Ⅳ-0711法華問答上 天台一家の宗義のほかに、また近代『法華』等を信ずるともがらあり。みづから稱して法花宗と號す。かの義にいはく、『法花』以前の諸敎に得益あることなし。爾前の敎は方便の說なるがゆへに、一切衆生の開示悟入、かぎりて『法花』にあり。かるがゆへに『法花』第一W「方便品」Rにいはく、「如我昔所願、今者已滿足、化一切衆生、皆令入佛道」といへり。『法花』以前の諸敎に、曾てこの文なし。また『无量義經』(說法品)にいはく、「四十餘年いまだ眞實をあらはさず」といへり。この二經の文をみるに、『法花』以前の四十餘年の說、得益あるべからず。しかるに『觀經』等の爾前の敎によりて宗をたてゝ、大乘と號して念佛往生をすゝむ。この義はなはだ不可なり。大乘といふは、三乘の異なきを一乘ともなづけ、大乘ともなづくるなり。「方便品」(法華經*卷一)にいはく、「十方佛土の中には、たゞ一乘の法のみありて、二つもなくまた三つもなし。佛の方便の說をば除く」といへり。しかるに『觀經』の說相をみるに、中三品の機、かの土に生じて四諦の法をきゝて小果を證す。かⅣ-0712るがゆへにしりぬ、かの土はすなはち方便の土なり、なんぞ大乘といはん。しかのみならず、『法花』の文をもて淨土の宗義を校するに、念佛はこれ无間の業なるべしといふ。かくのごときの謗法邪見の惡義、いかんがこれを會釋すべきや。 答。この義、文にそむき理にそむく。まづ理にそむくといふは、佛は機に隨ひて法をとくこと不同なり。かるがゆへに半滿の敎異、二藏の宗別に、衆生の性欲不同なるがゆへに、執法おのおの異なり。この義をもてのゆへに、如來或は人・天・二乘の法をとき、或は菩薩涅槃の因をとく。或は漸或は頓、大小・權實、宜に隨ひてこれをとくこと不同なり。しかりといへども、縁にしたがふものみな解脫を蒙る。もし汝が所立のごとく、『法花』以前の諸經に得益なしといはゞ、四十餘年の說經みな虛說なり。つぎに文にそむくといふは、諸經の說相ことごとくみな序・正・流通の三段あり。もし得益なくは、なにをもてか流通とせん。たゞし爾前の敎の中にをひて、二乘の作佛をあかさず。當分得益、ならびに菩薩の授記、經釋分明なり。天台は「菩薩處々得入」(止觀*卷七上)と釋す。『法花』第二W「譬喩品」Rにいはく、「われむかし、佛に隨ひてかくのごときの法をきゝ、もろもろの菩薩の授記作佛をみたり。しかるにわれらこの事にあづからずして、はなはだみづから感傷す」Ⅳ-0713といへり。大師この文を釋して[『文句』(法華文句卷五*上釋譬喩品)に]いはく、「たゞこれ方等敎のなかに、大乘の實惠をきゝしと。いまとことならず。かるがゆへに如是法といふなり。授記といふは、たゞこれ方等のなかの菩薩に記をあたふ。二乘はこの事にあづからずして、はなはだみづから感傷す」といへり。かくのごときの經釋、爾前の得益にあらずや。大師、妙の字を釋していはく、「この妙とかの妙と、妙義ことなることなし」(法華玄義*卷二上)といへり。「この妙」といふは『法花』なり。「かの妙」といふは『花嚴』なり。大師のこゝろ、二經の義またくこれおなじ。ひくところの『无量義經』の文の始終をみるに、かの『經』(無量義經*說法品)にいはく、「衆生の性欲不同にして種々に說法す。方便力をもて四十餘年いまだ眞實をあらはさず。このゆへに、衆生の得道差別して、とく无上菩提を成ずることをえず。善男子、たとへば水のよくけがれをあらふがごとし。もしは井もしは池、もしは江もしは河、溪・渠・大海、ことごとくよくもろもろの垢穢をあらふ。その法水といふは、またかくのごとし。衆生のもろもろの煩惱のあかをあらふ。善男子、水の性はこれひとつなれども、江・河・池・溪・渠・大海、おのおの別異なり。その法性といふは、またかくのごとし」といへり。すでにこのゆへに、衆生の得道差別なりといふ。これすⅣ-0714なはち爾前の敎の得益にあらずや。つぎに念佛无間の業といふ義、いづれの經いづれの論をひきて、かくのごときの惡義をたつるや。もともこれをあはれむべし。謗法のとが罪業阿鼻にあり。おほよそ念佛往生をあかすこと、淨土の三經一論にかぎらず、自餘の諸經諸論のなかにこれをとくこと稱計すべからず。『法花』七(卷六)W「藥王品」Rにいはく、「もし如來滅後の後の五百歲のなかに、もし女人ありて、この經典をきゝて說のごとく修行すれば、こゝにをひて命終して、すなはち安樂世界にゆきて、阿彌陀佛・大菩薩衆に圍遶せられて、住處は蓮花のなか寶座の上に生ぜん」といへり。『觀音授記經』(意)にいはく、「たゞ一向にもはら阿彌陀佛を念じて、往生するもののみありて、つねに彌陀現在して滅したまはずとみたてまつる」といへり。『坐禪三昧經』にいはく、「極樂の敎主彌陀尊は、念佛のもろもろの衆生に隨順して、每日千遍住處に來りたまふ。踊躍歡喜したまふことたとへなし」といへり。『華嚴經』(晉譯卷七*賢首品)にいはく、「また光明をはなつを見佛となづく。かのひかりを覺悟して命終するもの、念佛すればかならず佛をみたてまつる。命終の後に佛前に生ず」といへり。またいはく、「願くは、われ命終らんとするときに臨んで、ことごとく一切のもろもろの障㝵を除き、面にかの佛阿彌陀を見たてⅣ-0715まつりて、すなはち安樂國に往生することをえしむ」(般若譯華嚴經*卷四〇行願品)といへり。『十往生經』(意)にいはく、「もし衆生ありて、阿彌陀佛を念じて往生を願ずるものは、かの佛すなはち二十五の菩薩をつかはして行者を擁護して、もしは行もしは坐もしは住もしは臥、もしは晝もしは夜、一切のところに惡鬼神をして、そのたよりをえしめざるなり」といへり。『隨求陀羅尼經』にいはく、「淨土の因行は退轉せざれば、決定して上々品に往生して、盧遮那佛に値遇す」といへり。『尊勝陀羅尼經』(意)にいはく、「每日二十一遍これを誦すれば、阿彌陀佛の國に往生す」といへり。『起信論』(眞諦譯)にいはく、「もし人、もはら西方極樂世界の阿彌陀佛を念じたてまつりて、所修の善根を回向して、かの世界に生ぜんと願求すれば、すなはち往生することをえしむ」。『金剛經』(傅大士頌*金剛經)の發願の文にいはく、「かみは四重の恩を報じ、しもは三途の苦をすくひ、もし見聞することあらんものは、ことごとく菩提心を發して、この一報をつくして、同く極樂國に生ぜん」といへり。『寶性論』(卷一信功德品*卷四信功德品)にいはく、「このもろもろの功德によりて、願くは、命終のときにをひて、彌陀佛の无邊身の功德を見たてまつることをえん。われ及び餘の信者も、すでにかの佛を見たてまつりをはりなば、願じて離垢眼をえて无上菩提を證せん」Ⅳ-0716といへり。『攝論』(眞諦譯攝論*釋卷一五)にいはく、「所生の善、この願によりて、ことごとく彌陀内得の淨眼を見たてまつりて正覺を成ぜん」といへり。『十住毗婆娑論』(卷五易*行品意)にいはく、「易行道といふは、いはくたゞ信佛の因縁をもて淨土に生ぜんと願じて、佛の願力に乘ずれば、すなはちかの淸淨の土に往生することをえて、佛力住持して、すなはち大乘正定の聚にいる。正定といふはすなはちこれ阿毗跋致なり。たとへば水路の乘船はすなはちたのしきがごとし」といへり。智者天台のいはく、「八萬法藏の妙の肝心、一代聖敎の結經なり。衆生の出離には要の法なり。彌陀來迎して往生することをう」といへり。妙樂のいはく、「諸經にほむるところおほく彌陀にあり。かるがゆへに西方をもてしかも一准とす」(輔行*卷二)といへり。