Ⅴ-1171今古獨語 臘月初八の曉、明星を見てよめる。 あかぼしを■みるも悟と■いでそめし■山やうき世の■光りなりけん 昔し大聖世尊、中天竺伽毗羅城淨飯大王の御子に生れさせたまひ、四月八日天上天下唯我獨尊と唱へましまし、十九にして城をこゑ檀特山にこもり、阿私仙人に仕へ、難行苦行十二年の功をつみて、三十にして成道し、釋迦牟尼如來とあらはれたまふ。今南閻浮提に普く衆生得脫の道をきくこと、倂ら今日出山の悟道より起れり。 こゝに古へ實如上人御在世の時、蓮如上人二十五年忌の歲、八月廿八日法談のおりふし仰られしは、八の字につきて殊勝の德あり、ことに御一流にをきて、規模としましますと云云。この旨始て承るによりて、内内ゑらび奉る蓮如上人の御法語、九卷におよび侍るを、八册につゞめ奉る。『釋迦譜』をみるにも、御誕生より逾城出山にいたるまでも、この日をもちゐたまふ。御入滅は十五日、これは滿月Ⅴ-1172の形、成就の表示なるをや。その外諸宗ともに八の字を用る法門、定ていはれあることにや。又九の字も内典・外典共にもて吉兆とす。王位を九五飛龍の位とほめ奉るをや。 こゝに十月廿日、予が病霧はれゆく曉、往事を思ひ和歌を詠吟す。それより同き廿五日にいたるまで、漢和をまじへ十三首、所解の趣き筆にまかせてしるす。そののち廿八日より時時の頓作を書あつめて、九十九首にをよび、先百首に一首をのこし筆をさしをき侍る砌、信秀來ていはく、加州より北地わづらひなく上れるものあり、加・越和談のあつかひこれありと云云。けう心みに眞俗繁榮の嘉瑞とかけりき、仍もて吉祥とす、内心に歡悅きはまりなし。件の日極月五日なり、これ實如上人御母公圓寂の明日、しかも御正忌なり。又五の字も王卦なるをや。そのうへ釋門におきて其例これおほし。五智の如來をはじめ、五時・八敎・五根・五力・八正道・五重唯識・八不正觀等、大乘・小乘いづれも名目其數多し。ことに淨土宗におきて、五種の正行・五種の嘉譽・五乘齊入等、自他宗の所談のべつくしがたし。 しかるに今日常樂寺へ妙意をまいらす。時に北地より信乘法師上洛、攝州より乘Ⅴ-1173心來儀、もとより上公參會、善友あひみて慶樂きはまりなし。この時今師上人御懇意の旨たしかに傳語、賢哲兩君の御芳情きくにしたがひて感淚袖にあまり、報恩まことに謝しがたし。去月十一日初雪のおりふし、同き廿五日雪ふりし時、予定めて吟詠あるべしと尊言ありしとなり。今も所詠にをよぶべしやと、なを窮屈のおりからは思ひよるべき由、閑談ましましけるとなん。愚なる身も獨吟つねに心肝に銘ずること侍り。そのゆへは、去九日端坊におひて、西入と同聞衆とあひ決し、西入虛說あらはれ、諸人の疑心はれ畢ぬ。我いまだこれをしらず、十日の夜、或人來り、ひそかにこの旨を告侍る。かくて寢牀により曉をき出侍れば、白雪遠山にあまねく庭上白たへにみゑ侍る。かの越王勾踐のむかし、會稽の恥を雪むるとかける文字おもひ出られ、よみ侍りし歌に、「古へも恥を雪よめしためしとや■十地を越る一つさとりは」と申し侍りしことのは、御心にもかよひ奉るにや。その前の夜、明公いで來て、やがて歸路ありき。その後十七・十八・十一の願の意、よもすがら思ひ出で、近日書うつし侍る佛陀の一紙のおもてに合せ觀ずるに、自力修行の品位階次を經て、十地より等覺補處の位に至り侍るところに、念佛の行者は、一念發起のとき正定聚不退の位にさだまり、等正覺にいたるとも、Ⅴ-1174彌勒に同じとものべまします。