Ⅳ-0875選擇註解鈔第一 一 題目は、「選擇本願念佛集」と云は、定散八萬の諸行を選捨て念佛の一行を擇取が故に「選擇」と云。是則選擇の言は正しく『大阿彌陀經』に出たり。彼經は『雙卷經』の同本異譯なり。此書の第三の本願の章に選擇の義を釋すとして、四十八願に於て各此義有べき義を釋せり。先第一の無三惡趣、第二の不更惡趣、第三の悉皆金色、第四の無有好醜、この四箇の願に約して選擇の義を釋して、次下に第十八の念佛往生の願をあげて、委く選擇の義を釋成す。「卽今選捨前布施・持戒乃至孝養父母等の諸行、選取專稱佛號。故云選擇也」と云へる、此意なり。又第十六の名號付屬の章に、三經幷に『般舟經』の意により、釋迦・彌陀及六方の諸佛にわたりて八種の選擇を釋せられたり。彼八種の義、皆諸行を選捨て念佛を選取と云義を顯すなり。然則、今の題目に付て廣く選擇の義を論ぜば、八種の選擇に通ずべし。略して要を取ば、第十八の選擇本願を以て肝心とす。其の本願と云は念佛なり。故に選擇本願念佛集と云なり。「集」と云は聚なり。念佛を選擇すⅣ-0876るに取て經釋の要文を聚めて、往生の大益を成ずるが故に集と云なり。されば此集の一部始終、倂ら念佛の一行を以て往生の正業とする義を釋成すと意得べきなり。 一 「南无阿彌陀佛、往生之業念佛爲先」と云は、先名號を上る事は、上の題目に本願の念佛を選擇すと云へども、念佛の言は、觀念にも口稱にも通じ、諸佛・菩薩の名號にも亘べきがゆへに、慥に其行體を顯て、彼本願の念佛と云は南無阿彌陀佛なりと示すなり。次に「往生之業念佛爲先」と云へる、正く上の選擇本願の南無阿彌陀佛をもて、往生の正業とすといふなり。是則、一往は定散の諸行共に往生の行と見えたれども、彼は皆能顯の方便と云はれ、名號の一法のみ所顯の眞實と成て、下根最劣の爲には念佛獨往生の因となる義を顯なり。 第一 敎相章 一 標章に「道綽禪師立聖道・淨土二門而捨聖道正歸淨土之文」と云は、『安樂集』を指なり。道綽禪師は本は涅槃宗の人なり。而に幷州の玄忠寺にして曇鸞和尙の碑の文を見て、忽に涅槃の廣業をすてゝ偏に淨土の敎門に入給へり。其より以來、常に『觀經』を講じて人を勸給に、幷州の晉陽・大原・汶水三縣の人、Ⅳ-0877七歲已上皆彼勸化を受て念佛を行じ、往生を遂たり。善導和尙も彼弟子なり。されば淨土宗に於て止事なき祖師なり。抑此『集』に凡十六の章段有。皆是經釋の明文を引て彌陀の利生の勝れたる事を顯し、名號の一法の凡夫を救べき道理を明せり。其中に此『安樂集』を引て初めに置るゝ事は、聖道・淨土の二門を明すこと分明なるゆへに、一代を料簡し二門を分別して、先一宗の敎相を示がためなり。此故に當章をば敎相の章と云なり。 一 「問曰、一切衆生皆有佛性。遠劫已來應値多佛。何因、至今仍自輪廻生死不出火宅」と云は、問の意は衆生には佛性あり、隨ひて番々出世の佛にも定て遇たてまつりけん。而に何ぞ今まで成佛せずして生死に輪廻し、娑婆を出ざるやとの問なり。「衆生に佛性有」と云は、『涅槃經』(北本卷二七師子吼品*南本卷二五師子吼品)の說なり、「一切衆生悉有佛性、如來常住無有變易」と云へり。娑婆を火宅に喩るは『法華經』(卷二*譬喩品)の說なり、「三界無安、猶如火宅、衆苦充滿、甚可怖畏」と云へり。答の中に「依大乘聖敎」と云は、下に引ところの『大集經』と『大經』との意を指なり。 一 「由去大聖遙遠」と云は、「大聖」は釋迦如來なり。釋尊涅槃の後、正像Ⅳ-0878の二時過、末法に至て在世遙に相隔るが故に、聖道の修行は成じがたしと云なり。「由理深解微」と云は、「理」と云は、聖道の諸宗皆理觀を以て先とするが故に、彼觀其意深に依て、智慧淺短なる凡夫は解がたしと云なり。 一 『大集月藏』の文を引ことは、聖道の修行の成じ難ことを證するなり。「我末法時中」より「未有一人得者」と云までは、『經』の意也。「當今末法」より下は、道綽の私釋なり。「我末法時中」と云は、釋尊の滅後に正像末の三時あり、其時分に於て又二說あり。一說には正法千年、像法千年、末法萬年なり。是は『大悲經』・『倶舍論』等の說なり。一說には像法・末法前の如し、正法は五百年なり。是は『摩耶經』の說なり。諸宗の人師、是等の說に付て各依用すること區なり。而に道綽禪師は如來滅後一千六百年の中に出世の人なるが故に、其在世を指て「當今末法」と云へるは、正法五百年の說に依と聞えたり。此中に末法の時には、三乘聖道の行を修せんに得べからずとなり。彼『經』(大集經卷五五月*藏分閻浮提品意)に五箇の五百年を說て、「第一の五百年は解脫堅固、第二の五百年は禪定堅固、第三の五百年は多聞堅固、第四の五百年は造寺堅固、第五の五百年は鬪諍堅固也」と云へり。此說に依に、彼在世は造寺堅固の時に當れり。況夫より後の鬪諍堅固の時分に於てをや。Ⅳ-0879故に「未有一人得者」と云なり。 問云、「起行修道」と云へるは聖道・淨土を分ことなし。「未有一人得者」と云へる、何ぞ聖道に限るべきや。答云、「起行修道」と云へる、專自力の修行、三乘の修道と聞えたり。是則、敎行證の三の中に、末法には唯敎のみ有て其行證無が故なり。淨土門は他力の得道なれば、彼「起行修道」の言の中には攝すべからず。隨て彌陀の敎法は、末法萬年の後、法滅百歲の時まで利益を施すべきものなり。況末法は利物偏增の時分なるが故に、「唯有淨土一門可通入路」と云へり。是尤道理に叶へるものなり。 一 『大經』の文は十八願の意なり。是に付て不審あり。願文には「十方衆生」(大經*卷上)といひ、今は「一生造惡の機」と云。相違如何と云に、是は善惡の二機に亘るべき事は勿論なれども、末法には聖道の修行は立し難く、念佛の得益は盛なるべき事を成ずるが故に、惡凡夫の正機なることを顯さんが爲なり。「縱令」と云へる言は、惡人にかぎらざる事を示すなり。 一 「若據大乘、眞如實相・第一義空曾未措心」と云は、眞言・天台等の諸の大乘、其の敎相一往異なれども、詮ずる所は眞如の理を顯にあり。「眞如」と云、「實相」と云、「第一義」と云は、皆一法の異名なり。此眞如を解了する事、凡夫はⅣ-0880成じ難が故に「曾未措心」と云なり。 一 「若論小乘、修入見諦修道、乃至那含・羅漢、斷五下除五上、無問道俗、未有其分」と云。「小乘」と云は、聲聞・縁覺の二乘なり。其中に今「見諦修道」と云は、先聲聞の修行の相に付て、凡夫は惑を斷じ道を修して彼位に登る事難しと云へり。其聲聞の位に於て四向四果あり。又其向・果を分て三道とす。是は三界九地の八十八使の見惑、八十一品の思惑を斷ずる位に取て四果を分別し、此四果を又三道と分なり。三界と云は欲界・色界・無色界なり。此三界を分て九地とす。九地と云は、欲界の五趣を一地とし、色界の四禪を四地とし、无色界の四空を四地とすれば九地なり。見惑と云は根本の十煩惱なり。一には貪、二には嗔、三には癡、四には慢、五には疑、六には身見、七には邊見、八には邪見、九には見取、十には戒禁取なり。此十煩惱は、四諦の理に迷て發す所の惑なり。而るに四諦の下に具不具あり、又三界の内に有無不同なり。これに依て、欲界には三十二使、色界と無色界とには各二十八使有が故に、八十八使あるなり。思惑と云は、九地に各上々品より下々品まで九品あるゆへに、九地には八十一品ある也。四果と云は、一には須陀洹果、二には斯陀含果、三には阿那含果、四には阿羅漢Ⅳ-0881果なり。三道と云は、一には見道、二には修道、三には無學道なり。須陀洹果と云は、此には預流果と云。始て聖の流に預るゆへに、預流と云なり。此位に四諦を觀じて證を得るに、十六心あり。其中に於て、前十五心を預流向と云。向と云は果に向意なり、是見道なり。此位に總じて頓に三界の八十八使の見惑を斷じて、第十六心に預流果を證するなり。是より修道なり。斯陀含果と云は、此には一來果と云。欲界の九品の思惑の内、五品を斷ずるを一來向と云、第六品を斷ずるを一來果と云也。九品の内、殘所の三品の惑に依て、一度欲界に來るがゆへに、一來と云なり。阿那含果と云は、此には不還果と云。是は欲界の九品の思惑を斷盡する位なり。第七・八品を斷ずるを不還向と云、第九品を斷ずるを不還果と云也。欲界の煩惱、悉盡て欲界に還ざるが故に、不還と云なり。阿羅漢果と云、此には無生と云。三界の煩惱を斷盡して、生として受べきも無が故に、無生と云也。色界の初禪の九品の一品より始て、無色界の非想非々想地の九品の内、第八品に至まで、七十一品を斷ずるを阿羅漢向と云。是までは修道なり。第九品を斷ずるを阿羅漢果と云なり、是則無學道なり。されば今「見諦修道に修入す」と云は、四向四果を指なり。其中に「見諦」と云は見道也。四諦の理を見る道なるが故に、見道Ⅳ-0882とも見諦とも云なり。是則、初の向なり。「修道」と云は、初果・二向・二果・三向・三果・四向までなり。「乃至那含・羅漢」と云は、云所の四果の内、第三・第四なり。此二果は上位なるが故に、「見諦修道」と云は初を指し、「那含・羅漢」と云は、終をあげて、四向四果を經て三界の見惑・思惑を斷じ難く、見・修・無學の三道に入て道果を證し難と云なり。「五下」・「五上」と云は煩惱の名也。欲界の煩惱を五下分結と云ひ、色・無色界の煩惱を五上分結と云。欲界は五趣各別なれども、一の散地なるが故に總て下界と云、色・无色は二界不同なれども、一の定地なるが故に合して上界と云。下界にも上界にも各五の煩惱あれば、五下・五上と云なり。結と云は煩惱也。有情を結縛して生死の獄に置が故に結と云也。五下分結と云は、一には身見、我々所を執する心なり。我と云は有情なり、我所と云は此我が依託する所なり。卽器世間なり。二には戒禁取、因に非を因と計し、道に非を道と計する意也。三には疑、四には貪、五には嗔なり。此五中に、貪と嗔との二惑によりて欲界を超ず。たとひ超て上界に生ずれども、身見と戒禁取と疑との三に依て又還下なり。『倶舍』(玄奘譯卷二*一隨眠品)に、「由二不超欲、由三復還下」と云へるは此意なり。されば貪嗔をば守獄率に喩へ、殘の三をば防羅人に喩也。五Ⅳ-0883上の分結と云は、一には色界の貪、二には无色界の貪、三には色・无色の掉擧、四には色无色の慢、五には色無色の无明也。此中に、貪と慢とは常の如し。无明は癡也、掉擧は散亂なり。衆生は皆五下・五上の煩惱に依て三界を出離せざるなり。而れば、是等の煩惱を斷じて那含・羅漢に至る事叶ひ難しと云也。 一 「縱有人天果報、皆爲五戒・十善能招此報。然持得者甚希」と云は、人中に生ることは五戒の力に依るが故に、縱ひ三界を出までは思よらずして人天に生ぜんと思ども、五戒・十善を持ざれば夫も又叶がたしと云也。「五戒」と云は、一には不殺生、二には不偸盜、三には不邪婬、四には不妄語、五には不飮酒なり。「十善」は、下の名號付屬の章に見たり。 一 「是以諸佛大慈、勸歸淨土」と云よりは、念佛易行義顯はす。「縱令一生造惡」と云は、『觀經』の下三品の機、常沒の凡夫なり。かゝる極惡の機なれども、名願力に依て滅罪得生すとなり。「何不思量都無去心也」と云は、聖道の難行なると淨土の易行なるとを相對して、爭か本願に歸し往生を願ぜざらんと云なり。 一 「且如有相宗、立三時敎而判一代聖敎。所謂有空中是也」と云は、「有Ⅳ-0884相宗」と云は法相宗なり。諸法の因果を決判して、大乘の性相を定判するが故に、有相宗と云。「三時敎」と云は、一には有敎、阿含等の小乘聲聞・縁覺、斷惑證理の道を明す敎なり。二には空敎、諸部の般若、諸法皆空の理を說敎なり。三には中道敎、非有非空中道の理を明せる敎なり。卽『華嚴』等の諸大乘經なり。如是有空中と次第することは、說時の次第には依らず、只說敎の淺深に付て是を立るなり。一代の諸敎餘たに分れたれども、所說の意趣を云に此三を出でざるなり。『唯識論』を以て本論とせり。 一 「如無相宗、立二藏敎以判一代聖敎。所謂菩薩藏・聲聞藏是也」と云、「無相宗」と云は三論宗なり。空寂の深理を明して無相の正觀を示すが故に、無相宗と云也。三論と云、『中論』・『百論』・『十二門論』なり。「菩薩藏」と云は大乘なり。「聲聞藏」と云は小乘なり。一代の佛敎、說相區也と云へども、大小乘を出ざるなり。 一 「如華嚴宗、立五敎而攝一切佛敎。所謂小乘敎・始敎・終敎・頓敎・圓敎是也」と云は、此宗は所依の本經に付て名を立るなり。「小乘敎」と云は、阿含等のもろもろの小乘經なり。又は愚法聲聞敎と云。「始敎」といふは、『深密』Ⅳ-0885等の諸大乘經なり。「終敎」と云は、『涅槃經』等なり。「頓敎」と云は、別して一經を指に非ず。諸大乘經の中に、衆生卽佛、一念頓成の旨を明せるを以て頓敎とす。「圓敎」と云は、『華嚴』・『法花』なり。大小權實の敎をもて、此の五敎に攝するなり。 一 「如法華宗、立四敎五味以攝一代佛敎。四敎者、所謂藏・通・別・圓是也。五味者、所謂乳・酪・生・熟・醍醐是也」と云、天台宗の敎相なり。所依の經に付ては法花宗と云。天台と云は山の名なり。智者大師、天台山にして此宗を興ぜらる、故に天台宗と云也。「四敎と云は、藏・通・別・圓是也」と云は、藏と云は三藏敎、小乘なり、界内の事敎なり。三藏と云は、一には修多羅藏、又は素咀覽藏と云。定を明す、是經なり。二には毗尼藏、又は毗奈耶藏と云。戒を明す、是律なり。三には阿毗曇藏、又は阿毗達摩藏と云。惠を明す、是論なり。されば戒定惠の三學を顯す敎なり。是は正には聲聞・縁覺の爲、傍には菩薩を化す。聲聞は四諦を觀じて四果の位に修入するなり。四諦と云は、苦・集・滅・道なり。四果と云は、前に記するが如し。縁覺は十二因縁を觀じて自乘の果を得るなり。菩薩は六波羅蜜を行じて八相成道するなり。通敎と云は、界内の理敎なり。三乘Ⅳ-0886通じて修行する故に、通敎と云なり。別敎と云は、界外の事敎なり。只菩薩のみ行ずるが故に、別敎と云なり。五十二位を經て無明を斷じ、中道を證して終に成佛するなり。圓敎と云は、界外の理敎なり。一色一香無非中道と談じ、煩惱則菩提、生死則涅槃と達するなり。此四敎中に、初の一は小乘、後の三は大乘なり。「五味と云は、乳・酪・生・熟・醍醐是なり」と云は、此南州の北に因て雪山と云山あり、其山に忍辱草と云草あり。牛是を食して乳を出す。其味次第に轉ず。最初に出をば乳味と云、是勝たる味なり。次に出は酪味なり、是は下品の味なり。次に出るは生蘇味なり。次に出すは熟蘇味也。此四味は、次第に初は淡く、後は熟せり。最後に出るをば醍醐味と云。總じて一代五時の說敎に喩て、五味と云なり。一には華嚴、別・圓二敎を說く、乳味に當る。二には阿含、三藏敎を說、酪味に當る。三には方等、四敎を說、生蘇味に當る。四には般若、通・別・圓の三敎を說く、熟蘇味に當る。五には法華涅槃、此二部は同味の敎なり、醍醐味に當るなり。此中に、法華には只一の圓敎を說く、涅槃には又四敎を說けども、共に第五時の敎として同く醍醐味なり。一代の說敎異なれども、其所說を云に四敎を出ず、其の化儀を云に五時に攝するなり。 Ⅳ-0887一 「如眞言宗、立二敎而攝一切。所謂顯敎・密敎是也」と云は、「顯敎」は釋迦所說の一代顯露の諸經なり。「密敎」と云は、大日所說の祕密神呪等是也。大小・權實の差別ありと云へども、密敎の外をば皆顯敎と立るに依て、一切の佛敎、顯密二敎を出ざるなり。 一 「今此淨土宗者、若依道綽禪師意、立二門而攝一切所謂聖道門・淨土門是也」と云は、是正く自宗の所立なり。上に諸宗の立敎を擧らるゝ事は、一代を判屬すること一准ならざる事を顯して、我宗の敎相を立するなり。所謂諸宗の所談異なりと云へども、此土の得道を明すは皆「聖道門」也。是八宗・九宗等の意なり。他土の得生を訓るは「淨土門」なり。是今の「三部經」の說なり。 一 「問曰、夫立宗名、本在花嚴・天台等八宗・九宗、未聞於淨土之家立其宗名。然今號淨土宗、有何證據也」と云は、此問の意は、花嚴・天台等の諸宗に相竝て淨土門を宗と號すべからずと云なり。意は宗と云證據なくは、所立の二門の義許し難しと云なり。而に答の意は、「淨土宗名、其證非一」と云て三箇の證を引り。元曉は花嚴宗の祖師、慈恩は法相宗の祖師、迦才は三論宗の祖師なり。他宗の人師の釋を引て、自家の宗の名を證するなり。 Ⅳ-0888一 「就大乘中雖有顯密・權實等不同、今此集意、唯存顯大及以權大。故當歷劫迂廻之行。准之思之、應存密大及以實大。然則今眞言・佛心・天台・華嚴・三論・法相・地論・攝論、此等八家之意在此」と云、大乘に付て顯大乘あり、密大乘あり、權大乘あり、實大乘あり。顯大と密大とを對するとき、顯大はあさく密大はふかし。顯大の中に權大と實大とを對するとき、權大はあさく實大はふかし。而今此『安樂集』に立る所の二門の中に、聖道門と云へるは、一往は先、顯大乘と權大乘となり。是等の敎の意は、歷劫迂廻の行なるが故なり。密大乘と實大乘とは、速疾直往の義を明がゆへに、其意異なれば彼此を等じて一門とはせずと也。「今此集意、唯存顯大及以權大。故當歷劫迂廻之行」と云へる、此意也。然るに再往是を云時は、迂廻の行も直往の道も、共に自力の行、此土の得道なれば、皆總じて聖道門の言に攝すべしと也。「准之思之、應存密大及以實大」と云へる、此意なり。今擧ところの八家の中に、眞言は密大なり、餘の七家は顯大なり。其七家の中に、佛心・天台・花嚴は實大なり、三論・法相・地論・攝論は權大なり。但是は天台・華嚴等の敎相に依て是を分てり。三論・法相等の意は敎に於て權實を論ぜざるなり。 Ⅳ-0889一 「次小乘者、總是小乘經・律・論之中所明聲聞・縁覺、斷惑證理、入聖得果之道也」と云は、「經」と云は、阿含經なり。「律」と云は、『四分律』・『十誦律』等なり。「論」と云は、『倶舍』・『婆娑』等の諸論なり。 一 「凡此聖道門大意者、不論大乘及以小乘、於此娑婆世界之中、修四乘道得四乘果也。四乘者三乘之外加佛乘」と云は、「三乘」と云は聲聞・縁覺・菩薩なり。