Ⅳ-1379辯述名體鈔 高祖親鸞聖人御在生のとき、末代の門弟等、安置のためにさだめおかるゝ本尊あまたあり。いはゆる六字の名號、不可思議光如來、无㝵光佛等なり。梵漢ことなれども、皆彌陀一佛の尊號なり。このほか、あるひは天竺・晨旦の高祖、あるひは我朝血脈の先德等、をのをの眞影をあらはされたり。これによりて、面々の本尊、一々の眞像等を、一鋪のうちに圖繪して、これを光明本となづく。けだし、これ當流の學者のなかに、たくみいだされたるところなり。 まづ不可思議光如來といふは、かの如來の智慧の光明、その德すぐれたうとくして、心をもてもおもひがたく、ことばをもてもはからずといふことばなり。この不可思議光如來をもて、中央にすゑたてまつらるゝことは、彌陀如來の眞實報身の德をほめたてまつる御名なるがゆへなり。これすなはち聖人、彌陀の身土にをいて眞佛土・化身土をたてたまふとき、眞佛土を釋すとして、「佛はすなはちこれ不可思議光如來、土はまたこれ無量光明土なり」(眞佛*土卷)と釋したまへり。Ⅳ-1380このゆへに、眞佛の體なるをもて中尊とせらるゝなり。そもそもこの不可思議光如來といへるは、聖人のわたくしにかまへたまへる意巧か、また經釋のなかにその證ありやといふに、更に聖人の今案にあらず。經說よりいで、釋義よりをこれり。まづみなもとをたづぬれば、『大經』の四十八願のなかに、光明无量の願成就したまへるゆへに、諸佛にすぐれて十方にきこゑずといふことなきなり。その光明の功德の无量なるなかに、要をとりてこれをいふに、十二光の名あり。一には无量光佛、二には无邊光佛、三には无㝵光佛、四には无對光佛、五には炎王光佛、六には淸淨光佛、七には歡喜光佛、八には智慧光佛、九には不斷光佛、十には難思光佛、十一には无稱光佛、十二には超日月光佛なり。このなかに、難思光佛、无稱光佛と云るは、すなはちいまの不可思議光如來のこゝろなり。心をもてをもふべからざるところを難思光佛といひ、ことばをもてはかるべからざる義を无稱光佛と稱するなり。この二の名を取合て不可思議光如來となづけたてまつるなり。こゝをもて、同き『經』(大經*卷上)のなかに、あるひは「无量壽佛の威神光明、最尊第一にして、諸佛の光明のをよばざるところなり」といひ、あるひは「佛ののたまはく、われ无量壽佛の光明、威神巍々殊妙なるをとかんに、Ⅳ-1381晝夜一劫すとも、なをしいまだつくすことあたはじ」といへる、みなこれ不可思議光の心なり。またこの一經の說のみにあらず、『無量壽如來會』に、同じく種々の異名をとくなかに、まさしく不可思議光をあげたり。无量光明土の名も、同じき『經』の說よりいでたり。經說かくのごとし。つぎに解釋のなかには、曇鸞和尙の『讚阿彌陀佛偈』に、まさしく「南無不可思議光、一心歸命稽首禮」と釋したまへる、これなり。聖人これらの經釋によりて、義をたて名をあらはし給へるなり。是則かの阿彌陀如來は、四重五逆の罪人なれども、廻心すればことごとく往生をゑ、五障三從の女人なれども、稱念すればかならず濟度にあづかる。一毫の煩惱をも斷ぜず、一分の智品をも證せざる凡夫、たゞちに界外無漏の報土にいたるといふことは、一代の諸敎に談ぜず。たゞ彌陀一佛の超絶の利生なるがゆへに、この利生のきはまりをもて不可思議光如來となづけたてまつるなり。 つぎに南无阿彌陀佛の名號は、まさしき所歸の行體なり。