他力不思議の妙敎、信敬きはまりなし。御釋に、「眞知彌勒大士窮等覺金剛心故、龍華三會之曉、當極無上覺位。念佛衆生窮橫超金剛心故、臨終一念之夕、當超證大般涅槃。故曰便同也」(信卷)云云。この御釋亡父筆跡にて寫し奉るを、このほど拜見し、思案日をかさね侍る。『和讚』(正像末*和讚)にも、「五十六億七千萬■彌勒菩薩はとしをへん■まことの信心うるひとは■このたびさとりをひらくべし」と。又「往生淨土のためには信心をさきとす、そのほかをばかへりみざるなり。すべて凡夫にかぎらず、補處の彌勒菩薩をはじめとして佛智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の淺智をや。かへすがへす如來の御誓にまかせ奉るべし」(執持鈔)と云云。 抑純公とりわき懇情たぐひなく、眞俗のまさしき道をまもりたまふ、衆人渴仰の思をいたす。まづ平生兄弟親昵の芳好、餘人にこゑたり。當時親子不和の事、世にみち侍るところに、正路をしたひ給ふ懇念、數年感慨すくなからず、況や予に對し連年の芳情、かの親屬までも同じ心にかたり合せ給ふ、不可思議の宿縁にこそ。 就中明應八年三月九日、蓮如上人御病中、賢息五人の御兄弟に對し被仰のたまⅤ-1175はく、御在世の間におきて、開山聖人の御法流たておほせられ畢ぬ。この趣きかたく末代に至るまで、あひまもりたまふべし。第一兄弟の中よく、眞俗ともに仰せあはせらるべきむね、ねんごろに命じましましければ、實如上人竝に蓮綱・蓮誓・蓮淳・蓮悟、一同に御請をなされ侍りぬ。その時御手を合せられ、いよいよ御一流の儀御繁昌あるべきとの仰なりき。そのうへに重て被仰けるに、いかにをのをの仰せ合せらるといふとも、つきしたがふもの中言をいふことあるべし、この儀をよくよく心え給ふべし。すでに「六親不和にして、三寶の加護なし」(羅什譯仁王經囑累品意*不空譯仁王經囑累品意)といへり、猶々あひたがひに佛法を讚歎し、一味同心肝要たるべきよし、かたく御遺言ありけり。その時蓮藝も御得度ありといへども、若年のあひだ、先御成仁五人をさしまふされしとなり。この御人數都鄙仰合せられ、佛法興隆專一の旨、こまやかに仰せをかれければ、御入滅の後は、いさゝか疎略の輩もたちまちしりぞけられしかば、華夷ともに眞俗恢弘いやましなり。この趣亡父つねづね實玄・顯誓に對して敎訓あり。しかれば一生この遺言の旨、日夜朝暮心にかけ奉るものなり。ことさらこの金言、御門弟たる徒衆あひまもるべし、況や其御子孫におひてをやと、ふかく誡められき。 Ⅴ-1176又永正十五年の比、北國の面々御掟の旨心がけなきにより、國みだりがはしく、他家の偏執あひやまず。然れば向後御異見あるべからざる由仰出さる。ことに三箇條の旨これあり。一には攻戰・防戰具足懸之事。一には贔負偏頗之事。一には年貢所當無沙汰之事。各在々所々に相談し、この趣たしなみをなし、御掟を守るべき由、紙面にのせ連署をあげられしかば、卽上覽にそなへ奉り、各心中改めらるべき段、御本懷の由にて、悉く御赦免なされ畢ぬ。時に永正十六年、蓮誓參洛の折節にて、圓如上人・蓮淳仰合せられ、一決し侍り、同く三井寺公事の義も、もろともに申あつかひ、園城寺懇望の旨、將軍家へ申あげられ、一和成就し顯證寺還住し給ひぬ。