慈雲法師のいはく、「淨土の彌陀をひとたび耳根にふるれば、すなはち大乘成佛の種子をくだす。きかず信ぜざらんは、あに大なる失にあらずや」といへり。靈芝のいはく、「一代彌陀の敎觀を准知するに、みなこれ圓頓一佛乘の法にして、すなはち摩訶衍なり」(觀經義*疏卷上)といへり。おほよそ彌陀の名號は、一聲くちにとなふれば、八十億劫の生死の重罪を滅して、一念の心に无上大利の功德をうるなり。『觀經』にいはく、「聲をしてたえざらしめて、十念を具足して南无阿彌陀佛を稱するに、Ⅳ-0717念々のうちにをひて八十億劫の生死の罪を除く」といへり。『无量壽經』(卷下)にいはく、「それかの佛の名號をきくことをえて、歡喜踊躍し乃至一念せんものあらん。まさにしるべし、このひとは大利をうとす。すなはちこれ无上の功德を具足するなり」といへり。釋尊、諸經の中にゑらびてひとり淨土の敎をとゞめたまふ。止住すること百歲せんと。同き『經』(大經*卷下)にいはく、「當來の世に經道滅盡せんに、われ慈悲哀愍をもて、ひとりこの經をとゞめて止住すること百歲せん。それ衆生ありてこの經にまうあふものは、こゝろの所願に隨てみな得度すべし」といへり。『思益經』(卷四授不退轉*天子記品意)にいはく、「劫燒のとき江河まづ滅す、大海のちに竭す。法滅のとき小乘敎まづ滅し、大乘敎のちに滅す」。しかるに淨土の敎は、大小乘の色の經卷、ことごとくみな滅して後、百歲止住す。もししからば、大乘が中の大乘といふべきなり。もし汝が所立のごときんば、釋尊あに「我以慈悲哀愍、特留此經」(大經*卷下)といはんや。しかるに天台大師は、法花三昧をえて『法花の疏』(法華玄義*卷一下)をつくり、光宅を破して「餘者望風」といふ。光宅、七度生じて七度『法花の疏』をつくるといへども、『經』の深意をしらず。いはんや、相傳なくしてわづかに經文ばかりを自見して、諸經の明文にくらくして、漢家・本朝の高德・祖師の釋を破しⅣ-0718て、あまさへ念佛无間の業といふ。この義を存ぜんもの、出離を求るにはあらずして、阿鼻の罪業をまねかん歟。もし法花の深意をしらば、もはら彌陀をたふとぶべし。ゆへいかんとなれば、弘法大師『法華經』の題號を釋していはく、「一乘妙法蓮花經は、觀自在の密號なり。淨妙國土にしては彌陀となづけ、五濁惡世にしては觀音となづく」(法華經*開題意)といへり。またいはく、「むかし靈山にありては法花となづく。いま西方にありては彌陀と名けたてまつる。娑婆にしては稱して觀世音とす。三世の利益同く一體なり」といへり。傳敎大師のいはく、「はじめ妙法蓮花經より、をはり作禮而去の文にいたるまで、一々の文字は殊妙の理なり。みなこれ西方の阿彌陀佛也」といへり。かくのごとくの解釋をみるに、法花と彌陀とまたく一體異名なり。もししからば、法花を信ぜんものは、もはら彌陀をたふとむべし。彌陀を信ぜんものは、もとも法花をたふとむべし。彌陀を信じて法花をそしり、法花を信じて彌陀をそしらんは、たとへば流をくみて、みなかみを濁すが如し。いはんや、天台大師の解釋にそむきて、相傳なくして別義をたてゝ、しかも法花宗と號す。かくのごときの義、目あらんともがら信用にあらず。そもそも大師の本地をとぶらへば、藥王菩薩の化身、四十二品の无明を斷ず。等覺无垢Ⅳ-0719の薩埵、入重玄門の大聖、むかし靈山にありては法花の聽衆、いま晨州にいでゝは、また法花の深意をさとる。一代聖敎を高覽あること十五遍、しかるにこの一事にをひて、靈山の法花、西方の阿彌陀、各別なるにをひては、あやまて一體と釋せらるべからず。かくのごときの大聖たりといへども、臨終にのぞんで西方往生の素懷をとげたまへり。かの『別傳』(智者大師*別傳意)にいはく、「この妙法花は本迹二門にして、その理深遠なり。さとりがたく入りがたし。且くおきて論ぜず。すなはち西方にまうでゝ、佛にまうあひたてまつりて、さとりをひらかん。四十八願をもて淨土を莊嚴す。花池・寶閣ゆきやすくして人なし。火車相現ずれども、よく改悔するものは、なを往生することをうるなり。いはんやわれ戒惠薰修す、なんぞ生ずることをえざらん」。W已上Rこれによりて天台の往生、都率・西方にあらそひあり。しかれば、妙樂これを會していはく、「しかるに大師生存にはつねに都率に生ぜんと願じて、臨終にはすなはち觀音の來迎すといふ。まさにしるべし、軌物、機にしたがひ縁に隨て、化をまうくること一准なるべからず」(輔行*卷一)。W已上R傳文といひ妙樂の釋といひ、天台の西方往生、たれかこれをあらそはん。もし汝が所立のごときは、極樂虛說ならば、大師あに西方往生をとげられんや。 Ⅳ-0720難じていはく、諸經論の文ならびに人師の疏釋をひきて、念佛往生の義をたつといへども、なをもてあきらかならず。ひく所の諸經、みなこれ爾前の敎なり。爾前の敎は方便の說なるがゆへに、方便の敎を所依としてつくる所の菩薩の論、人師の釋、みなこれ方便の說に屬すべし。たとひ『法花』についてつくる疏釋たりといふとも、諸師の意樂まちまちなるがゆへに、『法花』に合せばこれを用ゆべし。經文に合せずしては依用すべからず。たとひ大師の解釋たりといふとも、義によりて取捨あるべし。たゞしひく所の「卽往安樂世界の阿彌陀」(法華經卷*六藥王品)は、汝が所立の西方極樂世界の阿彌陀にあらず、己身の阿彌陀なり。「安樂世界」といふは、法身の所居を安樂世界となづくるなり。つぎに念佛无間の業といふは、直に念佛を无間の業といふにあらず。念佛の行者、法花を毀謗す。かるがゆへに能修の機に約して、所修の念佛を无間の業と名るなり。淨土の祖師善導和尙、往生の行にをひて正雜二行をたてゝ、念佛の一行を正行とし、自餘の諸善をことごとく雜行となづく。しかるに『觀經』の說相をみるに、九品往生のむねをあかす。上品上生には讀誦大乘の受法とす。しからば、讀誦大乘のなかに『法花』もるべからず。もししからば、なんぞ『法花』を雜行に攝せん。しかのみならず、雜行に於ては、初はⅣ-0721「一二、三五の往生をゆるす」(禮讚意)といへども、後には「千中无一」(禮讚)と結す。あまさへ雜行について十三の失をいだす。ことごとくこれ謗法なり。しかるに『法花』はこれ三世の諸佛の出世の本懷、一切衆生の成佛の直道なり。なんぞ雜行に攝して不生といはんやWこれ一の謗法R。つぎに三心を釋するに、回向心のなかに二河白道のたとへをして、異學・異見・別解・別行のものを群賊惡獸にこれをたとふ。別解・別行の中に『法花』をもらすべからず。これまた第一の謗法なりWこれ二の謗法R。つぎに和國の然上人の『選擇集』に善導の『疏』の五種の正行をひきて、五種の雜行に相對して第一に讀誦雜行をいだす。文にいはく、「第一に讀誦雜行といふは、上の『觀經』等の往生淨土の經を除て已外の、大小乘の顯密の諸經に於て受持讀誦する。ことごとく讀誦雜行となづく」。W已上Rすでに大小乘の顯密の諸經といふ、このなかに『法花』もるべからずWこれ三の謗法R。つぎに聖道難證の義を立せんがために、初には顯大・權大をひきて「歷劫迂回の行」(選擇集)とし、後には「是に准じて是を思ふに、密大及び實大を存ずべし」(選擇集)と釋して、『法花』をもて歷劫迂回の行に准ぜしめて「應存」といふ。『法花』はこれ速疾頓悟の敎なり、證をとることたなごゝろをかへすが如し。かくのごときの速疾頓悟の敎にをひて、これを歷劫迂回の行に准ずⅣ-0722ること、これまた謗法なりWこれ四の謗法R。