Ⅳ-0825存覺法語 高祖聖人の御選述『敎行證文類』の序にいはく、「難思の弘誓は難度海を度する大船、无㝵の光明は无明の闇を破する慧日なり」と。W已上R彌陀不共の利生この一文にあらはれ、凡夫出離の用心この一句にたれりとす。いはゆる「難思の弘誓」といふは如來別意の弘願、果分不可說の法門なるがゆへに、佛智の建立するところ因位の測量のをよぶべきにあらず。いはんや、凡慮は分をへだてたることをあらはすことばなり。こゝをもて、『大經』(卷下)には、「如來の智慧海は、深廣にして涯底なし。二乘はかるところにあらず。たゞ佛のみひとり明了なり」といひ、『小經』(意)には、「六方の諸佛舌相をのべて證誠したまふに、不可思議の功德を稱讚す」とときたまへり。たゞ智願の廣海の不可思議なるのみにあらず、また國土の莊嚴も不可思議なり。これによりて、論主は二十九句の莊嚴をあかして依正の功德をほむるとき、「かの佛國土の莊嚴は不可思議力を成就せり」(淨土論)といひ、宗師は念佛の行者初生の相をいふとして、「佛、生人をしてゐて觀看せしめたまふ、いⅣ-0826たるところはたゞこれ不思議なり」(般舟讚)といへり。されば「若不生者」(大經*卷上)のちかひむなしからずして成じたまへる正覺なるがゆへに、正報の功德の佛果、无漏の萬德を圓滿したまへるも、しかしながらわれらが往生の決定することをあらはし、依報の莊嚴の第一義諦妙境界の相を成就したまへるも、ひとへに无縁の大悲にむくはずといふことなし。しかるあひだ、をこしたまふところの誓願も諸佛に超絶して障重根鈍の衆生をたすけ、まうけたまふところの淨土も三界に勝過して、湛然寂靜の妙相を感成せり。安居院の大和尙の「この極樂世界は二百一十億の諸佛の淨土のなかに、惡をすてゝ善をとり麤をすてゝ妙をとりて、さまざまにすぐりいだせることを嘆ずるには、たとへばやなぎのえだにさくらのはなをさかせ、ふたみのうらにきよみがせきをならべたらんがごとし」(唯信*鈔意)といへり。をろかなるこゝろになをあくところなくあらまほしきは、かのたほやかなるえだにさきたらんはなの、春秋をわかず、ちることなくてひさしくにほひ、その名たかきうらうらの月のかげをならべたらんが、よる・ひるのさかひなくて、いつもてらさんをみばやとおぼゆるは、この景色によせてかの嚴飾をおもひやらんとなり。「難度海」といふは生死の大海なり。凡地と聖道とのなかに、この大海をへだてゝⅣ-0827わたることたやすからず。これにつきて三乘の法舟あり。聲聞は四諦を觀じてこれをわたり、縁覺は十二因縁を觀じてこれをわたり、菩薩は六波羅蜜を行じてこれをわたる。慳貪・破戒・瞋恚・懈怠・散亂・愚癡の六弊は所度の海なり、布施・持戒・忍辱・精進・禪定・智慧の六度は能度の船なり。なをくはしくこれを論ぜば、敎により宗にしたがひてその修行まちまちなるべし。生滅・无生・无量・无作の四諦を觀じ、五重唯識・八不中道の觀門等、みなこれ流轉生死の愛海をしのがんとする方便の船なり。しかるにこれらの行をたづぬるに、もしは根性利者のなすところ、もしは大根志幹の修するところなるがゆへに、三乘の修行いづれもたてがたきによりて、たまたまその門におもむくひとも、退縁にあひぬれば不退のくらゐにいたりがたし。いかにいはんや、とき末代にをよび人下機になりぬ。いづれの行をつとめ、いかなるふねをもとめてか、この海をわたりてかのきしにいたるべき。生死をはなれんこと、たとひそのこゝろざしありとも、そののぞみ達しがたし。