法相・三論には唯三乘を立る也。いま佛乘を加て「四乘」と立るは天台の意なり。或は三乘といゝ、或は四乘立れども、みなこれ是聖者に付て道果を論ずるが故に、大小・權實・顯密・敎禪異なりと雖ども、皆聖道門の中なりと云也。「聖道」と云は聖者の道なり。意は、念佛往生は此外に凡夫出離の道也と云はん爲なり。 一 『十住毗婆娑論』の文を引ける中に、「謂五濁之世於無佛時、求阿毗跋致爲難。此難乃有多途。粗言五三以示義意」と云は、「五濁」と云は、一には劫濁、二には衆生濁、三には見濁、四には煩惱濁、五には命濁なり。劫濁と云は、劫減の時には諸惡加增するが故に、衆生の身長漸に短少なり。是此濁の驗なり。衆生濁と云は、劫末の時は衆生の十惡彌盛なるを云。則衆生濁惡にして蛇龍の如Ⅳ-0890なる也。見濁と云は、自の惡をば善とし、他の是をば非とする也。其見の邪なる事、棘刺の如くなり。煩惱濁と云は、劫末の衆生は其の心惡性にして、貪嗔彌競起なり。命濁と云は、見・惱の二濁に依て多殺害を行ずる故に、中夭頻に來て命短促なるなり。此事『觀經義』の第二幷に『法事讚』の下卷に見えたり。「無佛時」と云は、前佛涅槃の後、後佛出世の前、二佛の中間を指なり。此時聖道を修行して、不退の位に至ること難しと云なり。「阿毗跋致」と云は、不退の位なり。「五三」と云は、少々と云言なり。 一 「一者外道相善亂菩薩法」と云は、外道の邪見を以て、菩薩の修行を亂なり。鴦崛摩羅が千人を害せんとせし時の如きの類なり。「二者聲聞自利障大慈悲」と云は、聲聞は自調自度の行を立て、利他の行なき也。『莊嚴論』(莊嚴經論卷*六隨修品)には、「雖恆處地獄、不障大菩提。若起自利心、是大菩提障」と云、『觀經義』の第一(玄義*分意)には、「二乘狹劣、闕無利他大悲故」と云へる、此意也。「三には無顧惡人破他勝德」と云は、是非を顧ざる惡性の人、大乘の行道を障る也。身子が乞眼の波羅門に遇て、菩薩の道を退せしが如し。「四には顚倒善果能壞梵行」と云は、人天の善果に著して佛法の修行を妨なり。妙莊嚴王の十善の威德に耽て、一Ⅳ-0891乘の行德を失しが如し。「五には唯是自力にして無他力持」と云は、聖道の修行は觀念に淺深あり、行業に強弱あれども、皆自力勵みて佛の他力を憑ざるが故に、五濁の世には自力の修行其力弱くして成じ難きなり。「如是等事、觸目皆是也」と云は、此五箇の難、正しく眼の前に有と云意なり。 一 「天台・迦才同之」と云は、天台の『十疑』にも迦才の『淨土論』にも、同く今の『十住毗婆娑論』の文を引て難行・易行を分別するが故なり。 一 『西方要決』の文に、「釋迦啓運弘益有縁」と云は、說敎の時節至り、所化の機縁熟して閻浮に出世し、一代の間廣衆生を利益し給を云なり。「敎闡隨方竝霑法潤」と云は、佛敎根機に應じて種々に儲ば、何分に隨てもと云。是までは總じて一代の化導をのぶるなり。「親逢聖化、道悟三乘」と云は、惑障も無く根性も利にして親く佛化を蒙聖者の根機は、三乘の道果を得と云也。是則聖道門意也。「福薄因疎勸歸淨土」と云は、功德の福分うすく善根の勝因おろそかなる者をば、淨土に勸入と云也。此機は凡夫なり。是則淨土門の意也。されば慈恩の意も、聖道・淨土の二門の義を顯はすと云なり。 一 同後序の文に「生居像季」と云は、「像」は像法也、「季」は末なり。慈恩自Ⅳ-0892我在世を指て、像法の末と云也。「去聖斯遙」と云は、大聖釋尊涅槃の後、旣に多の年紀を送れる意なり。「道預三乘無方契悟」と云は、三乘の敎門を說たれども、其悟を得ること叶ずとなり。「人天の兩位躁動不安」と云以下は、聖道の修行を立て、自利々他の行を修せんには、久人天に處して其行を立べきなり。而に「人天の兩位は躁動して不安」といふは、『十住毗婆沙論』に出す所の五箇の難の如く、樣々の障㝵多して、修行退しやすきなり。智博情弘き上根の機は、久濁世に處して行道を修せんに得べし。識愚に因淺下根の機は、其行成ぜずして幽塗に溺れぬべしと云なり。「幽塗」と云は、三惡道等なり。故に如是障難多き娑婆をば遠ざかり、成じ難き自力の修行を捨てゝ早く淨土に生じ、佛力に扶られて速に無上菩提に至るべしと勸むるなり。 一 「例如彼曇鸞法師捨四論講說一向歸淨土、道綽禪師閣涅槃廣業偏弘西方行」と云、鸞師は四論宗の學生なり。「四論」と云は、一には『中論』、龍樹菩薩の造なり。二には『百論』、提婆菩薩の造なり。三には『十二門論』、又龍樹の造なり。是は三論なり。是に『智度論』を加て四論と云なり。彼論も龍樹の造なり。鸞師は此の四論に通達して深義を講ぜられしかども、後には菩提流支三藏のⅣ-0893勸に依て一向に淨土に歸し、『往生論』の註を記して五祖の上首に居し給へり。道綽禪師は本は涅槃宗の人なり。後には偏に西方の行を弘められき。委は上に錄するが如し。如此深智の碩德、なほ聖道の修行は當今の機に不相應とて、淨土門に歸せり。況や、末代無智の道俗、理深解微なる。諸敎に於て其の證を得がたければ、他力往生の門に歸して稱名念佛の行を勤べき者なり。 一 聖道家の血脈を引て、淨土宗にも血脈あるべしやと問て、有べき義を釋せらるゝは、念佛往生の門に於て殊に血脈相承大切なる事を顯す。其の故は、『經』(大經*卷下)に「聞其名號信心歡喜」とも說、「聞名欲往生、皆悉到彼國」とも云て、名號を聞て信心を生じ、信心を生ずる時卽往生決定するは、尤も相承あるべき故に如此被擧也。 第二 二行章 一 此章は、上の章に聖道・淨土の二門を分別して、其中に聖道を捨て淨土を選取が故に、今の章には其淨土の一門に於て正行・雜行を分て、其中に雜行を捨て正行を選取る也。 一 「善道和尙立正雜二行、捨雜行歸正行之文」と云は、『觀經義』の第四をⅣ-0894さすなり。善導和尙は、大唐相傳して彌陀如來の化身と云、是常の義なり。又『華嚴』・『大集』の兩經に、釋尊善導大師と成て衆生を度すべしと說る文あるが故に、釋迦の再誕とも意得る也。二佛もとより一佛なれば、何れの義も相違なし。其面授を立る時は、道綽禪師の弟子なり。然れども道に於て證を得る事師にも超、凡夫往生の宗義を立事古今に秀でたるが故に、殊に今師の釋を以て一宗の規模とするなり。 一 「就行立信者、然行有二種。一者正行、二者雜行」と云、三心の中の深心の下に、就人立信・就行立信の二の信心を立たり。其中に就人立信と云は、能說の敎主に付て信を立てんと信ずる也。所謂佛說を信じて餘說を用ざるなり。其義具に下の三心の章に有べし。「就行立信」と云は、所說の行に付て信を立するなり。則今の文是なり。正行・雜行、正業・助業の分別、文に顯て見安し。 一 「『疏』の上の文に云、今此『觀經』中十聲稱佛、則有十願十行具足」と云は、願行具足して往生すべき事を釋する文也。「願」と云は行者の信心、「行」と云は所修の行なり。而願行と分つ時は各別なれども、南无阿彌陀佛の六字を稱するに願行具足の德有也。則「言南无者卽是歸命、亦是發願廻向之義。言阿彌陀佛者Ⅳ-0895則是其行。以斯義故必得往生」と云へる、其意なり。意は、「南无」の二字は願なり、「阿彌陀佛」の四字は行なるが故に、六字の中に願行を具足して必往生すと也。其に取て今「十願十行」と云、一念の中に一の願行あれば、十聲の中には十の願行あるべしと也。是に准じて云ば、百念には百の願行、千念には千の願行具足すべき也。 一 「雜者、是純非極樂之行。通於人天及以三乘、亦通於十方淨土。故云雜也。然者西方行者須捨雜行修正行也」と云は、定散の諸行は極樂の正因にあらず。或は人天有漏の果を感ずる業也、或は聲聞・縁覺の果を得因たり、或は菩提薩埵の位に登るべき善たり、或は十方淨土に生ずべき行なり。故に彼等の所求の爲には諸行を行ずべし、西方の往生を望ば西方の業因たる念佛を修すべしとなり。定善は十方淨土の通因なることは、『觀經』の序分に見えたり。通所求に「爲我廣說無憂惱處」と請じて、則通去行に「唯願佛日、敎我觀於淸淨業處」と請ずるが故なり。三福散善の中に、孝養父母等の世福は人中天上の福善なり。受持三歸等の戒福は小乘所修の行業なり。發菩提心・深信因果・讀誦大乘等の行福は三乘の修因幷に十方淨土の通因なり。故に純に西方の正因に非ず。Ⅳ-0896縱ひ廻して生ずる義有れども、眞因に非ざるが故に如是釋するなり。 一 正雜二行に例せんが爲に純雜の二門を立たるに、餘の經論の證を引て云所の「八藏」・「四含」等は、一々の名目、再治の本に見たり。 一 『往生禮讚』の文を引ことは、上の『疏』の文を引て正雜二行の差別を釋すと云へども、二行の得失を判ずること今の『禮讚』の文分明なるが故に、重て是を引具せらるゝなり。所謂專修の者をば「十卽十生、百卽百生」と釋し、雜修の者をば、初には「百時希得一二、千時希得五三」と判じ、後には「千中無一」と釋せらるゝ、是也。此中に專修には四德を出し、雜修には十三の失を擧たり。先專修の德を讚ずるに、「無外雜縁得正念故」と云は、外邪異見の人の、雜行を以て障㝵する縁無して念佛の正念を得と云なり。「與佛本願相應故」と云は、阿彌陀佛の本願に相應するが故なり。『大經』に諸行を選捨て、以念佛往生の本願とするが故なり。「不違敎故」と云は、釋尊の敎に違せずとなり。『觀經』に定散の諸行を付屬せず、念佛の一行を付屬するがゆへなり。「隨順佛語故」と云は、釋迦誠說及諸佛證誠の實語に隨順すとなり。『阿彌陀經』に「汝等皆當信受我語及諸佛所說」と說が故也。次に雜修の失を擧るに、「由雜縁亂動失正念故」と、Ⅳ-0897「與佛本願不相應故」と、「與敎相違故」と、「不順佛語故」と、此四は前の專修の德に翻對して知べし。次に「係念不相續故」と、「憶想間斷故」と、「廻願不慇重眞實故」と、「貪瞋諸見煩惱來間斷故」と、「无有慚愧悔過故」と、「不相續念報彼佛恩故」と、「心生輕慢、雖作業行常與名利相應故」と、「人我自覆不親近同行善知識故」と、「樂近雜縁、自障々他往生正行故」と、此九の失は、第一の「由雜縁亂動失正念故」と云へる中より是を開せり。大旨同事なれども、分々の義理に依て種々の失を出せるなり。其義文に有て見べし。 一 「何以故。余此日自見聞諸方道俗、解行不同、專雜有異」と云より以下は、正く專雜の二行を相對して往生の得否を決判する也。「余」と云は、和尙の自我と稱する言也。我諸人の修行の相を見聞するに、或は專修の行者もあり、あるひは雜修の行人もあり。そのなかに專修のものは百卽百生し、雜修の者は千中無一也と云也。 一 「上在一形似如小苦」と云以下は、重て念佛の功の小きなると、往生の益の大きなるとを相對して、稱名を勸修する也。念佛を勵修するは、凡夫の懈怠Ⅳ-0898不信の心に望れば小苦に似たれども、往生の願望を遂るは過分の巨益なりと知べしと云ふ意なり。 一 「乃至成佛不逕生死」と云は、生死に二種あり。一には分段生死、二には變易生死なり。分段生死と云は、六道四生、死此生彼の果報なり。變易生死と云は、菩薩の地位の增進也。今は分段生死を離るゝを云なり。 問云く、極樂を願ずるは佛果を成ぜんが爲なり。今の釋の如は、往生卽成佛の義にはあらざる歟。而所期の本意無に似たり、如何。答て云、聖道・淨土の二門を分別する時、聖道は成佛を期し、淨土は往生を願ず。是難行・易行の差別なり。別時門の釋に、「正報難期。一行雖精未剋。依報易求。所以一願之心未入」(玄義分)と云へる、この義也。然れども穢土の修行の如くに長遠の修行を用ず、彼土は無爲涅槃の界なるが故に、自然に無生の理に契當し、速疾に菩提の果を得るなり。『禮讚』には「十地願行自然彰」と云、『般舟讚』には「道場妙果豈爲賖」と云へる解釋等、則此義を顯也。 一 私の釋に付て不審あり。前後の諸章の如きは、所引の本文に於は多少を論ぜず、一處に是をのせて末後に私の釋をば設けたり。而に當章には『疏』の釋と『禮Ⅳ-0899讚』の釋と各別に引之、私の釋を中間に隔てたるは何の意ぞと云に、是を意得に、『疏』の文は正雜二行を分別し、正助二業を定判するが故に其文を受て、初には往生の行相を明し、後には二行の得失を判じおはりぬ。其中に今の『禮讚』の文は重て二行の得失を擧て、分明に往生の得不得を釋し顯すが故に、無智の道俗の爲に要が中の要なれば、別に是を引て專修を勸むるなり。意は愚鈍下根の輩、廣を求めずして略を欣はん時、意を此文に留めて念佛の一行を修せしめんが爲也。 [本云] 嘉慶三年W己巳R□月六日書寫了 應永廿二年五月廿九日、以或本書之。先老御草隨尋得令悅之、忝謹以寫之。 一交了 傳領光覺(花押) 記之 Ⅳ-0900選擇註解鈔第二 第三 本願章 一 上の章に正雜二行を分別して、而も雜行を選捨てゝ正行を選取が故に、今の章には其の正行の中に、正業の念佛を以て彌陀の本願とし、往生の正業とする義を顯すなり。凡此書に三經の要文を擧て一宗の義趣を明せり、其中に當章以下の四段は、『大經』の文を引けり。 一 「彌陀如來不以餘行爲往生本願、唯以念佛爲往生本願之文」と云は、『大經』の十八の願を指也。是に依て、彼願文を引也。『觀念法門』の攝生增上縁の文、幷に『禮讚』の後序の文、同彼願文を引き釋する文なるが故に、是を加へらる。十六の章段の中には、この章正宗なり。「選擇本願念佛集」と云へる題目、此章の意を顯はすが故なり。餘の所談は皆此章を助成するなり。 一 『大經』(卷上)の文に「十方衆生」と云は、善人惡人・有智無智・有罪無罪・男女老少、一切有情を攝する言也。「至心信樂欲生」(大經*卷上)と云は三信なり。『觀經』にⅣ-0901說ところの三心則是也。所謂至心は是至誠心、是眞實心なり。信樂は深心、これ深信の心也。欲生は廻向發願心、これ願往生の心なり。「乃至十念」と云は行體を顯はす。名號を稱する事、上一形を盡し下十念にいたるまで、みな往生の因なり。因願にはかくのごとく十念と說たるを、願成就の文には「乃至一念」(大經*卷下)と說り。是易行の中の易行を顯はすことば也。故に和尙此意を得て「下至十聲一聲等」(禮讚)と釋し、聖人又當章の私釋に「乃至」の言を料簡するに、上盡一形下至十聲一聲等の義也と釋せり。されば往生の爲には又別の因なし、至心・信樂・欲生の心を以て乃至一念せん者、皆悉往生すべし。 一 『觀念法門』の文の中に、「稱我名號」の句と「乘我願力」の句とは本經に見えざる言也。而に是を加へらるゝ事は、『經』(大經*卷下)に「乃至一念」と云へるは隱顯の義あれども、顯には稱名の念數也。則次上の十七の願に「不悉咨嗟稱我名者」(大經*卷上)と云へるは名號なるが故に、今「乃至十念」と云へるは名號の法體なる事を顯はして、稱我名號と引るゝ也。乘我願力と云は、至心・信樂・欲生と云へるは自力の信に非ず、他力眞實の信心なる事を顯す言也。罪惡生死の凡夫、一稱一念に報土の往生を遂る事は、佛願の強縁に託するが故なりと知べし。 Ⅳ-0902一 『往生禮讚』の文にも「稱我名號」の句あり、是も其の義『觀念法門』の釋に同じ。「彼佛今現在成佛」と云へる以下は、願成就の義を引釋せらるゝ也。乃至十念の行者、往生せずは正覺を取じと誓給しに、旣に正覺を成じ給ぬるは、衆生の往生決定するが故なりと顯すなり。 一 「總者四弘誓願是也」と云は、一切の諸佛皆通じて此四の願を發すが故に「總」と云也。一には衆生無邊誓願度、二には煩惱无邊誓願斷、三には法門无盡誓願知、四には无上菩提誓願證也。此四の中に、初の一は利他の願、後の三は自利の願也。此四弘願成就すれば、自利々他圓滿して无上菩提を得也。是總願の上に因位の願樂に依て、佛々各々に發しまします所の願を別願と云也。 一 「五十三佛」と云は、一々の名『大經』の上に說が如し。 一 「棄國捐王、行作沙門。號曰法藏」と云は、彌陀如來の因位は法藏比丘、法藏比丘の前は國王也。故に國をすて王をすて沙門と成となり。「沙門」と云は梵語也、此には勤息と云。勤善息惡の義なり。 一 『大阿彌陀經』は、『大經』の同本異譯の經なり。「選擇」と云言彼『經』より出たり、是を取て今の書の題目とせらるゝ也。「二十四願經」と云は、彼の『大阿彌Ⅳ-0903陀經』を指也。四十八願の内二願を一段に說て、二十四願と說たる也。 一 「或有以布施爲往生行之土。或有以持戒爲往生行之土。或有以忍辱爲往生行之土。或有以精進爲往生行之土。或有以禪定爲往生行之土。或有以般_若W信第一義等是也R爲往生行之土」と云は、如次六度の行なり。所_謂「布_施」と云は無貪を性とす。物を以て人に與る也。「持戒」と云は不放逸を性とす。身口意を守て惡を制する也。「忍辱」と云は無瞋を性とす。違背の境に於て安忍する也。「精進」と云は、善法を行じて懈怠なきを性とす。餘の五波羅蜜を行ずる事勇猛にして間斷なき、則是也。「禪定」と云は靜慮なり。心の散亂なきを性とす。「般若」と云は智惠也。無癡を以て性とす。智に多種あり、註に「信第一義」と云は、其一を擧也。第一義は空なり。されば畢竟空寂の理を達する空智を指也。 一 「或有以菩提心爲往生行之土」と云は、菩提心に於て諸宗の所談各別なるが故に、種々の不同あり。然ども大意は度衆生・願作佛の心なり。則前に云所の「四弘誓願」なり。菩提心の相は下の念佛付屬の章に是を明せり。 一 「或有以六念爲往生行之土」と云は、「六念」と云は、一には念佛、二Ⅳ-0904には念法、三には念僧、四には念戒、五には念捨、六には念天也。此中に、初の三は常の如く是念三寶也。念戒と云は、諸佛の戒を念ずるなり。念捨と云は、諸佛・菩薩の作難きを善作し、捨し難を善捨し給へる意を念ずる也。念天と云は、最後身の菩薩を念ずる也。最後身の菩薩と云は、補處の菩薩也。補處の菩薩は都率天に住するが故に念天と云也。 一 「如是往生行種々不同して、不可具述。卽今は選捨前布施・持戒、乃至孝養父母等諸行、選取專稱佛號。故云選擇也」と云は、正く選擇本願の義を顯也。されば彌陀の本願は專稱佛號也。