つぎに『壽經』の三輩と『觀經』の九品とをひきあはせて得失を判ずる中にいはく、「諸行は廢のためにしかもこれをとく、念佛は立のためにしかもこれをとく」(選擇集)。W已上Rしかのみならず、念佛のほか自餘の諸行を捨・閉・閣・抛と所々にこれを釋す。かくのごときの義立、いかでか謗法の罪をのがれん。『法花』の二(譬喩品)W長者偈Rにいはく、「もし人信ぜずしてこの經を毀謗すれば、すなはち一切世間の佛種を斷ずと。W乃至Rこの人の罪報、汝いままたきく。その人、命終して阿鼻獄に入て一劫を具足す」。W已上Rこの經を信ぜずして毀謗するものは、必定して阿鼻に墮在すべきこと、現文分明なり。近代念佛修行の人、『法花』を信ぜずして、あまさへ雜行のもの往生すべからずといふ。かくのごときの義、『觀經』の說相にもそむくと[云々]。『涅槃經』(北本卷二六德王品*南本卷二四德王品)にいはく、「信不具なるゆへに一闡提となづく」。W已上Rしりぬ、『法花』を信ぜざるものはすなはち謗法なり、また不信はすなはち闡提なり。かるがゆへに、かみは「若人不信」といひ、しもは「則斷一切世間佛種」といふ。あきらかにしりぬ、『法花』を信ぜざるものは、すなはち謗法と闡提と二罪業なり。かるがゆへに罪業阿鼻にあり。この義をもてのゆへに、念佛无間の業となづくるなり、いかん。 Ⅳ-0723答。ひくところの「若人不信」の文は、總じて佛法を信ずることなきものを不信といふなり。餘經を信じて『法花』を信ぜざるを「不信」といふにはあらず。『法花』の七(卷六)W「囑累品」Rにいはく、「もし衆生ありて信受せざらんものは、まさに如來餘の深法のなかにをひて示敎利喜すべし」。W已上R『法花』を信ぜざるものは、餘敎のなかにをひて示敎利喜すべしといふ文分明なり。この文を見ながら、『法花』を信ぜざるものは謗法なりといひ、『法花』以前の敎に得益なしといふ、不足言なり。『法花』のほかに深法ありといふこと、たれかこれをあらそはん。いふところの深法といふは、すなはちこれ淨土の敎をさすなり。ゆへいかんとなれば、彌陀の本願、釋迦の留敎、諸佛の證誠、かぎりて淨土の敎にあり。『无量壽經』の下卷にいはく、「无量壽佛を念じたてまつり、その國に生ぜんと願じて、もし深法をきゝて歡喜せん」と。いまだ諸敎のなかにをひてかくのごときの說をきかず。この義をもてのゆへに、天台は「一代聖敎の結經」と判ず。妙樂は「多在彌陀」(輔行*卷二)と讚ず。慈雲法師は「淨土の彌陀をひとたび耳根にふるれば、すなはち大乘成佛の種子をくだす」と釋す。元曉の釋には「兩尊出世の本意、四輩入道の要門、耳に經名をきゝて、すなはち一乘にいりてしかも退することなし。口に佛號を誦してすなはち三界をⅣ-0724いでゝしかもかへらず」(小經疏)。慈恩のW『西方要決』Rいはく、「不了之敎、涅槃之會に釋通し、淨土の一門は雙林に更に疑決なし。諸佛の舒舌を引成して、この二義によるがゆへに方便にあらず」。W已上R惠心の釋には、「しかるに信受をすゝむ、願生を成ぜんとする。これ佛の本懷なり。輕爾すべからず」(小經*略記)。W已上Rこの義をもてのゆへに、淨土の敎を深法となづくるなり。つぎに不信を闡提といふ。總じて佛法の信なくして因果をやぶるを闡提と名るなり。『涅槃經』(北本卷二六德王品*南本卷二四德王品)にいはく、「一闡をば信となづけ、提をば不具と名く。信不具なるがゆへに一闡提となづく」。W已上Rしかるにわれら『法花』について出離をもとめずといへども、至心に念佛を行じて、しかも『法花』を謗ぜず。汝が所說のごとく、『法花』を信ぜざるものを謗法・闡提といはゞ、『涅槃經』(北本卷三三迦葉品*南本卷三一迦葉品)にいはく、「蟻子を殺害しては、なをし殺罪をうるなり。一闡提をころすは、殺罪あることなし」。W已上Rもししからずは、餘法を信じて『法花』を信ぜざるものをころしたらば、蟻子を害するよりも殺罪なしといふべき歟。もしこの義を存ぜば、これすなはち闡提なり、因果をしらざるがゆへに。つぎに和尙・上人兩師の御釋をひきて謗法といふこと、不足言なり。これすなはち、文にまよひ義にくらきがゆへなり。兩師ともにことごとく諸行往生をゆるす。Ⅳ-0725「玄義」(玄義分)W序題門Rにいはく、「こゝろによりて勝行ををこす。門八萬四千にあまれり。漸頓すなはち所宜にかなふ。縁にしたがふものは、みな解脫を蒙る」。W已上R同き「玄義」(玄義分)にいはく、「定散ひとしく回向すれば、速に无生身を證す」といへり。定散のほかにいかなる行ありてか不生といはん。『法事讚』(卷下)にいはく、「如來五濁に出現して、隨宜に方便して群萌を化す。或は多門をときてしかも得度せしめ、或は少解をときて三明を證す。或は福惠ならべて障を除くとをしへ、或は禪念して坐して思量せよとをしふ。種々の法門みな解脫すれども、念佛して西方にゆくにすぎたるはなし」といへり。『般舟讚』にいはく、「或は人・天・二乘の法をとき、或は菩薩涅槃の因をとく。或は漸或は頓、空有・人法二障ならべて除かしむることをあかす。根性利なるものはみな益を蒙る、鈍根无智にしては開悟しがたし」。W已上RW諸行往生の文しげきをおそれて略すRおほよそ諸行往生を許すこと、善導一師にかぎらず。道綽禪師は「萬行往生」(安樂集*卷下意)といひ、惠感禪師は「諸行往生」(群疑論*卷五)といふ。惠心またこれに同じ。念佛等の五種の正行は、もはら西方の業なるがゆへに正行となづく。五種のほかに自餘の諸行は、或は人天及び三乘に通じ、或は十方の淨土に通ずる行なるがゆへに名て雜行といふ。おほよそ大小乘の經論のなかに純雜Ⅳ-0726の二門をたつ。その例一つにあらず。大乘にはすなはち八藏のなかに雜藏をたつ。七藏はこれ純、一藏はこれ雜藏なり。小乘にはすなはち四阿含のなかにしかも雜含をたつ。三阿含はこれ純、一阿含はこれ雜なり。律にはすなはち二十の揵度をたてゝ、もて戒行をあかす。そのなかに、まへの十九は純、のちの一はこれ雜揵度なり。もし汝が所難のごとく、雜行をたつるをもて謗法といはゞ、大小乘のなかに純雜をたつる、みなこれ謗法といふべきや。謗法といふは、汝が所立のごとく、眞言は亡國、禪は天魔の所行、念佛は无間の業といふ、かくのごときの說ことごとく謗法なり。いかでか三惡道をのがれん。『大論』(大智度論*卷一初品)W龍樹の造Rにいはく、「自法を愛染するが故に他人の法を毀呰すれば、持戒の行人なりといへども地獄の苦をまぬかれず」。W已上R つぎに十三の得失といふは、念佛は本願の行なるがゆへに、「佛の本願と相應するがゆへに」(禮讚)といふなり。餘善は本願にあらず、故に「佛の本願に不相應」(禮讚)といふ。「敎に違せざるがゆへ」(禮讚)といふは、淨土の三經のなかに處々に念佛をあかして、もて勝行とす。餘善はしからず、故に不違敎故といふ。念佛はこれ十方恆沙の諸佛の證誠なるがゆへに、「隨順佛語」(禮讚)といふ。「貪嗔・諸見來て間斷せず」(禮讚意)といふは二義あり。一義にいはく、『觀Ⅳ-0727佛經』(卷一〇觀佛*密行品意)の六譬のこゝろによらば、「念佛は煩惱のために染せられず」[云々]。一義にいはく、貪嗔は煩惱濁なり、諸見は見濁なり。『倶舍』(玄奘譯卷一*二世品意)にいはく、「煩惱濁は在家の善を損じ、見濁は出家の善を損ず」。「在家の善」といふは、造像・起塔・供佛・施僧等これなり。「出家の善」といふは、四諦・十六行相等の觀法なり。これすなはち事と理との二善なり。しかるにまさに理觀に住せんとすれば諸見きおひをこる。もし事の善を修せんと欲すれば貪嗔生ずるによりて念佛を修す。