こゝに彌陀の本願は、かの諦・縁・度の法をもこゝろにかけず、戒定惠の三學をも身に行ぜざるともがら、法財をば煩惱の賊にうばはれ、佛性をば癡惑のやみにおほはれたれば、たゞ六道にのみめぐりて、さらに出離の方Ⅳ-0828法をしらざるに、如來かゝるたぐひをたすけんがために、をこしたまへる大慈大悲の弘誓、无上殊勝の本願なれば、ひとたび歸命の誠心をいたし、わづかに六字の名號を稱するに、たちどころに「橫超斷四流」(玄義分)の益をえて、ひそかに三界沈沒の瀑流をたち、つゐに「速證无生身」(玄義分)のくらゐにのぼりて、すみやかに法性常樂のさとりをひらかんこと、まことにこれ、難度の海をわたる大船、難思の弘誓のきはまりなり。またく行人の功にあらず、ひとへに佛願のちからによれり。「无㝵の光明」といふは、すなはち『大經』にとくところの十二光佛のそのひとつなり。二六の尊號のなかに、その功能ことにすぐれたり。『阿彌陀經』には「かの佛の光明无量にして、十方の國をてらすに障㝵するところなし」といひ、『觀經』には「念佛の衆生を攝取してすてたまはず」とときたまへるを、和尙この兩經のこゝろによりて、かの佛の名義を釋したまふに、「无所障㝵」(小經)の文と、「攝取不捨」(觀經)の文とを、ひきまじへてのち、「かるがゆへに阿彌陀となづく」(禮讚)と結したまへり。かの光明の障㝵するところなきは攝取のためなり。攝取のゆへに阿彌陀の號をえたまへば、衆生の往益はひとすぢにこの嘉號によるときこえたり。このゆへに、天親菩薩も一心歸命のこゝろざしをのべたまふに、あまたの德號のなかⅣ-0829に、えらびて「盡十方无㝵光如來」(淨土論)と禮したまへり。おほよそ彌陀如來の利生に、「无能㝵者」(定善義)の德あるも、この名號の功用なり。そのゆへは、衆生もろもろの邪業繫につながれて三界の牢獄にとらはれ、よろづの果縛にかゝはりて生死を解脫することあたはず。業愛癡の繩ひとをしばりてをくれば、われらいかでか獄率の呵責をまぬかれん。業風のふくにしたがひて苦のなかにおつれば、罪人なんぞ泥犂の苦にもれん。あるひは「惡口・兩舌・貪・瞋・慢、八萬の地獄にみな周遍す」(般舟讚)ともいひ、あるひは「他人三寶のとがを論說すれば、死して拔舌泥犂のなかにいる」(般舟讚)ともいへり。しかるにこれらの三業の罪𠍴は、多生のあひだにもことごとくこれをおかし、かくのごときの一切の惑障は、今世にもみなこれを具せり。染淨の因にこたへて善惡の果をうるならば、「垢障覆深」(玄義分)の凡夫なにゝよりてか輪廻の果報をまぬかるべき。曠劫の流轉もこれによれり、未來の沈淪もまたおなじかるべし。しかりといへども、他力に歸し佛願をたのみて信心を發得し名號を稱念すれば、ながく生死の苦域をはなれて无爲の淨土にいたることは、しかしながら无㝵光佛の利益によりて、「无能㝵者」(定善義)の威力をほどこしたまふゆへなり。「无明の闇を破する惠日」といふは、世間の闇冥を破することはⅣ-0830日輪にこえたるはなく、愚癡の昏迷をのぞくことは智慧にすぎたるはなし。かるがゆへにならべて法喩をあぐることばなり。その本說をたづぬれば『大經』(卷下)にいでたり。他方の菩薩の安養に往詣して敎主を供養したてまつることばに「惠日世間をてらして、生死の雲を消除す」といへる、これなり。憬興師この文を釋していはく、「慧日といふはたとへにしたがへたる名なり。惑と業と苦との三は、よく眞空をよび智の日月をおほふにおなじ。かるがゆへに生死雲といふ。佛智眞に達して、よく自他の惑・業・苦のさはりをのぞく。かるがゆへに惠日といふ」(述文贊*卷下)と。W已上Rまた宗師『觀經』にとくところの「佛日」を解する文には、「たとへば日いでゝ衆闇ことごとくのぞこるがごとし。佛智ひかりをかゞやかせば、无明の夜、日ほがらかなり」(序分義)とのたまへり。彌陀・釋迦二尊の利益ことなるににたれども、慧日・佛日・智光の功用准じてしりぬべし。