專稱佛號の外は往生の正因に非ず。此義を成ずるを、此集の所詮とする也。 一 「彌陀一佛所有四智・三身・十力・四无畏等一切内證功德、相好・光明・說法・利生等一切外用功德、皆悉攝_在阿彌陀佛名號之中」と云は、「四智」と云は、一には大圓鏡智、大悲に依ては常に衆生を縁じ、大智に依ては恆に法性に順ずる智也。二には平等性智、一切の法の自他平等なるを觀ずる智也。三には妙觀察智、諸法の自相・共相を觀ずる智也。四には成所作智、有情を利して種々に三業を變化する智なり。「三身」と云は、一には法身、眞如法界の妙理、凝然不變の功德也。Ⅳ-0905二には報身、修因感果の妙智、境智冥合の眞身也。此に又二種あり。自受用身・他受用身なり。自受法樂の故に自證の極れるを自受用身と云、化他の爲に對機說法するを他受用身と號するなり。三には應身、隨縁感見の身、凡夫示同の體なり。此に又二種あり。八相成道するを應身と云、無而忽有なるを化身と云なり。「十力」と云は、一には處非處智力、二には業異熟智力、三には靜慮解脫智力、四には根上下智力、五には種種勝解智力、六には種々界智力、七には遍趣行智力、八には宿住隨念智力、九には死生智力、十には漏盡智力也。「四無畏」と云は、一には等正覺無畏、二には漏永盡無畏、三には說障法無畏、四には說出苦道無畏也。「等」と云は、大悲・三念住を等取する也。大悲と云は大慈悲也。三念住と云は、一には縁順境不生歡喜念住、二には縁違境不生憂戚念住、三には雙縁順違境不生歡戚念住。已上十力・四无畏・大悲・三念住を合て佛の十八不共法と云。此十八の法は、二乘・三乘は不具之、只佛のみ是を具し給が故に不共法と云也。諸佛皆此功德を具せり。而に阿彌陀如來の具し給處是等の功德、悉名號の中に攝在すと云也。 一 「極樂界中旣無三惡趣。當知、是則成就無三惡趣之願也」と云は、「三惡Ⅳ-0906趣」と云は、地獄・餓鬼・畜生也。此三惡の果報は、十惡の因に依て是を感ず。而に極樂には十惡の惡因、其の業無が故に、三惡の苦果をば名をだにも聞ざるなり。されば三惡道無らんと誓給し願成就して、今は地獄・餓鬼・畜生の諸難無也。 一 「三十二相」と云は佛の相也。『往生要集』に明すが如し。 一 「念佛之人皆以往生。以何得知。卽念佛往生願成就文、云諸_有衆生、聞其名號信心歡喜、乃至一念至心廻向。願生彼國、則得往生住不退轉是也」と云は、十八の願の成就せる相なり。念佛往生の益、此文至極せり。「諸有衆生」と云は、十方衆生なり。「聞其名號」と云は、南无阿彌陀佛を聞也。「信心」と云は至心也。「歡喜」と云は信樂也。「乃至一念」と云は、乃至十念の願なほ一念に至極する事を顯はす也。「至心廻向」と云、如來他力の廻向なり。「願生彼國」と云は、欲生の心なり。此三信を發すれば、如來利他の廻向に依て卽往生を得と云也。 一 「凡四十八願莊嚴淨土。花池・寶閣無非願力。何於其中獨可疑惑念佛往生願乎」と云は、四十八願皆徒發給はず。一々の願悉成就すれば、第十八の願孤成就せざるべきに非ず。隨て阿彌陀佛成佛已來旣に十劫なれば、如來の願旣に成ぜり。衆生の往生疑べからずと也。「四十八願莊嚴淨土」と云は、「金繩界Ⅳ-0907道非工匠」(禮讚)なるが故に巧匠の所作に非ず。四十八願莊嚴より起なるが故に願力を以て建立せる也。故に七寶蓮華の池の有樣、百寶莊嚴の樓閣の拵、倂ら願に答て成就せる也。 一 「如是五神通及_以光明・壽命等願中、一々置下至之言。是則從多至少、以下對上之義也。例上八種之願、今此願乃至者卽是下至なり」と云は、「五神通の願」は、第五の宿命通の願、第六の天眼通の願、第七の天耳通の願、第八の他心通の願、第九の神足通の願也。「光明壽命の願」と云は、第十二の光明无量の願、第十三の壽命无量の願也。「等」と云は、第十四の聲聞无量の願を等取する也。是を總じて八種の願と云也。此八種の願に皆下至の言あり、此下至の言は、十八の願の乃至の言と其の義同と云なり。 第四 三輩章 一 上の章には、念佛の一行、往生の正業なる義を成じをはりぬ。いまの章には、三輩の機根、ともにかの念佛を一向專念して往生することをあかすなり。 一 上輩の文に「捨家棄欲」と云は、「捨家」は出家遁世するなり、「棄欲」と云は、五欲を離るゝ也。五欲と云は、色・聲・香・味・觸に著する心なり。中輩の文にⅣ-0908「奉持齋戒」と云は、齋と戒とを持つなり、「齋」と云は不過中食なり、「戒」と云は八戒なり。八戒と云は、一には不殺生、二には不偸盜、三には不邪婬、四には不妄語、五には不飮酒、六には不得脂粉塗身、七には不得歌舞唱伎及往觀聽、八には不得上高廣大床也。「起立塔像」と云は、塔婆を起立し佛像を造立するなり。起塔の言の中には造寺も有べし。造像の言の中には畫像も有べし。「飯食沙門」と云は、飯食を以て僧に供養するなり。「懸繒燃燈」と云は、堂塔に幡蓋を懸、佛前に燈明を備ふる也。「散花燒香」と云は、一枝の花を佛壇に供し、一捻の香を道場に獻ずる也。下輩の文に「假使不能作諸功德」と云は、上の上中二輩に云所の諸善を作ること能はずと云也。「若聞深法」と云は、名號の功德を指なり。「歡喜信樂不生疑惑」と云は、三信具足、明信佛智の心なり。詮る所、樣々の行體は皆諸機の不同なり。往生の行は三輩共に念佛也。 一 『觀念法門』の文は上の三輩の文を引也。意は、三輩と分つことは根性の不同にして、上・中・下の差別あることを示すなり。佛の勸め給ことは專修一行にありと云事を顯すなり。 一 「此等三義殿最難知」と云は、「殿最」と云は勝劣の義也。 Ⅳ-0909一 「依若今善導以初爲正」と云は、廢立・助正・傍正の三義の中に、廢立の義を以て正義とすとなり。是則、諸行を廢して念佛を立する一向專修の義なり。 一 『往生要集』の文に「若如說行、當理上々」と云は、觀念の念佛を本として、深を上として次第に淺を中下とする意なり。 第五 利益章 一 上の章には、三輩共に念佛を以往生する事を明す。今の章には、其念佛の利益の无上殊勝なる事顯也。 一 所引の今の文は流通の文なり。「彼佛名號」と云は、南無あみだ佛なり。「歡喜踊躍」と云は、至心信樂の意也。「乃至一念」と云は、十念の利生のなほ易行に至極する所を顯すなり。是十八の願成就の文に云所の「一念」なり。則下の私の釋に、「是指上念佛願成就之中所云一念與下輩之中所明一念也」と云へる、其意なり。而彼の二の文共に功德の相をとかざるを、今流通の文に「大利」と嘆じ「無上の功德」と讚ずる也。則同じき願成就の文には「卽得往生」(大經*卷下)と云へるを、今は「大利无上の功德」と說り。されば往生を大利と云と見たり。往生と云へる其詞狹し、只得生の一益を顯すが故なり。大利と云へるは其詞廣し、往生も成佛もⅣ-0910此詞にこもるべきなり、乃至現世の利益までも此中に攝在すべきなり。此『經』(大經)の上卷に釋尊出世の元意を說に、「惠以眞實之利」と說は念佛の事なり。則今の大利と其義同かるべし。眞實の利なるがゆへに大利なり、大利なるが故に無上の功德なり、無上の功德なるがゆへに超絶法と云也。 一 所引の『禮讚』の釋は初夜の文なり。文言今の經文に同じ。但し「皆當得生彼」の文は經文に無し。「爲得大利則是具足無上功德」(大經*卷下)の文に當れり。されば往生は則大利也と意得べき也。隨前に云が如く、今の「一念」と云は願成就の「一念」(大經*卷下)を指すがゆへに、彼願文に「卽得往生」(大經*卷下)と說たれば、其願の意なる事を顯さんが爲に皆當得生彼と釋する也。 一 「若約念佛分別三輩、此有二意。一隨觀念淺深而分別之、二以念佛多少而分_別之」と云は、同く念佛を行ずれども、觀念の深をば上輩とし、次第に淺をば中輩・下輩とする義なり。二には同く念佛を稱すれども、多く唱るをば上品の業とし、次第に少きをば中品・下品の業とする義なり。此兩義は一往觀念の淺深に依、行業の多少に付て三輩九品を立なり。然れども「若不生者、不取正覺」(大經*卷上)と云へる願文には、九品の差別もなし。「善惡凡夫得生者」(玄義分)と云へⅣ-0911る釋の如きは、善人も惡人も共に得生の益を得る事は同かるべし。然れば、上に引ところの『觀念法門』の釋にも「根性不同有上・中・下」と云て、三輩はたゞ機の差別なり、淨土には三輩あるべからずと見たり。三輩と九品とは開合の異なれば、三輩なくは九品も有べからざる也。『註論』(卷下)にも「本則三々之品、今無一二之殊」と云へる、此意なり。娑婆にしては、機に善惡あり行に強弱あるが故に差別を立たれども、往生の後は、純一の報土にして無生の證悟を得るときは、其の殊異有べからずと意得べきなり。 一 「淺深者如上所引。若如說行、理當上々是也」と云は、上の三輩往生の章に引ところの『往生要集』の文を指也。 一 「次多少者、下輩文中旣有十念乃至一念數。上中兩輩准此隨增」と云は、「乃至」と說が故に、「一念」を下品として次第に遍數の增するを以て中品、上品とも立る意なり。 一 『觀念法門』の文は、「日別念佛一萬遍」と云より「皆是上品上生人」と云までなり。「當知、三萬已上是上品上生業」と云已下は、私の釋なり。如此觀念の淺深、念數の多少に付て品位の高下を立る事は、上根の往生に於て、志深くは同く念佛Ⅳ-0912すとも、彌陀の依正二報の莊嚴をも意に懸て常に欣求の心を發し、又行住坐臥に稱名を心に入て懈怠無らんは、佛法を行ずる本意なるべきに依て如是釋せらるゝ也。雖然、根性劣機にして觀念も心に懸けられず、稱名も懈怠の心有ども、念々相續し信心絶えずして一心歸命の志實有らば、往生の益は彼上根の人にも差別有べからざるなり。 第六 特留念佛章 一 上の章には、一念を以無上大利の功德とする事を明しつ。今は一念の利益、法滅百歲の時まで及ぶ事を明して、況や法滅以前、末法最初の衆生、必ず此法に依て往生の益を得べきことを明す也。 一 「末法萬年後餘行悉滅、特留念佛之文」と云は、正像二千年の後は末法なり。其の萬年の後は諸經皆滅して、戒定慧の三學名をだにも聞べからず。而に萬年の後百歲の間、尙念佛は留て衆生を利益すべき也。 一 「當來之世」と云は、末法萬年の後なり。「經道滅盡」と云は、諸敎修行の道悉滅盡すと云也。「我以慈悲哀愍」と云は、釋尊慈悲を垂給となり。「特留此經」と云は、唯此の『大經』ばかりを留るとなり。『大經』を留むと云は、念佛を留る也。Ⅳ-0913下の釋に「此經止住と云は、念佛止住なり」と云へる、其意也。「止住百歲」と云は、萬年の後百歲留べしと云也。「其有衆生」と云は、法滅百歲の時の機を指すなり。「値此經者」と云は、此『大經』に値者はと云也。是も念佛を聞かん者と云意也。『禮讚』に「爾時聞一念」と云へる、其の意也。「隨意所願皆可得度」と云は、往生を得べしと也。『禮讚』の文に「皆當得生彼」と云へる、その義顯也。 一 「此經所詮全有念佛。其旨見前」と云は、此經の所說、文言多と云へども念佛を以經の宗致とすと也。「其旨見前」と云は、上の本願の章・三輩章・利益の章等を指也。本願の章には念佛を本願とすと云ひ、三輩の章には三輩共に念佛を以て往生すと云、利益の章には一念を无上大利の功德と云へる、皆是此經の所詮全念佛に有義也。 一 「而說菩提心行相者廣在菩提心經等」と云は、『莊嚴菩提心經』幷に『心地觀經』・『思益經』等の菩提心を說ける經を指なり。 一 「又說持戒行相者廣在大小戒律」と云は、大乘戒を說るは『梵網經』なり。小乘戒を明せるは『十誦律』・『四分律』等也。 一 四重の相對の釋は、一々に總別を對判して、諸經滅盡の後、特留念佛の益有Ⅳ-0914べき事を成也。所謂聖道・淨土對比すれば、聖道成佛の敎は先滅して、淨土往生の敎は特に留る。往生におひて十方淨土の往生あり、西方淨土の往生あり。其中に十方淨土往生の敎は先滅して、西方往生の敎は特に留る。十方往生の敎の内に都率の往生もこもりたれども、古今の行者、都率・西方をば一雙として共に欣求するが故、別して西方に對比論する也。所謂都率の敎は先滅して、西方の敎は特に留る。往生の行に於て、又諸行往生、念佛往生の二義あり。其中に諸行は先滅して、念佛は特に留る。されば「此經の止住と云は只念佛の止住なり」と云也。 一 「例如彼『觀無量壽經』中、不付屬定散之行、唯孤付屬念佛之行」と云は、『觀經』の流通の文に「佛告阿難、汝好持是語。持是語者、卽是持无量壽佛名」と云文を指也。此文の意は、念佛付屬の章に見えたり。 一 「廣可通於正像末法。擧後勸今」と云は、「後」とは百歲の時也。「今」と云は正末法を指て、其中に正像の二時を攝する也。 一 「善導の釋に云、弘誓多門四十八、偏標念佛最爲親。人能念佛佛還念。專心想佛佛知人」と云へるは、『法事讚』の上卷の釋なり。「弘誓多門四十八」と云は、彌陀の本願を指也。「偏標念佛最爲親」と云は、四十八願の中に第十Ⅳ-0915八の念佛往生の願、これ本願なれば尤も親と云也。「人能念佛々還念專心想佛々知人」と云は、行者佛を念ずれば佛又行者を念じ給ふ。是則、彼此三業不相捨離の義なり。 第七 攝取章 一 當章より始て下の念佛付屬の章に至までの五段は、『觀經』の意なり。但中間の四修の章は『觀經』の文に非ず。然れども三心・四修は安心・起行なるが故に、一雙の法門なるに依て三心の次に置るゝ也。 一 所引の『觀經』の文は眞身觀の文なり。『疏』の釋も是同當所の釋也。經と釋とを引合て意得べし。『疏』の文に今の經文を釋するに、「從無量壽佛下至攝取不捨已來、正明觀身別相光益有縁」と云は、彌陀の光明、念佛の衆生を攝取し給事を明す。「有縁」と云は、彌陀有縁の衆生なり。是則念佛の行者也。日想・水想より始て寶地・寶樹・寶池・寶樓等の依報を觀じ、其後正報を觀ずるに取て形像を觀ずるを像觀といひ、次に淨土の眞實の佛相を觀ずるを眞身觀と名。是を觀佛三昧と云。されば定善の中には此觀正宗なり。而如此觀じ入て彌陀の相好・光明を觀ずれば、其光明の德は念佛の衆生を攝取して捨給はざる利益を知也。Ⅳ-0916是觀佛の所詮なり。一に「明相多少」と云は、「无量壽佛有八萬四千相」と云文を指也。二「好多少明」と云は、「一々好復有八萬四千隨形好」と云文を指也。三に「明光多少」と云は、「一々好復有八萬四千光明」と云文の意なり。四に「明光照遠近」と云は、「一々光明遍照十方世界」の文を牒するなり。五に「明光所及處、偏蒙攝益」と云は、「念佛衆生、攝取不捨」の文に當り。 問云、彌陀の相好・光明、皆八萬四千を以て數とする事、其故有りや。答云、故へ有。凡そ佛の相好・光明に限らず、依報の莊嚴までも皆八萬四千也。謂彌陀如來は相も八萬四千也、好も八萬四千也、光明も八萬四千也。地下の七寶の金幢は百寶の所成なり。一々の寶珠に千の光明有、其の一々の光は八萬四千色なり。願力所成の華座には八萬四千の葉あり。一々の葉に八萬四千の脈あり、一々の脈より放つところの光明も八萬四千なり。其の華座の上へに四柱の寶幢あり、其幢の上に寶幔あり、又五百億の寶珠あり。其寶珠に八萬四千の光あり、其光又八萬四千の異種の金色を成せり。觀音の相を說に、眉間の光明も八萬四千なり。十指の端にも八萬四千の畫あり、其の畫に又八萬四千の色あり、其色に又八萬四千の光あり。如此皆八萬四千なる事は、衆生の煩惱八萬四千なるに依て、所治の煩惱に對せんがⅣ-0917爲に、能治の敎門も八萬四千なり。今彌陀の相好・光明八萬四千なる事は、彼八萬四千の敎門の利益を彌陀一佛の功德に備へて、八萬四千の塵勞門を對治することを表するなり。 一 三縁の釋は共に念佛の德を擧る也。「親縁」と云は親近の義也。されば「近縁」も同事なれども、三業に佛を念じて、佛の三業と行者の三業と相離せざるを親縁とし、此念に依て見佛の益を得を近縁と云也。所云の見佛は、三昧發得せば此益有べし、三昧發得せずは見佛の益を得がたし。但し肉眼を以て見ずと云へども、願樂の心、實あらば佛の方よりは念に應じて來現し給べし。『經』(觀經)には「常來至此行人之所」と說、釋には「籠々常在行人前」(法事讚*卷上)とも云が如し。「增上縁」と云は增勝の義也。是れ正き往生の益なり。 一 「是故諸經中處々廣讚念佛功德」と云は、總じて云はゞ「諸敎所讚多在彌陀」(輔行*卷二)なるが故に、廣く一代の諸經に亘るべし。別して云はゞ淨土所依の經を指なり。今正く三經を引は此義なり。「此例非一也」と云は、諸經にも通ずる義也。 一 三經を引に於て、『無量壽經』の文に「唯明專念名號得生」と云は、十八の願の意なり。『彌陀經』の文に二重あり。初に「一日七日專念彌陀名號得生」とⅣ-0918云は、釋尊彌陀の名號を讚嘆し給へるを指なり。「我見是利故說此言」(小經)と云へる、是なり。次に「又十方恆沙諸佛證誠不虛也」と云は、諸佛同心に釋迦の所說を證し給へるを指也。「彼諸佛等亦稱讚我不可思議の功德」(小經)と云へる、是也。『觀經』の文に「定散文中」と云へるは、定善の文には眞身觀の所說の今の「攝取不捨」の說、專是「唯標專念」の說也。散善の文には下三品の念佛幷に又流通の文、是なり。是等の文を指て「唯標專念名號得生」と云り。 一 『觀念法門』の文は、是も上の經文の意なり。「前の如く身相等光」といふは、さきの眞身觀に說くところの相好・光明を指也。「彼佛心光常照是人」と云は、彌陀の大慈を以て衆生を攝取し給なり。「佛心者大慈悲是なり」(觀經)と云が故に、佛心の體は慈悲なり。其慈悲に依て衆生を攝せんが爲に放つ所の光明なれば、「心光」と云也。此心光を以て常に行者を照し給を「常照是人」と云也。「總不論照攝餘雜業行者」と云へる言は、『經』(觀經)に其の文隱たりと云へども、「念佛の衆生を攝取す」と云へば、其の餘は攝取に預からざる事、其義顯然なるが故に、分明に釋し顯して光照の益、念佛に限る事を釋成するなり。 一 『禮讚』の釋は日中の文なり。「唯有念佛蒙光攝」と云は、「唯」の言はⅣ-0919餘を遮するが故に、光攝の益、雜行に蒙しめざる事を顯なり。