布教使インタビュー②
貴島信行(きしま・しんぎょう)
1951(昭和26)年生まれ。大阪府出身。大阪市真行寺住職、本願寺派布教使、龍谷大学客員教授、中央仏教学院通信教育部講師、元龍谷大学大学院実践真宗学研究科教授
※貴島先生へのインタビューは、2022年9月に行いました。その内容は、『季刊せいてん』141号・142号に掲載されています。本記事は、『季刊せいてん』未掲載の内容を中心に構成しています。
■法話をする際、大切にしている点は?
(ポイント:熱伝道、パターン化しない)
――布教において大切なものとか、必要なものとか、何か気づかれたことはありますか?
貴島 布教の現場ではいろんな工夫が必要です。もちろん分かりやすさということが大切なんですけれども、まずこちらの考えている分かりやすさと、相手の分かりやすさとのズレが、あるだろうと思います。分かったから伝わるということでもなくて、よく分からないけれども伝わったっていうことがある。私は、伝道というのはある意味、「熱伝道」、情熱だと思います。その人の情熱、伝えたい意志とかがその言葉に乗っていけば、何か相手に通じるものがきっと出てくると思います。誰でも初めて布教される時はたどたどしいものです。私みたいに慣れてしまうと、慣れの弊害が必ず出てくる。でも汗をかいて、一生懸命語る姿は、話は通じにくいかもしれないけれども、何かが伝わってくる。伝えたいという熱、意志が伝わってくる。そういうことがあるので、ご門徒さんの「分かりやすかったです」という表現の中には、そんないろんな要素が入ってるように思います。もちろん専門用語が多すぎるとかいろいろな問題があると思うんですけど、そういうこととは別に、やっぱり「伝える意志」が大事かなと思ってしまう。ただし、気負ってしまってはいけないですが。
法話は、説明も大事なんですが、やはり説明、解説じゃなくて、説明する言葉を使いながら、要は言葉を超えたところの背景をどういう風に相手がキャッチしてくださるか、ということですね。ということは、自分自身が言葉の背後にあるものをきちんと確かめていかないと、ただ言葉だけのお取り次ぎになってしまいます。私はいったい何を伝えたいのか、何をしにここに立って話をしているのか。もちろんご本願のまことを伝えようとしているんですけれども、言葉だけになっていないか、本当に伝えたいものがあるのかどうか、自分に問いかけてみることでしょうか。また、できるだけ題材も常習化させないようにできればいいですね。どなたも布教される方はおはこ、十八番のお話があると思うんですが、それに頼ってしまって話を済ますことになれば、慣れを生む原因にもなります。お料理と一緒でね、新鮮なものを出せればそれが一番いいですね。でも言うは易しでなかなか出せずに、ふり返ってみては反省しています。
――先生でも反省されているんですね。
貴島 うなだれながらやってますよ(笑) もう一つ気づいた点は、理路整然とした話というのは、実は聞き取りやすそうで聞き取りにくい。パターン化されたお説教は、聞き取りやすいのですが、パターン化のマイナス面があるということです。たとえば、決まったフレーズというのがありますよね。こんなこと言うと自分の首絞めているようで言いにくいですが、どういう例話であっても、最後はその同じフレーズで終わるというパターンがあるとすると、例話や因縁談と合わなくなってくるんですよね。パターン化されたものは間違いがないわけですね。どこでどういうふうに言っても、それはご法義の上で間違いのない言葉なんです。けれども、聞き手と少し離れてしまうということがある。用意した話に沿うように一言でも二言でも足して終わるということが大事だと思います。だから私は布教はパターン化できないものだと思ってます。一生で同じ話を二回できないわけです。どれだけ原稿を作っても、「てにをは」は変わるし、行をとばしたり、同じようには話せないわけですね。一生に二度同じ話をすることはない。だから、そういうところを固定化することの危なさ、そういうものもやっぱり気をつけていくことかなと思います。
■法話のためにどんな準備をされていますか?
(ポイント:言葉の成熟化、ご讃題、問いに対する答え)
――先生は、布教のために日常どんな準備や勉強をされていますか?
