Ⅳ-0853淨土見聞集 つたへきく、閻魔王はかゞみを塵の小罪にかけてしり、倶生神は筆をつゆの輕罪にそめてしるす。しかるにわれら惠刀やいばなし、なんぞ煩惱のつなをきらん。戒珠きずあり、いかでか生死のやみをてらさん。こゝにわれら最後のいきひとたびたえ、人間の報すでにつきて臨終にまなこさらにとぢ、よみぢにむかはんとするとき、三人の羅刹婆、冥途よりたちまちにきたりて三魂をめして秦廣王の廳につく。はじめて罪門關樹のもとにありて、かなしみのなんだを中有のちまたにながす。たのみをかけし親族は、古郷にないてわれをしらず、こゝろにたくみし罪業は、前後にまつはりて身をはなれず。をくれたるものはかなしみのなみだのんどにむせび、さきだてるものはなやみのうれへ體に變ず。しかうしてのち、暴風ふききたりて關樹の葉をふきをとすに、ことごとくつるぎとなりて身をつらぬく。その葉こかしはのごとし。つるぎの身にたつ多少によりて業の淺深をしる。そののち死天の嶮山をこえて奈河の幽岸にいたる。 Ⅳ-0854二七日のとまり初江王の廳につく。すなはち脫衣鬼をめして罪人のころもをぬがしめて衣領樹にかく。えだの低昇にしたがひてつみの輕重をさだむ。もし慚愧のころもをきざれば、身の皮をはがる。くるしみしのぶべからず。 三七日には宋帝王、罪人の名をしるし、亡者のところを錄して、黃泉のきしよりゐていでゝ、奈河の津をおとし喪途河をわたす。引路の牛頭は鐵棒をもてみちををしへ、催行の馬頭は鐵叉をもてながれをしめす。 四七日には五官王、そらには業量のはかりをかけてつみの輕重をたゞし、地には雙童のふだにまかせて業の多少をしるす。 五七日のあしたより、閻魔王のせめをかうぶる。かしらをつかみておもてを頗梨の業鏡にむかふ。つらつらむかしのわざをみるに、しかしながらつみにとがす。阿防羅刹のいきほひをみれば、獵師の鹿にあへるがごとし、牛頭・馬頭のこゑをきけば、雷電のほとばしるににたり。 六七日には變成王、功德をまちて罪福をことはる。 七々日には太山王、福業のさだまらざることをかなしみて男女の追善をもとむ。 百箇日には平等王、枷樔をそへてさらに苦惱をます。 Ⅳ-0855一周忌には都市王、罪人群集してさかんなる市のごとし。 第三年には五道轉輪王、つみを千日のうちにあがうて、福を三界のほかにもとむ。靑衣の倶生神をもて罪人をひきゐて、しばらく魂宿華のもとにして、しばしば古郷をみせしむ。ちぎりをむすびし男女は、とつぎをあらためてわれをわすれ、たのみをかけし子孫は、つみをつくりてとぶらはず、娑婆の妻子をうらみ自身の罪報をくゐて、黃なるなみだをたれ血のあせをながす。このとき罪業を滅せざれば、つゐに奈梨におつ。熱鐵身をこがし、寒冰くびをとぢ、融銅はらをわかし、生革かしらにまつふ、銅柱これをいだき、熱地これをふす。 しかればすなはち、寒冰熱火のそこにおちずして、華池寶閣のうてなにのぼらんこと、このときにあらずは、またいづれの生をか期せん。ひとたび人身をうしなひつれば、萬劫にもかへらず。天上は樂にほこりていとはず、地獄は苦をかなしみてねがはず、餓鬼道は飢饉にせめられてもとめず、畜生道は愚癡にほだされてしらず、修羅道はまた鬪諍ひまなくして菩提をもとむるによしなし。これらの生所にはかつて善知識なし、なにゝよりてか出離をわきまへん。人中にも東州・西州・北州は佛法の名字をしらず、これ善知識なきゆへなり。たまたま知Ⅳ-0856識ありといふとも、佛法を信ずる宿善の機なし。いまこの南州日域は、聖德太子佛法を弘興したまひしよりこのかた、ほかには敎法流布し、うちには善友勸化して、出離生死の要法をもとめんことこのときにあたれり。 