財寶をもちゐざれば貪瞋こゝろにをこらず。觀法をもちゐざれば諸見をこることなし。もし雜行を修するもの、煩惱をこるといへども、行のなかの起惡微細にしてわきまへがたし。そのとがをしらざるがゆへに懺悔のこゝろなし。念佛を行ずるものはつねに懺悔を修す。「念々稱名常懺悔」(般舟讚)といへり。正行を修するものは佛恩を報ず。『經』(禮讚)にいはく、「自も信じ人を敎て信ぜしむること、難が中にうたゝ更に難し。大悲を傳て普く化す、まことに佛恩を報ずるになる」と。W已上R雜行を修するは心に輕慢を生ず。「名利と相應す」(禮讚)といふは、正行を修するものは、ひとへに佛の大願をたのむ。雜行を修するものは、こゝろに三學ありと念じて貴己等佛の見ををこす。故に慢擧を生ずるなり。「人我自らおほふ」Ⅳ-0728(禮讚)といふは、正行を修するものは、自機を知て貢高を生ぜず、善友に親近す。雜行を修するものは、自の三學をたのみて心に高慢をいだく。故に名利と相應す。かくのごとく得失を判ずること、たゞこれ佛說にまかす。なんぞ謗法といはん。但し千中无一の釋に至て、能別の言を置て「不至心者千中无一」(禮讚)といふ。それ實には正行たりといふとも、至心なくは生ぜず。しかりといへども、雜行は至心具足しがたし、正行は至心具足しやすし。故に雜行の失を出して「不至心者」等といふなり。 つぎに群賊・惡獸の喩をもて謗法といふ義、これまた不足言なり。文にいはく、「或はゆくこと一分二分するに群賊よばひかへすといふは、別解・別行・惡見人等みだりに見解を說てたがひにあひ惑亂し、及び自ら罪を作て退失するにたとふ」(散善義)。すでに「別解別行惡見人等」といふは、何ぞ謗法といはん。別解・別行の人、われらが往生の大益を失するがゆへに群賊にたとふ。「惡獸いつはる」(散善義)といふは、衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大にたとふ。惡獸を別解・別行にたとふるにあらず。凡そ二河白道のたとへは、『大論』・『涅槃經』等によりてこの喩をつくる。『大論』(大智度論卷三*七習相應品意)にいはく、「貪愛嗔憎深くしてそこなし。水火の二河またほとりなし。中路の白道微少なりといへども、信心決定してⅣ-0729西の岸に至る」。W已上R群賊・惡獸の喩は『涅槃經』による。異學・異見の行體を群賊・惡獸にたとふるにあらず。また汝が所說のごとく、念佛无間の業といふ。かくのごときの謗法・邪見の輩を群賊に喩るなり。 つぎに西方淨土はもはら一乘の土にあらず。『觀經』の中三品の機、かの土に生じて小果を證す。故に一乘の土にあらずと。この義、また難にあらざるなり。『法花』(卷一*方便品)にいはく、「十方佛土中、唯有一乘法」といへり。西方淨土、なんぞ十方淨土にもれん。故に『无量壽經』(卷下)にいはく、「一乘を究竟して彼岸にいたる」。W已上R『淨土論』にいはく、「大乘善根界」といへり。『智論』(大智度論卷*三八往生品)にいはく、「一乘淸淨无量壽世界」。W已上Rこれらの現文、一乘の土にあらずや。但し中三品の機、かの土に生じて後に四諦の法をきゝて小果を證すること、本願によるがゆへにしばらく小果を證するなり。例せば、花光如來の土は純に一乘の土なりといへども、本願によりて三乘の法をとくがごとし。『法花』の二W「譬喩品」Rにいはく、「花光如來、また三乘をもて衆生を敎化す。舍利弗、かの佛の出時、惡世にあらずといへども、本願をもてのゆへに三乘の法をとく」。W已上R『疏』(法華文句記卷*六上釋譬喩品)にいはく、「土淨唯一なれども、願にこたえて三をとく」といへり。一乘の土に於て三乘の法をとくこと、所難不足なり。 Ⅳ-0730たづねていはく、離垢世界には三乘の法のみありて、機あることなし。西方淨土には機法ともにあり。例同ずべからず、いかん。 答。花光如來の土、また機法ともにあり。『經』(法華經*卷二)の次下W「譬喩品」Rにいはく、「花光如來、十二劫をすぎて堅滿菩薩に阿耨多羅三藐三菩提をさづく。もろもろの比丘につげたまはく、この堅滿菩薩、つぎにまさに作佛すべし。號して花足安行多陀阿訶度・阿羅訶・三藐三佛陀といはん」。W已上R『玄贊』(卷五*譬喩品)にいはく、「三乘ありといへども、菩薩の類おほきがゆへに大寶といふ」。W已上R『經』に「告諸比丘」といひ、釋に「雖有三乘」といふ。明かに知ぬ、花光如來の土に機法ともにこれあり。たれかこれをあらそはん。『涅槃經』(北本卷二七師子吼品*南本卷二五師子吼品)にいはく、「一乘といふは、名て佛性とす。この義をもてのゆへに、われ一切衆生にことごとく佛性ありととく。一切衆生に悉く一乘あり。无明おほふをもてのゆへに、みることうることあたはず」。W已上Rしからば、いかなる衆生ありてか、淨土に生じてまた灰斷の情あらん。 つぎに上人の『選擇』をひきて謗法といふ、これ又所難とするにたらず。『選擇集』のなかに諸行往生をあかすこと、その文一つにあらず。『選擇集』の末W付屬章Rにいはく、はじめ日想觀より、をはり雜想觀にいたるまで、具さに十三觀をひきをはⅣ-0731りて、「たとひ餘行なしといふとも、或は一或は多、その所堪にしたがひて十三觀を修して往生することをうべし。そのむね『經』にみえたり。あへて疑慮することなかれ」。つぎしもに、はじめ孝養父母より、をはり讀誦大乘、勸進行者に至まで、散善の行ことごとくこれをひきて往生をゆるす。讀誦大乘を釋していはく、「願くは西方の行者、おのおのその意樂に隨て、或は法花を讀誦してもて往生の業とし、あるひは花嚴を讀誦してもて往生の業とす。W乃至Rこれすなはち淨土宗の『觀无量壽經』のこゝろなり」(選擇集)。W已上Rしばらく不堪の機に對して、ひとへに念佛をすゝめんがために「捨閉」等といへり。しかりといへども、またく不捨不閉、本願にあらず。故に「捨閉」等といふなり。おほよそ淨土の三經の說相をみるに、『壽經』の三輩のなかに、念佛と諸行と雜することをとく。『觀經』には一行一行におのおの九品往生のむねをあかす。『阿彌陀經』には諸行をとかず、たゞ一日七日の執持名號をもて「得生彼國」ととく。つぎしもに「不可以少善根福德因縁得生彼國」ととく。かくのごとく三經の說相によりて、廢立・助正・傍正の三義を立す。しかも廢立の一義をもて謗法といはゞ、『阿彌陀經』の小善根不生の文、いかんが謗法といはん。十方恆沙の諸佛の證誠、たゞかぎりて念佛にあり。念佛はまⅣ-0732さしく彌陀如來の本願の行なるがゆへに、行じやすく修しやすし。故に機の堪不堪を論ぜず、ひとへに念佛往生をすゝむるなり。 つぎに「歷劫迂回の行」(選擇集)のこと、おほよそ淨土宗の大綱は、聖道・淨土の二門をたてゝ、聖道門をすてゝ淨土門に歸するを本意とす。その聖道門といふは、此土の入聖得果なるがゆへに難行難證なり、故に難行道となづく。淨土門は、かの土の入聖得果なるがゆへに易行易往なり、故に易行道となづく。『十住毗婆娑論』(卷五易*行品意)にいはく、「菩薩阿毗跋致を求るに二種の道あり。一にはいはく難行道、二にはいはく易行道なり。難行道といふは、いはく五濁の世无佛の時にをひて阿毗跋致を求るを難とす。W乃至Rたとへば陸路の步行はすなはちくるしきが如し。易行道といふは、いはくたゞ信佛の因縁をもて淨土に生ぜんと願ずれば、佛の願力に乘じて、すなはちかの淸淨の土に往生することをう。佛力住持して、すなはち大乘正定の聚にいる。正定はすなはちこれ阿毗跋致なり。