貴島 新聞や雑誌、本願寺から出版されている出版物、ご門徒との会話とか、自分が見聞きしたものが、すべて法話の題材になっていきます。ただし、いい題材を他に見つけても、「こういういい話がありました」で終わってしまうと、借り物のお話になるので、自分をくぐらせて、もう一つ違う価値、味、形で示していくことが大事でしょう。題材はあっても、そのまま眠ってしまっているものもあります。でも、見返しているうちに、今の自分にとって価値や意味が感じられた時には、あらためて仕立て直し、受け取り直しをしてお伝えしているというところがあります。
――それらの題材や情報は何かパソコンなどに保存しているのですか。
貴島 私はできるだけ紙にメモをするようにしています。その時に感じたことをメモ書きにして日付を入れて紙で保存することが多いんです。メモを書いたら袋の中に入れておいて、今では整理がつかないほど多くなっています。感じたことをその時にメモしておけば、見返すと、あの時はそういう風に受け取ったんだってわかるし、でも今はその同じ話を違うようにも受け止めていけるなあと、その確認にもなるので、そんな作業をずっと繰り返してきています。同時にお聖教の学びは併行していかないと、いい題材でもそれがお聖教のどこと結び付くかがわからなくなりますよね。やはりお聖教の学びを怠っていると、いい話でもお聖教とつながりにくくなります。
――布教のためには、日頃からいろんなことを吸収することと、お聖教の学びが必要ですね。
貴島 どうしても布教は一朝一夕にはいかないですね。若いときからの心がけと、積み重ねをするしかないです。またその積み重ねたものが、すぐに役に立つとは限らない。むしろ役に立たないことの方が多いです。でも日々法話への意識を持続し、心がけている人は積み重ねたことは決して無駄ではなくなる。だから焦らないでいいんでしょうね。
なにか目標があるときにすぐに勉強をはじめても、「勉強したことだけ」で終わるんですね。勉強したことに何が張り付いてくるのかというのが大事になる。私たちは、その貼り付け方に悩むんですよね。どういうふうに貼り付けるのが話としてうまく成り立つかということは、失敗を繰り返すしかない、やってみるしかないわけです。その日(お説教の日)のために座学でいろいろ勉強して、本を読み解いても、無駄なことではないですが、それはそれだけのことになる。先達はみなさんご苦労されて、布教してこられたわけですからね。まあ今日全部言ってきたことは、全部自分に言い聞かせていることです。
――ご法話の準備をされる際に、必ずされることはありますか?
貴島 ありきたりですが、テーマを与えられていることが多いですから、テーマがあればテーマに沿う法語、ご讃題を考えますよね。お聖教のどこがそのテーマに一番ふさわしいのかということを考えて、あまり長くない言葉を選びます。ご和讃は四句でもなかなかとりあげにくいんですけど、『歎異抄』もとりあげにくいのは皆さんも感じてらっしゃることじゃないでしょうか。『歎異抄』は一条一条の背景があるので、一部分だけをとりだしてもだめなんですね。話をする場合は、一条分の要約を言わなければならないですし、どういう文脈で使われているかということを説明しなければならないという難しさがあるんですね。第三条の「善人なをもって往生をとぐ、いはんや悪人をや」になると、説明だけで一席が終わってしまうこともあるので、取りあげ方がむずかしいんです。易しい法語というのはないんですが、それをまず決めることが最初にすることです。
そして、ご讃題を決めたときに、今度はどういう結論にするのかを考えます。問いがなければ、答えもないので、自分がそこに何を問いかけているのか、問いかけたことが問題提起になるので、それを最後に皆さんに「こういう結論です」と受け取ってもらえるような構成を考えています。それが一つの合法のようになるので、その合法は決まったものというわけではなく、問いに答える形で一言でも二言でも言えるように終わっています。自分に対しての問題意識とか、この世に対しての問題意識がそこにあればいいと思います。起承転結の「起」はご讃題の説明というよりも、そこにどういう問題があるのかということを最初に出して、最後に「へー」となればいいんですが、なかなかそうはうまく行かない。途中から答えが見えてくるというのは、一番面白くないんですよね。飛躍があった方がいいですよね。体操なんかでも、F難度というと、鉄棒から離れるでしょ。そしたら、「はーすごい」ってなって、着地でぱっときまる。あれは離れれば離れるほど、魅力が大きいわけです。固定化したものは平らですので、離れ方が小さい、だから終わり方もやっぱりそんなふうに終わるんだなとわかってしまう。私の理想としては、F難度までいきたいんですけどね。
■今後の伝道を考える上で大事なことは?