これをもて、もとも中尊に案ぜらるべしといへども、あみだ佛といへるは天竺のことばなるがゆへに、たゞこの六字にむかふときは、その義きこゑず。このゆへに、不可思議光如來を中にすへたてまつりて、まづ利益のとをきこと、心もことばもをよばざる道理をⅣ-1382しらせて、其後この名號に向ひたてまつるとき、かの不可稱不可說なる體は、南无阿彌陀佛にてましましけりと、しらせんためなり。 つぎに无㝵光如來は、これも彌陀の尊號なり。是則さきにいだすところの十二光佛のなかの无㝵光なり。盡十方无㝵光といふは、十方をつくしてさはりなきひかりといふ。これ天親菩薩の『淨土論』よりいでたり。さはりにつきて内障・外障あり。外障といふは、山・林のかげ、雲・霧のへだて等なり。内障といふは、貪瞋癡の三毒をよび一切の邪業繫等なり。彌陀の光明はこれらの一切の障㝵をはなれて、あまねく十方世界をてらして利益をほどこし給ふがゆへに无㝵光如來と申すなり。その利益といふは、念佛の衆生をおさめとりてすてたまはざるなり。善導和尙の釋に、「唯觀念佛衆生攝取不捨」(禮讚)といへる、これなり。しかれば、南无阿彌陀佛といへるも、不可思議光・无㝵光といへるも、みな彌陀一佛の御名なり。そのなかに、まづ不可思議光といへる晨旦のことばのさとりやすきをさきとして心をえさせて後に、この不可思議の體は卽南无阿彌陀佛なりとしらせ、この南無阿彌陀佛の德を、または无㝵光佛ともなづけたてまつることをあらはさんがために、かくのごとく次第してすゑたてまつらるゝなり。名號Ⅳ-1383はまさしき行體なるがゆへにみぎにすゑたてまつられ、无㝵光はその德をあらはすことばなるがゆへに左りに安ぜらる。聖人の御意は、内典には右を賞すべしとおぼしめすがゆへなり。 つぎに二尊の形像をもてまへに安ぜられたり。まづ彌陀の形像は、『觀經』の像觀のこゝろなり。かの『經』に十三定善をとくなかに、第八の觀は像觀なり、これ形像なり。第九の觀は眞身觀なり、これ淨土の如來なり。これすなはち衆生さはりをもくして、はじめより六十萬億の身量を觀ずることかなうべからざるがゆへに、まづこゝろを形像にとゞめて、次第に轉入して淨土の如來を觀ぜしめんとなり。これあさきよりふかきをおしへ、假より眞にいる義門なり。かるがゆへにかの說相にまかせて、まづ形像を體として、その阿彌陀佛の眞實の體は不可思議光・无㝵光の體なりとさとらしめんがためなり。繪像にかき、木像につくれるは、ちゐさく書ばちゐさきかたち、おほきにつくればおほきなるすがたなり。たゞその分をまもるがゆへに眞實にあらず。不可思議光如來とも、無㝵光如來ともいひて、文字にあらはせるときは、すなはち分量をさゝざるゆへに、これ淨土の眞實の佛體をあらはせるなり。しかれども、凡夫はまどひふかく、さⅣ-1384とりすくなきがゆへに、あさきによらずは、ふかきをしるべからず。方便をはなれては、眞實をさとるべからざれば、ふかきもあさきも、みな如來の善巧、眞實も方便も、ともに行者の依怙なり。このゆへに、あるひは形像を圖し、あるひは文字をあらはして、眞假ともにしめし、梵漢ならべて存ずるなり。いづれも彌陀一佛の體なりとしりて、ふかく歸敬したてまつるべきなり。 つぎに釋迦の形像をのせらるゝことは、一代の本師、二門の敎主なるがゆへなり。そのゆへは、彌陀如來大悲のちかひをたれたまふとも、釋尊これをときたまはずは、衆生いかでか信知することをゑん、彌陀を念ぜんひと、ことに釋尊の恩德を報ずべきなり、しかれば善導和尙の『往生禮讚』のはじめに、まづ本師釋迦如來を禮し、つぎに一切諸佛を禮したまふ。