- 出版社・取扱者 : 平凡社
- 発行年月 : 2010年11月25日
- 本体価格 : 本体1,200円+税
目 次 |
まえがき(上田 紀行) 第一章 「説く仏教」から「聞く仏教」へ 第二章 教えを現代にどう生かすか 第三章 仏教は本来、解き放つもの あとがき(大谷 光真) |
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本書は、西本願寺住職である大谷光真・浄土真宗本願寺派第24代門主と、文化人類学者で『がんばれ仏教!』などの著書で活躍する上田紀行氏の対談をまとめたものである。
現代日本の仏教における問題点を両者の対話からあぶりだしつつ、仏教の未来についても語るという構成だ。先般『葬式は、いらない』(島田裕巳/幻冬舎新書)がベストセラーになったように、まずは昨今の日本が葬式仏教になっていることへの強い危機感が、両者の対話からは伺える。それを上田氏は、組織としての危機と教義という本質的なものの危機として提起している。教義とは「他力」であるが、その「他力」が現代人には通じにくい、ということだ。ご門主もまた、葬式仏教に象徴されるようなお寺や檀家制度のありかたに問題を感じ、その改革に取り組みたいとしている。社会の経済格差の構造や、落ちこぼれて行く人々、自死へと追い込まれてゆく人々に、開かれた場としての寺のありかた、住職の姿勢が必要と語る。寺の存続を檀家や継承者(若い世代)の減少のレベルでしか捉えない現状に、人々の悩みを受け止めることから寺は出発すべきだ、と。こうした危機感を仏教に直接関わる人々が、どれほど共有しているか。「法を説くまえに、まず人々の悩みを聞け」というご門主の言葉は重い。また、従来の檀家制度が閉鎖的であり、多様な人々の受け皿になっていないことをも指摘している。
また、ご門主も上田氏も、仏教の教義の核心である「縁起」が車のエンジンとしての力を失い、単なるハンドル操作に陥っているとの認識を示しているが、これは仏教者が念仏を唱えるだけで、そこに、迷い悩む人々を救うための実践や行為が伴なわなれていないということである。「救いたい」という気持ちがエンジンであり、「どう救うか」がハンドルであるにも関わらず、ただお題目だけ唱えてよしとするのが現況ということだ。
ご門主はブッシュに仏教を説きたいと考えたそうだが、善悪の単純な二元論では世界各地での紛争は止まない。こうした狭量な二元論的世界観を「縁」と「慈悲」でつなげてゆくなら、世界はもっと穏やかに、平和になるだろう。したがって、今こそ、現代仏教の出番なのだ、とご門主も上田氏も熱く語る。そうして、阿弥陀の慈悲をうけたなら、それをお裾分けする形、すなわち、世界は誰かとどこかで必ずつながっているのだから、自分の受けた慈悲をただ、阿弥陀へと恩返しするのでなく、他者へ、隣人へとそれをつなげてゆく。それが仏教の仏教たる素晴らしさである。それは信頼の循環であって、それこそが現代に必要な「御恩報謝」であると両者は語っている。
同時に、「解脱」という言葉が示すように、本来、仏教とは人間を自由へと解き放ってゆくものであるのに、寺や檀家という「しばり」や閉鎖性、あるいは、他人と自分との比較という社会の狭い関係性のなかでの「しばり」にかんじがらめになっていることも問題だ、という指摘は鋭い。
筆者は、本書のなかで、自死へと追いつめられる人々に「誰かが自分を支えてくれている。見守ってくれている」という感覚を持ってもらうために、全国75000の寺が、ここにくれば苦界から救われる、という旗を立てればよい、との上田氏の言葉に深く共感する。まさに今こそ、阿弥陀の救いは、溺れる人を救い、船に乗せ、島(州)に上げるのが基本だ、というご門主の言葉に仏教は立ち戻るべきだろう。
高度成長期の日本と、不況にあえぐ現代とでは仏教の在り方も大きく変化せねばなるまい。寺や教団は、人々の真の拠り所となるべく、現代的な改革を推進するなかで、万人が阿弥陀の光を感じられるよう、努力すべきなのだ。上田氏の斬り込みにご門主の率直な応答が実に手応えのある一册となった。ちなみに筆者はご門主の著作『愚の力』(文春新書)も合わせて一読を薦めたい。