これは去る永正十四年、伐木往反の事に、慧林院殿御下知をなされけるを、三井寺上意を用ひず強訴ありしかば、本願寺へ仰付られ、小山の嶺切平げられ、新く道をひらかれ、逢坂往來の義、本願寺門弟の衆を止められしかば、寺門迷惑に及しゆへなり。その後上意として、北陸道あけられ、卽中堂供養事ゆへなく成就、都鄙これより靜謐、人民歡喜この時にあるをや。 然に大永五年正月中旬、實如上人御不例もてのほかの由告來る。これによて蓮悟・蓮慶・顯誓上洛せられ、そのほか南北の一族、諸國の徒衆、みなもて來集す。Ⅴ-1177廿四日蓮淳・蓮悟に對しましまし、御夢をかたり給ひしは、蓮如上人のたまはく、病牀辛勞の趣いたみおぼしめさる、はや御參りあるべしとて、左の御手にて招かせ給ふ。往生の期近き由仰られぬ。又のたまはく、御自ら無智の身なりといへども、前住の御詞の如く、彌陀をたのみ信心決定し往生疑ひなし、かまへて義ばし思ひたまふな、義と云ははからひの詞なり、小智は菩提の妨げと云ことありと云云。同廿八日、實圓・蓮淳・蓮悟・蓮慶・顯誓五人を召寄られ、御入滅の後は、眞俗ともに別してこの人數申合せ、御掟の義守り奉るべし、その趣普く申とゞけ佛法繁昌の道、こゝろにかけ申すべし。今師上人御幼少につきて、直に御相承の義委しからず。然ども遊しをかれ、又たとひ御申なくとも、御智慧うたがひなし。但し御若年につきて仰きかせられずは、信仰の思や、うすくあるべき、をのをの諸人に、御掟の旨よく申達すべし、御掟みだれば不慮の題目出來すべし。然る處に、御掟いるべからざる旨、都鄙に申出すものあるべし。さりながらあひたゝずは、この靈場忽ち馬の蹄にかゝるべし、正く明匠權者の立まします處、空くなるべきこと、一身の嘆これにあり。然ども時刻到來は力をよばず、その時は命を全くして何方にも遁れ、堪忍して今師上人佛法御再興の時の御便となり奉るべき由Ⅴ-1178まで、こまやかに御遺言ありけり。其後實英をして、御一流の義、五人に仰をかる。第一佛法・世法御掟をよくよくまもるべし、諸國共に無事に申調られ、加・越も一和の扱あるべしと云云。本覺寺それより後そのあつかひありとなん。 かゝりし處に、享祿初の比より、實英加州の所領の義申あつかはれ、剩へ越中大田保知行あるべき企ていできたる。超勝寺實顯、又國の成敗を用ひず、連々本寺へ讒訴これありと云云。これによて蓮如・實如仰せ定めまします六箇條・三箇條の御掟やぶれ、國中みだりがはしく、この御掟と申は、往古より開山聖人定めましますといへども、別して蓮如上人吉崎御在國の時仰付られ、かたく末代までこの趣を守り奉るべき由、御門弟中へ示し給ひ、實如上人かの御詞の奧に御判を加へられ、此旨をそむかん輩は、門弟たるべからざる由、定めましまし畢ぬ。 ことに去文明の比、高田門徒、加州の諸武士をかたらひ、吉崎山上へ障礙をなし、そのわざはいゆへ國みだれしかば、御門徒の面々、根本の守護富樫次郎政親を引出し、國靜謐せしめし砌、公武の御本意これにありとて、將軍家奉書を國の面々にくだし給ひ、本願寺へ綸旨をなされ、先方の武士、寺社所領押領いはれなし、前々の如く門弟として異見をなし歸しつけらるべき旨、右中辨政顯承りにて、後Ⅴ-1179正月■日謹上本願寺法印の房と書出され侍りぬ。同く慈照院殿御下知、その外管領已下、武家・公家・寺社の本立懇望しきりなり。