- 出版社・取扱者 : 平凡社(平凡社新書)
- 発行年月 : 2016年3月15日
- 本体価格 : 本体800円+税
目 次 |
はじめに 一、「こころ」の本源を探る 二、「こころ」を養う 三、「こころ」の不思議に向き合う むすび あとがき |
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「こころ」というものは、わかっているようで捉えどころがないものである。それだけに、「こころ」について古くからさまざまな立場から論じられてきた。仏教もまた、古くから「こころの在り方」を問うてきた。
本書は、江戸時代の思想家たちが、「こころ」をどう理解してきたかを追った一冊である。妙好人(僧侶ではない浄土真宗門徒で、念仏信仰に篤い人物)を取り上げるなど仏教に言及するものの、儒学や国学の立場から「こころ」を論じたものが多く紹介される。しかしこれは、仏教の影響が乏しいことを意味するのではない。むしろ、儒学や国学の「こころ」理解は、仏教におけるそれと似ている。
例えば儒者・藤原惺窩(ふじわらせいか)は、「こころ」には霊妙なはたらきが本来そなわっているが、「こころ」に塵すなわち物欲がつくことで本来のはたらきが損なわれているのであり、物欲が去れば「こころ」は本来の姿を取り戻すという。これは、仏教で広く採用される自性清浄・客塵煩悩(「こころ」の本性は清浄だが、煩悩が塵のようにつくことで妨げられるという説)と類似する。
また国学者・本居宣長は『古事記伝』において、世の中の悪は黄泉の国の汚穢(けがれ)に由来し、それを直すのが「みそぎ」であると解釈する。これもまた、悪は人間の本性ではないことを意味する。ただし本居宣長は『排蘆小舟(あしわけおぶね)』において、道徳的な態度は世間向けに取り繕った虚勢に過ぎず、「人の情のありていは、すべてはかなくしどけなくをろかなるもの也」と述べる。すなわち、人の「こころ」の弱さも指摘する。
江戸時代の儒学は朱子学や陽明学の影響が強いが、著者は「朱子学も陽明学も、仏教、とくに禅の考え方を十分に呑み込んだ上で、『論語』や『孟子』をはじめとする古典を新たに読み変え、(中略)そこに深い哲学的・政治的な思考を読み込んでいった」と指摘する。国学は仏教に否定的な傾向が見受けられるが、本書は神道について「仏教が伝わったことで、日本人のカミ信仰の形は根本的に変容していった。(中略)仏教に包み込まれることで、神道は、初めて神々を語るべき言葉を獲得した」と述べる。つまり、儒学も国学も、仏教の考え方を取り入れているのである。日本において「こころ」を論じるに際にも、仏教が及ぼした影響が多大であることを、改めて知らされる。