2022(令和4)年11月12日(土)、第12回「一緒に歩こう 親鸞さまの道」を開催しました。
「一緒に歩こう 親鸞さまの道」は、儀礼的側面から、親鸞聖人が歩かれたと考えられる道を歩く行事です。聖人の足跡を追体験しつつ、その生涯を学び、み教えを味わうことを目的として開催しています。
今回は「晩年の親鸞聖人」をテーマとし、関東から戻られた親鸞聖人が晩年を過ごされた地を訪ねました。
今回のコース
ツアーの様子
ツアーは、新型コロナウイルス感染症の拡大をうけてしばらく中止していましたが、今回3年ぶりに開催できました。感染対策のため、午前中でゴールできる、少し短めのコースです。
当日は、聞法会館総会所に集合しました。
ご本尊の前で開会式を行い、光圓寺に向けて出発。五条堀川の交差点まで北上して東に向かい、五条西洞院から、さらに北に向かいます。西洞院通りは歩道が狭く、交通量も多いため注意が必要でした。
松原西洞院を、少し東に進んだところに、「親鸞聖人御入滅之地」と門前に石碑があるお寺、ここが最初の訪問地、光圓寺です。
光圓寺門前 |
「親鸞聖人御入滅之地」の碑 |
本堂にお参りし、ご住職・横田典(よこたつかさ)氏から、歴史や由緒について解説をいただきました。
光圓寺の寺伝では、当寺は九條関白兼実の花園殿でした。また、親鸞聖人が法然門下時代、および帰洛後に生活された場所でもあったといいます。兼実の娘とされる玉日とも、この地で生活をしたと伝わります。さらに、宗祖晩年もこの地で過ごされ、「御入滅の地」と伝わっていることなどを説明していただきました。
その後、お内陣に安置されている親鸞聖人や法然聖人、さらに『御伝鈔』に登場する親鸞聖人の門弟・平太郎などの像を拝観いたしました。
光圓寺ご住職の解説 |
光圓寺お内陣 |
光圓寺の門前で、研究職員より、現松原通はもともと五条通であったこと、豊臣秀吉の京都の区画整備によって、現五条通に五条大橋が架けられたため、通りの名称が変更されたことを解説しました。
五条大橋が二筋南に移設されたのは、豊臣秀吉に所縁のある方広寺に参拝しやすくするためと伝わります。
その後、善法坊跡に向けて出発。西洞院通を北上し、京都御池中学校横にある、善法坊跡石碑に向かいます。道中にも、参加者と研究職員で親鸞聖人や浄土真宗にまつわる話をしながら、歩みを進めました。
光圓寺を出発して約30分で、親鸞聖人の「御遷化之地」とされる善法坊跡に到着です。ここでは、研究職員が解説しました。
宗祖が亡くなられた禅坊は、『御伝鈔』によると「押小路の南、万里小路の東」にあったとされます。またお弟子の顕智によると「三条富小路」にあったともいわれ、この両者が同じ場所を示すのは左京区のこの場所となるのです。
そこで、真宗大谷派では、ここを「御遷化の地」と定め、江戸時代には法泉寺を建立してこれを顕彰しました。
また、この地域は虎石町と呼ばれますが、親鸞聖人が善法坊の境内で井戸を掘ったところ、その底から虎の形をした石が見つかりました。それを親鸞聖人がいたく気に入られたというエピソードにちなんで、町名が付けられたそうです。
御遷化の旧跡の碑 |
研究職員の解説 |
次の目的地は、今回の最終地、角坊です。地下鉄東西線を利用し、烏丸御池駅から太秦天神川駅まで移動、その後は徒歩で角坊に向かいました。
角坊に到着後、「重誓偈」を参加者全員でお勤めした。その後、角坊主管の久野昌英氏から、角坊についての解説をしていただきました。浄土真宗本願寺派では、『御伝鈔』の記述に「禅房は長安馮翊の辺、押小路の南、万里小路より東」とあり、この「長安」が右京(朱雀大路の西側)であると理解し、それによって現在の角坊の場所を「御往生の地」としたことなど、お話をいただきました。
角坊門前 |
角坊主管のご法話 |
最後に、閉会式を行い、研究職員からまとめの挨拶、恩徳讃を唱和し、全日程終了です。
新型コロナウイルス感染拡大の影響から、みなさんと共に歩くガイドツアーを自粛していました。久しぶりの開催でしたが、参加者と楽しくふれあいながら、晩年の親鸞聖人について、思いを馳せることができたように思います。
親鸞聖人像の前にて
参加者の声―当日のアンケートから―
・徒歩4km程とのことで私にピッタリと思い参加させて頂きました。無事終了出来てお天気もよくて本当によかったです。ありがとうございました。 ・初めてこういった場に参加させていただきましたが、また機会があれば参加したいと思いました。ありがとうございました。 ・もう一度きらら坂を歩いてみたい。 ・ガイドブックもあればありがたく、また歩くことを前提としたものであれば、なおありがたいです。今後とも色々旧跡をめぐりたいです。 |