Ⅳ-0671決智鈔 ひろく一代半滿の敎をたづぬるに、衆生出離の門にあらずといふことなし。諸經のとくところまちまちなれども、菩提の覺位を成ずるをもて詮とし、諸宗の談ずるところさまざまなれども、心性の妙理をあらはすをもて要とす。『華嚴經』(晉譯卷一〇*夜摩說偈品)には「心佛及衆生是三無差別」ととき、『涅槃經』には「一切衆生悉有佛性」といへり。されば我心すなはち佛なり。心のほかに佛をもとむべからずといへども、一念の迷妄によりて無明煩惱におほはれしよりこのかた、佛性のまなこひさしくしゐて、生死のやみにまよへり。『唯識論』(成唯識*論卷七)に衆生の癡暗の相をあかすとして、「未得眞覺、恆處夢中。故佛說爲生死長夜」といへり。かゝるまよひの凡夫は、煩惱卽菩提ときけどもその理を達せざれば、煩惱はもとの煩惱にて罪因となり、菩提はもとの菩提にてまたく正見にかなはず。生死卽涅槃と觀ぜんとすれどもそのさとりをえざれば、生死はもとの生死にて六道に輪廻し、涅槃はもとの涅槃にていまだ佛性をあらはさず。こゝをもて『涅槃經』(北本卷二七師子吼品*南本卷二五師子吼品)Ⅳ-0672には「以無明覆不能得見」といへり。善導和尙、かの經文によりて「但以垢障覆深、淨體無由顯照」(玄義分)と判じたまへり。三世の諸佛、このことをあはれみて番々に出世し、一代敎主釋迦如來、かの佛性をあらはさしめんがために、五濁世にいでゝ八相成道し、大小乘の敎をときたまへり。その敎門あまたにわかれたれども、龍樹菩薩の論判にまかするに、難行・易行の二道あり。道綽禪師は、この二道をなづけて聖道・淨土の二門とす。聖道門は、直至成佛の門をしめして現身に法性の理をあらはせととき、淨土門は、順次往生の道をすゝめて安養にして無生のさとりをうべしとをしへたり。かの聖道門にとりて、ことに衆生卽佛の門をあかし、實相常住の理をあかせるは、『華嚴』・『法華』・『涅槃』等の大乘經これなり。かの諸經の深理をきくもの、をのをのその機にしたがひて益をうること、在世はいふにをよばず。滅後の衆生も、上代上根のひとは說のごとく修行してその證をあらはす。たとひ末世の機なりといふとも、利智の人ありて敎のごとく行學せば、益をうることなかるべきにはあらず。諸宗あひわかれて、たつるところ面々にかはれども、みなこれ自力修入の道なるがゆへに、總じてこれを聖道門といふ。淨土門といふは、淨土の三部經について他土の得生を期す。これひとへにⅣ-0673彌陀の名號をとなへ、他力の本願に乘じて順次に極樂にむまれ、かしこにして法性眞如の理をさとり、無上佛果のくらゐにいたらんとねがふなり。一代みな一佛の所說なれども、二の門をまうくることは、在世の機はみな聞經の功によりて當座に益をもえ、未來成佛の記別にもあづかりしかども、末世造惡の衆生、障重根鈍の凡夫は、現身にさとりをうることかたきがゆへに、かの聖道門の修行にたへざらん機のために、いま易行の一道をまうけて他力の往生をしめすなり。されば『觀經』にこの念佛往生の機をとくとして、あるひは「爲未來世一切衆生爲煩惱賊之所害者、說淸淨業」といひ、あるひは「爲未來世一切大衆欲脫苦者、說是觀地法」ととけり。五障の韋提を對機としてこれをとける、ひろく滅後常沒の凡夫をすくふことをあらはすなり。その滅後にをいて、正像末の三時あり。正法千年のあひだは敎行證みな具足せしかば、敎によりて行を修し、行によりて證をうるひとおほくして佛法の勝利減ぜず、ほとほと在世にかはることなし。像法千年のあひだに敎行はあれども、その證なし。末法萬年のあひだはたゞ敎のみありて行證なし。これすなはち五濁興盛にして衆生の惡業はまさり、心想羸劣にして佛法の修行はすゝまざるがゆへなり。