- 出版社・取扱者 : 永田文昌堂
- 発行年月 : 2009年6月23日
- 本体価格 : 本体1,900円+税
目 次 |
一 親鸞聖人と超常識の教え-特に善悪の問題について- 二 親鸞聖人と自力の教え 三 勘決邪偽 四 真宗の追悼法要の意味 五 往還二種の回向 六 悪人の救いと信心 七 権化の仁 八 浄土真宗の救いの構造 九 真実の宗教を求めて 十 浄土真宗の現世利益 十一 浄土、その存在と意義 あとがき |
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著者は「非常識は常識を知らない、わきまえないということです。親鸞聖人の教えは、常識をわきまえた上で、常識に執らわれない、常識を超えていくという意味で、私はこれを超常識の教えであると受けとめています」と冒頭に記している。「仏教は非常識の教えである」といってもいい。私はこのことを仏教の学びの中から学んだ。「非常識の教え」などというと、たちどころに批判を受けることがある。それは「常識」とされていることを正しいものときめこんでいるからである。しかし、その「常識」を疑うことも大切ではないか。仏教には「非常の言は、常人の耳に入らず」という語もある。
つまり、真実の言葉、教えといわれるものは、日常、世俗に埋没している者(常識的な人)には、なかなか、受け入れられない。認められない、ということである。本書を通読して私はそのことを再確認した。本書は『親鸞聖人と超常識の教え』とある。「非常識」と「超常識」がどう違うか、という問題ではなく、親鸞聖人その人の教えが世俗にあって、はるかに世俗を超えた「真実」を示している、ということを本書は一貫して示している。
全編が雑誌等に寄稿したもの、著者の法話、講演、講義の筆録等によるため、いささか落差を感ずることがあるが、それを意識して読み進めば、それほど違和感はない。
著者はそのことを意識して、配列に気を配っている。本書は身近な問題からテーマをとってなされた著者の営みでもあり、それは現代を生きる私たちのかかえている諸問題と通底しているところがあり、興味は尽きない。
ある医師が「死は敗北なのか」と自問、懊悩する中でみた、両親の熱心な聞法の姿。そこになにかあるのではないかと感じ、親鸞聖人の著述を読むが、なかなかわからない。6年ほどして少しわかりかけたという話は特に印象的であった。現代における「いのち」の問題、医学と宗教の問題が問われる中、まさに私たちが自らに問うていかなければならない、私自身の「生死の一大事」の問題の重要性を提起している。
「生死一如」とは「生のみが吾等にあらず。死もまた吾等なり。吾等は生と死を並有するものなり」(清沢満之)ということにほかならないが、この事実を我が身の事実と受けとめることがいかに困難であるか。
本書に「<生きることもすばらしいことである、と同時に死ぬこともまたすばらしいことである。死ぬことは決して惨めになること、ダメになることではない。だから、安心して死んで来い>と温かく受けとめて下さるのが阿弥陀さまの真実のものの見方ではないか」とある。
よく生きること(現生不退)も、よく死ぬこと(往生)であり、その死からまた新たなるいのちの誕生が始まる、というのが真宗の仏道である。本書に一貫するこの「生と死の問題解決」という一点を見失わないかぎり、本書はどこから読んでも多くの示唆を受ける。
あえていえば、本書の冒頭に、わずかな紙数であっても真宗者の立場からみた現代社会、真宗の課題といった視点からの著者の書きおろしがあれば、本書への理解も更に深まったのではないかと考える。いづれにしても、広くおすすめしたい好著である。