たとへば水路の乘船はすなはちたのしきが如し」。W已上Rしかるに眞言には、顯敎三劫成佛と談じ、密敎は卽身成佛といふ。天台には、三權歷劫の行も一實速疾頓證と判ず。故に顯大・權大をもて難證の本とす。眞言・法花等は速疾頓悟の敎なりといへども、しかも斷證なきにあらず。淨土はしからⅣ-0733ず、煩惱を斷ぜずして直に報土に生ず。得生已後かの土にをひて五惡趣をきる。『大經』(卷下)にいはく、「必ず超絶してすつることをえて安樂國に往生すれば、橫に五惡趣をきりて、惡趣自然にとづ。道にのぼるに窮極なし」。W已上R故に斷證をからず。淨土の易行に對して難易の二道を分別せんがために、初に歷劫迂回の行をあげて眞言・法花等を准知應存といふなり。顯大・權大等の歷劫のごとく、これを准ずるにあらず。難易の二道をたつることは『十住毗婆娑論』によるなり。かの論のこゝろは得道の遲速をば論ぜず、總じて此土の入聖得果の行を難行道と名く。故に眞言・佛心・天台等をことごとくみな難行道に攝するなり。もし法花を難行道に攝するをもて謗法といはゞ、天台大師をも謗法の人といふべきや。しかるに大師は法花三昧をえて、しかも臨終に及て『法花經』を手にとりていはく、「この『妙法花』は本迹二門にして、その理深遠なり。さとりがたく入りがたし。しばらくをひて論ぜず」(智者大師*別傳意)と。つぎに『觀經』を手にとりて「すなはち西方にまうでゝ、佛にまうあふてさとりをひらかん」(智者大師*別傳意)といへり。かくのごときの現文に難易の義いよいよあらはなり。『法花』を信ぜんものは、餘法をそしり他人のとがをとくべからず。『法花』を信じて餘行をそしり、他人のとがをとくならば、『孝經』をⅣ-0734さゝげておやのかしらをうつが如し。『法花』(卷五)W「安樂行品」Rにいはく、「如來の滅後、末法のなかにをひてこの經をとかんと欲せば、安樂行に住すべし。もし口に宣說し、もし經をよまんとき、ねがひて他人及び經典のとがをとかざれ、また諸餘の法師を輕慢せざれ、他人の好惡・長短をとかざれ」。W已上R同じき『經』(法華經卷五*安樂行品)の偈の文にいはく、「もしこの經をとかんと欲せば、まさに嫉・恚・慢・諂誑・邪僞の心をすてゝ、つねに質直の行を修すべし。人を輕蔑せざれ、また法を戲論せざれ、他を疑悔して汝は佛をえずといはしめざれ」。W已上Rかくのごときの經文をみながら、諸經論をそしりひとを輕蔑し、あまさへ念佛无間の業といふ、あに嫉・恚・慢・諂誑・邪僞の心にあらずや。これすなはち、しかしながら阿鼻の罪業をまねく歟。なかんづく『法花』はこれ多聞強識の人のためにこれをとく。无智のものゝためにとくべからずとみえたり。『法花』の二(譬喩品)W長者偈Rにいはく、「无智の人のなかにしてこの經をとくことなかれ。もし利根・智惠明了・多聞強識にありて佛道をもとめんものには、かくのごときのひとにはすなはちためにとくべし」。W已上Rまたいはく、「この法花經は深智のためにとく。淺識これをきゝて迷惑して解せず」(法華經卷*二譬喩品)。W已上Rまたいはく、「諸佛如來のみことばに虛妄なし」(法華經卷*一方便品)。しかⅣ-0735るに一文に通ぜざる大俗の、黑闇をもわきまへざる男女・盲目等に對して、經の正理をしらず、をのれが惡見のこゝろにまかせてほしゐまゝにこれをとく。これによりて諸宗をそしるを要とす。『涅槃經』(北本卷二二德王品意*南本卷二〇德王品意)にいはく、「惡罵等に於て怖懼なし、惡知識に於て畏懼の心を生ず。なにをもてのゆへに。この惡罵等はたゞよく身を壞してこゝろを壞することあたはず、惡知識といふは二ともに壞するがゆへに」。W已上R つぎに爾前の經、所依の論をばもちゐるべからずといふ義、これまたはなはだ自由なり。汝が所立、ことごとく諸經諸論にそむくによりて術計をうしなふゆへなり。爾前の敎の得益に至ては、かみに汝が信ずるところの『法花』と『无量義經』と、二經をひきて文證とす。何ぞわづらはしくかさねてこの義を論ぜん。たとひ爾前の敎の得益なしといふとも、『觀經』の得益にをひては爾前の敎に准ずべからず。かれは此土の入聖得果をあかす、これはかの土の往生の益をとく。かれは難行これは易行、かれは自力これは他力。所行すでにことなり、得益なんぞ同じからん。なかんづく『觀經』は『法花』と同時の說なり、爾前の敎に攝すべからず。『觀經』・『法花』同時といふこと、『善見論』といひ『涅槃經』の文といひ分明なり、たれかこれをうたがはん。 卽往安樂世界の阿彌陀は、西方の阿Ⅳ-0736彌陀にはあらず。己心の阿彌陀といふ、これまた不足言なり。己心の佛は不生不滅・无去无來なり。あに「この命終に於てすなはち安樂世界にゆくと、W乃至R生蓮花中」(法華經卷*六藥王品)等といはんや。『心地觀經』(卷三*報恩品)にいはく、「法身の體は、もろもろの衆生にあまねく萬德凝然として性常住なり。生ぜず滅せず、去來なく、一ならず異ならず、斷常にあらず」と。W已上Rしかるに「こゝにをひて命終して、すなはち阿彌陀佛のみもとにゆいて、蓮花の中の寶座のうへに生ず」といへり。この文の始終をみるに往生の二字をとく、なんぞ己心の彌陀といはん。 法華問答[上] Ⅳ-0737法華問答下 難じていはく、和尙・上人兩師の解釋、謗法にあらずと。これを會すといへども、いまだその難をのがれず。『選擇集』の第十一の章に、「雜善約對して讚嘆念佛の文」とこれを題して、『觀經』の念佛流通の「若念佛者、當知、此人是人中分陀利花」の文を引て、同じき經の『疏』(散善義)に「念佛三昧の功能超絶して、實に雜善をもて比類とすることをうるにあらず。すなはちそのいつゝあり。W乃至Rもし念佛するものは、すなはちこれ人中の妙好人」の釋、この二文をひきあはせて、「わたくしにいはく」(選擇集)の下に「この『經』にすでに定散諸善ならびに念佛の行をときて、しかもそのなかにをひて、ひとり念佛を標して芬陀利にたとふ。雜善に對するにあらずは、いかんがよく念佛の功の餘善諸行にこゑたることをあらはさん。しかればすなはち、念佛するものはすなはちこれ人中の好人といふは、これ惡に待してしかも美るところなり。人中の妙好人といふは、これ麤惡に待してしかも稱するところなり」(選擇集)。W已上R念佛を讚ぜんがために諸善をことごとく雜行となづく。あⅣ-0738まさへ惡に待してしかも實とするところなり。『法花』これ一大事の因縁、諸佛出世の本懷、かぎりてこの『經』にあり。しかるに『法花』を雜行のなかに攝して惡に待し麤惡等に待すといふ。W已上Rこれすなはち謗法をのがれがたし、いかん。 答。この難ことごとく非なり。文の始終をよくこれをみるべし。「念佛三昧功能超絶」とは、念佛はこれ本願の行なるがゆへに、諸善に超過して「實非雜善得爲比類」といふことをあらはさんがためなり。これすなはち勝劣の義なり。かるがゆへに念佛の行者を芬陀利等にたとふ。芬陀利花は人中の花のなかにすぐれたるがゆへに、これを人中の好花・上々花・妙好花等となづく。かるがゆへに、この花をもて念佛のものにこれをたとふ。人中の好人・妙好人・希有人等といふなり。これすなはち念佛の機と諸行の機と相對して、念佛の機を好人・妙好人となづく。故に字訓に對せんがために「待惡」・「待麤惡」といふなり。法と法とに相對せば惡の言をなすべからず。故にかみに法と法とを相對して勝劣を判ずるとき、實非雜善得爲比類といひて惡の字を置ず。つぎにかみにいはく、「雜善に待するにあらずは、いかんがよく念佛の功の餘善諸行にこゆることをあらはさん」(選擇集)。