當時の時節をおもふに、もしⅣ-0674正法千年の說によらば、末法にいりて二百餘年、もし正法五百年の說によらば、末法にいりて七百餘年なり。いづれの義によるとも、末法にいたれることは勿論なり。『大集經』にとくところの五箇の五百年のうち第五の五百年なれば、鬪諍堅固の時分なり。『觀經』にいへる煩惱賊害の機、まさしくいまにあたれり。かるがゆへに時機相應の敎につきて、この念佛往生の門をすゝむるなり。これ如來眞實の所說、諸佛證誠の敎法なるがゆへなり。 問ていはく、佛道を修行するは、生死をはなれんがためなり。しかるに方便の權敎によりて出離をもとめば、その利をうべからず。眞實の敎によりて眞實の佛果をばもとむべし。その眞實の敎といふは、法華の一法なり。餘の一切の敎は眞實にあらず。そのゆへは、かの『法華經』(卷一*方便品)の文に、あるひは「十方佛土中、唯有一乘法。無二亦无三。除佛方便說」といひ、あるひは「說佛智惠故、諸佛出於世。唯此一事實、餘二卽非眞」といひ、あるひは「雖示種々道、其實爲佛乘」といひ、あるひは「唯以一大事因縁故出現於世」とときて、一乘妙法のほかはことごとく眞實の敎にあらず、みな方便の說なり。たゞこの一法のみ諸佛出世の本懷、衆生成佛の直道なりとあらはせり。あるひは三說に對して法華Ⅳ-0675の第一なることを嘆じ、あるひは十喩をときてまたこの『經』の最勝なることをのべ、あるひは穿鑿高原のたとへをもて法華を行ずる人の佛道にちかきことをしめし、あるひは王頂髻珠のたとへをかりて妙法の最上なることをあかせり。しかのみならず、五逆の調達、天王如來の記別にあづかり、八歲の龍女、無垢世界の成道をとなふ。これみな一代になきところ、諸敎のをよばざるところなり。しかるにたまたま一乘流布の世にむまれながら、これを受持讀誦することなくして、ひとへに方便の敎を執して念佛往生をねがはんこと、これおほきなるあやまりにあらずや。 こたへていはく、諸經のなかに『法華』のすぐれたることは、文にありてあきらかなり。これすなはち本迹二門の說相、爾前にこゑたるがゆへなり。迹門の正意は實相をあらはすにあり、本門の正意は如來の遠壽をあらはすにあり。しばらく迹門についていはゞ、實相といふは『經』(法華經)に「諸法實相」ととく。その「實相」といふは天台によるに、十界・十如・三千の性相、衆生の一念に居して不可思議なるをいふ。このゆへに佛と衆生と無別にして、煩惱と菩提と不二なり。これを「諸法從本來、常自寂滅相」(法華經卷*一方便品)ともいひ、「是法不可示、言辭相寂滅」Ⅳ-0676(法華經卷*一方便品)ともとけり。これすなはち衆生の佛性なり。佛、この理をあらはさんがために世にいでたまへば、出世の本懷ともいはれ、最第一の說ともなづくるなり。これ佛智なり、これ一乘なり、これ實相なり、これ寂滅なり。この一理のほかには、法としてさらにその體なし。かるがゆへに「二乘の法もなく三乘の法もなし」といひ、「餘はみな眞にあらず」といふなり。敗種の二乘、成佛の芽莖を生ぜしも、このゆへなり。「一切衆生、佛道にいる」(法華經卷一*方便品意)といふも、このゆへなり。調達が作佛も、龍女が成佛も、みなこの佛智一乘の道によりてなり。しかるに淨土宗よりこれをみれば、うるところの益さまざまなれども、かれは二門のなかの聖道門、自力修入の道なり。されば迹門には、三周の聲聞、諸法實相の理をさとりて八相成道の記にあづかり、本門には、微塵の菩薩、佛壽長遠の說をきゝて增道損生の益をえたり。滅後下根の衆生は機分をよびがたきによりて、こゝにして法性の深理をさとりがたければ、佛願の強縁に託し彌陀の淨土に生じて、かしこにして無生のさとりをひらくべしとすゝむるなり。在世は大旨利根の機なるがゆへに、證をえ益にあづかること、ことはりなり。