然どもこれさらに佛法領の事に非るあひだ、蓮如斟酌ありと雖も、敕定の上は國の面々談合すべき旨内々仰下されしかば、公家心を合せ、當守護政親に懇望せしめ、寺社本所領かへし付られ畢ぬ。此に由て諸家いよいよ當家の義入魂ありし事、偏にこの御掟を守り奉る故なり。然を今さらやぶらるゝ義、しからざる旨、最前御遺言のすぢめをもて、五人の衆、都鄙心を合せ連々申上侍る。然ども調らず、すでに越中の諸侍神保・椎名領中までその望をなす族出る。これによて隣國の武士いよいよあやぶみをなし、諸州穩ならず。この旨加州の老者心を同くして、本寺へその嘆をなし奉ると雖も、却て本寺違背にとりなされ、惡徒の讒訴あひかさなり、執奏の人これなし。されば隣國の武士よしみを通じ、加・越・能州の守護和談の道を扱ひ、越前の朝倉六郎左衞門敎景大將として、一勢合力國ざかひに打出ぬ。これは松岡寺兼玄、數年知音他に異なり、今度山の内より打入、父法印其外一類山中へ召籠申せし故なり。これさらに兼順のぞむ所に非ず。然りと雖も國ざかひ山田に居住せしうへは、是非に及ばず、加・越兩國和談の義、近日國の面々申し扱ひ、成就の上は、眞俗のⅤ-1180正路相立ち、本寺御一和の筋目申たて、吉崎再興すべきなど、内々懇志の舊好申をくりしかば、力なく同心せしめぬ。然れば讒者力を得て、旣に本宗寺實圓・下間源七賴盛、その外同名諸傍輩はせ下り、蓮慶も子息實慶・慶助以下、下間上總法橋賴宣・同名次郎等、山中におきて霜月十八日生害せしめ畢ぬ。父法印は十月十八日病牀に臥して逝したまふ。されば予も力なく、まづ命をのがれ、武士の憐によりて越前へこゑ侍り。 蓮悟はもとより能州守護多年の芳好なれば、其國に申付られ、法徒を引付られ、一宗の法度申談じ、本寺御再興の便成べしとて、その煩ひなし。遂には本寺に對し私しなき旨あひ達すべき由、義統仰せ合せらると云云。然れども讒者の謀か、眞弟實敎は毒にあひて命終あり、あはれなりし事なり。勝興寺實玄、初は各同心なりしかども、内縁にひかれ、又は讒者の調略に由て、その息證玄も能州の張陣などに力を合せ、粉骨をいたされしかども、本來心質直にて、正義を守る人なりしかば、猛惡の輩これをそねみて、終に鴆せしめぬ。それより後は、都鄙共に亂れ、山科の貴坊も回祿ありしかば、いよいよ敵軍威を振ひ、大坂の靈場へも諸勢をさしむかへ、樣々に御心を盡し給しとなり。かの證玄はしばらく光敎寺に同Ⅴ-1181宿せしめ、予が猶子の義申合せしを、實玄の嫡男遠行の後、成仁の子相續その望あり。實玄は連年病氣の身なればとて、強て懇望もだしがたくて、勝興寺へ歸し參ぜし人なり。幼少より蓮誓の庭訓を受し人にて、眞俗につけても正路を心にかけたまひき。今に至るまで實敎・證玄の事慕ひ思ふところなり。 又大坂も數月圍み攻奉りしかども、城中堅固なれば、遂に扱ひをなして軍勢引退きぬ。この折節、敎行寺實誓・同舍弟式部卿賢勝・興正寺蓮秀、忠功をいたし和談の儀とゝのへ給しとなり。その勳勞に由て、賢勝は内陣へ出仕を許されたまひ、蓮秀は一家の列に加へられ畢ぬ。かくて諸侍等一和成就し、御一流の御掟、證如上人いよいよ諸國へ仰下されければ、天下をのづから靜謐せしなり。 然ども加州には超勝寺實顯・子息實照なを權威に誇り、眞俗の道たゞしからず。