これすなはち釋迦は能說の恩を報じ、諸佛は證誠の德を謝せんがためなり。さればとて、念佛にならべてこれを稱念せんことは、專修のこゝろにあらず。釋尊は彌陀の名號をとなへて西方にむまれよとをしへ、諸佛はこれを信ぜよと舌をのべて同心に證誠したまひたれば、かのをしへにしたがひて、ふたごゝろなく彌陀に歸したてまつるならば、釋迦・諸佛の本意にもかなふべき也。 Ⅳ-1385つぎに三菩薩のなかに、勢至は淨土の菩薩、等覺の位なり。かるがゆへに中尊とす。龍樹・天親は穢土の菩薩なり。それにとりて出世の前後により、地位の高下につきて、左右に居したまへり。まづ勢至菩薩は、彌陀如來の右脇の弟子なり。彌陀の慈悲をつかさどれるを觀音となづけ、彌陀の智惠をつかさどるを勢至と號す。かるがゆへに十方世界に念佛三昧のひろまることは、これ勢至のちからなり。このゆへに、『首楞嚴經』(卷五)には「念佛のひとを攝して淨土に歸せしむ」ととけり。源空聖人も、すなはち勢至の化身なりとしめし給。かるがゆへにことさらこれをのせたてまつらるゝなり。 つぎに龍樹菩薩は、新譯には龍猛と云、八宗の高祖、千部の論師なり。釋尊の滅後五百餘年にあたりて出世したまへり。かの『楞伽經』(魏譯卷九總品意*唐譯卷六偈頌品意)の、釋迦如來かねてときたまへるやうは、「南天竺國のうちに、龍樹菩薩世にいでゝ、有无の邪見を破すべし。大乘无上の法をとき、歡喜地を證して、安樂國に往生せん」と未來記したまへり。「大乘無上の法」といふは、いまの无上大利の功德なり。「安樂に生ぜん」といふは、すなはち彌陀の淨土にむまれんとなり。これによりて、『十二禮』・『十住毗婆沙論』等をつくりて、專ら彌陀の名號をほめ、易行の一道Ⅳ-1386をすゝめたまへり。しかれば、もとはこれ眞宗の高祖、いまはまた淨土の一聖なり。かるがゆへにこれをのせたまへり。 つぎに天親菩薩は、新譯には世親と云。これもおなじく千部の論師なり。滅後九百年にあたりて出世したまふ。『淨土論』をつくり、あきらかに三經の大意をのべたまへり。このゆへに、淨土の正依經論をさだむるとき、經には三部の妙典をとり、論にはこの一論をもちゐる。すでにこれ淨土の大祖なり。行者もともあがめたてまつるべきがゆへに、これをのせたまへり。これについて不審あり。勢至は釋迦の脇士にあらず、龍樹は勢至の附法にあらず、天親また龍樹の弟子にあらず。なんぞかくのごとくつらねらるゝやと、おぼつかなし。これをこゝろうるに、いま圖繪せらるゝところは、かならず血脈相承の次第にあらず。さきにのぶるがごとく、勢至は彌陀の智慧門をつかさどり給がゆへに、彌陀如來より念佛三昧を相承したまへる篇をもて、これをのせらるゝなり。龍樹・天親の二菩薩は、これもあながちに師資相承の義にあらずといへども、ともに西天の高祖として、おなじく千部の論主にてまします。各この敎をもはらにせらるゝゆへに、いづれもいかでか依憑したてまつらん。ならべてすえたてまつらるゝに相違なし。Ⅳ-1387いはんや、二菩薩ともに滅後の論師として釋尊の化をうけたまへりといへども、龍樹より天親につたふといふこゝろ、ひとすぢに、またなかるべきにもあらず。そのゆへは、この二菩薩をのをの滅後の佛化をたすけて、外道の邪執を破せらる。淨土の一門、解行わたくしなし。後代出世の天親、なんぞ上代出世の龍樹をもちゐたまはざらんや。