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2021年度一緒に学ぼう 第5回『御文章』「白骨章」 講座の内容

「一緒に学ぼう西本願寺のおつとめ」は、聖典に説かれている内容を学び、一緒に声を出して唱え方を学ぶ講座です。
『日常勤行聖典』に収められている中から、今年度は、『御文章』について学びます。講座は「座学」と「実践」の二部制で行います。「座学」の時間では、各『御文章』の内容等について、総合研究所の研究職員がやさしく解説し、「実践」の時間では、『御文章』の拝読法、合掌・礼拝などの作法について、おつとめを指導する専門講師が丁寧にお教えします。

第5回『御文章』「白骨章」

日時 2022(令和4)年1月20日(木) 10:00~11:30
会場 オンライン(Zoom)
講師 座学 塚本一真(総合研究所上級研究員)
実践 向野信淳(本願寺式務部知堂)
人数 34名

当日の内容

【座学の内容】

 第5回目は、「白骨章」の内容について学びました。『日常勤行聖典』では、129頁~131頁が今回の範囲です。以下に要点を述べていきます。

1.構成について

「白骨章」は、浄土真宗本願寺派では還骨勤行などの際に拝読される『御文章』です。なじみのある方も多いのではないでしょうか。その内容は、次のように分けることができます。

  • ①わたしたちの無常のありさま
     ②浄土真宗のみ教えをすすめる

以下、この段落にそって解説していきます。

2.わたしたちの無常のありさま(1)

冒頭より「あわれというもなかなかおろかなり」まででは、この世界の無常のありさまが詩的な表現で綴られています。「聖人一流章」や「末代無智章」に比べますと長文の『御文章』ですので、大きく二つに分けて学んでいきます。 まず、「それ人間の」~「といへり」までは、おおよそ以下のようなことが述べられています。

 ・人生とは幻のような一生である。
 ・人が一万年生きたと聞いたことがない。
 ・誰がいつどのような縁で命終わるかわからない。

 ここの一文は、存覚上人(第三代宗主覚如上人のご長男)が著された『存覚法語』のお言葉を参照しつつ、蓮如上人が記されたものといわれています。
『存覚法語』では、後鳥羽上皇の『無常講式』という書物の言葉が引用されております。やや長文になりますが、当該の文を引用してみます。

おほよそはかなきものはひとの始中終、まぼろしのごとくなるは一期のすぐるほどなり。三界無常なり、いにしへよりいまだ万歳の人身あることをきかず、一生すぎやすし。いまにありてたれか百年の形体をたもつべきや。われやさきひとやさき、けふともしらずあすともしらず、をくれさきだつ人、もとのしづくすゑのつゆよりもしげしといへり。

(『浄土真宗聖典全書』四・832頁、833頁)

 ※旧字体(旧漢字)を新字体(新漢字)へ変更しております。

 いまの「白骨章」のご文と見比べますと、ご文は非常に似通っておりますが、ところどころ表現を変えられています。前後のご文も併せ見ると、「白骨章」は『存覚法語』と比べて表現が簡潔かつ平易に記されていることが見て取れます。すなわち、「白骨章」は『存覚法語』を参照しながらも、できるだけ分かりやすく人びとに伝えようという蓮如上人のご教化の姿勢があらわされています。

3.わたしたちの無常のありさま(2)

 次に、「されば朝には紅顔ありて」~「おろかなり」まででは以下のことが述べられています。

 ・朝には顔色良く元気であっても夕方には白骨となってしまうような身である。
 ・親族・家族が嘆き悲しんでもどうすることもできない。
 ・「あはれ」という言葉だけでは言い尽くせない。

 後半部分には、「無常の風」という言葉が出てきます。「無常」とは仏教用語で、すべてのものは一瞬もとどまることなく、変化していくことをいいます。
 蓮如上人が生きられた時代は、応仁の乱(1467年~1477)で京の町が焼け野原となったり、疫病の流行(1492年)で多くの人が亡くなったりと、非常に不安定な世の中でした。この身はいつ命を終えるのか、この世はいつ何が起こるのか、全く定かではない時代であったことは想像に難くありません。
そのようなありさまのなかで、「無常の風」という言葉は、当時の人びとが実感しやすい表現だったのではないかと思わずにはいられません。