近曾長享の比、富樫政親謀叛の事も、そのかみ應仁一亂の後、加州先方衆國人等、寺社本所領を抑へをきしを、御懇勞もだし難きにより、内々御門弟の衆政親に申わけられ、昔しの如く守護領の外は、本領を諸家へ渡し申されし處を、又政親忠節により、上意を經て守護職一同に御下知を申うけられ、江州鉤の御陣より御暇を申され、事を左右によせて本願寺門弟の國衆をしりぞけ、本家領ををとすⅤ-1182べき企ありしゆへなり。此義自他申むすび事やぶれしかば、同名泰高を大將として、かの被官人等あひかたらひ、各々諸家の申狀を立侍りぬ。初は越前・越中諸侍も、心を合せし輩も、常德院殿近江の國にて薨御ありし後は、諸家憤り猶々さかんにして、遂に六月の比、高尾の城にてはて給ひぬ。それより以來、あひかはらず寺社本所領わたし申されしを、實顯はからひとして思のまゝに所領を渡し與へ、自分の知行過分になりしまゝ、國の守護諸侍等までもなきが如し。剩へ能・越兩州へ軍勢を差し遣はし、國中も穩かならず、人民あやぶみをなし、眞俗ともにみだれゆきしかば、邪惡身につもり、父兄は病死し、その弟超勝寺敎芳は遂に國の中を立さりぬ。 就中本善寺實孝、五十九歲にして天文廿二年正月廿六日往生、その眞弟證祐も同廿三年遠行、これに由て順興寺實從の長子その跡をつぎ給ふ。本德寺實圓は弘治元年十二月十八日に卒逝、その孫弟證專相續あり。然れば則顯誓も極月二十日播州へ下向せしめ、かの國におひて葬禮中陰とりをこなひ、五旬すぎて上著。それより當寺に安住せしめ、聞法歡喜の思念、佛祖の照覽、一生の喜樂、これにすぐべからざるものか。然に弘治第三の年、嚴師御祝儀の喜兆、晴元より御契約あⅤ-1183ひ調り、諸人千秋萬歲を祝し奉る。其比妙祐禪尼もかの役に從ひ侍しかば、とりわき親く御詞をそへ給き。 永祿元年戊午七月十七日、今師上人の御母公顯能禪尼御薨逝、御年いまだ三十七歲、證如上人に別れさせ給ひしをさへ、哀れなる御事に申侍りしに、僅に五とせの中になくならせ給ふ。言の葉もたへたる事にこそ。其年九月十六日、嚴師御嫡男生れさせおはします。この折節まで、世にましまさゞりし事よと、ほいなく人皆申あひ侍る。 その年冬の初順興寺實從牧方へ移り給ひ、住持しおはします。この砌より顯誓めしいだされ、慶壽院殿御申をなされ、御堂の勤行調聲の事つとめ申べき旨仰出さる。同く御影堂御鎰の事、大藏卿賴良御使として仰出さる。ふかく斟酌をなし申すと雖も、御前へめし、直に先つとめ申べき由仰付られ畢ぬ。卽實從にこの旨申入、樣體をうかゞひ申侍る。十二月九日これ始なり。巡讚は弘治[■■]霜月報恩講より仰付られ、その後御式も御免許にてよみ奉り侍る。 抑開山聖人三百年忌、永祿四辛酉年に當り給ふ。これに由て諸國御門弟、御一門一家、その外坊主衆參洛。但し三月の比、引上られ勤修あるべき由、年内よりそⅤ-1184の沙汰これあり、兼てはまた、今師上人禁裏より門跡になし申さる。敕使は萬里小路前内府秀房公なり。されば下間一黨も坊官の准據たるべしとて、大藏卿法橋御使節として、内裏出仕の儀前々にかはれり。然れば左衞門太夫賴資も落髮ありて上野賴充と號し、卽法橋に敍す。丹後賴總も法眼に敍せり。それに付て、本宗寺・顯證寺・願證寺、院家の望み天氣を經られ、門跡へ申入られ、永祿第三の冬の比、素絹・紫袈裟にて出仕あり。それより後、敎行寺・順興寺・慈敬寺・勝興寺・常樂寺、院家に定りぬ。然ば御佛事の儀式、當分御門跡になし申され候と申し、院家各々出頭、ことさら御年忌邂逅の御事なれば、他宗の衆參詣もあるべし。