末世の凡夫は鈍根無智なるがゆへに、法は殊勝なれども淺機のためには不成の行なれば、なを生死をまぬかれがたし。Ⅳ-0677かゝる劣機のために出離の要道となるは、たゞ念佛の一行なり。このまへには、かの一代の諸經みな念佛の一門に歸して、これまた念佛一乘といはるゝなり。『觀經』の發起序のはじめに、諸經の時・佛・處・衆をつらねてこれをとき、善導和尙この文をもて「化前序」(序分義)と釋せらるゝは、このこゝろなり。あるひは「頓敎一乘海」(玄義分)といひ、あるひは「頓敎菩提藏」(般舟讚)と釋する、またこの義なり。詮ずるところ、一代に二門あるうちに、直至成佛、卽身頓悟の道をあらはすにとりて、門々またあひわかれたり。たがひに眞假をあらそへども、まづ天台のこゝろをもていはゞ、『法華』をもて至極とす。四味の調熟をへて一圓の極理をあらはし、三乘の方便を開して一佛乘に會するがゆへなり。このときは、一代みな『法華』に會するいはれあり。順次往生、凡夫出離の道をしめすは、念佛をもて最要とす。事理の觀行をすゝめず、たゞ稱名の易行をもちゐるがゆへなり。このときは、諸敎みな念佛に歸する義あり。『般舟讚』に「說種々方便敎門非一、但爲我等倒見凡夫。若能依敎修行者、則門々見佛得生淨土」といへる、このこゝろなり。しかれば、『法華』(卷六)も正宗當機の得益をはりて、流通「藥王品」に、時は後五百歲の時をさし、機は五障・三從の女人をいたして、「卽往安樂世Ⅳ-0678界阿彌陀佛所」ととく。これすなはち『法華』の利益も、滅後造惡の機のためには直至成佛の益も、つゐに往生淨土に歸入するすがたをあらはすなり。 問ていはく、法華所被の機は在世上根の機なりといふこと、しかるべからず。ことに下機を利益すること、この『經』の勝益なり。いはゆる達多・龍女が成佛、その證なり。なんぞ下根にをよばずといふべきや。 こたへていはく、淨土宗のこゝろをもてみるとき、在世得益の機はみな利根の機としらるゝなり。さればかの二人も根鈍の機といふべからず。そのゆへは、調達は八萬法藏のうち六萬藏を闇誦し、三十二相のうち三十相を具せり。もとも上根の機といふべし。龍女はすなはち『經』(法華經卷*四提婆品)に「年始八歲智惠利根」とときたれば、鈍根といふべからず。いはんやまた在世の機はおほく權者なりとみえたることあり。もしその義によらば、益をうといへるも、實益にはあらざるべし。たゞ滅後下根の機、惡障深重の衆生の、まことに生死をいづる法を眞實の法とはいふべし、これすなはち念佛なり。 問ていはく、在世の機はおほく權者なるべしといふこと、おもひがたし。たとひ權者なりとも、下機の行狀をしめすは、經にその益あるべきがゆへなり。なんⅣ-0679ぞ權者なりといひて、經の功力なきになすべきや。いはんや權者なるべしといふこと、信用にたらず。その證據ありや。 こたへていはく、もとよりひとすぢに權者の義をもていまの義を立するにはあらず。在世は上根、滅後は下根とこゝろうるに相違なし。そのうへに、まして權機といふ說もあれば、その說にては實には益なき義もあるべしといふ義をのぶるなり。されば權者・實者の二義をば、ことによりてこゝろうべきなり。つぎに權者の所見にいたりては、『同性經』(卷下意)のなかに、「三乘の自地は佛地より生ず」といへるをもてこゝろうれば、聲聞・菩薩の斷惑修入の道はみな實にあらずとみえたり。したがひて妙樂大師の釋にも「准『不思議境界經』云、舍利弗等五百聲聞、皆是他方極位菩薩」(釋籤*卷二〇)といへり。この釋のごとくならば、「五百の聲聞」といへるは、三周得記の聲聞、みな權なりときこえたり。また天台大師は「調達是賓伽羅菩薩、先世大善知識」(法華玄義*卷六下)といひ、妙樂これをうけて「言調達是賓伽羅菩薩等者、故『大經』云、若提婆達多實是惡人墮阿鼻者、無有是處」(釋籤*卷一三)といへり。