されば聖道門のこゝろならば、みづから智慧のひかりをかゞやかして、生死のやみをのぞくべし。もし智慧のひかりなからんたぐひは、その迷闇なにゝよりてかはるゝことをえん。しかるに如來利他の慧日、衆生黑業のやみをてらしたまふゆへに、をのれがちからにて、生死の罪業をのぞくことあるまじけれども、彌陀无㝵の光明、一切の惡業にさへⅣ-0831られず、衆生を攝取したまふにより、愚惑の凡身をあらためずして、かならず淸淨の智土に生ずるなり。略してかの序のはじめのことばを解することかくのごとし。 そもそも彌陀如來の、深重の本願ををこし殊妙の國土をまうけたまへるは、衆生をして三輪をはなれしめんがためなり。その三輪といふは、一には无常輪、二には不淨輪、三には苦輪なり。この義、慈恩大師の『阿彌陀經の通贊』にみえたり。また惠心の『往生要集』に十門をたつるなかの、第一に厭離穢土の相を判ずとして、人間のいとふべきことをあかすにもこの三をあげたり。かの『集』(要集*卷上意)には「不淨・苦・无常」とつらねたり。一に无常輪といふは、この世のなかのさだめなくはかなきありさまなり。『大經』(卷下)にこのことはりをときて、あるひは「愛欲・榮花つねにたもつべからず。みなまさに別離すべし」といひ、あるひは「處年壽命、よくいくばくもなし」(大經*卷下)といへり。つらつらおもんみれば、輪王高貴のくらゐ七寶つゐに身にしたがふことなく、釋天寶象のあそび四苑ながくまなこにへだつる期あり。あふひで六欲・四禪をおもふに、三界のうちにうらやましかるべきところなし、ふして三惡・四趣をうかゞふに、六道のあひださながらみなかなしみⅣ-0832をまぬかるべきところにあらず。人間南浮のわづかなるいのち、粟散邊國のいやしき果報、なんぞ著樂をなすべきや。不死のくすりをもとめし秦皇・漢武もむなしくさりぬ。たゞ悲風の驪山・杜陵のふもとにむせぶあり。武勇のはかりごとに長ぜし樊噲・張良も名をのみのこせり。いまだ遷變有爲のあだをふせぐ弓箭あることをきかず。綺羅の三千もそらにおひたり、漢李・唐楊のたほやかなりしすがたも一聚のちりとなりぬ。付法藏の賢聖もことごとくかくれぬ、有智高行の聖人にもかたさらぬは无常の殺鬼なり。老少不定のさかひなれば、さかりなるひともおほくゆく。生者必滅のことはりなれば、おいぬるひとはましてとゞまらず。鳥部山のけぶり、みねにものぼり、ふもとにもたつ。われもいつかそのかずにいらん。あだし野のつゆ、あしたにもきえ、ゆふべにもおつ。たれとてもよそにやはおもふべき。後鳥羽の禪定上皇の遠島の行宮にして宸襟をいたましめ浮生を觀じましましける御くちずさみにつくらせたまひける『无常講の式』こそ、さしあたりたることはり、みゝぢかにて世にあはれにきこえ侍めれ。その敕藻をみれば、「あるひはきのふすでにうづんで、なみだをつかのもとにのごふもの、あるひはこよひをくらんとして、わかれを棺のまへになく人あり。おほよそはかなきものⅣ-0833はひとの始中終、まぼろしのごとくなるは一期のすぐるほどなり。三界无常なり、いにしへよりいまだ萬歲の人身あることをきかず、一生すぎやすし。いまにありてたれか百年の形體をたもつべき。われやさきひとやさき、けふともしらずあすともしらず、をくれさきだつ人、もとのしづくすゑのつゆよりもしげし」といへり。またちかごろ、智行名たかくきこゆる笠置の解脫上人のかゝれたることばも、よにやさしく肝にそみておぼゆ。そのことばには、「風葉の身たもちがたく草露のいのちきえやすし。W乃至R南隣にも哭し北里にも哭す。人ををくるなみだいまだつきず、山下にもそひ原上にもそふ。ほねをうづむつちかはくことなし。