つぎにしもの後序にいはく、「それ速に生死をはなれんとおもはゞ、二種の勝法のなⅣ-0739かに、しばらく聖道門をさしをきてえらびて淨土門にいれ」(選擇集)。W取要Rすでに二種の法といふ、いかんが惡となづくる。しかのみならず、『選擇集』のこゝろ、所々に諸行を明す。もし汝が所難のごとく行を惡となづけば、諸行往生のむねをあかすべからず。上人、いかんが善惡の二事にまよひて諸行を惡といはん、またあに往生をゆるさん。つぎにしもに『觀音授記』をひきて諸行往生の支證とせん。付屬の章にいたりて、はじめ日觀よりをはり下品下生にいたるまで、定散二善ことごとくみな往生をあかして、「これすなはち淨土宗の『觀无量壽經』のこゝろ」(選擇集)と結す。かくのごとく諸行往生をゆるしながら、あに諸行を惡といはん。所難とするにたらず。 問ていはく、『觀經』と『法花』と同時の說といふこと、經文にそむき道理に違す。まづ經文にそむくといふは、阿闍世逆罪ををこすこと、提婆・雨行等の敎によるがゆへに『觀經』に「隨順調達惡友之敎」ととく。しかるに爾前の『經』(報恩經卷四*惡友品意)のなかに「提婆入滅」ととく、もししからば、『法花』以前に入滅せしむる提婆、『法花』をとくとき、よみがへりて阿闍世にすゝめて逆罪をつくらしむべきやWこれ難R。次に『觀經』には阿闍世太子ととく。『經』(觀經)にいはく、「爾時王舍大城有一太子、名阿闍世」と。W已上R『法花』の同聞衆には「阿闍世王」ととく。『經』(法華經卷*一序品)にいはく、「韋Ⅳ-0740提希子阿闍世王」と。W已上Rこの二經の文を考るに、太子はさき、王はのちなり。この義によるに『觀經』を『法花』同時の說といふべからずWこれ二の難R。しかるに『法花』はこれ正直捨方便の敎なり。かくのごときの深法をきゝて、いかでか惡逆ををこし、沙門を罵、父を殺し、母を害せんと欲せん。この義をもてしりぬ、阿闍世『法花』以前に逆罪ををかすといへども、のちに懺悔せしめて罪を滅することをえて、『法花』の座につらなるべし。かるがゆへにしりぬ、『觀經』は『法花』以前の說なり。『法花』同時ととくこと、文理ともにそむく。はなはだもて依用しがたし、いかん。 答。たとひ『報恩經』(卷四惡*友品意)に「提婆入滅す」ととくといへども、汝が所立のごときんば、爾前の敎は方便の敎といひて、ひきて提婆が入滅の支證とせん。『涅槃經』は汝が信ずる所の經なり。かの『觀經』は『法花』同時ととくとみえたり。これを諍ことなかれ。『涅槃』三十三(北本卷三四*南本卷三一)W「迦葉菩薩品」Rにいはく、「善見太子、父の喪するをみをはりて、まさに悔心を生ず。雨行大臣また種々の惡邪の法をもて、しかもためにこれをとく。大王一切の業行すべて罪あることなし。耆婆またのたまはく、大王まさにしるべし、かくのごときの業罪二重をかねたり。一には父の王を殺害し、二には須陀洹を殺す。かくのごときのつみは、佛をのぞきてさらに除滅するものなⅣ-0741けん。善見王ののたまはく、如來淸淨にして穢濁あることなし。われら罪人いかんがみることをえん。善男子、われこの事をしる。故に阿難につげたまはく、三月をすぎをはりて、われまさに涅槃すべし。善見、きゝをはりてすなはちわが所に來て、われために法をとくに、重罪うすくなることをえて无根の信をうる」。W已上R同『經』の二十W「梵行品」R(北本卷二〇*南本卷一八)にいはく、「阿闍世王もし耆婆の語に隨順せずは、來月七日に必定して命終して阿鼻地獄に墮せん。このゆへに阿耨菩提の近因は善友にしくはなし。阿闍世王また前路にをひて、舍婆提毗流離ふねに乘じて海にいり、火にすぎてしかも死す。瞿迦W離羅R比丘は生身に地にいり、阿鼻にいたる。須那刹多は種々の惡をつくり、しかも佛所にいたりて衆罪滅することをうときく。この語をきゝをはりて耆婆にかたりていはく、われ汝と同く一象にのらんと欲す。たとひわれまさに阿鼻地獄にいるとも、こひねがはくは、汝捉持して、われをして墮せしめざれと。なにをもてのゆへに、われむかしかつてきゝて、これをうるひと地獄にいたらず」と。W已上Rこの勘文のごとく、阿闍世王『法花』の序分に同聞衆につらなるといへども、いまだ正說をきかず。かるがゆへに逆罪をつくる。逆罪已後佛所に詣せず。涅槃の時分にいたりて、闍王、耆婆がすゝめて佛所に詣するによりて、佛ために法をとⅣ-0742く。闍王、法をきゝて滅罪得益すとみる。もし汝が所說の如く、闍王の逆罪『法花』以前ならば、逆罪以後『法花』の列座に深法をきゝて後に、なにの失咎ありてか阿鼻に墮すべきや。もし『法花』の座につらなりて正說をきくといへども、なを以前の逆罪餘殃のこりて阿鼻に墮すべしといはゞ、「一切衆生皆令入佛道」(法華經卷*一方便品)の文に違す。かるがゆへにしりぬ、『觀經』は『法花』同時の說なり[これひとつ]。つぎに『觀經』には「太子」ととく、『法花』には「王」ととく。この義をもて『觀經』は『法花』同時の說にあらずと、この難また不足言なり。阿闍世を「太子」ととき「王」ととくこと、義に隨ひ言便によりて、王・太子の前後不定なり。『觀經』にいはく、「有一太子名阿闍世」。つぎしもにいはく、「時守門人白言、大王愼莫害母」といへり。阿闍世、ちゝの王を禁閉すといへども、なを存在せり、隨ていまだ位にのぼらず。しかりといへども、守門のものは耆婆ともに同く「大王」といふ。『涅槃經』の三十三(北本卷三四迦葉品*南本卷三一迦葉品)にいはく、「時に諸の守人、すなはち太子に告げたてまつる」。W已上Rつぎしもにいはく、「耆婆自らまうさく、國にありしこのかた、罪しかもおもしといへども、いまだ女人にをよばず。いはんや所生の母をや。善見太子この語をきゝをはりて、耆婆のためのゆへにすなはち放捨す」(北本卷三四迦葉品*南本卷三一迦葉品)といへり。またいはく、「善見Ⅳ-0743太子、ちゝの喪するをみをはりて、まさに悔心を生ず」(北本卷三四迦葉品*南本卷三一迦葉品)。W已上Rちゝの王喪して後になを「太子」といふ。明かに知ぬ、王・太子の異說をもて二經の前後を諍ふべからず。『善見論』(卷二)にいはく、「頻婆娑羅王、寒林城にありて、時に阿闍世太子、上茆城にありてまつりごとをなす。政事によりて阿闍世を王となづく」。W取意R つぎに道理の難を會せば、阿闍世『法花』の序分につらなるといへども、いまだ正說をきかず、その中間にをひて逆罪を犯す。逆罪以後佛所にいたらず、涅槃の時節にのぞみて、耆婆がをしへに隨て佛所に詣すること、あに道理にそむかんや。たゞし『法花』の同聞衆につらなりてのち、逆罪を犯すべからずといふ難に至ては、いまだ正說をきかぬ以前に逆罪を犯す。所難にあらず。汝が所說のごとく、『法花』以前に逆罪をつくり、逆罪以後に『法花』の座につらなり、正說をきゝて逆罪滅せずして、『涅槃經』に至て阿鼻の罪業を滅し、はじめて得益せば、『法花』に更に益なし。もしこの義を存ぜば、これすなはち謗法なり。『法花』の得益を失するがゆへに。なかんづく闍王の逆罪は『觀經』の發起序なり。佛『觀經』をとくべき由序のために阿闍世逆罪をつくる歟。もししからば、たとひ正說をきゝて逆罪を犯すといふとも、またこれ咎なし。闍王、『涅槃經』に至てたゞちに逆罪Ⅳ-0744を滅して无根の信をえたり。あに實業の凡夫の逆罪に同じからんや。 難じていはく、『涅槃經』をひきて『觀經』・『法花』の同時の支證とすること、甚だこの義たちがたし。