權者なること、これらの文にてしりぬべし。 問ていはく、在世の機の利鈍・權實をば、しばらくこれをさしをく。いまの『法華Ⅳ-0680經』はもはら滅後の機にかうぶらしめたり。すなはち「寶塔品」(法華經*卷四)には「能於來世讀持此經、是眞佛子。住淳善地」といひ、「神力品」(法華經*卷六)には「於我滅度後、應受持此經。是人於佛道決定無有疑」ととける文等、その證なり。されば天台大師も「後五百歲遠霑妙道」(法華文句卷*一上釋序品)と釋したまへば、當時まさしくかの利益のさかりなるべき時分なり。なんぞこれを修してその佛果をえざらんや。 こたへていはく、「決定無有疑」の文、「住淳善地」の說、まことにたのみあり、もとも信ずべし。たゞし能說の人もそのくらゐにいたらずは、たやすくとくべからず。能聽の人も、淺智にしてはかなふべからず。そのゆへは、「譬喩品」(法華經*卷二)の文をみるに、あるひは「此法華經爲深智說。淺識聞之迷惑不解」といひ、あるひは「凡夫淺識深著五欲、聞不能解。亦勿爲說」ととけり。深智まではおもひよらず、淺智だにもなからん。下機のためにこれをとかんこと、佛說の制にたがへり。とかん人とがをえ、きく人益なかるべし。かくのごとく制せられたることは、甚深至極の法なるがゆへに、淺識のものきゝては謗をなすべし。謗をなさば、惡趣に墮すべきがゆへなり。これによりて、その罪報をあらはして、あるひは「若人不信毀謗此經、則斷一切世間佛種」(法華經卷*二譬喩品)といひ、或は「見有讀Ⅳ-0681誦書持經者、輕賤憎嫉而懷結恨、其人命終入阿鼻獄。具足一劫劫盡更生」(法華經卷*二譬喩品)ととき、そのほかさまざまの苦報をいだせり。能說・能聽の人、みだりなるべからずときこえたり。また「法師品」(法華經*卷四)には、『法華』をとかん人は衣・座・室の方軌に住すべきことをあかせり。「若有善男子・善女人、如來滅後欲爲四衆說是法華經者、云何應說。是善男子・善女人、入如來室、著如來衣、坐如來座、爾乃應爲四衆廣說斯經。如來室者、一切衆生中大慈悲是。如來衣者、柔和忍辱心是。如來座者、一切法空是。安住是中、然後以不懈怠心、爲諸菩薩及四衆、廣說是法華經」といへる、その文なり。さればこの方軌に住せんことかたければ、たやすくとくべからず。とくべからざれば、きゝて信をおこし、受持・讀誦せんこともかたかるべし。おほよそ『法華』にをいて事理の行あり。理の行といふは、ふかく三諦相卽のむねをしり、諸法實相の理を達するなり。事の行といふは、受持・讀誦・解說・書寫・供養の五種の行なり。理事の行ともにとくこともかたく、きくこともかたし。まことに能說のくらゐにかなひたる慈悲・忍辱のひとありてこれをとき、きゝて信ずべき深智の人ありて機感相應し如說に修行せば、佛道をえんことうたがひあるべからず。「是Ⅳ-0682人於佛道決定無有疑」ととける、この義なり。しかれば、卽身頓悟の益は凡夫のうへには不成なるゆへに、『法華』の益もつゐには卽往安樂に剋するなり。その義、さきにのべつるがごとし。 問ていはく、法華の行者のなかに、念佛は無間の業なりといふ人あり。いまの經のなかにても、また他經にても、その義をときたる文ありや。 こたへていはく、この問もとも迷惑せり。祖師、念佛の行にをいて四修をたてたまへるなかに無間の修あり。そのことならば、しかなり。もしいまうたがふところは、無間地獄の業なりと歟。いかなる行か三塗の業となる行あるや、いまだこれをしらず。おほよそ一代八萬の敎、しかしながら釋迦一佛の所說、衆生出離の要にあらずといふことなし。これについて敎門に權實をあらそひ、得脫に遲速を論ずる差別あれども、事理の行業しかしながら群生得度の門なり。なかにも念佛はこれ無上大利の功德、凡夫往生の正因なり。