佛法萬差なりといへども、淨土眞宗はこれ時機相應の法なり。自力をすて他力に乘じて修行せば、「聞已卽悟无生法忍」(觀經)ととき、「卽得往生住不退轉」(大經*卷下)とのたまへり、平生業成なにをかうたがはん。この法を信ぜずはこれ无宿善のひとなり。「宿世見諸佛、卽能信此事」(禮讚)とも釋し、「憍慢・弊・懈怠は、もてこの法を信ずることかたし」(大經*卷下)とときたまへり。まことにこれ、希有最勝の要法、決定往生の業因なり。おぼろげの縁にしては、たやすくきゝうべからず。もしきゝえてよろこぶこゝろあらば、これ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相應のことはりをきくとき、一念もうたがふこゝろのなきは、これすなはち攝取の心光、行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。光明は智慧なり、この光明智相より信心を開發したまふゆへに信心は佛智なり、佛智よりすゝめられたてまつりてくちに名號はとなへらるゝなり。これさらに行者の心よりをこりてまふす念佛にはあらず。佛智より信心はをこり、信心より名號をとなふるなり。Ⅳ-0857かるがゆへに、『敎行證』(信卷意)には「願力の信心は名號を具す」とのたまへり。光明寺の和尙は、「行者の信にあらず、行者の行にあらず、行者の善にあらず」と釋したまへり。无㝵の佛智は行者の心にいり、行者の心は佛の光明におさめとられたてまつりて、行者のはからひちりばかりもあるべからず。これを『觀經』には、「諸佛如來は、これ法界の身なり。一切衆生の心想のうちにいりたまふ」とはときたまへり。「諸佛如來」といふは彌陀如來なり、諸佛は彌陀の分身なるがゆへに、諸佛をば彌陀とこゝろうべしとおほせごとありき。 他力の信心を獲得するとき、よこさまに五惡趣におつべき業因を、きりとゞめられたてまつり、惡道のかどながくとぢて、自然にすなはちのとき正定聚にさだまる。正定聚といふは不退のくらゐなり、不退といふはながく二十五有にかへらざるなり。されば善智識にあひたてまつり、法をきゝて領解するとき、往生はさだまるなり。そのゝち名號のとなへらるゝは、大悲弘誓の恩を報じたてまつるなり。それも行者のかたよりとなへて佛恩を報ずるにはあらず。他力の信よりもよほされたてまつりてとなふれば、をのづから佛恩報謝となるなり。信も行もかつて行者の所作ならず、但他力といへり。すでに攝取の心光におさめとられⅣ-0858たてまつり、ながくすてられたてまつらぬ御ちかひにあひたてまつること、これ善知識の恩德なり。まことに報じてもつきがたし。もしこの縁なくは、つゐに三途にかへり、多百千劫をふるとも佛法の名字をきかざらまし。 また知識たらんひとは信不信をわかず、この道理をひとにしめすべし。そのゆへは、信ずるひとはすなはち往生さだまりて永劫の樂果を證し、信ぜざれども、ひとたびもきゝぬれば遠生の縁となりて、つゐにこのひとにむまれあひて、かさねてこの法をきゝて生死を度すべし。この他力の法門は萬行諸善の肝心、眞如法性の極理なるがゆへに、ひとたびもみゝにふれぬれば、かつてむなしからざるなり。われはよくこゝろえたりとおもふとも、なをも知識にちかづきて、たづねとひたてまつるべし。きけばいよいよかたく、あふげばいよいよたかし。よくよくたづねまふさるべし。よくよくわきまへて、こたへをしへたまふべし。きくことのかたきにはあらず、よくきくことのかたきなり。信ずることのかたきにはあらず、をしふることのかたきなり。「易往无人」(大經*卷下)とときたまへるは、ゆきやすくしてひとなしといふこゝろなり。