『涅槃經』は一代四十餘年の經を捃拾してこれをとく。故に天台には『涅槃經』を名て捃拾經といふ。なかんづく、ひく所の「迦葉菩薩品」の文は涅槃の當代にあらず。如來畢竟じて涅槃すべきことをあらはさんがために、提婆達多、過去の因縁によりて佛所にをひて不善の心を生じ、如來を害せんと欲して善見太子と親友となり、敎てちゝを殺さしむ。その次第をつぶさにこれをとく。故に涅槃の當代の說にあらず。ひく所の「迦葉菩薩品」(北本卷三四*南本卷三一)のつぎかみにいはく、「そのときに惡人提婆達多、また過去の業因縁によりて、またわが所にして不善の心を生じ、われを害せんと欲す。すなはち五通を修す。ひさしからずして獲得す。善見太子とともに親友となりて、太子のためのゆへに現じて種々の神通の事をなす。非門よりしかもいでゝ門よりしかもいる。門よりしかもいでゝ非門よりしかもいる。あるときは示現して馬・牛・羊・男女の身をなす。善見太子見をはりて、すなはち愛心・敬信の心を生ず。この事のためのゆへに、いつくしく種々の供養の具を設て、しかもこれを供養す。またまうしてまうさく、大師聖人、Ⅳ-0745われいま曼陀羅花をみんとおもふ。時に調婆達多、すなはち三十三天に往至して、かの天人に隨て、しかもこれを求索す。その福つくるがゆへに、すべてあたふるものなし、すでに花をえず。この思惟をなさく、曼陀羅樹は我々所なし、もし自らとらんに、まさになにの罪あるべきや。すなはちまへにとらんと欲すれば、すなはち神通をうしなふ。かへりて己身をみるに、王舍城にあり、こゝろに慚愧を生ず、またみることあたはず。善見太子またこの念をなさく、われいままさに如來の所に往至して大衆を求索すべし。佛聽者、ためにわれまさにこゝろにしたがひて、敎てすなはち舍利弗等に詔敕せしむべし。そのときに提婆達多、すなはちわが所に來てかくのごときの言をなさく、やゝねがはくは如來、この大衆をもてわれに付屬したまへ。まさに種々に說法敎化して、それをして調伏せしむべし。われいま文にをろかなり。舍利弗聰明多智にして世に信伏せらる。われなを大衆をもて付屬せず。いはんや、なんぢ癡人にして、つばきを食するものをやと。ときに提婆達多、またわが所にしてますます惡心を生じて、かくのごときの言をなさく、瞿曇、汝いま大衆を調伏すといふとも、勢またひさしからずして磨滅をみるべし」。W已上Rかくのごときの文、涅槃の當代にあらず。また汝がひく所の「梵行Ⅳ-0746品」(北本卷二〇*南本卷一八)にとく、「汝きたれ。耆婆、われ汝と一象にのらんとおもふ。われまさに阿鼻地獄にいるべし。こひねがはくは、捉持して、われをして墮せしめざれ」と。『法花』に列座してのち、なにの失咎ありてか阿鼻にいらん。怖畏して耆婆と一象にのらんともとめんこと、かくのごとく『法花』以前の說とみる、いかん。 答。「迦葉菩薩品」・「梵行品」の文の始終をみるに、涅槃以前の說もあり、涅槃當代の說もあり。ひとへに涅槃の當代にあらずといふべからず。すでに「阿難につげたまはく、三月を過てすでにまさに涅槃すべしと。善見きゝをはりて、すなはちわが所にきたる。ために法をとく。重罪うすくなることをえて无根の信をう」(北本卷三四迦葉品*南本卷三一迦葉品)といへり。これすなはち法花のをはり、涅槃に至る時節なり。『法花』以前にをひて「過三月已當涅槃」ととくべからず。『普賢經』にいはく、「諸の比丘に告はく、三月を去てのちわれまさに涅槃すべし」ととく。『涅槃經』の文と全くこれ同じ。『普賢經』はこれ『法花』の結經なり、毗舍離國大林精舍重閣講堂にをいてこれをとく。「告阿難却後三月已吾當涅槃」の文『法花』以前の說、たれかこれをあらそはん[これひとつ]。同『經』(北本卷二〇*南本卷一八)の「梵行品」にいはく、「阿闍王、夫人といつくしく車乘に駕して、一萬二千姝莊の大象、そのかず五萬、一々の象のうへに三人をのす。Ⅳ-0747蓋・花香・伎樂、種種の供具を齎持して道にそなへたらずといふことなし。馬騎にしたがひて十八萬あり。摩伽陀國の所有の人民、たづねて王にしたがふもの、そのかず五十八萬に足滿せり。そのとき、拘尸那城の所有の大衆、十二由旬にみてる。ことごとくみな、はるかに阿闍世王と眷屬とみちをたづねて、しかもきたるをみる。そのとき、佛もろもろの大衆に告てのたまはく、一切衆生の阿耨多羅三菩提の近因となることは善友にしくはなし。なにをもてのゆへに。阿闍世王、もし耆婆の語に順ぜずは、來月七日必定して阿鼻地獄におちん。このゆへに近因、善友にしくはなし」W已上これふたつR。またいはく、「そのとき、すなはち沙羅雙樹のあひだにいたり、佛所に至てあふいで如來の三十二相・八十種好を見たてまつる。なをし微妙の身、金色のやまのごとし」(北本卷二〇梵行品*南本卷一八梵行品)W已上これみつR。かくのごときの經文、あに涅槃當代ととくにあらずや。おほよそ『觀經』・『法花』同時の支證をたづぬるに、阿闍世『法花』の同聞衆につらなること、これ第一の支證なり。ゆへいかんとなれば、『涅槃經』(北本卷二〇梵行品*南本卷一八梵行品)に、或は「來月七日必定命終墮阿鼻獄」ととき、或は「われまさに阿鼻地獄にいるべくとも、こひねがはくは、なんぢ捉持してわれを墮せしめざれ」(北本卷二〇梵行品*南本卷一八梵行品)ととき、或は「善見王のまうさく、如來は淸淨にして穢濁あることなし。われら罪人いかんⅣ-0748がみることをえん」(北本卷三四迦葉品*南本卷三一迦葉品)ととく。かくのごときの文をもて、闍王の逆罪を考るに、もし『法花』以前ならば、列座の後にいづれの失咎ありてか『涅槃經』に「必定命終入阿鼻獄」ととかん。また『法花』の列座ののち、「如來淸淨无有穢濁、我等罪人云何得見」とはいふべからず。明に知ぬ、闍王の逆罪、『法花』の序分以後とみえたり。おほよそ闍王の懺悔・滅罪・得益、ことごとくみな『涅槃經』に至てこれをとく。故にしりぬ、闍王、『法花』の序分同聞衆につらなるといへども、いまだ正說をきかず。正說をきかざるさきに調達惡友の敎に隨順して逆罪を犯す。以後佛所に詣せず、涅槃の時分に至て耆婆が敎にしたがひて拘尸那城沙羅雙樹にいたる。その時にをひて逆罪を滅す。得益を蒙り、一切衆生に阿耨多羅三藐三菩提心ををこさしむ。同『經』の二十(北本卷二〇梵行品*南本卷一八梵行品)にいはく、「そのとき阿闍世王、耆婆に語てのたまはく、われいまいまだ死せざるに、すでに天身をえたり。短命をすてゝしかも長命をえ、无常身をすてゝしかも常身をえ、もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心ををこさしむ。すなはちこれ天身・長命・常身、これ一切の諸佛の弟子」。W已上R『法花玄義』の五(卷五上)にいはく、「成道已來四十餘年未顯眞實、『法花』にはじめて眞實をあらはす。相傳していはく、佛年七十二、『法花經』をとく」。W已上R『善見論』(卷二)Ⅳ-0749にいはく、「阿闍世王くらゐにのぼりて八年、佛涅槃して」。これ『涅槃』・『觀經』等の三經の說、符合せり。よくこゝろをとゞめてこれをみるべしと[云々]。 難じていはく、「過三月已當涅槃」(北本卷三四迦葉品*南本卷三一迦葉品)の文によりて『觀經』を『法花』同時の說といはゞ、『觀經』の說時、『法花』八卷のすゑにあたる。もしこの義を存ぜば、『法花』五(卷四)W「提婆品」Rにいはく、「諸の四衆に告はく、提婆達多さりてのち、无量劫をすぎてまさに成佛をうべし。號して天王如來といはん。