 このように「白骨章」の前半部分では、この世のはかなさ、今日の命の不確かなことが、「無常」という言葉をもって示されています。

4.浄土真宗のみ教えをすすめる

無常について示された上で、「されば人間のはかなきことは」~「あなかしこ」では、浄土真宗のみ教えについて示されています。
蓮如上人は、いつ命が終わるかわからない無常の世であるからこそ、私たちは阿弥陀仏のお浄土を依りどころとしてお念仏を申させていただきましょうと勧められ、この「御文章」の結びとされています。

以上のことを、座学の時間では学びました。

【実践の内容】

 実践の時間では、「白骨章」の拝読法について学びました。以下に要点を述べていきます。なお、「高切」・「中切」・「大切」といった区切りの読み方については第1回 、『御文章』のいただき方については第2回のWEB報告をご覧下さい。

・「それ(高切)人間の浮生なる相を(中切)つらつら(引)観ずるに(大切)」
→高切・中切・大切(引)が全てでる。

・「この世の始中終(中切)まぼろしのごとくなる(引)一期なり(大切)」
→「ごとくなる」で「引く」

・「いまだ万歳の人身を受けたりということをきかず(中切)」
→「を」は「の」と発音。

・「一生(引)過ぎやすし(大切)」
→「一生」で「引く」

「いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや(中切)」
→「り」は促音、小さい「っ」で発音する。

・「われや先人や先(中切)今日ともしらず明日とも(引)しらず(大切)」
→「人や先」は「さ」ではなく「や」の途中から下がる(回す)。

・「もとのしずくすえの露よりもしげしと(引)いへり(大切)」
→「しげしと」で「引く」

・「されば(高切)朝には紅顔ありて(中切)夕には白骨となれる(引)身なり(大切)」
→「り」は促音で読み、途中から下がる(回す)。「はっこつ」の「つ」も促音で「はっこっ」と発音。

・「すなわちふたつの眼たちまちにとじ(中切)」
→「たちまちに」の「に」は回す。

・「ひとつの息ながく(引)たえぬれば(大切)」
→「ながく」で「引く」

・「紅顔むなしく変じて(中切)」
→「へん」の「ん」で「回す」。

・「桃李のよそおいを失いぬる(引)ときは(大切)」
→「ぬる」で引く

・「六親・眷属あつまりて(中切)」
→「り」は促音「っ」と発音し、「ま」は途中から下がる(回す)。

・「歎き悲しめども(中切)」
→「め」で回して中切

・「さらにその甲斐あるべからず(大切)」
→「大切」だが「引く」ことはしない。

・「さてしもあるべきことならねばとて(中切)」
→「ば」回す。

・「野外に送りて(大切)」
→「り」は促音

・「ただ白骨のみぞ残れり(中切)」
→「白骨」の「つ」は鼻音、口を閉じて発音。「こ」で回す。

・「あわれといふもなかなか(引)おろかなり(大切)」
→「なかなか」で「引く」。

・「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて(中切)」
→「ぶつを」は「ぶっとー」と発音

・「念仏申すべきものなり」
→「ねんぶつ」の「つ」は鼻音
→「べ」「き」どちらも引く
→最後の部分はスピードを遅くする。

・「あなかしこ あなかしこ」
→一回目のあなかしこで経本(御文章)を閉じ、二回目で経本(御文章)をいただく。
 以上のことを、実践の時間では学びました。

【質問へのご回答】

講座中にご案内しました通り、アンケートにていただいたご質問について回答させていただきます。

Q1
一部の箇所ですが、「大切」の説明の際に「引かずに読む」、というように言われたと思うのですが、そのことについてのご説明を今一度、お願いします。 「日常勤行聖典」131ページの「大切」の説明では、「大切の前の区切りの字はやや長く延ばし」とあるのですが、このこととの関係がよくわかりません。よろしくお願いします

A.
「大切の前の区切りの字はやや長く延ばし」が基本の形ですが、例外として「引かずに読む」箇所がございます。このような場合ここは「不引き(ふびき)」ですとお伝えいたします。時代によって伝承が異なる場合がありますが、本講座では現在の拝読法でお伝えしております。

Q2
勤式集では、「桃季のよそおいを失いぬるときは」の【る】のところに【引】がついているのですが、変わったのでしょうか?

A.
こちらの読み間違いでございました、申し訳ございません。【る】で【引】で相違ございません。ご指摘ありがとうございます。

今年度は今回が最終回でした。ご参加いただいた皆さま、誠にありがとうございました。また、アンケートもご協力ありがとうございました。