諸經の所說、おなじくその勝利をほむる文おほく、自他宗の祖師、ともに念佛の益を嘆ぜり。まことにこれ大乘無上の正法、佛智無生の名號なり。まさしく往生の因をもて、なんぞかへりて无間の業といはんや。詮ずるところ、念佛は地獄の業なりといはん人は、はやくそのⅣ-0683文をいだすべきなり。 問ていはく、このこと『法華經』(卷一*方便品)のなかにかんがふる文あり。あるひは「無智者錯亂迷惑不受敎。我知、此衆生未曾修善本、堅著於五欲、癡愛故生惱。以諸欲因縁墜墮三惡道」といひ、あるひは「當來世惡人、聞佛說一乘、迷惑不受敎、破法墮惡道」ととき、そのほか、さきにいだされつる「譬喩品」の文等、『法華』誹謗の罪報をとける說これなり。そのゆへは、念佛の行者は專修の義をたてゝ『法華』の利益を信ぜざれば、つみ謗法にあたるがゆへに、さだめて無間の業をうべしとこゝろうるなり。この義如何。 こたへていはく、これらの文またく念佛の行者のことをとかず。念佛の行は地獄に墮する業因なりとときたる文あらば、それをいださるべし。しからずは會通にをよばざるものなり。いまの文はたゞ『法華』誹謗の罪報をあげたり。さればその人はたれなりとも、『法華』を誹謗せんものゝことなり。しかるに念佛の行者、總じて餘敎を謗ずることなし。なんぞ別して『法華』を誹謗せんや。さきにのぶるがごとく、釋尊出世の本懷、實相をとくにあること、はじめていふべからず。たゞし末代鈍根のわれらには修行成就しがたきがゆへに、易行の念佛に歸して生死をⅣ-0684いでんとをもふは、わが機分をはかるなり。これさらに敎をかろしむるにあらず。淨土の門をつとむるとき、そのまへには一佛の名號を稱するをもて佛の本願とするがゆへに、かの宗義をまもるばかりなり。念佛と法華とともに佛智一乘の正法なるがゆへに、一法なりと信ず。しかれども、聖に對しては法華となづけて諸法實相の妙理をあかし、凡に對しては念佛となづけて捨身他世の往生をすゝむ。かるがゆへに一法異名なりとはしりて、しかも凡機にあたふるかたをとりて念佛を行ずるなり。 問ていはく、「藥王品」(法華經*卷六)に「卽往安樂」ととくによりて、『法華』の利益念佛に歸すといふこと、しかるべからず。そのゆへは、かの「品」(法華經卷*六藥王品)には「若有女人聞是經典如說修行」ととくがゆへに、『法華』のちからによりて卽往の益をえたり。念佛を行じて往生をうととかざるものなり。したがひて、妙樂も「此中只云得聞是『經』如說修行卽淨土因。不須更指『觀經』等也」(法華文句記*卷一〇下)と釋したまへり。されば『法華』の益、念佛に歸すとはいふべからざるものをや。 こたへていはく、『法華』は成佛をあかし、念佛は往生をすゝむ。しかるに在世三周の聲聞には成佛の記をあたへ、滅後五障の女人には往生の益をしめすがゆへに、『法華』の益も凡夫のためには西方の往生に歸すること、その義あきらかなり。Ⅳ-0685たゞし、その生因念佛にあらずといふ難にいたりては、淨土門にをいて諸行往生・念佛往生の二門あり。いま『法華』の說は、そのなかに諸行往生の門をあらはすなり。これすなはち『觀經』にとくところの三福のなかに、讀誦大乘の行なり。しかれば、定・散・弘願の三門のなかに、定散は能顯の方便、念佛は所顯の眞實なるがゆへに、かの『法華』の讀誦大乘の行は、『觀經』にいりてつゐに念佛往生に歸すべきなり。さればかの如說修行の女人も、もし彌陀の名願力によらずは、千劫・萬劫・恆沙等の劫にもつゐに女身を轉ずべからずとこゝろうれば、顯には讀誦大乘の往生をとくといへども、密には念佛往生の義をふくめり。いはんや、また法華と念佛と一法なりとしるときは、この『經』の益、卽往安樂に歸しけるは、もとも道理なりとこゝろえらるゝなり。 