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宗教とは何か
書評
  • テリー・イーグルトン (いーぐるとん・てりー)
  • 大橋 洋一・小林 久美子 (おおはし よういち・こばやし くみこ)
  • 出版社・取扱者 : 青土社
  • 発行年月 : 2010年5月27日
  • 本体価格 : 本体2,400円+税


第一章 地の屑
第二章 裏切られた革命
第三章 信仰と理性
第四章 文化と野蛮
原注
訳注
訳者あとがき
索引

 

本書は、テリー・イーグルトンによる、イェール大学でおこなわれたテリー財団講演の記録である。イーグルトンは、イギリスを代表するマルクス主義批評家であり、これまでにオックスフォード大学とマンチェスター大学での教授を歴任したのち、現在はランカスター大学の教授職に就任している。その著作の多くが日本語に翻訳されているが、イーグルトンの議論に特徴的なのは、フランスで生まれた現代思想などを批判的に摂取しつつも、徹底したマルクス主義的立場から様々なジャンルの批評を行っているということである。

このような立場を崩さない著者が、どのように宗教を語るのか、これだけでも大変興味深いことであろう。しかもここで注目すべきなのは、実はイーグルトン自身が若くしてカトリック刷新運動に身を投じていた、という事実である。彼にとって、宗教とマルクス主義は対立するどころか、むしろ補完しあうようなものとして理解されているのである。この著作の原題がReason, Faith and Revolution: Reflection on the God Debate、つまり「理性、信仰および革命」を巡るものであるとされていることからも、イーグルトンの信念(これはfaithのもう一つの訳語でもある)がいかようなものか、うかがいしれよう。

では、本書では具体的にどのようなことが述べられているのであろうか。本書において主要な論敵として設定されているのが、「ディチキンス」である。ディチキンスとは動物行動学者リチャード・ドーキンスとジャーナリストのクリストファー・ヒッチンスを合成した造語としてイーグルトンが本書で使っている言葉である。この2人の宗教に対するほぼ全面的な批判(というよりも否定)に対し、それがいかに宗教への無知と誤解に基づいているかということを明らかにしつつ、宗教の持つより積極的な意義を評価しよう、というのが本書の目的なのである。

そして、この積極的な意義としてイーグルトンが注目するのが、信仰とは常に政治的な行動を引き起こすものである、という点である。彼によれば、信仰とは「なにかが、あるいは何者かが存在することを信ずるか信じないかの問題ではなく、参加と連帯の問題である―それは、自分がとらわれている恐るべき状況に変化をもたらす者に対する信仰であって、これはたとえば、フェミニズムや反植民地主義への信仰と似ている」(55~56ページ)のである。つまり、宗教とは支配的な価値観とは違う価値観を提示し、それへの信頼を得ることで、現実を変革する力を常に生み出す潜在性をもちうるはずのものであるといえる。このことは、革命の問題とも深いかかわりをもつし、本書で触れられているチベットやクメール・ルージュ統治下のカンボディアにおける仏教徒による抵抗運動を、説明しうるものである。

しかし、イーグルトンが現実の宗教をそのまま肯定しているのかと言うと、決してそうではない。本書では、キリスト教教会がこれまでに担ってきた抑圧の歴史に関しては、厳しい批判が展開されている。今日の文脈では、特にアメリカ合衆国で問題となっているキリスト教右派と政治的保守派のつながりと、それらが手を取り合ってグローバル資本主義の強化に邁進することで、イスラム原理主義が反動的に形成されていく素地を作っていることに、批判の目が向けられている。このように、イーグルトンは全否定への反駁がナイーブな全肯定へと至らないように、細心の注意を払っている。そこから我々が学ぶべきなのは、宗教のどういった要素が抑圧と解放のそれぞれに結びつくのか、より内在的かつ論理的に見ていくという態度であろう。

以上のように、宗教の社会性や公共性が問われている今日、本書は宗教がいかに政治的・社会的な実践とつながるのかに注目したものとして、一読の価値があると言えよう。その意味で、本書はキリスト教に関する論が中心だが、仏教を考える上でも有益であろう。


評者:川村 覚文(東京大大学院総合文化研究科付属共生のための国際哲学研究センター特任研究員、浄土真宗本願寺派総合研究所委託研究員)


掲載日:2013年10月10日