「當知、本願最爲強」と云は、念佛の行者、本願の強縁を以て攝益に預る事を顯なり。又『般舟讚』に「相好彌多八萬四、一々光明照十方、不爲餘縁光普照、唯覓念佛往生人」と云も、其意相同じ。「雜業」と云へると、「餘縁」と云へると、詞異にして意同じ。是念佛の外の諸行を指也。又『禮讚』に「彼佛光明無量照十方國無所障㝵。唯觀念佛衆生、攝取不捨」と云も同事也。其の故へ『觀經』には攝取不捨の利益を說き、『阿彌陀經』には阿彌陀の名義を說けり。而に攝取の益を說は、『觀經』にも阿彌陀の名義を顯す意あり。「念佛の衆生を攝取す」(觀經)と說たる光明は、十方國を照て障㝵する所なければ、無㝵光佛の義に叶へる故なり。『阿彌陀經』に「照十方國無所障㝵」と說たる光明は、念佛の衆生を照すは攝取の義を含めり。影略互顯の義なり。故に「『彌陀經』及『觀經』云」(禮讚)と云て今の釋を設たり。されば阿彌陀と云佛號は、念佛の衆生を攝取して捨たまはざる利益を顯す言なり。餘行の行者をば攝取せず。攝取せざれば其時は阿彌陀の義も成ずべからずと見えたり。 問云、今の二文をば何ぞ此書に是を引ざるや。答云、先『禮讚』の文は兩經の意を引故に、其の『觀經』の意と云は今の眞身觀の文なれば、別に引に及ばず。Ⅳ-0920『彌陀經』の意を引も、今の『觀經』の攝取不捨の利益に付て『彌陀經』の文を意得合る文なれば、二經を離れて別に是を引ざるなり。次に『般舟讚』の釋を引れざる事は、彼書、上人在生の時未流布せざりしに依て、高覽なかりけるゆへなり。 一 「所引の文の中に、言自餘衆善雖名是善、若比念佛者全非比校也者、意云、是約淨土門の諸行而所比論也」と云は、念佛の行を眞言・止觀等の事理の諸善に對比して勝劣を論ずるに非ず。只往生淨土の門に於て其修行を云に、諸行と念佛とを相對する時、念佛は超絶せりと云意なりと示すなり。是則、彼は難行なり、此は易行なり。彼は本願に非ず、此は本願なるが故也。 [本云] 康應元年W己巳R七月十一日、早朝書寫之了。 此本以賢意本寫之。故存覺上人御草にて仍悅尋出感得、此本間加書寫了。 應永廿二年六月七日寫功了 松下隱士 光覺(花押) 一校了 初條寫置本以外文言點等無元候間、以或本重而夾合候處、則其謬多之悉改寫了。 Ⅳ-0921選擇註解鈔第三 第八 三心章 一 上の章には、念佛の行者攝取の益にあづかる事を明し、又當章には、彼の行者は三心を具するゆへに、攝取にもあづかり往生をもうべしと顯すなり。「必」の字は、此の三心を具せずは往生すべからざる義を示也。 一 所引の經文は上品上生の文也。文は上品上生に有ども義は九品に通ず。其義『疏』の十一門の義を見るべし。「若有衆生」と云は、念佛有縁の義なり。されば釋には「總擧有縁之類」(散善義)と釋せり。「願生彼國者」と云は、願求往生の事を明すなり。「發三種心」と云は、信心に於て三種の差別ある事を顯すなり。「一には至誠心、二には深心、三者廻向發願心」と云は、正しく三心の名を擧ぐるなり。「具三心者必生彼國」と云は、三心に依て往生を得る事を說けり。此三心は『大經』の十八の願に說所の三信なり。卽至誠心は至心、深心は信樂、廻向發願心は欲生なり。「言南無者卽是歸命、亦是發願廻向之義。言阿彌陀佛者卽是其Ⅳ-0922行。以斯義故必得往生」(玄義分)と云が如きは、歸命は至誠心・深心の義なり、發願廻向は卽廻向發願心なり。されば南無阿彌陀佛の名號を唱る中に願行具足せり。願行具足の體は卽三心なり。此三心はたゞ南无の一心なり。然者能信の心に於て初中後の心を分つ時、三種の心を立と云へども、終には一心なり。所謂眞實に歸命して虛假の心無は至誠心なり。機をば常沒の凡夫と知り、法は此凡夫を攝する眞實の法也と信ずるは深心なり。此信心、往生の爲なるは廻向發願心なり。三心異なるに似たれども、只一種の信心なり。 一 「經云一者至誠心」と云は、念佛の行者には三心尤肝要なるが故に、慥に「經に云」と引載せらるゝなり。 一 「欲明一切衆生の身口意業の所修の解行、必須眞實心中作」と云は、凡夫には眞實の心なし、彌陀の因中に眞實心中に作給し他力の行を信ぜよとなり。其他力に望れば、信心も又眞實に成るなり。 一 「貪瞋・邪僞・奸詐百端惡性難侵。事同蛇蝎。雖起三業名爲雜毒之善。亦名虛假行。不名眞實業也」と云は、貪瞋具足の衆生は惡性やめがたければ、凡夫には眞實の心有べからず。されば三業に於て善を修すといへども、此Ⅳ-0923の貪嗔・邪僞の心に修すれば、三毒をまじふるが故雜毒の善と云はれて、行者の自心には眞實の心無と云なり。「若作如此安心・起行者、縱使苦勵身心、日夜十二時急走急作、如灸頭燃者、衆名雜毒之善。欲廻此雜毒之行、求生彼佛淨土者、此必不可也」と云は、所云の三毒雜起の自力の善をもて、往生を得ることは叶ふべからざる事を釋するなり。「何以故。正由彼阿彌陀佛因中行菩薩行時、乃至一念一刹那も、三業所修、皆是眞實心中作」と云は、三毒をまじへざる彌陀の因行を引て、凡夫はそのまゝに成じがたき事を顯す也。されば上に云つるが如く、彌陀の眞實心中作給しを用て、眞實に是に歸すれば、他力の德として其心と成るなり。是至誠心也。 問云、彌陀因行に三毒をまじへ給はざりし事、其說ありや。答て云く、『大經』(卷下)の上に見えたり、「不生欲覺・瞋覺、不起欲想・瞋想・害想、不著色・聲・香・味・觸・法、忍力成就不計衆苦、少欲知足無染・恚・癡。三昧常寂智惠無㝵。無有虛僞・諂曲心。和顏愛語先意承問。勇猛精進志願無倦。專求淸白之法、以惠利群生。恭敬三寶、奉事師長。以大莊嚴具足衆行、令諸衆生功德成就」等云へる文是也。 Ⅳ-0924一 「凡所施爲・趣求、亦皆眞實也」と云は、是も如來の因行、利他の德あることを顯なり。衆生に施し給ふ所の法、倂菩提に趣求せしめんが爲なりと云なり。 一 「又眞實有二種。一者自利眞實、二者利他眞實」と標して、而も自利眞實ばかりを釋して利他眞實をば釋せず。是は利他眞實の釋は、次上の「凡所施爲・趣求、亦皆眞實也」と云へる釋に當るが故に別して釋せず。是則利他の德は佛の功德なるべし。凡夫自力には此德有べからざる事を示す也。 一 自利眞實を釋する中に總別の釋あり。總に於て二重の釋あり、別に於て六重の釋あり。總の二重の釋と云は、一には廢惡を釋し、二には修善を釋す。別の六重の釋と云は、三業に於て各修善廢惡の義を釋する也。「一には眞實心中、制捨自他諸惡及穢國等、行住坐臥想同一切菩薩制捨諸惡、我亦如是也」と云は、總釋の初重の釋也、廢惡の義釋す。「二眞實心中、勤修自他凡聖等善」と云は、第二重の釋なり、修善の義を釋す。「眞實心中の口業讚嘆彼阿彌陀佛及依正二報」と云は、別釋の初重の釋なり、修善の義を釋す、又欣求の義なり。「又眞實心中の口業毀厭三界・六道等自他依正二報苦惡之事」と云は、同き第二重の釋なり、廢惡の義を釋す、又厭離の義也。「亦讚嘆一切衆生の三業所爲善。Ⅳ-0925非善業者敬而遠之、亦不隨喜」と云は、今の廢惡修善の義を重ねて述る也。所謂上には自身に於て是を釋し、今は他人に於て是を釋するなり。「又眞實心中身業合掌禮敬、四事等供養彼阿彌陀佛及依正二報」と云は、第三重の釋なり、修善の義を釋す、又欣求の義也。「又眞實心中身業輕慢厭捨此生死三界等自他依正二報」と云は、第四重の釋なり、廢惡の義を釋す、又厭離の義なり。「又眞實心中意業思想觀察憶念彼阿彌陀佛及依正二報、如現目前」と云は、第五重の釋なり、修善の義を釋す、又欣求の義也。「又眞實心中意業輕賤厭捨此生死三界等自他の依正二報」と云は、第六重の釋なり、廢惡の義を釋す、又厭離の義也。「不善三業必須眞實心中捨。若起善三業者、必須眞實心中作、不簡内外明闇、皆須眞實。故名至誠心」と云は、總じて三業に渡りて廢惡修善の義を釋し、至誠心の相を結するなり。 一 「二者深心。言深心者則是深信之心也」と云は、決定の信心の相を顯也。故に此心を釋する重々の釋に、皆「決定」の言を置也。是に依て下の釋にも「又深心深信者、決定建立自心、順敎修行、永除疑錯、不爲一切別解・別行・異學・異見・異執之、所退失傾動」と云へり。「亦有二種」と云は、機法二種の信心Ⅳ-0926也。則「一者決定深信自身現是罪惡生死凡夫、曠劫已來常沒常流轉、無有出離之縁」と云は、自身の機分を信ずる心なり。「常沒」と云は、常に三塗に沈沒する也。「常流轉」と云は、常に六道に輪廻する也。地獄・鬼・畜に趣と、人天に生ずると、少しの勝劣にして有れども、但流轉の報なるが故に、出離の縁なき身と深信する也。「二者決定深信彼阿彌陀佛、四十八願攝受衆生、無疑无慮乘彼願力定得往生」と云は、如來の願力を信ずる心なり。如此出離の縁なき衆生を濟度し給は此佛の悲願のみなりと、一分の疑慮も無く信ずるなり。 一 「又決定深信釋迦佛說此觀經三福・九品・定散二善、證讚彼佛依正二報、使人欣慕」と云は、上は『大經』に依て彌陀の悲願を信じ、今は『觀經』に付て釋迦の所說を信ずる心なり。 一 「又決定深信彌陀經中、十方恆沙諸佛證勸一切凡夫、決定得生」と云は、『彌陀經』に依て諸佛の證誠の虛からざる事を信ずるなり。 問て云、今云所の深心と云は、彌陀の一法に於て深信する心なり。而に、釋迦及諸佛に亘て深信すと云は、彌陀に歸命する專心の信心にあらず、如何。答云、彌陀を信ずるは正く所信の法體なり。無有出離之縁の機、此の願力にあらずは往生すⅣ-0927べからずと信ずる心也。今釋尊は能說の敎主として使人欣慕の益を施こし給事を信じ、諸佛は舌相をのべて證誠し給ふことを信ずるは、皆彌陀を信ずる心に歸す。是則釋尊の所說に、彌陀を讚嘆し給ことを慇懃なるを聞ても、愈彌陀を信ずる心深く、諸佛の同心に往生の實なる事を證誠するを思にも、益彌陀に歸する心深が故に、釋迦・諸佛を信ずるは彌陀に歸する一心を本とする也。 一 「又深信者、仰願一切行者等、一心唯信佛語不顧身命決定依行、佛遣捨者卽捨、佛遣行者卽行、佛遣去處卽去。是名隨順佛敎隨順佛意、是名隨順佛願。是名眞佛弟子」と云は、上に彌陀の本願、釋迦の所說、諸佛の證誠に於て深信すべき事を釋して、今重て其深信の相を廣するなり。「唯信佛語」と云は、釋迦の說を信ぜよと云なり。此佛語に付て總別あり。總と云は、五種の說の中に佛語を信ぜよと也。五種の說と云は、一には佛說、二には聖弟子說、三には天仙の說、四には鬼神說、五には變化說也。別と云は名號なり。何を以てか知とならば、『觀經』の流通に、「持是語者、卽是持無量壽佛名」と說が故なり。「佛遣捨者卽捨」と云は佛は釋尊也。遣捨者定散也、捨てゝ付屬せざるが故なり。「佛遣行者卽行」と云は念佛也、釋尊凡地の本行なるが故Ⅳ-0928也。『彌陀經』に「行此難事、得阿耨多羅三藐三菩提」と云へる其文也。「佛遣去處卽去」と云は、是撥遣の意なり。撥遣と云は、娑婆を捨て西方に指向せしめ給義なり。「隨順佛敎」と云は、釋迦の敎に隨へとなり。「隨順佛意」と云は、佛敎に順ずれば佛意にも順ずとなり。是も正くは釋迦の佛意に順ずるなり、兼ては彌陀の佛意にも通ずべし。「隨順佛願」と云は、彌陀の本願に隨がへとなり。「名眞佛弟子」と云は、釋尊の眞の弟子なり。「若是釋迦の眞弟子、誓行佛語生安樂」(般舟讚)と云へる此意なり。 一 「又一切行者但能依此經深信行者、必不悞衆生也」と云は、上に「唯信佛語」と云つるは四種の說を嫌、佛說を取と云義にては、此『經』は佛の自說なれば深信せよと云なり。又上の佛語は別して論ずれば、持無量壽佛名の一法なりと意得つれば、其義にては「但能依此經」と云は、念佛を深信せよと云なり。念佛を深信するものは、衆生をあやまたずと云也。 一 「何以故。佛是滿足大悲人故」と云より「不可信用菩薩等不相應敎、以抱惑自迷、廢失往生之大益」と云に至るまでは、正く佛說の了敎に依て、菩薩等の不了敎に依るべからざるゆへを判ず。其中に「佛是滿足大悲人故」と云は、大Ⅳ-0929悲は佛の不共の德なるが故に、眞實の大悲をば佛のみ具し給へるなり。不共の德と云は、菩薩も慈悲を具すれども、佛の大悲には不及。「實語故」と云は、是も菩薩・二乘等も、聖者の語はいづれも虛妄ならずと云へども、猶佛語を以て眞實とするが故に如此云也。「序分義」の釋に「言佛語者、此明如來曠劫已除口過、隨有言說一切聞者自然生信」と云へる此意なり。「除佛已還智行未滿」と云は、菩薩・二乘にも、分々に自乘の位に於て智行の滿・未滿は有べけれども、究竟の滿と云時は、佛のみ滿し給へりと云也。「在其學地」と云は、是も三乘の道位、皆有學・无學の位あれども、圓滿至極の無學の位は佛なり、菩薩・聲聞等は皆有學の位なりと云也。「學地」と云は有學の位也。「由有正習二障未除」と云は、煩惱なり。「正」と云は正使也、「習」と云は習氣なり。是も三乘を對比するに、聲聞を縁覺に比すれば、聲聞は正使を斷じ、縁覺は習氣を斷ず。二乘を菩薩に對すれば、聲聞・縁覺はともに正使を斷じ、菩薩は習氣を斷ず。されば各分々に正習を斷ずれども、佛に對する時は、三乘みな正習二障を盡さずと云なり。「果願未圓」と云は、三乘の聖者は未だ極果に至らず、果願未圓ならざるなり。四弘誓願未滿せざれば、願未圓かならざるなり。已下の文言、その意見やすし。 Ⅳ-0930一 「又深心深信者、決定建立自心、順敎修行、永除疑錯不爲一切別解・別行・異學・異見・異執之、所退失傾動也」と云は、上に佛語を信じて菩薩等の說を用るべからざる義を釋して、今重て深信の義を釋成す。所謂「建立自心」と云は、佛語に隨て疑心なきを云也。則「順敎修行永除疑錯」と云へる是也。如此自心を建立しぬれば、別解・別行等の爲に退動せられずとなり。是則深信の義なり。 一 「問曰」と云より下「此名就人立信也」と云に至るまでに、四重の問答の意あり。其中、今は初重なり。則解行不同の人ありて難を加へしとき、答べき樣を判ぜり。是は凡夫の難を對治するなり。凡夫の中に智人ありて、多く經論を引て難破せば、如何が彼難防と也。答の意は四種の別異を以答へよと也。今釋に「佛說彼經時、處別、時別、對機別、利益別なり」と云是也。「處別」と云、聖道の諸經は多く耆闍崛山・祇園精舍等の寺にして是を說給。今の『觀經』は王宮にして是を說き給ふ。在家・出家各別なるが故に、處別と云也。「時別」と云は、諸敎は善時說給、此『經』は逆時に說給。逆時と云は、五逆の起る時なり。善惡の時各別なるが故に、時別と云なり。「對機別」と云は、諸敎は三乘に對して說き給ふ。『觀Ⅳ-0931經』は韋提及未來世の凡夫の爲に說給ふ。凡聖各別なるが故に、對機別と云也。「利益別」と云は、諸經は直至成佛の門を說給、此『經』は往生淨土の道を說給。依正の所求各別なるが故、利益別と云也。是を四種の別意と名く。如此條々各別の道理ある上は、彼を以て此を難ずべからず。各有縁の敎に依て修行せば、互に利益あるべしと也。「又行者更向言。仁汝善聽。我今爲汝爲更說決定信相。縱使地前菩薩・羅漢・辟支等」と云已下は、第二重の問答なり。三乘の聖者を難者として、其難をも用ざれとなり。「羅漢」は聲聞なり、「辟支」は縁覺なり、「菩薩」は地前の菩薩なり。是三乘なり。「又行者善聽。縱使初地已上十地已來」と云已下は、第三重の問答なり。是は地上の菩薩を難者として、其にも妨べからずと云なり。「又置此事。行者當知。縱使化佛・報佛」と云已下は、第四重の問答なり。是は報化の諸佛を難者として、其にも傾動すべからざる義を成ずるなり。此四重の中に、初の三重はみな因位なれば、佛說に違せば信ずべからざる事、其の謂あり。第四重は佛を以て難者とするが故に、兩方彼此れ用捨あるべからずと云へども、諸佛願行同ければ、實の佛ならば我所信の佛說に違すべからざる道理に依て、是を信ずべからずと云也。されば四重の問答の中に、初の三重には難破を受ざるⅣ-0932に付て、次第に深く信心を增長する義を釋し、第四重には諸佛の所說に相違すべからざる義に於て、妨難の佛をば不實と云ひ、所說の佛說に於て疑を生ぜざるが故に「畢竟不起一念疑退之心」と云也。「何以故。一佛一切佛」と云は、諸佛則一佛なる事は『華嚴經』(晉譯卷五明難品意*唐譯卷一三問明品意)に見たり。「一切諸佛身、卽是一佛身、一心・一智惠・力・無畏亦然なり」と云へる是也。「如前佛制斷、殺生・十惡等罪、畢竟不犯不行者、卽名十善・十行。隨順六度之義。若有後佛出世、豈可改前十善令行十惡也」と云は、遮惡・持善は七佛の通戒なるが故に、前佛・後佛の所制に違すべからずと云なり。是則念佛往生の得否にも諸佛の言は同かるべし、例知せんが爲也。『阿彌陀經』を引に取て文を分て二段とせり。初には釋迦の所說に彌陀を念じて往生すとの給るを引て、後は諸佛此事を證誠し給事を引は、彼此の諸佛の說、違失せざる事を顯て、此外に何なる佛ありて釋迦の說は虛妄なりと說給べきぞと云はんが爲也。「此名就人立信也」と云は、上より以來、彌陀の本願に歸し、釋迦の所說を信じ、諸佛の證誠を仰ぎつるは、皆佛說を信ずる也。是を妨げつる凡聖の說をば、更信ぜずして自心建立し、彌信心を增長するは、就人立信也と信ずる也。「人」と云は、說人を信ずる意なり。 Ⅳ-0933一 「次就行立信者、然行有二種。一には正行、二には雜行なり」と云は、深信に付て就人立信、就行立信の二のこゝろあり。就人立信は上に云がごとし。就行立信と云は、往生の行に付て正行・雜行を分別して、其の中に雜行を捨てゝ正行に歸し、助業を傍にして正業を專にする、就行立信と云也。 一 註に「如前二行之中所引」と云は、第二の正雜二行の章に引しを指也。 一 「三者廻向發願心」と云より「亦名廻向也」と云に至までは、廻向發願心の釋なり。此なかに三重の釋あり。「言廻向發願心者、過去及以今生の身口意業所修世・出世善根、及隨喜他一切凡聖身口意業所修世・出世善根、以此自他所修善根、悉皆眞實深信心中廻向、願生彼國。