いたましきかな、まのあたりことばをまじへし芝蘭のとも、いきとゞまりぬればとをくをくり、あはれなるかな、まさしくちぎりをむすびし斷金のむつび、たましゐさりぬればひとりかなしむ」(愚迷發*心集意)といへり。かやうのことはりは、目のまへにみゆれば人ことにしりがほなれども、欲塵に著し境界にほださるゝならひは、凡夫としておどろかざる、まことにはかなかるべし。しかれば、『座禪三昧經』(卷上意)には、「今日このことをいとなみ明日かのことをなさん。樂著して苦を觀ぜざれば、死賊のいたることをさとらず。悤々として衆務をいとなめば、日夜のさることをⅣ-0834さとらず」といひ、『大般涅槃經』(北本卷二壽命品*南本卷二純陀品)には、「一切のもろもろの世間に生あるものはみな死に歸す。壽命无量なりといへどもかならずをはりつくることあり。それさかんなるものはかならずおとろふることあり、あひあふものは別離することあり」とときたまへり。かゝる无常のかなしみは、淨土にあらずはのがれがたく、この有待のすがたは、生死をはなれずはいかでかあらためん。三乘の修行みなこの无常の果報をまぬかれて、かの常住の極位にいたらんとすれども、修因成ぜざれば證果むなしきににたり。しかるを彌陀の願力にすがりて安養の往生をとげぬれば、かの土は无爲涅槃のさかひ、无衰湛然のところなるがゆへに、みづからの功行をからず、佛力の加被によりて、ながく生死の无常輪をのがれ、眞常の寶所にいたるなり。 二に不淨輪といふは、この身の汚穢にして淨潔ならざることをいふなり。これにつきて三種あり、種子不淨、自體不淨、究竟不淨なり。種子不淨といふは、この身は栴檀のたねよりも生ぜず、蓮華のくきよりもいでず、中有のかたちをすて業識を胎内にやどすはじめより、その種子またくこれ不淨なり。自體不淨といふは、三百六十のほねあつまりて身形を成じ、三萬六千のちすぢながれて氣命をたⅣ-0835もつ、五臟六府みなこれ不淨なり、涕唾・便痢ひとつとしてきよからず。たとひ海水をかたぶけてこれをあらふとも自體の不淨をばきよむべからず、たとひ沈・檀をたきてこれに薰ずとも、本性の臭穢をばあらたむべからず。やなぎのまゆ、みどりなりといへども、その實體を觀ずるに耽著すべきにあらず。はなのかほばせ、こまやかなりといへども、たゞこれ畫せるかめに糞穢をいれたるがごとし。智行兼備のやんごとなき聖人達も、かりのいろにめでゝ行業をむなしくすること、三國にそのためしおほし。肉身の不淨をば現量にも識知し、聖敎の明文にむかふときは、一旦その道理を甘心することなきにあらざれども、无明のまよひによりてみづからの心を調伏せざること、欲界繫の煩惱の所爲ちからなきことなり。五欲を貪求すること、相續してこれつねなり。「たとひ淸心ををこせども、なをし水にゑがくがごとし」(序分義)といへる。濁世の凡心は、賢愚ともにをそらくはいたくかはらずもやはんべるらん。究竟不淨といふは、ふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、日かずをふるまゝにそのいろを變じ、次第にあひかはるに九相あり。しかれども、すなはち野外にをくりてよはのけぶりとなしぬるには、九相の轉移をみず。たゞ白骨の相をのみみれば、たしかにそⅣ-0836のありさまをみぬによりて、をろかなるこゝろにおどろかぬなるべし。たまたま郊原・塚間をすぐるに、をのづからその相をみるときは、一念なれども、しのびがたきものなり。紅顏そらに變じて桃李のよそほひをうしなひぬれば、たちまちに胮脹爛壞のすがたとなり。玄鬢身をはなれて荊棘のなかにまつはれぬれば、烏・犬噉食のこゑのみあり。あるひは爪髮分散してこゝかしこにみてるところもあり。あるひは手足腐敗して東西にちれるところもあり。まことにこれ、不淨の究竟するところ、そもそもまた有待のしからしむるきはまりなり。