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凡夫といふは

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、…

(「一念多念文意」『註釈版聖典』693頁)

現代語訳

「凡夫」というのは、わたしどもの身にはあるがままのありようを理解できないという、最も根本的な煩悩、迷いの根源が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終ろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、…

 

これまで宗教ということにご縁が無かった方にとって、ただただ「救い」を押しつけられても、自分が救われるべき存在であると思っていなければ、その言葉はむしろマイナスのイメージを抱かせてしまうかもしれません。しかし、それすらも見通され、「摂取不捨」、おさめとって捨てない、背を向けて逃げるものを見放さず、追いかけて抱きとめるというのが、浄土真宗の救い、阿弥陀さまのはたらきなのです。

浄土真宗の教えに生きられた親鸞さまのご著書の中には、このご文のように、私たちを、というよりもご自身を深く見つめられ、その姿をごまかすことなく、とりつくろうことなくありのままに示されているところがいくつもあります。しかし、これは親鸞さまが悲観的な人物であったからではありません。本当の自分を知ることができるのは、そのありのままの自分を受け止めてもらえるという確信があるからこそできるものです。逃げ出したくなるような自分の姿、そんな私だからこそ見捨てはしないと抱きとめてくださっている。だからこそ、そんな自分の本性に向き合うことができ、いよいよ私こそが最も救われるべきものであったということが知られてくるのです。

 

文・紫雲龍教
2014(平成26)年3月