故名廻向發願心也」といふは、初重の釋なり。是は廻因向果の廻向なり。所謂ゆる自他・凡聖の一切の善根を以て淨土に廻向して、かの土に生ぜんと願ずるなり。「又廻向發願生者、必須決定眞實心中廻向願、作得生想」といふより「常作此願常作此想。故名廻向發願心」と云に至まで七十餘行は、第二重の釋なり。これは廻思向道の廻向なり。これは諸行を廻して願力の道に向なり。「又言廻向者、生彼國已、還起大悲、廻入生死敎化衆生亦名廻向也」と云は、廻入向利の廻向なり。 Ⅳ-0934一 「此心深信由若金剛」といふは、念佛の信心をさして金剛にたとふるなり。金剛に二の德あり。一には體堅固なり。二には用利なり。體堅固なるがゆへに、一切のために破せられず。用利なるがゆへに、一切をくだくなり。されば一切の異見・異學のために破壞せられざるは、信心の體の堅固なるがゆへなり。この信心によりて橫超斷四流の益をうるは、用の利なるがゆへなり。故に金剛をたとへとするなり。 一 「問曰、若有解行不同邪雜人等來相惑亂、或說種々疑難。噵不得往生」等云は、衆生の惡は曠劫已來久く積集極て重し。念佛の修行はわづかに一生なり。能治・所治相應せず。いかでか滅罪してたやすく往生を得やと問なり。「十惡」と云は、一には殺生、二には偸盜、三には邪婬、此三は身業の惡なり。四には妄語、五には綺語、六には惡口、七には兩舌、此四は口業の惡なり。八には貪欲、九には瞋恚、十には愚癡、此三は意業の惡なり。「五逆」と云は、一には殺父、二には殺母、三には殺羅漢、四には破和合僧、五には出佛身血なり。「四重」と云は、十惡の中初の四を取なり。所謂殺生・偸盜・邪婬・妄語なり。十の中に此の四ことに重きがゆへに、四重と云なり。「謗法」と云は、佛法を誹謗するなり。Ⅳ-0935「闡提」と云は、斷善の類なり。「破戒」と云は、受持して後に破するなり。「破見」と云は、正見を破するなり、是邪見なり。此等の罪は、三界惡道に墮する業なり。一生修福の念佛、彼等の重罪を滅すべからずと難ずるなり。是を答るに水火等の喩を出し、待對の法なほし如此と對比して、「何況佛法不思議力豈無種々益也」と云は、滅罪の有无には心を懸べからず、たゞ佛法の不思議力にて往生すと信ずべき義を顯なり。是則不斷煩惱得涅槃分なるが故に、罪惡生死の凡夫ながら報土無生の益をうる上は、滅罪して往生せんと思は猶是自力なり。有罪・無罪・輕重罪を論ぜず、卽得往生の益を得る事は、偏に他力の引所なり。行者の計にあらざる事を示也。 一 「隨出一門者、則出一煩惱門也。隨入一門者、則入一解脫智惠門也」と云は、八萬四千の法門は、八萬四千の塵勞門を治せんが爲なれば、一煩惱の門を出るは、一解脫智惠門に入なりと云意なり。何れも機に隨がて、其益有べき事を顯なり。 一 「若欲學解、從凡至聖、乃至佛果、一切無礙皆得學也。若欲學行者必藉有縁之法」と云は、智解を得と思はゞ、廣く一切の佛法を學せよ。行業Ⅳ-0936を修せんと思わば、所樂に隨て有縁の行を修せよと云なり。「少用功勞多得益」と云は、念佛の益を擧る也。是則『禮讚』に「上在一形似如少苦、前念命終後念則生彼國。長時永劫受無爲法樂。乃至成佛不逕生死。豈非快也」と云意也。 一 「又白一切往生人等。今更爲行者說一譬喩」と云よりは、二河の譬喩なり。又は守護心の釋と云、「守護信心、以防外邪異見之難」と云が故なり。譬の意見るべし。 一 合喩の中に、「六根」と云は、眼・耳・鼻・舌・身・意なり。「六識」と云は、則此の六根に具する所の識なり。所謂、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識なり。六根を以て六塵に對する時、六根に隨て境を分別する識なり。「六塵」と云は、色・聲・香・味・觸・法なり。上の六根・六識が縁ずる所の境なり。故に又は六境と云也。「五陰」と云は、色・受・想・行・識なり。色と云は、上の六根・六境等なり。受と云は、苦・樂・捨の三受なり。想と云は、男女・長短等の相を分別する想なり。行と云は、四陰を除て外の一切の有爲の諸法なり。識と云は、心王なり。此五陰をば又は五薀と云、聚集の義也。「四大」と云は、地・水・Ⅳ-0937火・風なり。此等の諸法は皆我等が形體を造立し、愛憎の妄念をおこして生死に流轉せしむれば、群賊・惡獸に喩なり。 一 「言中間白道四五寸者、則喩衆生貪瞋煩惱中能生淸淨願往生心也」と云は、白道を以て信心に喩也。此信心は、行者の自力の信に非ず、如來の他力より得る所の信心なり。故に淸淨の信心と云ひ、又下にも佛の願力に喩也。 一 「言或行一分二分群賊等喚廻者、則喩別解・別行・惡見人等、妄說見解迭相惑亂、及自造罪退失也」と云は、上には群賊・惡獸をば六根・六識・六塵・五陰・四大に譬へつるを、今は別解・別行人に喩るは何事ぞと云に、上は未だ淨土の敎にあはざる時分、其の時は身に隨がふ所の六根・六境等の惡因・惡境等を以て群賊のあひしたがふに、今は淨土の敎門を得たる後なり。此時その行を障㝵せんがために、喚返すは別解・別行の人、幷に又自心にも造罪に依て己と怯弱する心なり。自の造罪に依て退する心は、則彼六境等の所爲なり。されば自身なれども他人なりとも、佛法の修行を防㝵する義を以喩とすれば、相違にあらざるなり。 一 問。上の譬喩の中間には、東の岸の勸むる聲と西の岸の喚聲とを聞て、後にⅣ-0938東の岸の群賊等喚廻と云。今の合喩の中には、東の岸の勸むるこえをきゝて、未だ西の岸のよばふ聲をきかざる中間に、群賊等よばひ返すと云へり。法譬相違せること如何。答。法譬前後して深義ある事を顯す也。所謂上は但譬の意を出すゆへに、東に勸め西に喚を聞て、その心決定して進むべし。進を見てよばひかへすべきがゆへに、其次第しかなり。合譬の中には、東の岸の聲は釋迦の敎、西の岸の聲は彌陀の敎なり。故に別解の人も釋迦の敎の分にて一旦も障㝵すべし。彌陀の敎の前には惡見人等の障㝵及ぶべからざる義を顯て、岸の聲よりさきに群賊よばひ返すと云なり。 一 「又一切行者、行住坐臥三業所修、無問晝夜時節、常作此觀解常作此想。故名廻向發願心」と云、廻思向道の廻向を結する也。意は、今の二河の譬喩を心にかけて、六根・六境に觸て佛法に進ざらん意をも、我と慚愧して怯退の心なく、別解・別行の人、たとひ妨㝵を致とも、彼人の語に破せられずして、偏に願力の道に乘じて往生の大益を得べしと云也。 一 「又言廻向者、生彼國已、還起大悲、廻入生死敎化衆生亦名廻向也」と云は、廻入向利の廻向を明す也。上下品の菩提心の釋には「唯發一念Ⅳ-0939厭苦、樂生諸佛境界、速滿菩薩大悲願行、還入生死、普度衆生」(散善義)と云ひ、『法事讚』(卷下)の釋には「誓到彌陀安養界、還來穢國度人天」と判ずる、皆是の意なり。是則淨土の大菩提心なり。聖道門の修行は、衆生を悉く度して後に我成佛せんと願ず。而娑婆世界には退縁・退境多が故、其行たやすく成ぜず。難行なるが故也。是に依て淨土宗は、穢土にして自利利他の行成じがたければ、先淨土に生じ成佛して後に穢土に還來して衆生を度せんと願ずる心なり。曇鸞の『註論』には二種の廻向を立てゝ往相・還相と云へり。所謂念佛して淨土に生ずるは、往相の廻向なり。穢國にかへりて衆生を度するは、還相の廻向なり。今の釋もその意あり。廻因向果・廻思向道は往相なり、廻入向利は還相也。 一 「三心旣具、無行不成。願行旣成若不生者、無有是處」と云は、今の三心は念佛を信ずる心なることを顯す。是則願行具足の義を明して、必生彼國の益を示す也。 一 「又此三心亦通攝定善之義」と云は、何れの法を行ずるとも、其法に於て眞實の心等を起す義は同かるべければ、總じて云はゞ、此の至誠等の心は念佛に限らず、定善にも通ずべしと云なり。然れども、別して云はゞ、念佛の信心なりⅣ-0940と云意なり。 一 『往生禮讚』の文は、上の『疏』の文と其の意是れおなじ也。「安心」と云は三心なり、その相くはしくは『疏』の釋ならびに今の文に見えたり。「起行」と云は五念門なり、その名義同く今の文に載が如し。「作業」と云は四修なり、次下の章に明すがごとし。 一 「信知自身是具足煩惱凡夫、善根薄少流轉三界不出火宅」と云は、深心の機法二種の信心のなかに、機を信ずる相なり。而に『疏』の文には唯「罪惡生死凡夫」と云へり。今の文には「善根薄少」の言を加たり。是れ何なる義ぞと云に、相違にはあらず。只『疏』に云所の義、猶くはしく釋成する也。煩惱を具足せる罪惡の凡夫なれば、縱、善根を修すとも、其の自力薄少の善根は、煩惱賊の爲に奪はれて進道の資糧と成らず。故に三界に流轉すと云也。 一 私の釋の中、「生死之家以疑爲所止」と云は、「生死の家」と云は六道なり。此の六道に流轉することは疑煩惱に依てなり。凡そ聖道の敎門に、欲界の煩惱を立る時、多の疑煩惱を出せり。是根本の煩惱として生死の業因なるがゆへなり。殊に念佛の行者は、疑煩惱を除べき。疑のなき裏は信なり、信のなきは疑なるがゆⅣ-0941へなり。されば『大經』に佛智疑惑の失を擧ては胎生を得と云ひ、『觀經』には地觀の益を說としては「必生淨國、心得無疑」と云へり。「涅槃之城以信爲能入」と云は、「涅槃の城」とは極樂なり。「極樂無爲涅槃界」(法事讚*卷下)と云へる是也。此極樂國に生ずる事は、只一の信心に依と也。『大經』(卷下意)には明信佛智の益を擧ては「化生得」と云、選擇本願の信心を說としては「至心信樂欲生」(大經*卷上)と云、『觀經』には「具三心者必生彼國」と說、『小經』(意)には「一心不亂、執持名號」と述たり。和尙の所判(散善義)には、或「無疑無慮」と云、或は「唯信佛語」と云へる。是皆信心を以て往生の正因とする義なり。淨土の敎文に限ず、諸經論の中にも此義あり。『涅槃經』(北本卷三五迦葉品*南本卷三二迦葉品)には「阿耨菩提信心爲因」と說、『大論』(大智度論*卷一序品)には「佛法大海信爲能入」と云へる等、是なり。 一 「明知、善導之意亦不出此二門也」と云は、初めに道綽の心により『安樂集』を引て、聖道・淨土の二門を分別し、眞宗一家の敎相とすることを明しおはりぬ。又而に淨土宗の依標とする所は、殊に和尙の釋なるが故に、今師の釋に彼の二門の意みえずは敎相猶弱きが故に、此釋の中に二門の意有事を明すなり。上來の解釋を二門と意得事は、上に四種別意によりて釋せしを以て知べきなり。 Ⅳ-0942一 「此三心者總而言之、通諸行法。別而言之、在往生行」と云は、總といふは、眞實心等の相は何れの法を行ずとも此心は有べし。諸の聖敎に此意無に非ず。然れども、別して是を云へば、念佛の信心なり。今の『經』に明す所是なりと云意也。「擧通攝別。意卽周」と云は、「通」と云は諸の行法也、「別」と云は往生の行なり。 一 「行者能用心、敢勿令忽諸」と云は、念佛の行者に於て三心を以て至要とす。必ずこれを具足すべき義を示すなり。 Ⅳ-0943選擇註解鈔第四 第九 四修章 一 上の章は安心、この章は作業なり。安心のうへの作業なるが故に、上下次第を成ずるなり。 問て云く、安心・起行・作業と云ふ、つねの次第なり。なんぞ起行をあかさゞるや。答て云く、起行といふは五念門なり。五念門と云は禮拜・讚嘆・觀察・作願・廻向なり。しかるに深心の就行立信のなかに五種の行をあげたり。その五種の行とかの五念門といさゝかことなれども、その義大略同。又四修のなかにもその心あり。則第二の无餘修に「所_謂專稱彼佛名專念專想、專禮讚彼佛及一切聖衆等、不雜餘業」と云ひ、又第三の無間修に「所_謂相續恭敬禮拜、稱名讚嘆、憶念觀察、廻向發願、心心相續不以餘業來_間」といふ、これなり。故に前後の文にゆづりて、別して起行の章を立ざるなり。 一 『禮讚』の文につらぬる所の四修は、一には恭敬修、二には无餘修、三には无間修、四には長時修也。長時修と云は、三修のをはりに「誓不中止、卽是長時Ⅳ-0944修」といへる、これなり。三修のをはり、第三の无間修に二重の釋あり。はじめの釋は「不以餘業來間」といへり、これ間斷なき義なり。「餘業」と云は雜行なり、されば雜行をまじへずして專修なるべしといふなり。後の釋「不以貪嗔煩惱來間」といへり、これ間雜なき義なり。これは懺悔念佛の心なり。二重の釋のなかには、はじめの釋は下根の行用なり、のちの釋は上根の用心なり。『要決』の釋も、はじめの釋のこゝろをのべたり。 一 『要決』の釋には、一には長時修、二には恭敬修、三には无間修、四には无餘修と次第せり。次第にさだめなし、をのをの一義をあらわすなり。一々の義理も言にをいていさゝか加減あれども、その心一也。 一 恭敬修のなかに、恭敬の體にをいて五をいだせり。そのなかに「有縁の聖人」と云は、いま「有縁」とさすは彌陀の敎なり。「聖人」と云は智行具足の人なり。これは總じて淨土の法門弘通の人をさすなり。しもに「有縁の善知識」といふは師範なり。これは別して相承の師にあたれり。「同縁の伴」と云は同行なり。和尙の餘處の釋にも、『法事讚』(卷下)には「同行相親願莫退」といひ、『般舟讚』には「同行相親莫相離」と云へり。或は敬重ををしへ、或は親近をすゝむ。をのⅣ-0945をの一端をしめすなり。「三寶」といふは佛寶・法寶・僧寶なり。これにをいて多種あり、同體・別相・住持なり。「同體」といふは、盡虛空遍法界の一切の三寶は三身同證して一體一身なるを、同體の三寶と云なり。「別相」と云は、内證は同じけれども各別體をしめして彌陀・釋迦・藥師・彌勒とも稱するを別相の三寶と云なり。この同體・別相は、ともに冥の三寶なり。凡夫の眼見の境界あらざるがゆへに「爲淺行者不果依修」と云なり。「住持の三寶」と云は顯の三寶なり、行者のためにしたしく依怙となる體なり。「與今淺識作大因縁」と云は此心なり。この三寶、まのあたり世に住して佛法を護持するがゆへに、住持の三寶と云なり。「雕檀」と云は木像なり。「繡綺」と云は畫像なり。「鏤玉」といふは又形像なり。「圖繒」と云はまた畫像なり。「磨石」と云は石佛なり。「削土」と云は土佛なり。「三乘敎旨」といふは、一代の諸經、諸宗の聖敎、經敎まちまちなれども、總じていふに三乘の道を明すがゆへなり。これ法相宗の心なり。「三乘」と云は、上の敎相の章に載するがごとし。「名句所詮」と云は、「名句」と云は經典の偈頌等なり。經典の詮ずるところは衆生の解悟の縁を生ずとなり。「聖僧」と云は小乘の學者、これ聲聞僧なり。「菩薩」といふは大乘行人なり。「破戒之流」と云ふは末代Ⅳ-0946无戒の比丘なり。三寶をうやまふとき、破戒をえらびて敬重すべきに非ずといへども、末世には持戒の人まれなれば、破戒の比丘までも敬重すべしと云なり。 一 「三者无間修。謂常念佛作往生心。於一切時心恆思巧」といふは、心々相續して間斷なきなり。『禮讚』の釋に、この修にをきて二の釋あるなかに、はじめの釋の心は今の釋に同じ。 一 「諸餘業行不令雜起。所作之業、日別須修念佛誦經不留餘課耳」といふは、「諸餘の業行」といひ、「餘課」といふ、みな雜行をあげて念佛のほかにこれを加へざれと云なり。 一 私の釋に四修をつらぬるに、二に「慇重修」といへるは恭敬修なり。恭敬と慇重と、そのことばことなれども、その心同じきなり。 一 「例如彼精進通於餘五度」といふは、檀・戒・忍・禪・智の五度はその體定れり。「精進」と云は別の法なし、餘の五度を退轉懈怠せずして勇猛精進に修するは、すなはち精進波羅蜜なり。故に例知するなり。 第十 化讚章 一 當章より以下の二段は、又『觀經』の心なり。上の三心・四修は、念佛を信行Ⅳ-0947する安心・作業なり。その念佛を聞經に對して讚嘆するなり。所引の文は下品上生の文なり。 一 「作衆惡業」といふ、十惡を指なり。十惡は上の三心の章にのするがごとし。 問て云く、「作衆惡業」といへる、ひろく諸惡に渡るべし、隨て當所の釋も「造作衆惡」(散善義)と釋せり。經釋ともに十惡といはず、なんぞ十惡をさすといふべきや。答て云く、今の文に「作衆惡業」と云へるは、十惡なりと心得ることは、當品のくらゐを辨定するに、「卽是造十惡輕罪の凡夫なり」(散善義)と釋するが故なり。されば下輩の三品は如次十惡・破戒・五逆の機なるがゆへに、輕・次・重の罪人なり。此故に下の二の重罪に對するに、今「作衆惡業」と云へるは十惡なりと心得るなり。是則、十惡は衆罪の根本なるがゆへに、十惡をさして衆惡といふに相違なきなり。 一 「方等經典」と云は、別して一經をさすにあらず、總じて大乘經をさすなり。「方等」は方廣なり、方廣は大乘也。すなはち十二部經のなかのそのひとつなり。 一 「十二部經」と云は、一代の諸經なり。一切經のなかより別して十二部經をえらぶにはあらず。諸經の說相を料簡するに十二部を出ざるなり。されば十二部經Ⅳ-0948と云は、たゞ一切の經をさすなり。その「十二部」といふは、一には修多羅、こゝには法本といふ。長行なり。二には祇夜、こゝには重頌といふ。長行所說の法門をかさねて頌をもて宣說するなり。三には伽陀、こゝには諷誦といふ。二、三、四、五の句なり。四には和伽羅、こゝには記別といふ。成佛の記等をさづくる、これなり。五には優陀那、こゝには无問自說といふ。請によらずして說所の經敎なり。六には尼陀那、こゝには戒といふ。戒行をとける、これなり。七には曰陀伽、こゝには本事と云ふ。弟子の宿生の事をとくなり。八には阿婆多、こゝには譬喩といふ。たとへをもて法門を顯はすなり。九には舍陀伽、こゝには本生といふ。佛の因行をとける、これなり。十には毗佛略、こゝには方廣といふ。大乘の義なり。十一には阿浮陀、こゝには希有といふ。未曾有の法門を說なり。十二には優婆提舍、こゝには論議といふ。問答をまうけて法門を論說することなり。一代の經敎多しと云へども、所說の義理は此十二部を出ざるなり。此中に大小乘を分別するとき、大乘には十二部を具し、小乘には第十の方廣を闕して餘の十一部有なり。