もし淨刹にいたらずは、いかでかこの不淨の性をあらたむることあらんや。 三に苦輪といふは、三界・六道みなこれ苦なれども、四苦・八苦はことに人間にあり。貴賤ことなりといへども、ことごとくこれをそなへ、貧富おなじからざれども、これになやまされずといふことなし。四苦といふは、生・老・病・死なり。八苦といふは、これに愛別離苦・求不得苦・怨憎會苦・五陰盛苦をくはふ。もし壯年にして世をはやくすぐる人は老苦をうけざるあり。もし富有にしてたからをもとむることなからんひとは、貧苦をまぬかるゝありとも、そのほかのともがらはこれらの苦をのがるべからず。これによりて、光明寺の大師は、「この五濁・Ⅳ-0837五苦・八苦等は六道に通じてうく、いまだなきものあらず。つねにこれを逼惱す。もしこの苦をうけざるものは、すなはち凡數の攝にあらず」(序分義)とのたまへり。『倶舍論』(玄奘譯卷二*二賢聖品)のなかに凡夫の苦をうけながらみづからしらざる相を判じていへることあり、「ひとつのまつげをもてたなごゝろにをけば、ひとさとらず、もし眼精のうへにをけば、損をなしをよびやすからず。愚夫は手掌のごとし、行苦のまつげをしらず、智者は眼精のごとし、縁じてきはめて厭怖を生ず」といへり。たゞし人・天の兩趣にはすこしきの樂なきにあらず、すべて地居・空居の勝報いづれもとりどりなれども、ことに三十三天の快樂などはたぐひすくなくこそきこゆれ。しかれども、たゞたのしみにのみまつはれて、さらに佛道を修せず。曠劫流轉よりこのかた、六道經歷のあひだ、われらもさだめてかれらの生をうくる世もありけん。しかるに殊勝池のみづ、閼伽にむすばずしてむなしくすぎ、歡喜苑のはなぶさ、佛界に供することなくしていたづらにちりにしかば、かへりて下界におちていまだ輪廻をまぬかれぬこそ、うたてくはづかしけれ。人間の果報にも金輪・銀輪、飛行の至尊はまうすにをよばず、異朝・本朝、理世の聖主もまうすにあたはず。さならぬひとも、豪姓のくらゐにむまれて身を玉樓・金闕のうⅣ-0838ちにやすくし、富貴のいへにありてくらに珠玉・錦繡のたからをみてたる人、先世の福因もゆかしく當時の榮耀もうらやましかるべけれども、それもたゞ今生の豐樂にほこりて後世の資糧をこゝろにかけずは、松樹千年のよはひもつゐにかぎりあらんとき、火車八獄のむかへ、たちまちにきたらんをばいかゞふせぐべき。こゝろをたのしましむとも、いくばくかあらん。須臾にすなはちすつるがゆへなり。樂とおもふも妄想なり。實によれば苦受なるがゆへなり。おほよそ「三界やすきことなし、なをし火宅のごとし。衆苦充滿してはなはだ怖畏すべし」(法華經卷*二譬喩品)と、佛ときたまへば、いづれのさかひか煩惱の火宅にあらざらん、たれのともがらか生死の衆苦をうけざるべき。苦をうけながらまよひて樂とおもひ、さとらずいとはざるは愚夫のならひなれども、一分も因果のことはりをわきまへ、まして後世をねがはんたぐひ、この苦因の制しがたきことをしり、その苦果のまぬかるまじきことをおもひて、自力にてはなるまじき生死の根源をたゝんことは、ひとへに他力をもてたすけたまふ如來の恩德なりとあふぐべきなり。 无常輪をはなるゝことは、无量壽の佛德によりて、衆生もおなじく常住の壽命をうればなり。『阿彌陀經』に、「かの佛の壽命をよびその人民も无量无邊阿僧祇劫Ⅳ-0839なり。かるがゆへに阿彌陀となづく」といへる、その義ことに甚深なり。佛の正覺は衆生の往生によりて成じ、衆生の往生は佛の正覺によりて成ずるがゆへに、機法一體にして能所不二なるいはれあれば、佛の壽命も衆生の壽命もあひおなじくして、无常をのがれ常住をうることもかはることなきなり。