜学校、子供会の指導者、中学、高校、大学の先生、自分の子どもが中学生、高校生である方を中心に依頼をしていました。
依頼されたご講師はどのような法話をするのかと尋ねられます。その時には、法要の趣旨は、触れる程度でいいから、生きる力になるような法話をしてほしいと言います。さらに尋ねられれば、生徒は教義的な話になるとあまり聞かないので、ご自身の見聞きした話、身近な話がいいという趣旨のことを言いました。また、専門的な言葉、たとえば、本願、名号、称名などは、法話の中で使っても、大半の生徒はその意味が分からないので、専門的な言葉は使わないようにとも言っていました。
この話をどの程度参考にされたかは分かりませんが、どのご講師も分かりやすく話をしていただいていました。
ところが、私の細かい要望を、あまりにも正面から受けとめ過ぎて、分かりやすい話ではあるのですが、序論と結論だけのような話になったり、また、壇上で、講師の先生が言葉を選びながら、話しにくそうにされていることがありました。本来ならば、その先生の人格のにじみ出たお話をしていただけたであろうに、細かいことを言ったばかりにと反省をしたことを憶えています。
* * *
元教員ということもあり、中学生や高校生にどのような法話をすればいいのかと尋ねられることがあります。私は、法要のご講師にお話ししたことが外せないと考えていますが、そればかりではなさそうです。
高校生の研修会で、キャンドルサービスをしました。80人ほどの生徒が、灯りのない部屋でローソクを点火していきます。最後にある先生が聖句を読み始めました。その先生と聖句のイメージが合わないと感じたのか、生徒の中に、ざわめきと笑い声が起きました。その先生はひるむことなく堂々と読み続けました。しばらくすると静寂を取り戻し、生徒は聖句に聞き入っていました。「この聖句を聞かせたい」という先生の心が生徒に通じたようです。
法話をすることについても同様です。
中学生、高校生は敏感です。本当に「聞いてほしいこと」「生徒にとって大切なこと」を、熱意をもって伝えれば、生徒は耳を傾けます。時には大きな感動を与え、心を揺さぶることがあります。