「首題名字」と云ふは題目なり、名詮自性の謂あるがゆへに、首題の名字をとなふれば、部々の諸經を讀誦修習する功德にひとしきなり。 Ⅳ-0949一 「然望佛願意者」といふは、第十八の願をさすなり、すなはち念佛なり。 一 「雜散之業」といふは雜行なり。雜善なるがゆへに「雜」といひ、餐受の心浮散する義につきて「散」といふ。かるがゆへに雜散の業といふなり。 一 「如此經及諸部中、處々廣歎勸令稱名、將爲要益也」云は、「この經」と云は『觀經』なり。「諸部」といふは、別しては『大經』・『小經』をさす、總じては傍依の諸經をさすなり。 第十一 讚嘆章 一 上の章には十二部經に對して念佛を讚嘆す、今の章には雜善に對して念佛を讚嘆す。所嘆の念佛は同じといへども、相對の法その名ことなり。又かみは化佛の讚嘆なり、今は釋尊の讚嘆なり。故に二の經文によりて二の章段をたつるなり。 一 ひくところの經文は流通の文なり、『疏』の釋もすなはち當所の釋なり。『經』と釋とを引合せて心得べし。『疏』の文に、「一明專念彌陀佛名」といふは、「若念佛者」の文をさすなり。「二明讚能念之人」といふより「人中最勝人也」といふにいたるまでは、「是人中分陀利華」の義を釋するなり。「四明專念彌陀名者、卽觀音・勢至常_隨影護、亦如親友知識也」といふは、「觀世音菩Ⅳ-0950薩・大勢至菩薩爲其勝友」の心を解する。「五明今生旣蒙此益、捨命卽入諸佛之家」といふより「道場之座豈賖」といふにいたるまでは、「當坐道場生諸佛家」の文を釋するなり。經釋の文段かくのごとし。 一 「分陀利」といふは梵語なり、こゝには翻じて白蓮華といふ。華のなかには蓮花最勝なり、淤泥に染せられざるがゆへなり。色の中には白色最勝なり、變壞の色にあらざるがゆへなり。故に此花をもて念佛の行者にたとふることは、白蓮花の衆花にすぐれたるがごとく、念佛の行者の、諸善の行人にすぐれたることをあらはすなり。又法華と念佛と體ひとつなること、この釋をもてしるべし。かの『經』(法華經)には蓮華をもて妙法にたとへて「妙法蓮花」といひ、この『經』には蓮華をもて行者にたとへて「是人中分陀利花」といふ。所行の法と能念の人と、たとふるところの詮ひとつなるなり。 一 「捨命卽入諸佛之家。卽淨土是也」といふは、彌陀の淨土なり。「生諸佛家」とゝきたるを釋しあらはすなり。これすなはち眞身觀には觀佛三昧の益をとくとして「捨身他世生諸佛前」(觀經)ととき、流通の文には經名をあぐとして「淨除業障生諸佛前」(觀經)と云り。これみな彌陀の淨土をさすことあきらかなり。彌陀は諸Ⅳ-0951佛の本師、極樂は十方の本土なるがゆへに、諸佛の家といふなり。 一 「到彼長時聞法歷事供養」といふは、聖道は成佛を期し、淨土は往生を願ずるにつきて、往生ののち聞法修行して成佛すべき義を釋するなり。しかれども、長遠の修行とをからず速に極果にいたるべきがゆへに、「道場之座豈賖」といふなり。この義、上の正雜二行の章にこれを辯ぜしがごとし。 一 私の釋の中に「問曰、旣以念佛名上々者、何故不說上々品中至下々品而說念佛乎」といふは、この問の心は、さきに能念の行者を嘆じて上々人といへば、所念の法も上々の法なりと聞へたり。然者、尤も上々品の中に說べし、なんぞ下々品の中に說やと問なり。答の心は、念佛の行九品にわたる上、下々品にかぎらず上々品にもこれあり、自餘の諸品にもこれあり。いかにいわんや、下々品は五逆の重罪なるがゆへに、かの重罪を滅することは念佛の力なれば、能治・所治相應するによりて、下々品にこれをとくなりといふなり。 問ていはく、この問に不審あり。念佛は下三品にこれをとけり、なんぞ下々品にこれをとくやといふや。答ていはく、最上品なるべき法をなんぞ最下品にとくやといはんがために、かくのごとく問するなり。最極をあぐと心得ぬれば、相違なきなり。 Ⅳ-0952一 「爲極惡最下人而說極善最上法」といふは、「極惡最下の人」は五逆なり、「極善最上の法」は念佛なり。高山の水は深谷にくだる能あり、最上の法は最下にかうぶらしむる功あるなり。 一 「例如彼无明淵源之病、非中道府藏之藥卽不能治」といふは、天台には三觀をもて三惑を破するとき、假觀をもて見思の惑を破し、空觀をもて塵沙の惑を破し、中道觀をもて无明の惑を破するがゆへに、三觀の中には中道觀最勝なり。三惑のなかには无明の惑最重なれば、深觀をもて重惑を破するゆへに、かれをひきてこれを證するなり。やまひをもて惑にたとへ、藥をもて觀に比するなり。「府藏」といふは、六府・五藏なり。諸根を成立するは六府・五藏なれば、人身にとりては府藏を肝要とす。さればいま府藏といふは肝要といふ心なり。 一 『六波羅蜜經』には五藏をたてゝ、そのなかに陀羅尼藏のみ重罪を消滅すといへるゆへに、『二敎論』にはこれをひきて、眞言の諸敎にすぐれたることを證せり。しかるに今はこれをひきて、念佛をかの陀羅尼藏にひとしめて、念佛の力の重罪を滅する例證とするなり。 問ていはく、今所引の文には、重罪消滅の德をば陀羅尼藏にをきて說がゆへに、これを妙醍醐にたとへて最第一とせり。念佛の德をⅣ-0953ばいまの文のなかにこれをとくことなし。なんぞこれをひきて自由に醍醐の妙藥に准じて五逆を滅する准據とするや。答て云く、もとよりいまの文は例證なり。かの『經』に總持の德を嘆ずるをひきて、念佛にひとしむるなり。そのゆへは、かの『經』には五藏をときて、その四藏には五逆滅する德をとかず、陀羅尼の五逆を滅する功をあかせり。いまの『觀經』には定散・念佛をときて、定散には五逆を滅する力をあかさずして、念佛の五逆を滅することをとけり。またくいまの說相とおなじ。されば陀羅尼も五逆を滅し、念佛も五逆を滅す。その德おなじきがゆへに、ともに妙醍醐なりと例知するなり。滅罪の功力につきて、陀羅尼を妙醍醐にたとふるは、弘法大師の解釋なり。いままたその功用おなじきによりて、これも妙醍醐なりと比するは、釋家聖人の料簡なり。かれこれともに文のよんどころをえたるものなり。所引の文につきて、「第三法寶者」といふより「爲彼說諸陀羅尼藏」と云にいたるまでは、經文なり。「此五藏、譬如乳・酪・生蘇及妙醍醐」といふより「速證涅槃安樂法身」といふにいたるまでは、大師の釋なり。 一 「素呾纜」・「毗尼」・「阿毗曇」の三藏は、かみの敎相の章に註するがごとし。「般若」といふは、こゝには智慧といふ、これ空惠をあかせる敎なり。「陀羅尼」とⅣ-0954いふは、こゝには總持といふ、これ眞言なり。 一 「修靜慮」といふは定なり。すなはち契經にとくところこれなり。 一 「習威儀」といふは律なり。これ律藏にあかすところなり。「一味和合」といふは僧の儀を明すなり。『倶舍』(倶舍論記*卷二五)の性相に、「四人已上和合名僧」といへる、これなり。 一 「分別性相、修環研覈究竟甚深」といふは惠なり。もろもろの論藏には世出世の諸法をあかして深義を決判す。これを習學して智解をひらかしむるなり。 一 「離於我法執著分別」といふは般若の德をあかすなり。畢竟皆空と達しぬれば執著をはなるゝなり。 一 「或有滅輕而不滅重」といふは、あるひは「小戒力微不消五逆之罪」(散善義)といひ、あるひは十二部經の首題名字をきける功用、たゞ千劫の極重惡業を滅するがごとき、これなり。 一 「或有消一而不消二」といふは、布施は慳貪を治し、忍辱は嗔恚を治する等これなり。 Ⅳ-0955一 「九品の配當是一往義。W乃至R若約品卽九々八十一品也」と云ふは、行者根性不同にして、善惡二機あひわかれたることを釋するなり。「九品の配當」といふは、上々は讀誦大乘、上中は解第一義、上下は發菩提心、中上は修行諸戒、中々は持八戒齋、中下は孝養父母、下上は十惡輕罪、下中は破戒次罪、下々は五逆重罪なり。かくのごとく、上中二輩には世戒行の三福をあて、下輩の三品には輕・次・重の罪業をもたするは、一往の義なりといふなり。「五逆廻心通於上々」といふは、五逆は下々品の惡業なれども下中にも下上にも通ずべし、乃至上上品の讀誦大乘の機にも通ずべしとなり。「讀誦妙行亦通於下々」といふは、逆次に通ずべき義、さきに准じてこゝろうべし。いはゆる讀誦は上々品の善業なれども、上中にも上下にも通ずべし、乃至下々品の五逆重罪の機にも通ずべしとなり。「十惡輕罪破戒次罪各通上下」といふは、十惡は下上品の惡なれば、上といふは中下已上の六品をさし、下といふは下中・下々をさすなり。破戒は下中の惡なれば、上といふは下上以前の七品をさし、下といふは下々をさすなり。「解第一義、發菩提心亦通於上下」といふは、解第一義は上中の善なれば、上といふは上々をさし、下といふはしもの七品をさすなり。發菩提心は上下の善なれば、上といふⅣ-0956は上々・上中をさし、下といふはしもの六品をさすなり。かくのごとく一々にたがひに通ずれば、九品にまた九品あるなり。かるがゆへに「一法に各有九品。若約品卽九々八十一品也」といふなり。 一 迦才の釋をひくことは、かみに善惡の業因たがひに通じて、九品に限らず八十一品なるべきことを釋しつれども、いまの釋のごとくとくならば、なを八十一品にもかぎらず千差萬別なる義をあらはすなり。「衆生起行」といふより「莫起封執」といふにいたるまでは、かの師の釋なり。すなはちその所造『淨土論』の文なり。「其中念佛是卽勝行」といふ已下は私の釋なり。これすなはち千殊萬別の行のなかに、念佛すぐれたることをあらはすなり。 一 「故引芬陀利、以爲其喩」といふは、當章にひくところの「若念佛者、當知。此人是人中芬陀利華」の文の心なり。「念佛行者觀音・勢至、如影與形暫不捨離」といふは、「觀世音菩薩・大勢至菩薩、爲其勝友」の文の心なり。 一 「流五種嘉譽」といふは、芬陀利の五種の名に合ぬるところの五種の名なり。いはゆる好人・妙好人・上々人・希有人・最勝人なり。「蒙二尊影護」といふは、Ⅳ-0957「二尊」といふは、いまは觀音・勢至をさすなり。かの二菩薩、勝友となることをいふなり。「此是現益也」といふは、いまのいふところの「嘉譽」と「影護」とらさすなり。「往生淨土、乃至成佛、此是當益也」といふは、「當坐道場生諸佛家」(觀經)の心を釋するなり。 一 『安樂集』の文をひきて始終の兩益をあげたるは、これも雜善に約對して念佛を嘆ずる文なるがゆへにこれをひくなり、文の心みやすし。このなかに『授記經』の入涅槃の義をひきのせたるは、始益をあかさんがためなり。いまは入不入の義を論ずるにはあらず。その義をば『疏』の「玄義」に『大品經』をひきて報身常住の義をもやぶらず、入涅槃の文もさまたげなき義を成ぜり。おほよそいまの文のごときんば、入涅槃の期あるべからず。そのゆへは「一向專念阿彌陀佛往生者、常見彌陀現在不滅」といへば、入涅槃とみるは諸行往生の機見なりと聞へたり。しかるに諸行は本願にあらざるがゆへに往生せずなりと心得れば、決定往生の機は念佛の行人なり。しかれば、一切みな現在してみたてまつるべき義分明也。 第十二 念佛付屬章 Ⅳ-0958一 上の章には雜善に約對して念佛を讚嘆す。かるがゆへに、いまの章にはかの雜善をば釋尊付屬せず、たゞ念佛をもて阿難に付屬する義を立するなり。 一 所引の經文はこれも流通の文なり。『疏』の文もすなはち當所の釋なり。「望佛本願」といふは、第十八の願をさすなり。「一向專稱」といふは、雜行をまじへざることばなり。されば十八の願の心は一向を本とし、專稱をさきとするなり。 一 私の釋に、定善十三觀・三福・九品等の善をあげて、何も殊勝の利益あるべきことを釋せらるゝは、文に「定散兩門の益をとく」といへるを釋するなり。かの兩門の益のすぐれたることを顯して、如此定散も殊勝の法なれども、それをば付屬せず、「實非雜善得爲比類」(散善義)の念佛の一行をもて付屬すと顯さんがためなり。これすなはち諸行は本願に非ず、念佛は本願なるがゆへなり。當章のしたの釋に「釋尊所以不付屬諸行者、卽是非彌陀本願之故也。亦所以付屬念佛者、卽是彌陀本願之故也」と云へるは、この心なり。かくのごとく心得ぬれば、文に當りて釋する時は、定善を讚ずるには「隨其所堪修十三觀可得往生。其旨見經。敢无疑慮」といひ、散善を嘆ずるには一々の善のしたに「縱雖无餘行、以孝養・奉事爲往生業」ともいひ、「縱雖无餘行、以四无Ⅳ-0959量心爲往生業」ともいへるは、をのをのその行を釋するときの一往義なり。佛の本願を尋れば、たゞ念佛の一行のみ往生の業なりと知らるゝなり。此心をえて能々文をみるべきなり。 一 「初三福者、經曰、一者孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業。二者受持三歸、具足衆戒、不犯威儀。三者發菩提心、深信因果、讀誦大乘、勸進行者」といふは、序の散善顯行縁文なり。「一者」といへるは世福、「二者」といへるは戒福、「三者」といへるは行福なり。その一々の義しもに釋するがごとし。この三福を開して九品の業とす。その義またしもに一々に合するがごとし。 一 「世間孝養者如孝經等說」といふは、かの書には天子・諸侯・卿大夫・士・庶人の五等を立て、各その品秩によりてふるまふべき樣を明せり。さればいづれも分に隨ひて父の業をつぎ、ことにをいて義を行はみな孝行なり。そのなかに父母に孝するをもてその根本とす。孝の字におほくの義あり、孝は好なり、順なり、畜なり、和なり。好と云は「孝人之高行」(孝經)といへる義なり、順といふは隨順の義なり、畜といふは財產をたくはへて親を養育する義なり、これすなはちいまⅣ-0960の孝養のことばに叶へり。和と云は、かほをやわらかにして父母に向ひて其意を悅ばしむるなり。 一 「出世孝養者如律中生縁奉仕法」といふは、『四分律』の中に此ことを明せり。孝順養育の義は外典とおなじ。たゞしその報をあかすに得脫の益をいだせり。むかしの慈童女が因縁のごとき、これなり。かの因縁といふは、過去に波羅奈國に慈童女といふものあり。はやく父にをくれてたゞ母のみあり。慈童、たきゞをうりて三十錢をえて母にあたへたりし功德によりて、六十萬歲の快樂をえたり。又あやまりて母のかみをぬきたりしとがによりて、地獄にいりて鐵輪をいたゞきゝ。慈童、そのとき罪業のむなしからざることをゝそれて、忽に道念をおこし、一切衆生の所受の苦を我身にうけんと誓願せしかば、すなはち苦報をあらためて都率に生ずとみへたり。このこと、律の中に『雜寶藏經』の說をひきて、父母にすこしきの不善をなせば大苦報をうけ、さきの供養をなせば无量の福をうることを明せるに、此因縁をのせたり。 一 「敎仁・義・禮・智・信等師也」といふは、世間の五常ををしふる師なり。この五常は儒敎にこれをあかせり。儒敎と云は孔子の敎なり。この五は人のつねⅣ-0961に行べき道なるがゆへに五常といふなり。「仁」は仁惠の心、仁慈の德なり。「義」は嚴律の義、正理の道なり。「禮」は禮讓の行、恭敬の義なり。「智」は照了の德、才儇の明なり。「信」は誠信の德、廉直の心なり。 一 「敎聖道・淨土二門等師也」といふは、「聖道」といふは眞言・天台等の八宗・九宗なり。「淨土」といふは淨土宗也。或は他力の信心を相承する師範、或經釋の義理を指授する、ともに師長なり。 一 「慈心不殺者、是四无量心中初慈无量也。卽擧初一攝後三也」といふは、「四无量心」といふは、一には慈无量心、二には悲无量心、三には喜无量心、四には捨无量心なり。慈无量心といふは无量の衆生を哀みて樂をあたふる心なり。悲无量心といふは一切の衆生を悲て苦をぬく心なり。喜无量心と云は上の拔苦與樂の二種の心成就するによりて歡喜する心なり。捨无量心といふは无量の衆生にをきてかの拔苦與樂の心を發すこと平等にして怨親の差別なきなり。されば「はじめのひとつ」といふは慈无量心なり、「のちの三」といふは悲无量心・喜无量心・捨无量心なり。 一 「天台卽有四敎菩提心。謂藏・通・別・圓是也」といふは、四敎の機各々そⅣ-0962の敎を樂求して自乘の菩提を期する心なり。そのなかに、前三敎の菩提心はこの宗の本意にあらず、圓敎の菩提心をもて眞實とす。その心にをきて縁事・縁理の心あり。この二の心、ともに四弘誓願をもてその體とすれども事理の差別あるなり。四弘誓願といふは、上の本願の章に記するがごとし。縁事の心といふは、暫く衆生と佛とを別にし、煩惱と菩提とを卽せずして、衆生を度して佛道をえしめんと思、煩惱を斷じて佛果をえんとねがふこゝろなり。縁理の心といふは、一切の諸法は本來寂滅なり、有无にあらず斷常をはなれたり、煩惱卽菩提・生死卽涅槃なり。されば衆生として度すべきところもなく、菩提としてもとむべきところもなしと觀ず。しかれども衆生この不縛不脫の法の中にをきてしかも自縛をなし、しかも自ら脫をもとむ。これにをきて大慈悲を發し四弘を發して上求下化の願を成就するなり。「具如止觀說」と云は、此事委くは彼の第一卷に見たり。 一 「眞言卽有三種菩提心。謂行願・勝義・三摩地是也」といふは、眞言の行者この三の心をおこして菩提を得なり。「行願」の菩提心といふは、一切の衆生をみること己身のごとくして平等に利益せんと思心なり。「勝義」の菩提心と云は、一切の諸法は自性なしと觀じて本不生際を達するなり。「三摩地」の菩提心と云は、Ⅳ-0963一切衆生は普賢の心を含藏して、その心のかたちは月輪のごとくして、そのなかに三十七尊歷然としてこの心城に住せりと觀ずるなり。『菩提心論』(金剛頂發*菩提心論)にこの菩提心を嘆じていはく、「若人求佛惠通達菩提心、父母所生身速證大覺位」といへり。この三種の菩提心の中に、行願と勝義との二種の菩提心は如次天台に云ふところの縁事・縁理の心にあたれり。三摩地の菩提心は密宗不共の所談、最上勝妙の菩提心なり。