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目覚めれば弥陀の懐 −小児科医が語る親鸞の教え−
書評
  • 駒澤 勝 (こまざわ まさる)
  • 出版社・取扱者 : 法蔵館
  • 発行年月 : 2010年6月20日
  • 本体価格 : 本体1,800円+税

はしがき
一章 何のために生きるのか
二章 生きている、輪廻転生するとはどういうことか
三章 誤解している『葉っぱのフレディ』
四章 阿弥陀仏とは何か
五章 迷っている衆生
六章 信を得る
七章 現生正定聚−煩悩熾盛の身のまま救われている−
八章 信は他力
九章 人生は信を得るためにある
参考文献
あとがき

誤解をおそれずにいえばかつて私は、特殊な環境にある人を題材とした著述に一線を画していた。たとえば、病気とともに生きた人の体験を軸として展開される著述である。

たとえば「ガンになってよかった」といったような著述は、あまりにも重く特殊なものであり、軽々しくうけとめてはならないと考えていたからである。したがってその著述について講演や法話の場で得々と語る人をみていると、違和感を禁じえなかったものである。

病と共に生きている人自身の生き方に共感しつつも、それを語る人との距離感をなかなか埋めることができなかったのである。それは病とともに生き、なくなっていった人のいのちの事実を私は私の中で大切にしたいという思いからである。
本書を推薦するに当たってこのようなことを書くのは、本書がそのような著述ではないということを考えるからである。医師として、人間として透徹した「いのち」へのたしかなまなざしを、本書に感ずるからであるといってもいい。

著者の著述を過去に何冊か読んでいた私は、本書が、著者のこれまでのお仕事の集大成的な意味を持つものであると、勝手に考えている。それほど重い意味を持っているのが本書である。

篤信なご両親のもとで養育された著者は、それだけに、多くの人がそうであるように、かえって念仏や宗教に抵抗を覚え、反発さえしたとしるしている。この反発がかえって、今日の著者をうみだしたものともいえよう。医療者として、いやでも常に「いのち」と真向きにならなければならず、であるがゆえにかかえなければならない疑問、矛盾。それが、親鸞に近づく契機となったのは、やはりご両親の念仏者としての生き方にあった、といえよう。

著者が告白するように本書は宗教哲学者、念仏者である星野元豊氏の著述との出会いによって成ったものである。氏のライフワークは「浄土」の哲学的解明であった。名著といってよい『浄土の哲学』(1975年刊)『浄土』(1957年刊)等は、筆者が大学で講義を受けた星野氏の集大成的な著述である。洛陽の紙価を高めたといってもよい著述である。

著者はこれらの著述を丁寧に読解し、問いかけ、思索しながら本書を著した。その意味で本書は著者の求道の歴程を語るものであるといってもよい。

全9章は「何のために生きるのか」「生きている、輪廻転生するとはどういうことか」「誤解している葉っぱのフレディ」「阿弥陀仏とは何か」「迷っている衆生」「信を得る」「現生正定聚」「信は他力」「人生は信を得るためにある」といった項目から成る。

「阿弥陀仏」についての論考はやや難解である。もう少し咀嚼してほしかったと思うのは私だけであろうか。他方、「信を得る」といった論述は、著書の領解がいかんなく示され、文字通り「親鸞から学んだこと」の内実が具体的に示されている。著者自身が、求道の中で悩み、苦しみながら本書はうまれた。しかし、それもみな「弥陀の懐」の中での営みであったと、著者は述べている。仏道に生きる者にしてはじめていえる言葉であろう。


評者:山崎 龍明(武蔵野大学教授)


掲載日:2011年1月11日