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歴史のなかに見る親鸞
書評
  • 平 雅行 (たいら まさゆき)
  • 出版社・取扱者 : 法蔵館
  • 発行年月 : 2011年4月10日
  • 本体価格 : 本体1,900円+税

第一章 誕生から延暦寺時代
第二章 延暦寺からの出奔
第三章 建永の法難と親鸞
第四章 越後での流罪生活
第五章 東国の伝道
第六章 親鸞の思想構造
第七章 善鸞の義絶
第八章 親鸞思想の変容
あとがき

平成23(2011)年は、浄土教関係者にとって、歴史的な年と言ってよい。それは、法然聖人の800回忌と親鸞聖人の750回忌という大遠忌を共に迎えるからである。50年に1度のこの大法要を迎えるにあたり、すでに様々な書物や研究書が出版されている。ある歴史学者は、歴史学を専攻するものにとっては、この50年間の学問の進歩によって、従来には指摘されなかった新たな法然像や親鸞像を如何に指し示すかという課題があると述べている。

歴史学者である著者は、「確実な史料からどこまでのことが究明でき、どこから先が分からないのか、そのギリギリの線を指し示すのが、歴史研究者の仕事」と述べるように、本書では、客観的な史料に基づいて親鸞聖人の生涯を追いつつ、従来からの問題に答えを提示したり、違った角度から新たな問題を設定しては、定説を覆す親鸞像が論説されている。

その幾つかを挙げれば、まず、「第一章 誕生から延暦寺時代」では、当時の延暦寺など顕密仏教(南都六宗や天台・真言宗のいわゆる「旧仏教」)は退廃していたと見るのは一面的であって、その内実は高度で豊かであったことを証明する。そして、法然聖人や親鸞聖人は顕密仏教の腐敗と堕落のなかから登場したのではなく、「顕密教学の達成の最先端から、彼らの思想が誕生」したと主張する。

また、親鸞夢告の「行者宿報偈」は女犯の許可ではなく、「あらゆる人間が背負う普遍的で絶対的な罪業の赦しの世界、これが親鸞を法然のもとへと衝き動かした」と説示する。

次に、「第三章 建永の法難と親鸞」では、『教行信証』後跋の「斯以興福寺学徒奏達」の文は、元久2(1205)年の興福寺奏状を指すのでなく、建永2(1207)年の2月上旬に興福寺から後鳥羽院に専修念仏への峻厳な処分を願い出た奏達があったことを指すのであって、その際に流人リストに入った親鸞聖人が、その奏達を抗議した文章ではないかと論じている。

さらに、「第四章 越後での流罪生活」では善鸞の母について言及し、「善鸞義絶状」に記されている「みぶ(壬生)の女房」とは、善鸞の実母もしくはその近親者(実母の姉妹か善鸞の同母妹)と推定している。
そして、「第六章 親鸞の思想構造」では「悪人正機説」「悪人正因説」の問題を取りあげ、親鸞聖人は顕密仏教にすでに見られた「悪人正機」の考えを改めて、「他力の悪人」が往生の正因であるとする「悪人正因」を主張したと論じ、「正確には他力を頼みたてまつる悪人が正因ではなく、悪人であることを自覚することが正因」であると論定する(なお、この論定については、すでに一部の学者から批判や反論の論文もある)。

これらの論考の一つひとつには、法然聖人や親鸞聖人に対する著者の凝縮された思いが見える。それは本書の文体にも拠るであろう。「あとがき」では、本書が「講演調の文体を採用」していることに触れ、このような文体が重要だと感じたのは「叙述における人間的共感の問題である」とする。つまり、法然聖人や親鸞聖人という人物のあゆみには、「客観的評価とは別に、彼らの言動に対する人間的共感の有無が問われるべきと考えるから」と述べ、「私が法然・親鸞を研究するようになったのは、決して学問のためではない。彼らに対する共感を普遍的な言葉で語りたい」と表白している。ここに、本書の魅力が明確に示されていると言えるであろう。


評者:森田 眞円(教学伝道研究センター委託研究員、京都女子大学教授)


掲載日:2011年7月11日