問ていはく、「藥王品」にとくところの阿彌陀と、念佛の行者の歸命する阿彌陀とは各別の佛なり。そのゆへは、『法華』所說の阿彌陀は「化城喩品」よりいでたり。かの文のごとくならば、大通智勝佛の十六王子のうちとして、すなはちかの佛にあふて出家成道せり。『雙卷經』の說のごときは、世自在王佛にあふて發心し、四十八願をおこせり。また『法華』の說は三千塵點のさきなり、淨土宗の說は十劫成Ⅳ-0686道ととけり。もとも各別の佛なるべし。これによりて妙樂大師、「藥王品」の身土を釋するに、「直觀此土、四土具足。故此佛身卽三身也」(法華文句記卷一*〇下釋藥王品)と判じたまへり。いかんが一佛なりといふべきや。 こたへていはく、淨土宗の彌陀、法華の彌陀とて、さらに各別なるべからず。淨土宗のこゝろは、一佛一切佛なるがゆへに、諸佛みな一體なり。「皆從無量壽極樂界中出」(唐譯楞伽經*卷六偈頌品)なるがゆへに、諸佛、彌陀よりいでたり。されば釋迦・藥師・觀音・彌勒等の諸佛・菩薩、みな彌陀一佛なりとしる。たとひ他宗のこゝろなりといふとも、同名の一佛にをいて、なんぞしゐて別體のおもひをなさんや。かれも彌陀となづけ、これも彌陀となづく。かれも安樂といひ、これも安樂といふ。かれも西方ととき、これも西方ととけり。なんの義によりてか、別の佛とこゝろうべきや。自宗の祖師も同體なりとえたまへり。諸宗の先德も各別の佛と釋せられず。まづ『法華』を宗とする妙樂大師、あるひは「諸敎所讚多在彌陀」(輔行*卷二)と釋し、あるひは「敎說多故、由物機故、是攝生故、令專注故、宿縁厚故、約多分故」(法華文句記卷一*〇下釋藥王品)の、六の「故」をいだせり。もし別の佛とこゝろえば、「多在彌陀」といひ「敎說多故」といへる釋義等みなやぶれなん。但發心も各Ⅳ-0687別に、成道の時も相違せりといふにいたりては、大聖の化儀、彌陀一佛にかぎらず。諸經の所說異義あること、みな機にしたがふがゆへなり。まづ敎主釋尊についてこれをいふに、今日一代の化儀は、十九踰城、三十成道、八十入滅の佛なれども、『法華』の說によらば、迹化は三千塵點のむかし、實成は五百塵點のいにしへなり。これみな三身の功用、二門の差別としりぬれば相違なし。いづれの宗よりも、これを別の佛とはこゝろえず、彌陀如來のまたこれにかはるべからず。十劫成道といひ三千塵點といふ、その說ことなりといへども、ともにこれ迹化なり。本門實成のかたをば『般舟經』にこれをとく。かの『經』(一卷本般舟*經勸助品意)に「三世の諸佛、彌陀三昧によりて等正覺をなる」といへる說これなり。つぎに妙樂の釋は、天台のこゝろをもて釋するがゆへに、四土不二、三身相卽の義を成ずること、もともそのいひあり。「豈離伽耶別求常寂、非寂光外別有娑婆」(法華文句記卷*九下釋壽量品)といふがごとし。淨土宗には指方立相をもておもてとするがゆへに、この義を釋せずといへども、そこにその義あることを遮すべからず。つゐにはひとつになるべきなり。 問ていはく、所立の義、重々なりといへども、たゞこれ學者の料簡なり。人師の釋は用否ことによるべし。まさしく經と經とをくらべんとき、『無量義經』(說法品)にⅣ-0688はたしかに「四十餘年未顯眞實」とときぬるうへは、淨土の敎、『法華』以前の敎ならば、これ方便なり。されば天台には五時を判ずるとき、淨土の三部經は方等部に判屬せり。方便の敎なること、なんぞ異論にをよぶべきや。 こたへていはく、このことさきにくれぐれのべつるがごとし。『法華』(卷一*方便品)に「除佛方便說」といひ、「餘二卽非眞」ととける經文と、いまの『無量義經』の文と、その料簡かはるべからず。直至成佛の邊に約すれば、一代みな諸法實相に歸し一佛乘に會するゆへに、その義をもて「未顯眞實」といふなり。