「具如菩提心論說」といふは、かの論を『菩提心論』と云へる、ひとへにこの三種の菩提心をとけるがゆへなり。龍猛菩薩の造なり、龍猛といふは龍樹なり。 一 「又有善導所釋菩提心。具如疏述」といふは、「序分義」に云く、「言發菩提心者、此明衆生欣心趣大、不可淺發小因、自非廣發弘心、何能得與菩提相會。唯願我身、身同虛空心齊法界、盡衆生性。我以身業恭敬供養禮拜、迎送來去運度令盡、我以口業讚嘆說法、皆受我化言、下得道者、令盡。又我以意業入定觀察、分身法界應機而度、无一不盡。我發此願。運々增長猶如虛空、无處不遍、行流无盡徹窮後際、身无疲倦心无厭足。又言菩提卽是佛果之名。又言心Ⅳ-0964者卽是衆生能求之心。故云發菩提心也」と云へり。この二重の釋は、はじめの釋は下化衆生のこゝろ、下の釋は上求菩提の心なり。又「散善義」に云く、「唯發一念厭苦樂生諸佛境界、速滿菩薩大悲願行、還入生死、普度衆生。故名發菩提心也」といへり。これも三福のなかの菩提心なれば、まづは聖道の菩提心なり。しかれども、「還入生死普度衆生」と云へるは廻入向利の廻向の心なれば、淨土の菩提心に通ずる義あるなり。「如疏述」といふは、これらの釋をさすなり。 一 「意氣博遠詮測沖邈」といふは、廣大甚深なりと云こゝろなり。心は諸宗に通じ一代にわたりて一切をかぬとなり。 一 「世間因果者卽六道因果也」といふは、「六道」といふは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天なり。「因果」といふは善惡の因果なり。上・中・下品の十惡は、如次地獄・餓鬼・畜生の因なり。この因によりて所得の果はすなはちかの三惡道なり。下・中・上品の十善は、如次修羅・人・天の因なり。この因によりて得所の果は則三善道の果報なり。 一 「出世因果者卽四聖因果也」と云は、「四聖」といふは四乘なり、敎相の章にⅣ-0965しるすがごとし。「因」といふは四聖の善因なり。謂聲聞の修因は四諦、縁覺の修因は十二因縁、菩薩の行因は六度、佛乘の修因は三觀なり。三觀といふは空・假・中の三諦なり。 一 「卽是五種法師之中擧轉讀・諷誦二師、顯受持等三師」といふは、讀誦のことばのなかに五種の行を攝する義を釋するなり。「五種」といふは、一には受持、二には轉讀、三には諷誦、四には解說、五には書寫なり。このなかに轉讀・諷誦といふは、つねにいふところの讀誦の行なり。文をよむを讀といひ、そらに誦するを誦といふなり。 一 「若約十種法行者、卽是擧披讀・諷誦二種法行、顯餘書寫・供養等八種法行也」といふは、これも讀誦のことばのなかに、十種の法行を攝する義を釋するなり。「十種の法行」といふは、一には書寫、二には供養、三には受持、四には開演、五には施他、六には聽聞、七には披讀、八には諷誦、九には思惟、十には修習なり。 一 「而於一代所說、有已結集經、有未結集經」といふは、在世の說敎はたゞ佛の言詞をのべ給ひしばかりなり。文にあらはして經卷をなすにをよばず、Ⅳ-0966在座の機はたゞちにその言說をきゝて得益しき。しかるに如來滅後に未來の衆生を利せんがために記しをきたるを經といふ。かくのごとく記しをくを結集といふなり。結集の人は阿難なり。 一 「就翻譯將來之經而論之者」といふは、「翻譯」といふは、天竺のことばを唐土のことばにやはらぐるをいふなり。「將來」といふは、天竺より唐土へわたるをいふなり。總じていはんときは、このことばゝ唐土より日本へわたるをもいふべきなり。しかれども、いまは西天より晨旦に到來するなり。 一 「貞元入藏錄」といふは書の名なり。「貞元」は唐土の年號なり。貞元年中に一切經の首題・卷數を記せられし目錄なり。 一 「問曰、顯密旨異、何顯中攝密乎」といふは、顯敎は釋迦一代の所說、顯露彰灼の敎なり。密敎は大日覺王の自證、祕密上乘の法なり。その旨はるかにことなり。されば「讀誦大乘」といへる大乘のことばゝ、顯敎の大乘をさすならば、密敎をば攝すべからずと難ずるなり。これは顯密の大乘經、總じて六百三十七部なりとあぐるに、すなはち「或受持讀誦遮那・敎王及_以諸尊法等以爲往生業」といひつる義を不審するなり。これをこたふるに「非云攝顯密之旨。貞元入Ⅳ-0967藏錄中、同編之而入大乘經限。故、攝讀誦大乘句也」といふは、この答のこゝろ、顯密の二敎に談ずるところの義を、ひとしめて攝するにはあらず、たゞ大乘經といふことばに顯密ともに攝すべし。これすなはち眞言の三部經等をも『錄』のなかに、おなじく顯敎の大乘經の烈にいれたるゆへなりとこたふるなり。 一 「問曰、爾前經中何攝法花乎」といふは、「爾前」といふは法華以前なり。されば五時のなかに爾前の四味と法華と敎旨各別なり。なんぞひとつにこれを攝するやと問なり。答の心は、さきのごとく敎の淺深をば論ぜず、たゞ大乘のことばひろく通ずべきがゆへに、總じて讀誦大乘のことばに攝すといふなり。「非論權・實・偏・圓等義」といふは、「權」といふは爾前なり、方便を帶するがゆへなり。「實」と云は法花なり、方便をすつるがゆへなり。「偏」と云は前三敎なり、偏有・偏空・偏中に止るがゆへなり。「圓」と云は圓敎なり、圓融の三諦を明すが故なり。圓融の三諦といふは、空・假・中の三諦たがひに相卽して融通する義なり。 一 「開前三福爲九品業」といふ以下は、世戒行の三福をわかちて九品の業とするがゆへに、序分の文と品々の說とを合せて一々に配當するなり。この合福Ⅳ-0968の義は『疏』の文にいでたり。かの釋をまもりて釋せらるゝなり。「上品上生中言慈心不殺者、卽當上世福中第三句」といふは、世福の文には「一者孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業」(觀經)ととくがゆへに、「慈心不殺」は第三の句にあたりたるを、いまの「慈心不殺」とあひおなじと合するなり。「次具諸戒行者、卽當上戒福中第二之句具足衆戒」と云は、戒福の文には「二者受持三歸、具足衆戒、不犯威儀」(觀經)とゝくがゆへに、「具足衆戒」は第二の句に當りたるに、「具諸戒行」をもて合するなり。「次讀誦大乘者、卽當上行福中第三句讀誦大乘」といふは、行福の文には「三者發菩提心、深信因果、讀誦大乘、勸進行者」(觀經)といふがゆへに、「讀誦大乘」は第三の句にあたるに、いまの「讀誦」を合するなり。「次修行六念者、卽上第三福中第三句之意也」といふは、三福のなかには修行六念の文なし。しかれども義をもてこれを合するに、この「六念」は大乘の行なるがゆへに「讀誦大乘」の句に合す。かるがゆへに「第三福中第三句之意也」と云なり。まさしき文なきによりて意也といふなり。「上品中生中言善解義趣等者、卽是上第三福中第二・第三意也」といふは、「善解義趣等」といへる等の字には、「於第一義心不驚動、深信因果不謗大乘」(觀經)の句を攝するなり。「善解義Ⅳ-0969趣於第一義心不驚動」を一にして、第三福のなかの第三句の「讀誦大乘」の句に合し、「深信因果不謗大乘」を一にして、おなじき福のなかの第二句の「深信因果」に合する也。「上品下生中言深信因果・發道心等者、卽是上第三福第一・第二義也」といふは、「深信因果」はおなじき福のなかの第二の句とおなじ。「發无上道心」はおなじき第一の句とおなじ。かるがゆへにかくのごとく釋するなり。「中品上生中受持五戒等者、卽上第二福中第二句意也」といふは、「等」の字には「持八戒齋・修行諸戒」(觀經)の句を等取するなり。多少ことなりといへども、みな戒行なるがゆへに、第二の福のなかの第二の句に云ふ所の「具足衆戒」に當るなり。「中品中生中言或一日一夜受持八戒齋等者、又同上第二福之意也」といふは、「等」のことば「持沙彌戒、具足戒、威儀无缺」(觀經)の句を攝するなり。これもかみとおなじく第二の福の心なり。謂、八戒・沙彌戒・具足戒はみな第二句の「具足衆戒」に合す。「威儀无缺」は同じき第三句の「不犯威儀」の心なり。「中品下生のなかに言孝養父母・行世仁慈等者、卽上初福第一・第二句意也」といふは、「孝養父母行世仁慈」をもて、總じてかみの世福のなかの「孝養父母奉事師長」の句に合するなり。いまの文には奉事師長はなけれども、父母と師長とその恩おなじく、孝養Ⅳ-0970と奉事とその儀一なるがゆへに、一雙の世善なれば文に略せりといへども、あひはなるべからざるなり。されば『疏』の釋にも「孝養父母」の四字を釋するとき、「孝養父母、奉順六親」(散善義)といへり。これ孝養父母のことばのしたに、二親にかぎらず尊長につかふる義を攝せりとなり。「行世仁慈」といふは、仁惠の德なるがゆへに、これも孝養父母・奉事師長の德行をそなへん人は仁慈もあるべければ、總じて第一・第二の句に合するなり。『疏』にはこの句を合福せざるは、すなはち「孝養父母」の一句をもて第一の句の「孝養」、第二の句の「奉事」に合すれば、その二のなかに攝在せることをあらはすなり。次に下輩の三品をあげて、結するに「此三品、尋常之時唯造惡業雖不求往生、臨終之時始遇善知識卽得往生。若准上三福者、第三福大乘意也」といふは、この下三品の行は念佛なり。しかるにこの念佛を、もし三福の中に攝せば、第三の行福のなかの第三句の「讀誦大乘」の句にあたれりといふなり。かの三福のなかにその文なしといへども、義をもて配當するがゆへに大乘のこゝろなりと釋するなり。下三品をば『疏』には合福せず。これすなはち十一門の中に、第六門の法は上・中二輩は善なり、下輩は惡業なるがゆへに合すべきにあらず。念佛は第八門の法なるがゆへに定散の烈Ⅳ-0971にあらざれば合せざるなり。いま私の釋に合するは、定散・念佛ことなれども、一往九品の業を分別して三福・九品の開合をしめさんがためなり。されば『疏』の釋といまの釋と、をのをの一意を顯すなり。「次念佛者、專稱彌陀佛名是也」といふは、上に二行あり、一には定散、二には念佛と約束せしなかに、定散はすでにあかしをはりぬ、この文より念佛をあかすといふなり。これすなはち「望佛本願」(散善義)といへる本願の體なり。 一 「例如法花秀三說上。若无三說者、何顯法華第一」といふは、天台のこゝろ、已今當の三說のなかにをきて『法華』第一なりといふことなり。かの『經』(法華經*卷一〇)の「法師品」の文に、「我所說諸經而於此經中法花最第一」といひ、「已說・今說・當說、而於其中此法花經最爲難信難解」といへる、これなり。 一 「但定散諸善皆用難測」といふ以下は、かさねて定散の勝利を嘆じて、しかも付屬せざることをあらはし、念佛はかの二善にすぐれたるがゆへに付屬の法たることを釋成するなり。先定善を讚ずるに種種の巨益をいだせり。「依正之觀懸鏡而照臨」といふは、序には「當得見彼淸淨國土、如執明鏡自見面像」Ⅳ-0972(觀經)といひ、正宗には「如於鏡中自見面像」(觀經)ととくがごとき、これなり。「往生之願指掌而速疾」と云は、地觀には「除八十億劫生死之罪、捨身他世必生彼國」(觀經)といひ、花座觀には「滅除五萬劫生死之罪、必定當生極樂世界」(觀經)といひ、眞身觀には「捨身他世生諸佛前」(觀經)といへるがごとき、これなり。必定といふはたな心をさす義なり。捨身といひ、命終といふは速疾の義なり。多生をへざるがゆへなり。「或一觀之力能袪多劫之罪𠍴」といふは、すなはちひくところの地觀・寶樓・花座等にとくところの滅罪益なり。そのほか像觀・觀音・勢至等の觀にもこれをとけり。「或具憶之功終得三昧之勝利」と云は、地觀には「若得三昧、見彼國地、了々分明」(觀經)といひ、像觀には「於現身中得念佛三昧」(觀經)とゝくがごとき、これなり。 一 「然世人若樂觀佛等不修念佛、是遠非乖彌陀本願、亦是近違釋尊付屬。行者宜商量」といふは、かみに觀佛の益をときつれども、つゐにいま結成するに、一向稱名のほか他をまじふべからざる義をのぶるなり。これ末世下機のためなり。 一 「次散善の中、有大小持戒行」といふ已下は、散善のなかにをきて、ことにⅣ-0973四ケの行を嘆じて、しかもまた付屬の行にあらざることをあらはし、念佛の一行の、釋尊付屬の法、彌陀選擇の本願なることをしめして、一向專稱の德を讚ずるなり。四ケの行をあげをはりて讚ずる文に、「以此行殆抑念佛。倩尋經意者、不以此諸行付屬流通。唯以念佛一行卽使付屬流通後世」といへり。これ散善の中の四ケの行みな殊勝の行なりと云へども、念佛にをよぶべからざる義を結するなり。 一 「釋尊所以不付屬諸行者、卽是非彌陀本願之故也」といふ已下は、釋尊定散を廢して念佛を付屬するゆへを釋し、和尙諸行を廢して念佛を立するよしをあかして、諸行の機敎相應せざるむねをあらはし、念佛の機法相應せることをあげ、諸行と念佛とを相對して重々勝劣を明すなり。これすなはちかの「持是語者、卽是持无量壽佛名」(觀經)の義を釋成し、「一向專稱彌陀佛名」(散善義)の理を決了するなり。 Ⅳ-0974選擇註解鈔第五 第十三 多善根章 一 この章より已下四段は、『阿彌陀經』によりて念佛の德を讚嘆するなり。上の章には、念佛の一行、釋尊付屬の法なることをあかしをはりぬ。今の章には、その念佛の多善根なる義を釋するなり。 一 所引の經文はその心見やすし。別の釋をまうくるに及ばず。和尙の解釋は、『法事讚』の下卷の文なり。 「極樂无爲涅槃界」といふは、「涅槃」は法性なり、法身なり、實相なり、眞如なり。されば極樂は无爲法身の理を證する土なりといふなり。「隨縁雜善」といふは、定散八萬の諸行なり。「要法」と云は、念佛をさすなり。『觀經』には「此法之要」とゝき、『疏』(散善義)には「淨土之要」と釋せるこれなり。「專復專」と云は、「專」は雜に對することばなり。故に二たび「專」といへるは、一行一心を顯義なり。「坐時卽得无生忍」と云は、十信外凡の位なり。「證得不退入三賢」と云は、「三賢」は内凡Ⅳ-0975の位なり。三賢といふは、十住・十行・十廻向の三十心をさすなり。 問て云く、无生忍は地上の證悟なり、なんぞ十信の位と可得意哉。答云く、のちの益を三賢と釋するが故に、三賢のさきなれば十信と心得るなり。无生忍の名はおなじけれども、地前・地上の忍、その淺深あるなり。「序分義」に『經』(觀經)の「應時卽得無生法忍」の文を釋するに、「因茲喜故、卽得无生之忍。亦名喜忍、亦名悟忍、亦名信忍。W乃至R此多十信中忍也」といへる、これなり。 重て問ていはく、淨土の往生は卽悟无生ととく、これ地上の无生なるべし。往生の益、外凡・内凡ならばこれ淺位なり。念佛の益その功なきに似たり、いかん。答て云、實にはしかなり。淨土は純一の報土なるがゆへに、自然に无生のさとりをうること、もとも地上の深位なるべし。いまは一往九品の階級をたつるとき、下輩造惡の機に約して釋するところなり。『觀經』に下輩の發心をとくに、花開のゝち无上道心をおこすととくがゆへなり。發心は十信のくらゐなるが故也。 一 私の釋にひくところの、龍舒の『淨土の文』のなかに、「襄陽」といふは、漢土の所の名なり。「隋」といふは、代の名なり。「陳仁稜」といふは、人の名なり、能書の人なり。「字畫淸婉」といふは、字のかたち優美にして、いつくしきなり。Ⅳ-0976「今世に傳本に脫此二十一字」といふは、この字をおとせりといふなり。諸善をさして小善根とときぬれば、念佛は多善根なること義として勿論なるうへに、かの二十一字ある本をもておもふに、この義いよいよ分明なりと釋成するなり。 第十四 證誠章 一 上の章には、念佛の多善根なることをあかし、またいまの章には、その念佛を諸佛證誠することをあらはすなり。 問て云く、證誠の義をあかさば、直にもとも『阿彌陀經』の現文をひくべきなり。なんぞ經文をひかずして和尙の釋をひき、しかもこの釋にのするところの經文をひくや。答ていはく、和尙の釋にひかれたるを、その定にて、『彌陀經』にいふがごとしとひくうへは、直にひくとおなじことなり。これすなはち『經』のごとくひきのするならば、六方の文をつぶさにひくべきがゆへに、その文廣博なり。いま和尙の所引は「六方各有恆河沙等諸佛」といふて、文をば省略して、しかもその義つぶさに存ずるがゆへに、ことばのたくみなるをとりて、ひきのせらるゝなり。各々の佛名は、いまその詮なし。段々の重說は、合して一段にひくに相違なきがゆへなり。そのうへ、經のことばの略せるところをさぐり、佛意を決して甚深の義をのべらるゝこと、今師の釋のⅣ-0977ならひなり。これによりて、かの釋の所引にまかせて、ひきのせらるゝなり。 一 所引の『觀念法門』の文に「若佛在世、若佛滅後、一切造罪凡夫」といふは、『經』には在世・滅後のことばなけれども、義をもてこのことばをのせられたり。いはゆる經文に、已發願・今發願・當發願の機みな往生すべしとときたれば、在世・滅後の機もるべからざるなり。『經』(小經)に「善男子・善女人」とときたるは、機は造罪の凡夫なれども、所信の法につきて善男・善女といふなり。その機は惡人なりとしることは、流通に五濁惡世の衆生のために難信の法をとくといふがゆへに、かのこゝろによりて「造罪の凡夫」といふなり。上盡百年の言も『經』にはなけれども、これも義としてあるべきゆへなり。このゆへに、いまの釋にも「上盡百年」といひ、『法事讚』(卷下)にも「長時起行倍皆然」と釋するなり。「十聲三聲一聲等」もこのことばなしといへども、本願の文の「乃至」(大經*卷上)のことばによりて、上盡一形下至十念一念とこゝろへつれば、この義かならずあるべきがゆへなり。諸佛の舒舌を釋するに、「一出口已後終不還入口、自然壞爛」といふは、この言も『經』にはみゑざれども、證誠の佛意を決了する和尙の釋、もとも甚深なり。 Ⅳ-0978一 『禮讚』の二文ならびに『疏』の釋、『法事讚』の文等、そのこゝろみな『觀念法門』の釋におなじ。『五會讚』の文に「萬行之中」といふは、諸善をさす言なり。