しかれば曇鸞和尙、天親の『淨土論』によりて註をくはへらるゝとき、まづはじめに龍樹の『十住毗婆沙論』をひきて、難易の二道をあかされたり。是則かの龍樹の判じ給へる二道のなかに、しばらく易行の一道によりて、天親菩薩いまの『淨土論』をつくりたまへることをあらはさんがためなり。しかのみならず、善導和尙の『往生禮讚』にも、日沒と初夜とは『大經』の心により、中夜は『十二禮』の文を誦し、後夜は『淨土論』の說をぬきいでられたり。釋尊・龍樹・天親と次第せんこと、これまたその證なるべし。これらの義をもて、かくのごとく圖せらるゝかと存ずるところなり。つぎにまた不審あり。勢至は淨土の聖衆なれば、菩薩のかたちに圖せらるゝことしかるべし、龍樹・天親はこの土の高僧なり、なんぞ勢至とおなじくまさしく菩薩のかたちならんやと、おぼへたり。これをこゝろうるに、龍樹は初地の菩薩なり、また淨土の一聖につらⅣ-1388なれり。天親もまた十廻向の向滿の菩薩なれば、すでに證位にとなれり。いづれも内證をいふに、菩薩のかたちならんこと相違あるべからざるゆへに、かくのごとくあらはしのせらるゝなり。 つぎに菩提流支は天竺の高僧、翻經の三藏なり。ことに淨土をねがひて、もはら『觀無量壽經』をたもちたまへり。 つぎに曇鸞和尙はもとは四論宗のひとなり。四論といふは三論に『智論』をくはふるなり。三論といふは、一には『中論』、二には『百論』、三には『十二門論』なり。また陶隱居といふひとにあひて、仙方を學せられき。いのちながくて、よく佛法のそこを習ひきはめんがためなり。しかるに菩提流支にあひて、この土の仙經にまさる仙方やあると尋給ひしとき、かの『觀經』をあたへ給ひしによりて、たちまちに十卷の仙方をやきすてゝ、淨土門に入給ひき。それよりこのかた、たちまちに四論の講說をすてゝ、一向に淨土に歸し給ひけり。卽天親の『淨土論』を註解したまふ。また『讚阿彌陀佛偈』といへるふみも、この和尙のつくり給へるなり。 つぎに道綽禪師は、本は涅槃宗の學者なり。これは曇鸞和尙面授にあらず、その時代一百餘年をへたり。しかれども、鸞師の碑の文をみて、淨土門にいり給Ⅳ-1389ひしがゆへに、かの弟子たり。これもつゐに涅槃の廣業をさしをきて、ひとへに西方の行をひろめ給ひき。『安樂集』二卷をつくり給へり。 つぎに善導和尙は、道綽禪師面授の弟子、もはらこれ眞宗の宗師なり。あるひは彌陀の化身といひ、あるひは釋尊の再誕といふ。五部九卷の文義をのべて、凡夫往生の直路ををしへたまふ。いはゆる彌陀の淨土を報土とさだめて、而も別願の強縁に託して、未斷惑の凡夫往生をとぐる義、善導和尙の料簡よりいでたり。この義、諸佛に證をこふてさだめ給へり。あふいでこれを信ずべし。 つぎに懷感禪師は、法相宗のひとなり。善導和尙にあひたてまつりて、淨土に歸し給ひき。『群疑論』七卷をつくりたまへり。 つぎに少康法師は、もとはこれも法相宗のひとなり、また持經者なり。昔白馬寺の經藏にいたり給ふに、よるひかりをはなつ經卷あり。これをさぐりとり給ふに、善導和尙の釋なり。また長安城の善導和尙の影堂にまうでたまふに、影像化して佛身となりて、康師のために說法したまひき。それよりふかく淨土をねがひて、ひとへに彌陀に歸したまふ。『瑞應刪傳』をしるし給へり。ひとつたへて和尙の化身なりといへり。このゆへに後善導と號す。これまた和尙の滅後の弟Ⅳ-1390子なり。