先聖道の衣裳しかるべき由にて、法服・衲袈裟用意あり。靑蓮院門跡の出世松泉院法印に御談合と云云。法事の作法は、日中「三部經」一卷づゝ伽陀あり。讀誦の後、まづ導師禮盤に向ひ三禮、其後「十四行偈」を始め行道、次に漢音の『阿彌陀經』、念佛回向なり。導師は御堂衆賢勝・敎明・明覺寺・光德寺かはるがはる勤めらる。内陣行道の衆は、御門主・本宗寺・願證寺・顯證寺・敎行寺・慈敬寺・常樂寺幷に御堂衆なり。役者は常の如し。南の御座敷も、疊まはり敷になされ、著座の衆、順興寺・光敎寺・願得寺・光善寺・本善寺等、その外一家衆坂東Ⅴ-1185の阿佐布の善福寺在京の間、末座に候せらる。坊官衆も、白袈裟・裳付衣にて、侍衆の前に出仕、坊主衆も白袈裟・裳付衣なり。連經の衆と云云。衣裳は、行道衆、法服・金襴衲袈裟・橫被裳・水精七裝束數珠・檜扇・草鞋。御堂衆同前。但し行道より前は、後戸の縁に祗候、導師の衆ばかり著座。南座敷の衆の出仕も同じ。去ながら太夜は織袈裟・素絹・裳付衣。但し南座の衆は絹袴を著せず。朝勤・齋・非時も同じ。坊主衆も白袈裟・裳付衣にて、そのまゝ御堂へ出仕ありき。淨照坊は所勞の事なれば、出頭これなし。次に堂莊嚴の樣、まづ御廚子の内を金になされ、外の彫もの綵色なをされ、釣燈臺も金に拵へらる。前の机大になされて、それに隨ひ打敷・水引用意あり。華束は十合、佛壇にまいる。香立も金に、金地の上に著色に唐華を書せらる。もろかざりは例年の如く、二の間押板には、傳繪四幅の前に三具足を卓の上に置る。兩の脇には、大なる卓に經をすへ置れ、日中の前に面へ出さる。南座數の衆は懷中ありて出仕。御佛事は十日の間なり。御影堂の内には坊主衆相伴の衆候して、其外は矢埒の外に參集。廣縁の通より平張を高く打せられ、阿彌陀堂と同くやねを假葺にせられしかば、諸人もその中に祗候ありけり。他宗の僧徒交り、紛はしく、かたがた御用捨にや、例年の如く法Ⅴ-1186義懇談に及ばず。法事結願成就の後、御影前におきて、猿樂宴酒の儀も寢殿の前にてこれあり。 その後霜月御正忌は、去春御取越の間、三箇日とり行はる。淨照坊望申さるゝにより、法服・衲袈裟著用にて導師勤仕あり。綾の袈裟・裳付衣、一家衆の如し。又始て散華のこと申され、内陣の衆華籠これをもつ。北座は顯證寺・敎行寺・慈敬寺・常樂寺・予なり。南座は淨照坊・法專坊・敎明・明覺寺・乘賢・敎宗なり。南座敷衆、所勞出仕無之、與著座去春の如し。去ながら一家衆、絹袴各々著用。淨照坊は望申されしかども、その儀なし。坊官衆、絹袴・裳付衣・白袈裟にて正面に著座、丹後・上野・大藏卿・筑後等なり。御講中は、御式太夜にこれありと雖も、當日には、法服にて日中に讀せらる。每夜改悔讚歎もあるべき由なり。 翌年は報恩講行道これなし、衣裳は去年の如し。勤行は例年にかはらず。一七日坊主衆頭人の勤め等も前々の如し。御式は初・中・後御門主遊ばされ、そのあひだ顯證寺・敎行寺・順興寺・慈敬寺・常樂寺・予勤め奉る。 同六年、御佛事に純色の事仰出され、太夜にこれを著用。御堂衆同前。座配は例年の如し。丹州を始め、各々法服・純色・衲袈裟等用意ありけり。これより後每Ⅴ-1187年の儀式となりぬ。 然る處に、永祿七年十二月廿六日はからざるに回祿の事ありて、御坊中一宇も殘らず燒失ありしかども、程なく御再興、造立事ゆへなく成就せしかば、霜月報恩講には、昔の如く法事執行ひおはします。