「爲急要」といふは、念佛を嘆ずる言なり。「本師金口說」といふは、釋尊誠諦の說なり。「十方諸佛」といふは、六方の諸佛なり。六方・十方は、開合の異なり。開するときは十方とす、四方と四維と上下となり。合するときは六方とす、四維を四方に攝するなり。『阿彌陀經』には「六方」ととき、『大經』(卷下意)には「十方世界諸佛如來、皆共讚嘆」ととけり。かるがゆへに和尙、處々の解釋に、あるひは十方と釋し、あるひは六方と判ず。いづれもひとつなることをあらはすなり。十方と釋する文は、當章にひくところの「散善義」の深心のしたの就人立信の釋、ならびにおなじき釋のかみに「決定深信『彌陀經』中、十方恆沙諸佛證勸一切凡夫決定得生」といへる釋、また「玄義」(玄義分)の別時門に「十方各如恆河沙等諸佛、各出廣長舌相遍覆三千大千世界、說誠實言」といへる釋、また『法事讚』の上卷の召請の讚に「十方恆沙佛舒舌、證我凡夫生安樂」といへる等これなり。六方といへる釋は、下卷の唱讚の釋等これなり。『般舟讚』の釋にも、一處には「六方如來慈悲極、同心同勸往西方」といひ、一處には「十方如來舒Ⅳ-0979舌證、定判九品得還歸」と判ぜり。いまひくところの『禮讚』の釋も十方・六方は異本の不同なり。詮ずるところ、六方といへばとて減ずるにあらず、十方といふによりて增すべきにあらず。おなじことなるむねをしめさんがために、處々の釋一准ならざるなり。たゞ恆沙の諸佛、一佛ももれず證誠すとこゝろうべきなり。 第十五 護念章 一 上の章には諸佛の證誠をあかし、この章には諸佛の護念をあかす。證誠・護念相續して、上下次第を成ずるなり。これすなはち『經』(小經)に六方の諸佛の證誠をとくとき、一々に「當信是稱讚不可思議功德、一切諸佛所護念經」ととくによりて、證誠と護念とあひはなるべからざるがゆへなり。 一 所引の文は、これも『阿彌陀經』の文をひくに、たゞちに『經』をばひかず。「觀念法門にいはく」といふて、かの書にひきのせられたる定にその文をひきて、『經』と釋との意を顯なり。「故名護念經」と云までは、『經』を引とみえたり。「護念意者」と云よりは和尙、佛意をえて護念の義を釋せらるゝなり。次に引所の『禮讚』の文も『阿彌陀經』によれる釋なり。これに二重の釋あり。初重に「證誠此事。故Ⅳ-0980名護念經」(禮讚)と釋して、第二重に「次下の文に云」(禮讚)といふて、いまの釋をまふけたり。かるがゆへに、初重は六方證誠の段にあたれり。第二重はおくの「皆爲一切諸佛共所護念」(小經)の文にあたれり。これいまの所引の文なり。そのなかに、「若稱佛往生者」といへるは、すなはち『經』(小經)の「聞是諸佛所說名及經名者」のこゝろなり。「常爲六方恆河沙等諸佛之所護念」といふは、「皆爲一切諸佛共所護念」(小經)の文にあたれるなり。 一 問ていはく、私の釋のなかに、また『禮讚』と『觀念法門』とをひきて、かの兩部にひくところの諸經の文をいだせり。これさきにひくところの二文の一具の文なり。しかれば、もとも『禮讚』の文をばさきの『禮讚』の文にひきくはへ、『觀念法門』の文をばさきの『觀念法門』の文にひき具すべし。しかるに一具の文をひききりてわたくしの釋のなかにひくは、いかなるゆへぞや。答ていはく、一具の文なりといへども、かみの二文は六方諸佛の護念をあかすがゆへに、六方諸佛の證誠についてきたれる章なれば、これを本としてひくなり。私の釋にひき具するところの釋は、たゞ總じて佛・菩薩乃至諸天等の護念をあかすがゆへに、別してこれをひくなり。 Ⅳ-0981一 『禮讚』にひくところの『十往生經』の文に「彼佛卽遣二十五菩薩、擁護行者」といへるは、この菩薩は極樂の聖衆なり。その一一の名字は『往生要集』にみえたり。いまこれを略す。 一 『觀經』の文は、普觀の「无量壽佛化身无數。與觀世音・大勢至常來至此行人之所」の文のこゝろをとりてひくなり。 問ていはく、觀音・勢至の護念はしかなり。二十五の菩薩の護念は『觀經』にその文なし。なんぞ「與前二十五菩薩等圍遶す」といへるや。答ていはく、實に現文にはなけれども、義としてあるべきによりて、かくのごとくひきのせらるゝなり。そのゆへは、觀音・勢至は二十五の菩薩の上首なり。かの二菩薩あらば、餘の聖衆も定あるべし。したがひて、『十往生經』に護念の益をとくに、かの二十五の菩薩をつらねたり。しりぬ、今の『經』にも文は略せりといへども、かならずあるべきがゆへに、かくのごとくひくなり。例せば、かみの章に天台の『十疑』をひきて、文は『阿彌陀經』にありといへども、義は他經にも通ずる義を成ずるがごとし。 一 『觀念法門』にひくところの『觀經』の文は、流通の文なり。いはゆる「觀世音菩薩・大勢至菩薩、爲其勝友」の文のこゝろなり。 Ⅳ-0982一 おなじき所引の『般舟經』の文のなかに、「一切諸天」といふは、總じて三界の天衆なり。「四天大王」といふは、多聞・持國・增長・廣目なり。佛法護持の大將なるがゆへに、ことに護念するなり。「八部」といふは、いまいふところの「諸天」と「龍神」とに、夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦樓羅・緊那羅・摩睺羅伽をくはへて、總じて八部といふなり。「除入三昧道場」といふは、定善入觀のほかといふこゝろなり。これ口稱念佛の益をあらはさんがためなり。 第十六 名號付屬章 一 第十三多善根の章より當章にいたるまでの四段は、『彌陀經』をひくにとりて、かみの三段は正宗の文なり。いまは流通の文をひきて、名號付屬の義を釋するなり。 一 標章に「付屬舍利弗等之文」といへる「等」の字に二種のこゝろあり。一には目連・迦葉等の諸大聲聞、文殊・常精進等の諸大菩薩を等取するなり。これらの菩薩・聲聞は、ともに一會の同聞衆として、みな佛法護持の大法將なるがゆへなり。一には未來の衆生を等取するなり。『法事讚』に『經』(小經)の正宗の「衆生々者皆是阿鞞跋致」といへる文にあたりて告命を釋するに、「釋迦如來告身子、Ⅳ-0983卽是普告苦衆生」(法事讚*卷下)といへば、流通の文もその義おなじかるべきがゆへなり。このふたつの義は異義にあらず、幷べて可存之也。 一 問て云、いまの所引の經文はたゞ一經の說時をはりて、在座の衆の歡喜信受して退散することをとくばかりなり。付屬の義にをきては、文もなし、こゝろもみえず、いかんがこれをこゝろうべきや。答ていはく、三經にをのをの付屬の文あり。『大經』(卷下)には「佛語彌勒、其有得聞彼佛名號」の文なり。『觀經』には「持是語者、卽是持无量壽佛名」の文なり。『阿彌陀經』には、いまの所引の文これなり。この文のなかに付屬の義を含せるなり。そのゆへは、上に「舍利弗、汝等皆當信受我語及諸佛所說」(小經)ととき、釋迦・諸佛の所說名號なることをあらはし、しもに「當知、我於五濁惡世行此難事、得阿耨多羅三藐三菩提、爲一切世間、說此難信之法。是爲甚難」(小經)とときて、釋尊凡地の本行なることをあかし、つぎに「佛說此經已」とときくだしたる說相、もとも付屬の義にかなへり。したがひて、和尙この義趣を解したまへるゆへに、いまの『法事讚』の文にこの經文を釋するとき、彌陀の名號を付屬する義を釋せること、はなはだ『經』の深意を得たまへるものなり。 Ⅳ-0984一 『法事讚』の文は、いまのぶるところの付屬の義を釋するなり。「世尊說法時將了」といふは、『彌陀經』の說時をはるといふばかりにはあらず。ひろく一代諸敎のをはりにこの『經』をときたまへりとあらはすこゝろなり。上の文に「如來出現於五濁、隨宜方便化群萌。或說多聞而得度、或說少解證三明、或敎福惠雙除障、或敎禪念坐思量」(法事讚*卷下)といへるは、一代諸敎の說時をいだすときこえたり。そのつぎに「世尊說法時將了」といへる、一代のをはりといふこと分明なり。かのをはりに釋尊凡地の本行なる念佛を一切世間のためにときて末世に流通するを「慇懃付屬彌陀名」といふなり。 一 「五濁增時多疑謗」以下は、末法五濁の世に念佛誹謗のともがらおほかるべきことをあげて、かつは謗法の罪報をあらはし、かつは懺悔の方法をしめすなり。「如此生盲闡提輩」といふは、念佛誹謗の人を生盲闡提にたとへらるゝなり。かの謗法の人をば无眼人・无耳人となづくるがゆへなり。「毀滅頓敎永沈淪」といふは、まさしく謗法の罪苦をあらはすなり。「頓敎」といふはいまの念佛なり、常沒の凡位よりたゞちに報土に生ずるがゆへに頓敎と釋するなり。「玄義」(玄義分)には「頓敎一乘海」といひ、『般舟讚』には「卽是頓敎菩提藏」といへるこれなり。「永沈淪」とⅣ-0985いふは、苦報の長遠なることをあかすなり。すなはち下の句に「超過大地微塵劫、未可得離三途身」といへる、その義なり。「大衆同心、皆懺悔所有破法罪因縁」といふは、まさしく懺悔をすゝむることばなり。「破法罪」といふは、すなはち謗法罪なり。 問ていはく、いますゝむるところの懺悔といふは、いかやうに修すべきぞや。また念佛の行者かならず懺悔の方法をもちゐるべしや。答ていはく、『禮讚』に三品の懺悔をいだせり。「身毛孔中血流、眼中血出者名上品懺悔。中品懺悔者、遍身熱汗從毛孔出、眼中血流者名中品懺悔。下品懺悔者、遍身徹熱、眼中淚出者名下品懺悔」といへり。起行の邊にて修せんときは、その方法をもちゐるべき。すなはちいまの『禮讚』にいだすところの廣・要・略の懺悔、また『法事讚』にもちゐるところの十惡懺悔等これなり。たゞし『禮讚』にいふところの三品の懺悔をあげをはりて、つぎしもの釋に「此等三雖有差別、卽是久種解脫分善根人。致使今生敬法、重人不惜身命、乃至小罪、若懺卽能徹心徹髓。能如此懺者、不問久近、所有重障頓皆滅盡。若不如此、縱使日夜十二時急走衆是無益。若不作者」といへり。種解脫分善根人といふは、大乘・小乘ともに外凡のくらゐなり。この釋Ⅳ-0986のごとくならば、凡夫この懺悔を修せんこと成ずべからずとみえたり。さればこの釋のつぎに「雖不能流淚流血等、但能眞心徹倒者卽與上同」(禮讚)といへり。眞心徹倒といふは、金剛心なるがゆへに、念佛の信心堅固にして稱名をつとむれば、別してその功をもちゐざれども、懺悔を修する義ありといふなり。『般舟讚』に「念々稱名常懺悔、人能念佛々還憶」といへるも、このこゝろなり。 一 私の釋には、八種の選擇をあげられたり。一々の義みな文にありてみつべし。八種の義、しかしながら諸行をえらびすてゝ、念佛をえらびとるになづけたり。さればこの書のこゝろは、たゞ專修の義をあらはすなり。 一 「計也夫」といふ以下は、總結の釋なり。「速欲離生死、二種勝法中、且閣聖道門選入淨土門」といふは、第一の敎相の章のこゝろなり。「欲入淨土門、正雜二行中」といふより「稱名必得生。依佛本願故」といふにいたるまでは、第二の二行の章のこゝろなり。この二行のなかに選擇するところの正宗の念佛をもて、第三の本願の章の法體とし、その一法にをのをの種々の利益にしたがへ、一々の功德につきて、しもの諸門をひらくなり。 Ⅳ-0987一 善導和尙の德を嘆ずるに、「時人諺曰、佛法東行已來、未有禪師盛德」といふは、少康法師の『瑞應刪傳』に和尙の德行を讚ずることなり。「絶倫之譽」といふは、古今の諸師等のなかにこえたりといふなり。そのゆへは、常沒流轉の未斷惑の凡夫、報佛の淨土にいたるといふこと、諸師のいまだのべざるところ、諸宗のいまだ談ぜざるところなり。これすなはち『大經』(卷下)の文に「聲聞或菩薩、莫能究聖心」といひ、「二乘非所測、唯佛獨明了」と云へる文をもて案ずるに、まさしく正意を解することかたきがゆへなり。しかるに今師ひとり佛意を解して、衆生のために依怙たり。これ權化の再誕なるがゆへなり。このゆへに、かくのごとく嘆ずるなり。 一 ひくところの『疏』の證定分の文に「每夜夢中常有一僧而來指授玄義科文」といふは、ふたつの文點あり。一には「指授玄義科文」とよみては、「玄義」七門の科文をさづくるなり。これはまさしく經文にあたりて一々の義釋をまふくることはつねのことなり。依文にさきだちて玄遠の深義をのべらるゝこと、今家の釋の肝要なり。まことに如來の指授にあらずは、たやすくこの義を解しがたし。されば諸師この『經』について疏をつくるひとおほしといへども、いまだ玄義の釋Ⅳ-0988をつくりたる師なし。しかるにいま、佛の指授によりてこの玄義をのぶとなり。一には「指授玄義科文」とよみては、玄義も依文も、義四卷ともに指授すといふこゝろ也。科文といふは、依文の義なるがゆへなり。さきの義は、四帖の義理ならびに『禮讚』・『觀念法門』等の具書までも、その義みな甚深なりといへども、なを玄義の釋の深遠なる氣味をまさんとなり。さればとて、自餘の釋のおろそかなるべきにはあらず。のちの義は、玄義・依文の釋、いづれも佛意に順ず。用捨あるべからざれば、ともに佛の指授なりといはんとなり。これまた玄義の釋のひでざるべきにはあらず。然れば、兩義ともに相違なきなり。 問ていはく、玄義の釋をつくること今家の釋にかぎらず。いはゆる天台大師、『法華』を釋するに『玄義』十卷をつくりたまへり。また嘉祥大師の釋に『大乘玄』・『三論玄』といふ書等あり。しからば、めづらしきことにあらず。なんぞ和尙の釋をひでたる義とせんや。答ていはく、他師の釋にをきて、おほよす玄義の釋なしといふにはあらず、すなはち天台の『玄義』は名・體・宗・用・敎の五重玄義をあかせり、これも玄遠の旨をのべたる義なり。嘉祥の釋また玄遠の義をあかすをもて玄の名を立たり。今師の釋もその義違すべからざるなり。たゞし玄義の釋をまうくること諸師にひⅣ-0989でたりといふは、諸師は『觀經』を釋するにとりて、玄義の釋のなきことをいふなり。和尙はこの『經』にをきて玄義・依文の二門の釋をつくり給へること、よく佛意を決了し給へりといふなり。 一 「三具磑輪道邊獨轉」といふは、轉法輪の相を標するなり。 一 「忽有一人、乘白駱駝來前、見勸」といふは、「駱駝」は馬なり、白馬に乘ずることは表示あり。釋尊、王宮をいでゝ檀德山に入たまひしときは、白馬に服御し、梵僧摩騰・法蘭、佛敎を漢土にわたしゝときは、經卷を白馬におほせたりき。しからば、佛法修行・經敎傳來の先兆なり。 一 「上來所有靈相者、本心、爲物不爲己身」といふは、夢中の靈相は衆生に信をとらしめて、みづからの釋義をもて西方の指南とせしめんがためなりといふ。和尙は彌陀の化現なれば、所釋佛意に相應すべきことはうたがひなし。しかれども、ことに祈請を出して靈瑞を感ずるは、衆生のためなりといふなり。是則權化の義を顯也。 一 「靜以」といふ已下は、この書の後序なり。はじめより「本迹雖異化導是一也」といふにいたるまでは、まづ高祖の解釋を嘆じ、かねて本迹の行德をⅣ-0990讚ず。「西方指南」といふは、「指南」は先導の義なり。いまだしらざるところにいたることは、先導のちからなり。もしこれをえざれば中途にまよひ、これをえつれば先途に達するなり。いまの解釋をえてその義を決了しなば、かならず西方にいたるべしとなり。「行者目足也」といふは、所求のところにいたることは目足の功なり。されば今の釋は往生淨土の目足なりとたとふ。これすなはち、菩提の寶所にいたることは、智目行足を具せずしてはかなはざるに、念佛は行者の目足として淨土に生ず。いまの解釋の所詮は、念佛なるがゆへにかくのごとくいふなり。「於是貧道」といふより「云歸念佛」といふにいたるまでは、この『疏』を披覽せられし往事をあかして、淨土宗にいりたまひし元起をのぶるなり。「自其已來」といふより「得昇降也」といふにいたるまでは、自行化他の行要をしめして、時機相應の敎益をあらはすなり。「淨土之敎、叩時機而當行運也」といふは、この敎は末法のときに益をほどこすべき敎なり。末法の機は、この敎によりて利をうべき機なり。時と機とあひかなひて巨益あるべしといふなり。「念佛之行、感水月而得昇降也」といふは、水のぼらずして月をうかべ、月くだらずして水にうかぶ。のぼらずくだらずしてしかも昇降をえたる、これ感應道交のゆへなⅣ-0991り。念佛往生のみち、また如來の本願と行者の信心と、機感純熟して往生の益をうべきこと、またかくのごとしといふなり。「而今」といふより已下、卷のをはりにいたるまでは、この書選集の元由をのべ、かねて破法のつみをいましめらるゝなり。「不圖蒙仰」といふは、月輪の禪定殿下の敎命によりて造進せられしことなり。「憖集念佛要文」といふは、經釋の文をひくをいふなり。「剩述念佛要義」といふは、私の料簡をくはへらるゝ義なり。「唯顧命旨不顧不敏」といふは、「命旨」は禪閤の仰なり、「不敏」は卑下の言ばなり。「恐爲不令破法之人墮於惡道也」といふは、かみの所引の文に、念佛誹謗の輩はそのつみ深重にして、大地微塵劫を超過すとも、三途の身をはなるゝことをうべからざることをあかすがゆへに、破法のつみをいましめらるゝなり。いはゆるこの書は、經釋の肝要をぬきて、念佛の深義をのべたり。これを謗ぜば、謗法の重罪をまねきて、地獄の苦報をうくべきがゆへに、後見をはゞかりたまふなり。これすなはち、上には「不顧不敏」といひて卑嫌のことばをのせらるといへども、いまは破法のつみのをもきことをあらはして、のぶるところの義趣の佛意に順ぜることを標するなり。この書には念佛の正義をあかすがゆへに、これを謗ぜば、Ⅳ-0992念佛を謗ずるにあたるべきがゆへなり。されば實に後見ををさふるにはあらず。誹謗正法のつみをつゝしましめんがためなり。ふかく信順の心をぬきんでゝ、修習のつとめをいたさば、ことに弘通の根本としてかの素意にかなふべきなり。 此一部五帖、當寺開山存覺上人御述作也。雖爲一流之祕本、懇望之間書與釋賢意處也。 寛正四歲W癸未R八月晦日記之 釋明覺(花押)