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第8回 公開対談・本願寺茶房「儀礼と所作― 儀礼のかたちからこころへ ―」

仏教音楽・儀礼研究室では、浄土真宗の儀礼について様々な角度から対談する「本願寺茶房」を開催しています。

2017年2月6日 本願寺聞法会館にて開催

 

客人
 
熊倉功夫(くまくら いさお)先生

MIHO MUSEUM館長・茶の湯文化学会会長

 

著書

『文化としてのマナー』(岩波書店、2014年)

『日本人のこころの言葉 千利休』(創元社、2015年)など

論文

「茶の湯の作法と子どもの躾」(『子どもと発育発達』4号、2007年)

「茶室 : 建築と道具の間」(『家具道具室内史学会誌』5号、2013年)

「茶の湯におけるわびとさび」(『紫明』38号、2016年)など

         
亭主
天岸淨圓(あまぎし じょうえん)先生

行信教校講師・相愛大学講師

 

著書

『御文章ひらがな版を読む』(本願寺出版社、2012年)など

論文

「親鸞聖人の証果論の特色」(『行信学報』2004年)など

 

対談内容

 はじめに、客人の熊倉先生から、ご自身の研究の紹介がありました。茶の湯には点前作法があり、あの動作は合理的なものだといわれます。しかし決してそんな合理的なものではなく、かたちの美しさが大事にされていると考えたそうです。
 また、現代風俗研究会に所属し、研究をされました。その一端を紹介し、私たちの生活の中で、非常に激しい変化をするものがあり、これを「流行」という。一方で、変化しにくいもの、昔からやってきたものがあり、これを「民俗」と呼ぶ。「風俗」とは、その中間にあり、急激に変わるわけではないが、ゆるやかに変化しているもの。50年から100年ぐらいの単位で変わりながら、私たちがそして、その流れに身をまかせているのが風俗ではないかと考えた。そして、いわゆるマナーも「風俗」ではないかと思い、そこから行儀作法に興味を持ったと述べられます。

 

 それを受けて、天岸先生は、立ち居振る舞いをきれいにしようとする所に、どんな気持ちがはたらくのかと尋ねられました。
 熊倉先生は、日本人は「きれい」とか「清らか」ということばが好きであり、心持ちも同じではないか。マナーも礼儀作法も、きれいであることが大事だと述べられます。そして、その例として、「躾」という字をあげられました。この字は中国から伝わったものではなく、日本で作られた国字です。身偏に美しいと書いて「躾」。つまり日本人のしつけというのは「見た目の姿が美しい」ということになります。人間は、もともと暴れたくなる本性があり、野放図になるので、そうならないように押さえておく。するとだんだん、癖になっていく。それがしつけという事だと言われます。

 

 続けて天岸先生は、しつけの行き届いた生活を作り上げていこうと努力していたのだろうかと問われます。
 それに対し、熊倉先生は、努力が大事と答え、さらに人の目を気にするから癖になる、と言われました。中国の儒教では、誰も見ていないところで正しく行うことが仁であり、礼であるが、日本人は人の目を気にする。お天道様に笑われてはいけない、世間の人に笑われてはいけないというのが、私たちの行動規範である。それがだんだんと癖になり、そうしなければならなくなってきたら、それがしつけだと言われます。
 そこで天岸先生は、宗教的な儀礼も、仏さまなどの聖なるものを意識して作り上げていくものである。また「仏さまがみている」ということがしつけ糸になり、親や周りの人の目だけでなく、見えないものが常に私を見ているという意識を作ってきた。しかしながら、今、世間やお天道様、仏さまといった意識が希薄化している。そこで改めて、宗教的な、儀礼的な空間の大切さが求められているのではないかとされました。

 

 さらに、「動作の美しさ・きれいさ」に話は移ります。熊倉先生は、柳宗悦(1889~1961)の『茶の改革』(春秋社、1958)を取り上げ、「動作の模様化」ということを紹介されます。海の波を例にあげ、波の形は千差万別で同じものはない。けれども波の動きを抽象化していくことで、波の文様・模様が作られた。このように、具体的な姿を抽象化し、非常にカタ(型)の美しさの所まで高めたものが模様であり、日本人の型の文化をあらわしているのではないかといわれます。

 

 また、儀礼と行儀作法の違いが話題となりました。熊倉先生は、儀礼とは、仏や神といった象徴・宗教的権威との上下関係などを視覚化するもの。一方の行儀作法は、円滑な人付き合いをするためのものであるとし、お互いの思いやりやこころのはかり合いから生まれてきたものであると述べられます。
 これを受けて天岸先生は、宗教儀礼とは人対人という二者関係ではなく、聖なるものとその神聖さを表現するもの、さらにそれを見て神聖であることを認識するものという三者関係であると説明されました。そして真宗では、儀礼の内面的な部分についての考え方、「かたちとこころ」を見直す必要があるのではないかと問いかけられました。それに対し、熊倉先生は、まずかたちが大事だと答えられます。日本では、かたちを整えていくことにより、そのかたちにふさわしいこころが育っていくと考えてきたとされます。

 

 対談の最後に、天岸先生から、真宗の儀礼において、かたちだけのものにならないように、かたちとこころを大切に見直していかなくてはらないと提言されました。