(ポイント:法は人から人へ伝わる、次世代への種まき)
――印象深いご門徒さんはおられますか?
貴島 竹山保さんという方は本当に不思議なご縁で喜ばれるようになりましたね。この方は義理の父の髭野徳圓さんによって育てられたんです。髭野さんは足が不自由だったもんですから、竹山さんにお寺に送ってもらっていたんです。それで、初めは山門まで、次は境内まで、その次は向拝のところまでという形でだんだんお寺の中まで送らせたわけです。そして最後は、「上にあがれないから上にまであげてくれ」と本堂まで連れてこられた。その後に、「息子をご門徒に入門させてほしい」といわれました。竹山さんは「私は父親のようにはなりません」と語っていたんですが、いつのまにか本堂でお聴聞するようになられてね。二人は同じ仕事をしていたんですが、髭野さんが「今日は時間に余裕があるから、法話を聞いていけ」と竹山さんにいって、それで徐々にお父さんの意思で育てられていったということですね。
――髭野さんの強い思いで竹山さんにつながったんですね。
貴島 そうですね。伝道者というのは、いわば「つなぎ役」「橋渡し役」ですよね。「皆様への教えの橋渡し」そして、「浄土への橋渡し」という役割だと思うんですよ、伝道者というのは。そういう一つの形を見せてくださった人が髭野さんになりますね。
――最後に、これからの伝道についてお聞かせください。
貴島 伝道というのは、特に成果がほどんど出ないもので、出れば素晴らしいですが、今は次世代ぐらいに出るというような気持ちでやらないとだめかなと。すぐに目先の成果だけを追い求めようとするとうまくいかないと思います。長い目で見て、今、種まきとか種植えとかを怠ると、次の世代にもっと土壌が痩せていくことになる。広く真宗全体で種まきや育成が行われれば、人の移動があっても、そういう種を持ってその人たちがたんぽぽのように飛んでいくわけですから、そこでまた根付く。根付くためには、種がなかったら根付きようもないし、育ちようもない。そういう種まきを私たちは大きな目でやるべきでしょう。
実際そういうことが私のところでも起こっているんですね。私が種をまいたわけじゃない。たとえば広島の方ですけど、「聖典講座」に来られている受講生で、自分の学びの目標ができたと言って、現在夫婦で来てくださっています。それは小さい頃から広島のお寺で日曜学校に行かれていたというご縁があるわけですね。私たちも逆のことをしていかないといけないなと思っています。
確かに経済的に言えば、「自分のご門徒」とか「自分の寺」ということになるんですけど、それはいわば小さい世界であって、それよりもっといろんな人の交流が全国的にあるといい。その土地で誰かにきっかけをもらう。たとえば、手次の住職にきっかけをもらって、「そういえば昔こういうことでお寺の門をくぐった」とか「お寺で話を聞いた」とかいうことが接点になるということですね。
(終)
【まとめ】
今回の貴島信行氏のインタビューから、布教・伝道において参考となる点を挙げると、以下の通り。
1.法話をする際に、考慮すべき点
①言葉や話し方などのテクニック以上に、話し手の伝えたい意志や熱量を通して、言葉を超えて伝わるものが大事。貴島先生は「熱伝道」と表現されていた。
②パターン化された法話は理路整然と語れるが、一方で、結びのフレーズを固定化してしまうと、譬喩や話の流れと乖離する危険がある。
2.法話のための準備としての取り組み
①日々の生活に法話の題材があるため、その時感じたことをメモする。
②ただメモをするだけでは、いわば「借り物」のままになっているため、自分なりの価値、味、形で示すことが大事(言葉の成熟化)。
③法話を作るときのポイントは、まず「ご讃題」をテーマに沿ったものにする。そして、ご讃題に合った「結論」を決める。と同時に、そのご讃題において何を問いとして立てるのかを明確にし、聞き手がその問いに対する応答として結論を受け取れるよう構成する。
3.今後の伝道を考えるうえで、特に重視すべき点
①念仏者を育て、その人がまた他の念仏者を育てることを意識する。いわば、「法は人である」という、人から人へ伝わるあり方を大切にする。
②伝道は、本来すぐに成果が現れるものではなく、今の取り組みが次世代や次々世代に表れるものである。また、自分の寺という範囲だけで考えず、より長期的かつ広い視野に立って伝道をすべき。