このゆへに、『法事讚』(卷下)には、「一念に空に乘じて佛會にいりぬれば、身色・壽命ことごとくみなひとし」とほめ、『般舟讚』には、「身を常住のところに安ぜんとおもはゞ、まづ要行をもとめて眞門にいれ」とをしへ、『往生禮讚』には、あるひは「无生の果をえんとおもはゞ、かの土にかならずすべからくよるべし」といひ、あるひは「淨國は衰變なし、ひとたび立して古今しかなり」(禮讚)といへり。不淨輪をさることは、阿彌陀佛をば无量淸淨佛となづけたてまつり、極樂をば一乘淸淨无量壽世界と號するゆへに、身土淸淨にして、依報も正報も有漏の垢穢をはなれ、能化も所化もみな无漏の淨體なり。こゝをもて、『大經』(卷下)の說をみるに、諸佛の衆會の菩薩につけて安養の往覲をすゝめたまふことばには、「法をきゝてこのんで受行して、淸淨のところをえよ」とをしへ、四十八願のなかをみるにも、あるひは「一切萬物嚴淨光麗ならん」(大經*卷上)といひ、あるひは「國土淸淨にして諸佛の世界を照見せん」Ⅳ-0840(大經*卷上意)とちかひたまへり。このゆへに、往生をうる人は、貪瞋の惑をはなれて自然虛无の身をうけ、淸白の法をきゝて離蓋淸淨の報をうく。これすなはち雜生の世界には、四生まちまちなりといへども、をのをの惑業の感ずるところ不淨の生元なり。かの安樂國土は雜業の所生にあらずして、同一に念佛し、ながく胞胎をたちて如來正覺のはなより化生するがゆへに、生ずるものはことごとく淸淨の體をうるなり。苦輪をいづることは、ことに大悲の本意、これ濟度の極致なり。すでに國を極樂となづけ、また安樂と號す。苦果をはなるゝこと、そらにしんぬべし。こゝをもて、『大經』(卷上)には「三途苦難の名あることなし、たゞ自然快樂のこゑのみあり」といひ、『小經』には「もろもろのくるしみあることなし、たゞもろもろのたのしみをのみうく」とときたまへり。しかのみならず、『論』(淨土論)には莊嚴无諸難功德成就をあかして、「ながく身心の惱をはなれて、樂をうくることつねに无間なり」といひ、『註』(論註*卷上)にこれを釋するには、「身惱といふは飢渴・寒熱・殺害等なり。心惱といふは是非・得失・三毒等なり」といへり。また大師所々の解釋にも、おほく受樂の義をあかして、衆生をして欣慕せしめたまへり。いはゆる『觀經義』(定善義)には寶地の讚をつくりて、「西方寂靜无爲の樂は、畢竟逍遙しⅣ-0841て有无をはなれたり」といひ、『般舟讚』には「かくのごときの逍遙快樂のところに、さらになんのことを貪じてか生ずることをもとめざらん」とすゝめ、『禮讚』には「生ぜんと願ずることなんのこゝろにか切なる、まさしく樂の无窮なるがためなり」といへる解釋等これなり。われら愚癡の身、罪惡生死の機、苦因を斷ぜざれば苦果をのがるべからず、樂因をたくはへざれば樂果をうべからず。しかるに彌陀如來、凡夫のためにかまへたまへる西方の淨土は、よこさまに五惡趣をきるがゆへに、本願の強縁によりて極樂の往生をとげぬれば、をのづから「不遭苦患」(大經*卷上)の利をえて、たゞ「煕怡快樂」(大經*卷下)の益にあづかるなり。『往生要集』(卷上)に十樂をたつるなかの第五に、快樂・不退樂をあかして離苦得樂の相をのべたり。その文にいはく、「かの西方世界は樂をうくることつねにきはまりなし。人天交接してふたつながらあひみることをう。慈悲、心に薰じて、たがひに一子のごとし。ともに瑠璃の地のうへに經行し、おなじく栴檀のはやしのあひだに遊戲す。宮殿より宮殿にいたり、林池より林池にいたるに、もししづかならんとおもふときは、風・浪・絃・管、をのづからみゝのもとにへだゝり。もしみんとおもふときは、山・川・溪・谷なをまなこのまへに現ず。香・味・觸・法、念にしたがひてまⅣ-0842たしかなり。