されば近年御一流御掟の義、その沙汰なき事いはれなし。この砌より前住の御在世の如く、每朝御法義御影前に於て讚歎あるべき旨、御堂衆に仰出され畢ぬ。法事の作法も同。 八年報恩講は、太夜・日中、素絹・綾袈裟・絹袴、朝勤・非時、直裰・絹袈裟。總一家衆、絹袴。御堂衆、日中白袈裟・裳付衣、太夜同前。南の座敷の疊もつめしきになりぬ。内陣には廻り敷の外に左右に二帖づゝ敷かる。これは興正寺當年始て内陣出仕の故歟。その上に、中將・侍從・少將著座、翌年よりこれなし。坊主衆衣裳は先の如し。 同九年八月十三日證如上人御十三年忌、一七日勤行。衣裳は日中、素絹・絹袴・綾袈裟、太夜、直裰・絹袈裟、朝勤同前。坊主衆は裳付衣停止の由仰せらる、白袈裟はかけらる。報恩講には太夜・日中、素絹・絹袴・織物袈裟、内陣の衆ばかりなり。南座數の一家衆は、太夜、直裰・絹袈裟、日中は裳付衣・綾袈裟、衣もⅤ-1188所持に隨ふべき旨仰らる。御堂衆も太夜は直裰・白袈裟、裳付衣は日中ばかり也、坊主衆は齋非時共に布袈裟舊儀の如し。一家衆は直綴・絹袈裟・木數珠・末廣の扇なり。齋非時同前。又當年報恩講、御廚子の扉も御戸兩方へ開き申、華束は二合まいる、株立金なり。華續も金にせられ、繪をば書せられぬ。八月には華續白く株立はあかゝりき。 茲に十三日御正忌のまへ、勢州より願證寺佐玄上洛、先師敎幸遷去の後、院家相續その望あるゆへなり。去ぬる夏の比、敎行寺佐榮、彼先考遺言の筋目申上られ、今師上人恩許ありしかば、同く懇望。然る處に兩人若年たり、予老齡の身數年參仕、その座配いかゞの由思召よられ、佐玄出頭よりまへに院家たるべき旨仰出され畢ぬ。御恩恕一しほ忝く存じ奉る者也。其後又本善寺佐順も父公兼智の例申入られ、院家に補せられ、皆紫地の織袈裟にて出仕あり。同下旬、顯證寺敎忠法印加階の儀御望により、本宗寺敎什・慈敬寺敎淸・常樂寺純慧、一度に法印に敍す。予も同日に同官に敍す。超涯の極位、嚴師の高恩、眞俗にあづけて慈愍、報謝しがたきものをや。よりて由來の縁をしるし、いよいよ師德の大いなる趣を、筆にあらはし奉るところなり。 Ⅴ-1189右此兩册今古獨語者、最前數日之蟄居、徒然之餘暇、所記之吟詠、至于九十九首、先閣筆訖。是者始之一卷、二河白道之釋云、是道自東岸到西岸、長百步者、人壽百歲譬之、行一分二分者、年歲時節喩之云云。准之奉待其時者也。然當月始比、又任筆一生往事記之。是者數年代々師恩戀慕報謝之爲也、兼亦生平憂喜之行狀呈之。殊今度隨身之聖敎本書、數返奉拜讀、彌佛祖之御恩德信知之。隨而先考所記之要文、蓮如・實如・圓如之御書、先年火事之時、纔一筐相殘在其中。此度靜拜見之、深奉仰往昔之芳契者也。報恩講式云、惡時惡世界之今、常沒常流轉之族、若不受聖人之勸化、爭悟無上之大利。旣揮一聲稱念之利劍、忽截無明果業之苦因、忝乘三佛菩提之願船、將到涅槃常樂之彼岸。彌陀難思之本誓、釋迦慇懃之付屬、不可不仰。諸佛誠實之證明、祖師矜哀之引入、不可不憑。因茲各持本願稱名號、彌協二尊之悲懷、戴佛恩荷師德、特呈一心之懇念。W已上R倂聞持此師說、彌所蓄信心也。尤可貴之、專可仰之。 于時永祿十年十二月十五日書之 Ⅴ-1190[本に] 元龜三年二月十三日書寫之 今古獨語 元祿十五壬午歲二月四日寫之正本在性應寺 今由轉寫本寫之■光瀨寺雲堂乘貞