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なぜ寺院は公益性を問われるのか
書評
  • 臨床仏教研究所 (りんしょうぶっきょうけんきゅうじょ)
  • 出版社・取扱者 : 白馬社
  • 発行年月 : 2009年10月15日
  • 本体価格 : 本体1,800円+税

1 プロローグ
2 シンポジウム
session1 公益性とは何か、今問われる寺院の可能性
session2 社会とつながる、寺院の可能性
3 研究論文
臨床仏教の提唱-臨床仏教叢書創刊によせて-(齋藤 昭俊)
祈りの公益性(鈴木 晋怜)
葬式仏教の公益性(小谷 みどり)
ひとりの僧侶の中のEngaged Buddhism(磯山 正邦)
タイ仏教寺院の地域社会における役割(秦 辰也)
寺院活動の公益性 エンゲイジド・ブッディズムを指針として(神 仁)
財団法人全国青少年教化協議会(全青協)について

本書は、臨床仏教研究所が2008年3月に開催した「お寺の公益性を考えるシンポジウム」の内容を中心としたものである。同研究所は、全国青少年教化協議会(全青協)が2007年に創立45周年を迎え、その記念事業として立ち上げた機関である。
本書は、全青協が実施した「寺院意識調査報告」というアンケートの結果の報告から始まる。それに依れば、「寺院は地域社会に開かれるべきか」という問いに、92・4%がイエス、3・6%がノーと答えた。そして、「社会で必要とされている活動」について16の項目が挙げられ、その中、布教活動(85・2%)と死者・先祖供養(81・6)が最も高く、一方低いのは、「弱者救済」(19・7)、「インターネットを使った情報収集・発信」(16・2)、及び「政治的活動への取り組み」(5・6)であった。50%台という中間位の項目としては、一般人の悩みの相談、青少幼年の情操教育、及び高齢化社会への取り組みが含まれている。

これらを見ると、寺院の公益性をもたらす活動として、(1)布教や供養という宗教的なもの、(2)社会問題に取り組むという、2種類が考えられる。寺院の公益性を考えるに当たって、本書の合計13名の執筆者は、この何れかに重点をおいている。
シンポジウムの「公益性とは何か、今問われる寺院の可能性」と題する第一セッションには、長谷川正浩(弁護士・日蓮宗僧侶)、世古一穂(金沢大学院教授・NPO研修情報センター代表)、及び島薗進(東京大学教授・宗教学者)の3名のパネリストが参加された。

長谷川氏は法律や税務上の視点より公益性を解説し、その中で2007年6月に公布された新社団財団法の公益認定について話している。要は、23の公益事業があり、それらを行っていれば公益認定を受ける道が開けるという。ただ現段階では、この新社団財団法の規定が宗教法人に適用されるかどうか未定とのことだが、宗教法人は、何が公益事業と見なされ、どのぐらいの程度で行うべきであるか、ということを知っておく必要があろう。これに関して、長谷川氏は、「ひとくちでいえば公益と認められるような事業を全事業の半分以上はやっていなければいけませんよということです」とアドバイスする。

次の世古氏によると、まず公益性を実現するに当たって本来ならば、行政セクター(官・非営利)、企業セクター(民・営利)、及び市民・NPOセクター(民・非営利)があるはずだが、日本では明治維新以来、前者二つのセクターは良く機能してきたが、市民・NPOセクターが育ってこなかった。公益性は、特に非営利セクターの役割なので、本来行政セクターと市民・NPOセクター両方が担うべきであるが、日本では、行政が設立した財団・社団法人という外郭団体が、市民・NPOセクターがやるべきことを行ってきた。したがって世古氏は、市民・NPOセクターを育て、このセクターに所属するべき寺院は、市民・NPOセクターとしての社会の役割として公益性を高めるべきだと主張する。その象徴的行事として、お寺が「コミレス」(コミュニティ・レストラン)を開くことなどを提案している。

島薗氏は、お寺が本来宗教的な行為を行うこと自体がそのまま公益となると主張する。その宗教的行為とは、死の問題、様々な心の痛み、人間関係の困難、人生の意味等というニーズに応えることであるが、日本では、このようなことを「私的」なものとしか見ていなく、宗教に公共性を認めてこなかった。これも、欧米の制度を取り入れ「政教分離」という考えを徹底し、宗教団体やその活動をすべて個人・私的な事柄としてか見てこなかったからである。しかし、イスラム諸国やタイ国の仏教のように、宗教の公益性を認める社会もあり、日本の極端な「宗教私的化」という考えを見直すべきである。そうすれば、僧侶が病院で末期患者のケアを行うことなどに、抵抗がなくなっていくであろう。従って、お寺は本来の宗教的な行為に専念し、社会はそれが公益性を有するものであると見直すべきであるという。

シンポジウムのセッション第2には、「社会とつながる、寺院の可能性」と題して、社会問題に取り組んでいる大河内秀人(小松川市民ファーム代表・浄土宗寿光院住職)、佐藤朝代(NPO法人けやの森自然塾代表)、及び袴田俊英(こころといのちを考える会代表・曹洞宗月宗寺住職)の3名がシンポジストとして参加した。社会問題に積極的に関わっているこの3名は、地域作りのための様々なNPO・市民団体と協力(大河内)、自然塾を通しての子供たちの環境問題への知識を涵養(佐藤)、及び自殺防止への取り組み(袴田)でいるのである。

本書の後半には、臨床仏教研究所に関係する研究員等6名による、「臨床仏教の提唱」(齋藤昭俊)、「祈りの公益性」(鈴木晋怜)、「葬式仏教の公益性」(小谷みどり)、「ひとりの僧侶の中のEngaged Buddhism」(磯山正邦)、「タイ仏教寺院の地域社会における役割」(泰辰也)、及び「寺院活動の公益性-エンゲイジド・ブッディズムを指針として」(神仁)という研究論文が掲載されている。これらの論文は、「お寺や宗教が社会に開かれるべきである」という共通した信念に立ちながら、その理念と実例を詳しく示している。

最後に、私が本書から得た主なメッセージとは、お寺の公益性とはお寺が作っていくものであるが、冒頭で述べた「布教や先祖供養という宗教的なもの」と「社会問題に取り組む」の何れによっても公益性を実現できるということである。ただ、その活動は、限られたグループ(特定な団体、宗派等)ではなく、社会全体を対象とする必要がある。それは、今日、お寺が出来ることには、社会の公益となり得ることが数多く含まれているからである。そしてこのことこそが、本書の題名である「なぜ寺院は公益を問われるのか」に対する答えの一つとなるのではないだろうか。


評者:ケネス 田中(武蔵野大学教授)


掲載日:2010年2月10日