あるひは飛梯をわたりて伎樂をなし、あるひは虛空にあがりて神通を現ず。あるひは他方の大士にしたがひて迎送し、あるひは天人聖衆にともなひて遊覽す。あるひは寶池のもとにいたりて、新生の人を慰問す。なんぢしるやいなや。このところをば極樂世界となづく。この界の主をば彌陀佛と號したてまつる。いままさに歸依すべし。あるひはおなじく寶池のうちにあり、をのをの蓮臺のうへに座して、たがひに宿命の事をとく。W乃至Rあるひはともに十方の諸佛利生の方便をかたり、あるひはともに三有の衆生拔苦の因縁を議す。議しをはりて縁ををひてあひさり、かたりをはりてねがひにしたがひてともにゆく。あるひはまた七寶のやまにのぼり、八功のいけに浴して、寂然宴默し、讀誦・解說す。かくのごとく遊樂すること相續してひまなし。ところはこれ不退なれば、ながく三途八難のをそれをまぬかれ、いのちはまた无量なれば、つゐに生・老・病・死の苦なし。心事相應すれば愛別離の苦なく、慈眼ひとしくみれば怨憎會の苦なし。白業の報なれば求不得の苦なし。金剛の身なれば五盛陰の苦なし。ひとたび七寶莊嚴のうてなに託しぬれば、ながく三界苦輪の海をわたる」と。W已上Rいまかすかに聖敎の所說をきゝてもなを渴仰のこゝろをもよほす。たゞちにみづから无爲の法樂Ⅳ-0843をうけん、むしろ歡喜のおもひにたえんや。 總じて三輪をはなるゝことは、如來の「莊嚴淸淨功德成就」(淨土論)のゆへなり。その「功德」といふは、『論』(淨土論)に「かの世界の相を觀ずるに、三界の道に勝過せり」といへる、これなり。『註』(論註*卷上)にこの文を解するには、「この淸淨はこれ總相なり。佛もとこの莊嚴功德ををこしたまふゆへは、三界をみるにこれ虛僞の相、これ輪轉の相、これ无窮の相なり。これ蚇蠖の循環するがごとく、蠶繭のみづから縛するがごとし。あはれなるかな、衆生この三界にむすぼゝれて、不淨に顚倒せること。衆生を不虛僞のところ、不輪轉のところ、不无窮のところにをきて、畢竟安樂大淸淨處をえしめんとおぼす。このゆへに、この淸淨莊嚴功德ををこしたまへり。成就といふは、いふこゝろはこれ淸淨にして破壞すべからず、汚染すべからず。三界はこれ汚染の相、これ破壞の相なるがごとくにはあらざるなり」といへり。このなかに「虛僞」といふは顚倒の義なり。すなはち无常を常とおもひ、不淨を淨と執し、苦を樂と計するこゝろなり。これに无我を我とおもへるこゝろをくはへて四倒といふなり。「輪轉」といふは、涅槃の常住をえざれば六道に經歷するなり。「无窮」といふは、その輪轉の一世にあらず、二世にあらず、はじめもⅣ-0844なくはてもなきことをあらはすなり。『摩訶止觀』(卷一上)に「善惡輪環す」といへるを、『弘決』(輔行*卷一)にこれを釋すとして、「善は非想に通じ惡は无間にきはまる、のぼりてまたしづむ、かるがゆへになづけて輪とす。はじめもなくきはもなし、これをたとふるに環のごとし」といへる、これそのこゝろなり。三輪ことなれども、すべてこれをいふに大苦にあらずといふことなし。この大苦を對治して「畢竟安樂大淸淨處」(論註*卷上)をえしめたまふなり。世すでに末世なり、これを利益するはことに彌陀の本願なり。機また下機なり、これを引入するは淨土の一門なり。時をはかりて行じ、分をかへりみて修すべし。 なかんづくに、女人の出離はことにこの敎の肝心なり。もし无漏の智水をほどこさずは、いかでか五障の垢塵をすゝぐことあらん。もし名號の梵風をあふがずは、なんぞ三惡の猛火をけすべきや。第十八の願に「十方衆生」(大經*卷上)といへる、ひろく男女にわたるといへども、別して女人往生の願ををこしたまへるは、ことに諸佛の濟度にもれたる重障をあはれみ、十方の淨土にきらはれたる極惡をたすけんとなり。