ひとなしといふは、よくをしふるひともなく、よくきくひともなきなり。他力佛智の至極はいかばかりとしりてか、これまⅣ-0859でとおもひて、善友知識にもちかづかざるべきや。楞嚴の『要集』(卷上)には「これを座の右にをきて、廢忘にそなへよ」といひ、龍樹の解釋には、「善友のをしへなければ、愚癡のやみいでがたし」とのたまへり。文にあきらかならんひとは、つねに聖敎にむかひて義理を案じ、文にくらからんものは、善友知識にあひたてまつりて、わがしれるところをたづぬべし。日ごろしるところなりといへども、きけばまた得分のあるなり。 『經』(大經*卷下)に「聞名欲往生」ととき、「聞其名號」とものたまへるは、「聞」といふは、きくとよむ、きくといふは、たゞなをざりに名號をきくにはあらず、「本願の生起本末をきゝて疑心あることなし、かるがゆへに聞といふ」(信卷意)とのたまへり。きゝてうたがはざるを聞といふ。たとひ八萬法藏・十二部經をきくとも、疑心あらば聞にあらず。聞よりをこる信心、思よりをこる信心といふは、きゝてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきゝ、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひのちりばかりもよりつかざるなり。これを自然といふ、自はをのづからといふ、然はしからしむといふ。法爾法然として、他力の御はからひによりて往生さだまるⅣ-0860をいふなり。往生のさだまるしるしには慶喜の心をこるなり、慶喜心のをこるしるしには報恩謝德のおもひあり。こゝをもて、龍樹の偈にいはく、「恩をしるはこれ大悲の本なり、恩をしらざるをば畜生となづく」(大智度論卷四*九釋發趣品意)とのたまへり。もし恩を報ずるこゝろなくは、畜生に類する義あきらかなり。畜生に類せばなんぞ他力の信をうるひとならんや。よくよくこゝろのうちをかへりみて、慶喜報恩のこゝろあらば、往生すでにさだまりぬとしるべし。しからずは往生不定なり。これ行者の用心なり、よくよくわきまふべし。 おほよすこのふみ、はじめは『十輪經』・『十王經』等のこゝろをとりてこれを鈔す、をはりは『敎行證』等の文類を見聞するゆへに、「淨土見聞集」と題す。さらにわたくしなしといへども、これ自見のためにして弘通のためにあらず。文言つたなしといへども、愚者のみやすからんことを要す。そもそも楞嚴の先德の『要集』・禪林の永觀の『十因』等は、「厭離穢土」「欣求淨土」とかゝれたり。鸞聖人の御相傳には、欣求をさきにし、厭離をのちにせよとのたまへり。そのゆへは、まづ穢土をいとへとすゝむとも、凡夫はいとふこゝろあるべからず。これをいとはせんとすゝめんいとまに、まづ欣求淨土のゆへをきかせぬれⅣ-0861ば、をしへざれども信心を獲得しぬれば、穢土はいとはるゝなりとおほせありけり。されば『敎行證』・『淨土文類聚鈔』・『愚禿鈔』等の御作にも、また『淨土和讚』・『正像末法和讚』等にも、かつて穢土をいとへとも、无常を觀ぜよとも、あそばされたる一文なし。つらつらこのことを案ずるに、まことに信心ひとたび發起せしめたまひぬれⅣ-0861ば、をしへざれども穢土はいとひぬべし。またたとひいとふこゝろかつてなくとも、信をえば往生うたがひなし。一言なりとも、他力發起の法門もとも大切なり。はじめの十王讚嘆なんどはすでに厭離をさきにする義なり。當流にはしかるべからざることなれども、淺智愚闇のものを誘引のためにとて、願主の所望默止がたきによりて、わたくしの見聞をしるしわたすなり。ゆめゆめ外見あるべからず。あなかしこ、あなかしこ。