かつは和尙の德行をあらはさんがため、かつは諸宗の智德の淨土に歸することをしめさんがために、これをのせられたり。 つぎに法照禪師は、これも善導和尙の後身なり。かるがゆへに同じく後善導と申す。また廬山の彌陀和尙ともなづけたてまつる。淸涼山の大聖竹林寺にまうでゝ、生身の文殊にあひたてまつりて、未來の衆生はいかなる行を修してか生死をはなるべきと、問たてまつり給ひければ、阿彌陀佛を稱念すべしとをしへ給ひけり。『五會法事讚』一卷をつくり給へり。これも善導和尙滅後の弟子なり。いまこれをのせらるゝこと、子細さきにおなじ。 つぎにわが朝の先德のなかに、まづ聖德太子をつらね給へり。これもひとへに自宗の祖師にあらず、血脈相承の儀にあらずといへども、この日本國に佛法をひろめ給ひし恩德をしらせんがために、ことさらこれをのせたてまつらるゝなり。なかにつくに、聖人、六角堂の利生によりて、みづからもこの法をたもち、ひとををしへてもあまねくひろめたまふがゆへに、ことに太子をあがめたまへり。 つぎに惠心の先德は、天台の碩德、靈山の聽衆なり。而るに淨土の一門をきめて濁世末代をすゝめたまふ。『往生要集』三卷をつくり給へり。かの集にひきもⅣ-1391ちゐらるゝところ、おほくは善導和尙の釋なり。和尙の宗旨をつたへらるゝとみえたり。 つぎに源空聖人は、もとは天台の學徒、のちには眞宗の大祖たり。宗をたて行をもはらにすること、わが朝の化導、これよりことにさかりなり。はじめには慧心の『往生要集』をみたまひて、みづから眞門にいり、のちには和尙の『觀經義』をひらきて、宗旨をゑたまへり。『選擇集』一卷をつくり給へり。かの集にのべらるゝがごとくは、和尙をもて師承をさだめらるとみゑたり。 つぎに親鸞聖人は、源空聖人の面授弟子なり。これももとは天台の學者なり。九歲にして慈鎭和尙の門下につらなりて、顯密の兩宗を兼學し、廿九歲にして源空聖人の禪室にいりて、淨土の一門を受學し給ひき。それよりこのかた、ひとへに一向一心の深信をたくはへ、ことに專修專念の一行をひろめたまへり。勸化のあまねきこと、ちかきよりとをきにいたり、化導のひろきこと、たかきよりいやしきをかねたり。『顯淨土眞實敎行證文類』六卷をあつめたまへり。相傳の要義かの書にあきらかなり。そのゝちの師承、次第に相承して、みなかのをしへをうけ、をのをのその信心をつたへたまへり。このゆへに、うくるとこⅣ-1392ろの餘流、門葉につたへてたゆることなく、ひろむるところの妙義、當時にいたりてますますさかりなり。このほか信空聖人・聖覺法印は、源空聖人の弟子として、親鸞聖人には一室の等侶なり。信空は、もと叡空聖人の弟子にて、眞言ならびに大乘律等を行學したまひしが、淨土の信心にいたりては、空聖人のをしへをうけて門徒の上足たりき。聖覺は、天台一流の名匠、論說二道の達者にて、朝家にももちゐられ、ひとにもゆるされたまひしが、これも空師の勸化をうけて、ふかく眞門に歸し給ひけるなり。『唯信鈔』といへる假名の書は、この人のつくり給へるなり。件の二人は同學のなかに、ことに鸞聖人と安心一揆したまひけり。このゆへに、かゝるやんごとなき人々の、かの門葉につらなれることをあらはして、かつは明師聖人の德をしらしめんがため、かつは安心一味の分をしめされんがために、これをのせたまへるなり。 應永廿四歲W丁酉R四月廿九日、以或本令書寫之、先老御草歟、不分明。雖然依爲最要寫之。是又爲後才可全之祕藏云々。 愚昧沙門光覺(花押)