これによりて、『觀經』の發起をたづぬるに、韋提の厭苦よりいでゝ定散隨他の二善をとくといへども、つゐに弘願隨自の一門をあらはししかば、夫人たⅣ-0845ちまちに大悟无生の益をえ、侍女おなじく阿耨菩提の心ををこしゝよりこのかた、三從を具せりといへども三明を證せんことかたからず。女身をうけたりといへども佛身をえんことをしる。もともそのあとををひてねがふべし。たれかその益をきゝてもとめざらんや。ほのかにきく、日本正治二年庚申四月十二日、大内羅城門のあとにして、農夫田のなかよりおほきなる石をほりいだすことありけり。たかさ六尺、ひろさ四尺、うへに文字あり。奇異のことなるによりて東寺より奏聞しければ、敕使をたてられ、文士をえらばれてこれをみせらるゝに、その字古文なるが、つちのそこにありてそこばくの年序をへぬれば、點畫たしかならざるによりて、たやすくよむひとなし。そのとき、月輪の禪定殿下の敎命として黑谷の聖人かのところにむかひ、その字を覽ぜられてこれをよみたまひけり。その文字には、「前代に所傳者、聖道上人之敎、我朝に未弘者此宗旨也。大同二年仲春十九日執筆嵯峨帝國母」といふ三十六字なり。聖人のたまひけるは、大同のころほひ淨敎いまだきたらず。さきよりつたはれる聖道の敎に對して「この宗旨」といへるは淨土の法門なり。「國母」といへるは在世の韋提の再誕なりと料簡したまひければ、叡感ことにはなはだしくて、すなはち聖人のうつされたる本を平等Ⅳ-0846院の寶藏におさめられけるとなん。聖人の出世にあたりて權化の未來記をえたる、時機の純熟、宗旨の恢弘、もともたふとむべし。平城天皇の御宇大同二年丁亥より、土御門院の御宇正治二年庚申にいたるまで三百九十四年ををくり、その翌年建仁元歲辛酉より、いま今上聖曆永和五年己未にいたるまで百七十四年をへたり。大同のむかしよりいままでは、あはせて五百七十四年にあたる。年紀眇焉のすゑにあたりて利物偏增のときにあへり。宿縁のをふところ慶喜もともふかし。さてもかの聖人の禪房に、ことのやうけだかくしかるべき貴女とおぼしき人ののぞみたまひけるが、乘御のよそほひもみえず來入の儀もさだかならで、のどかに對面をとげねんごろに法門の沙汰ありければ、勢觀上人あやしくおもはれけるに、かへりたまふときは乘車なりければ、ひそかにあとををひてみらるゝに、賀茂の河原のほとりにてにはかにみうしなひたてまつられければ、いとゞ奇特のおもひをなし、いぶかしさのあまりに、ことの子細を聖人に啓せられけるに、それこそ韋提希夫人よ、賀茂の大明神にてましますなりとこたへたまひけり。かの大明神の御本地をば、ひとたやすくしらず、たとひしれる人も左右なくまうさぬことにてはんべるとかや。いま聖人ののたまふところも、いづれの佛・菩薩とⅣ-0847はおほせられねば、當社の故實をばわすれたまふにはあらで、しかも韋提の垂迹としり、あまさへまのあたり神體を拜したまひければ、大權のいたりいよいよ信敬するにたれり。しかれば、夫人のあとをまもりて往生をねがはん人、和光の冥助にもあづかり、聖人のをしへをあふぎて安養をもとめんともがら、出離の直道にむかひて女人も惡人もともに救濟をかうぶり、自證も利他もすみやかに圓滿せん。これしかしながら彌陀招喚の願力、釋尊撥遣の大慈、かねてはまた歷代明師の遺恩、烈祖聖人の餘德なり。あふぐべし、信ずべし。 右就淨敎大綱、書與法語一句哉之由、依得契縁禪尼之請書之。本來無智之上、近曾廢學之間、屢雖令固辭、偏難避懇望之故也。不及深思、不能再案、只任浮心卽記、苟以遂志爲詮、叵謂肝要之文言。亦恥臂折之書役。堅可禁外見。旁爲顧後謗而已。 文和五歲[丙申]三月四日 釋存覺W六十七歲R