W乃至R世界をば天道と名ん」。W已上R提婆が記莂、入滅してのち阿鼻にこれををくる。もし『法花』八卷のすゑにいたりて阿闍世逆罪ををかせば、隨順調達とはとくべからず、いかん。 答。この義、あにさきにいはずや。『觀經』をとくこと『法花』の序分のすゑにあたれり。「却後三月我當般涅槃」は、『法花』をときをはりて『法花』の結經『普賢經』の說なり。『涅槃經』の說、またこれにおなじ。逆罪以後、闍王、佛所に詣せず。如來、闍王をすゝめて佛所に詣せしめんがために、阿難につげて「過三月已當涅槃」といふ。もししからば『觀經』と『涅槃經』との中間八ケ”年なり。『善見論』(卷二)にいはく、「阿闍世位にのぼりて八ケ”年に佛入滅す」と。すなはちこの義なり。故にしりぬ、提婆が五卷の記莂、またく相違にあらずと[云々]。 Ⅳ-0750たづねていはく、『觀經』もし『法花』同時の說ならば、なんがゆへぞ淨土の祖師然上人、『觀經』をもて爾前の敎に攝するや。『選擇集』にいはく、「問ていはく、爾前の經のなかになんぞ『法花』を接するや」。かくのごときの現文を見ながら、末學あに『法花』同時の說といはんや、いかん。 答。天台のこゝろ、淨土の敎を方等部に攝して爾前の敎となづく。この義をもてのゆへに、しばらく他にしたがひて問をなして、答のなかに自義をたつ。「答ていはく、今いふ所の攝といふは、權實・偏圓等の義を論ずるにあらず。讀誦大乘の言、あまねく已前の大乘の諸敎に通ず。前といふは『觀經』以前の諸大乘經これなり、後といふは王宮已後の諸大乘經これなり」(選擇集)。W已上Rすでに『觀經』已前の諸大乘經といふ、なんぞ『觀經』を爾前の敎に接するといふや。『弘決』(輔行*卷六)にいはく、「あまねく『法花』已前の諸經をたづぬるに、二乘作佛の文及び如來久成の說をあかすことなし。故に知ぬ、幷に方便を帶するによるがゆへに」となり。W已上R「二乘作佛」と「如來久成」のむね、『法花』にいたりてこれをとく。故に知ぬ、「已前」といふは『法花』のほかなり。『法花』已前、『觀經』已前、またくそのこゝろこれに同じ。あやしむにたらず。 たづねていはく、『觀經』もし『法花』同時の說ならば、天台あやまてなんぞ爾前のⅣ-0751敎に攝するや。 答。大師のこゝろもて更にはかりがたし。もしこゝろみにこれを會せば、『法花』はこれ八ケ”年の說、『觀經』はわづかに一日の說なり。しかも『法花』の序分の終りにあたりてこれをとく。とき短速なるゆへに、方等部に屬して爾前の敎に攝する歟。 問。もし汝が所說のごときんば、淨土の敎をもて出世の本懷とすべきや。 答。しかなり。 難じていはく、出世の本懷かぎりて『法花』にあり。『經』(法華經卷*一序品)にいはく、「一大事の因縁のゆへに世に出現す」。W已上R淨土の三經のなかにかくのごときの文なし。なんぞたゞほしゐまゝに出世の本懷といふべきや。かくのごときの義、はなはだもて依用しがたし、いかん。 答。大悲の本懷、もとより重苦の衆生をさきとす。『涅槃經』の七種の衆生、こゝろこれに同じ。しかのみならず、淨土の敎を出世の本懷といふ、その文一つにあらず。『阿彌陀經』にいはく、「舍利弗、まさにしるべし、われ五濁惡世におひてこの難事を行じて、阿耨多羅三藐三菩提をえて、一切世間のために、この難信の法をとく。これを甚難とす」。W已上R『法事讚』(卷下)にこの文を釋していはく、「如來Ⅳ-0752五濁に出現して、隨宜に方便して群萌を化す。或は多聞をときてしかも得度せしめ、或は小解をときて三明を證せしめ、或は福惠ならべてさはりを除くとをしへ、或は禪念して坐して思量せよとをしふ。種々の法門みな解脫すれども、念佛して西方にゆくにすぎたるはなし」。W已上Rこの經釋、あに出世の本懷といふにあらずや。こゝをもて元曉、『阿彌陀經』を釋していはく、「兩尊出世の本意、四輩入道の要門、耳に經名をきゝて、すなはち一乘にいりてしかも退することなし。くちに佛號を稱してすなはち三界をいでゝしかもかへらず」(小經疏)。W已上R惠心の『略記』(小經*略記)にいはく、「しかるに信受をすゝむるは、願生を成ぜんがためなり。これ佛の本懷なり。輕爾すべからず」。W已上R『稱讚淨土經』にいはく、「また舍利子、われかくのごときの利益を觀ずるに安樂大事の因縁なり、誠諦の語をとくなり」。W已上R『祕密四藏經』に、「諸佛の出世の本懷は、阿彌陀佛の功德名號なり」と。W已上R『无量壽經』の下卷にいはく、「无量壽佛を念じて、その國に生ぜんと願じて、もし深法をきゝて歡喜信樂して、疑惑を生ぜず、乃至一念かの佛を念じて、至誠心をもてその國に生ぜんと願ず」。W已上Rこれらの經釋、出世の本懷といふ文分明なり。たれかこれをうたがはん。 難じていはく、『法花』を出世の本懷といふがごとく、昔一代の敎を方便とす。いⅣ-0753はく、鹿園の誘引、方等の襃貶、般若の洮汰、種々の利益ありといへども、みなこれ一佛乘の方便たり。故に一代最頂、かぎて『法花』にあり。このゆへに出世の本懷とするに足ぬ。しかるに淨土の敎は薄福一機のためにこの敎をとく、なんぞ出世の本懷に屬せんや。所引の『阿彌陀經』は、またこれたゞ一機のためにこれをとく。念佛をすゝむるばかりなり。もししからば、出世の本懷といふべからず、いかん。 答。文といひ道理といひ、すでにまへの答のごとし。なかんづく、釋尊の悅豫・微笑、これすなはち本意をとぐる相をあらはすとなり。しかのみならず、十方恆沙の諸佛の護念證誠、あに一大事の因縁にあらずや。おほよそ諸佛の出世、もはら重苦の衆生をさきとす。故に知ぬ、出世の本懷もはら淨土の敎にあり。『花嚴』(唐譯卷一三*光明覺品)の文殊讚佛の偈にいはく、「一々の地獄中に无量劫をへたり。衆生を度せんがためのゆへに、しかもよくこの苦をしのぶ」。W已上R『涅槃經』(北本卷三八迦葉品*南本卷三四迦葉品)にいはく、「一切衆生の異の苦をうくるは、ことごとくこれ如來一人の苦なり」。W已上R『莊嚴論』(莊嚴經論卷*六隨修品)にいはく、「菩薩、衆生を念じてこれを愛すること、骨髓にとほり、恆時に利益せんと欲すること、なをし一子のごときのゆへに」と。W已上Rこの義をもてのゆへに、はじめに『无量壽經』(卷上*卷下)には、いまだ五逆をつくらざる機にⅣ-0754をひては抑止して「唯除五逆」ととき、後に『觀經』にいたりて、すでに五逆をつくる機にをひては攝取して往生をゆるす。これすなはち娑婆の敎主釋尊、種々の方便をもて造惡の衆生をして利益せしむること、かくのごとし。淨土の敎主彌陀如來は、毗舍離國にいたりてひかりをのべて、たちまちに重病の衆生をたすけて、ことごとく安穩ならしむ。王宮にをひて空中に住立する、韋提すなはち无生をう。まことにしりぬ、二尊出世の大意、もとも淨土の敎をさきとす。『華嚴經』(晉譯卷五五*入法界品)にいはく、「自在力を顯現すること、圓滿修多羅をとかんがためなり」。W已上Rかの宗のひと、この文ばかりをもて出世の本懷と號す。いはんや、淨土の敎にをひて出世の本懷といふ、『祕密四藏經』の文分明なり。『稱讚淨土經』には「利益安樂大事因縁」ととけり。かの『經』と『阿彌陀經』とは同本異譯の經なり、たれかこれをあらそはん。出世の本懷にをひて經々の異說所望不同なり。『花嚴經』のごときんば厚殖善根の上機を化して本懷とす。『法花』にをひては二乘を化するを本懷とす。淨土の敎にいたりては重苦をすくふを本懷とす。『涅槃經』の七種の衆生、こゝろをとゞめてこれをみるべし。 法花問答[下]