これは爲聖聖道の敎にをいてとくところなり。しかれども、「根性利者皆蒙益、鈍根無智難開悟」(般舟讚)のゆへに、凡夫のためには念佛の門のみ眞實出離の道なり。かるがゆへに『法華』の利益もつゐには安樂の往生に歸入するうへは、念佛の法にをいては、かの未顯眞實のことばのうちにこもるとはこゝろうべからず。つぎに淨土の三部經は方等部の經なれば方便なるべしといふにいたりては、この難はなはだ荒涼なり。そのゆへは、五時をたつることは天台一家の敎相なり。餘宗これをまもらず。いはゆる眞言の二敎、華嚴の五敎、三論の二藏、法相の三時、をのをのその宗によりて所立不同なり。しかるにいま淨土宗には、龍樹の論判によりて難行・易行Ⅳ-0689の二道を分別し、道綽禪師のこゝろにまかせて聖道・淨土の二門を辨定し、善導和尙の釋について聲聞・菩薩の二藏をわかち、漸・頓の二敎をたつるなり。しかれば、二道・二門のときは、難行・易行、成佛・往生、廢立ことなるによりて、法華と念佛とその益一往各別なり。二藏・二敎のときは、ともに菩薩藏ともに頓敎なり。これすなはち聖道・淨土ことなれども、おなじく大乘頓極の敎にして、ともに佛智一乘の體なるがゆへなり。 應永廿六年W己亥R卯月十四日 以祕本而書寫之畢 問ていはく、もし五時の次第をまもらずは、たとひ方等部の經といはずとも、淨土の三經、もし『法華』と同時にてもまた以後にても、ときたりといふ所見なくは、未顯眞實の敎のうちをいづべからず。また『法華』のごとく出世の本懷とみえたる文なくは、眞實の敎なりとはいひがたきをや。 Ⅳ-0690答ていはく、難勢度々にをよぶといへども、たゞ同篇なり。一代を二門にわけてこゝろうるに、聖道難行のときは成佛を本とす。これ聖のためにとく敎なり。このときは諸敎みな『法華』に歸す。「四十餘年未顯眞實」(無量義經*說法品)といひ、「出世の本懷」(法華經卷一*方便品意)といへる、このこゝろなり。淨土易行のときは往生を本とす。これ凡のためにをしふるみちなり。このときは衆行みな念佛に歸す。これまた出世の本懷といはるゝ義あるべし。淨土の三部のなかにも他經にも、その證あるなり。されば二門あひわかれて廢立各別なれば、みだりがはしく確執すべからず。たゞ「隨縁者則皆蒙解脫」(玄義分)の益をたのむべきなり。このゆへに淨土宗のこゝろ、またく說時の前後にはよるべからず。いはんや、『法華』の益も安樂の往生に歸するゆへに、かの經に「出世の本懷」ととけるは、この念佛往生の道をときけりとしられたり。なをまた再往これをいふに、法華と念佛と、もとより一法の異名なりとみるときは、出世の本懷ふたつなし、出離の要道ひとつなりとこゝろうるなり。されば說時の次第をばいはざるなり。たゞしあるひは同時、あるひは以後の說とみえたること、所見なきにはあらざるなり。 問ていはく、出世の本懷とみえたること、いづれの文ぞや。また說時のことも、Ⅳ-0691證據あらばいださるべし。その文をきかずは、疑情なをのぞきがたし、如何。 こたへていはく、淨土宗には說時に目をかけざれば、その要なきゆへにこれをいださずといへども、しゐてたづねあるによりて少々これをかんがふべし。經論にその證あり。まづ說時をいはゞ、一には、『勢至經』の文に「我於四十年以後說淨土法門。是韋提菩薩恩德也」といへり。四十年以後年紀をさゝず、をしてはかるに『法華』・『觀經』同時なるべし。一には、『大論』に「法華以後涅槃以前、阿闍世禁籠父母」といへり。この說のごとくならば、『觀經』は『法華』以後なりときこえたり。つぎに出世の本懷をあらはす文といふは、『大經』(卷上)には「如來以無盡大悲矜哀三界。所以出興於世、光闡道敎欲拯群萌惠以眞實之利」といへり。「光闡道敎」といへるは、一代半滿の諸敎なり。「惠以眞實之利」といへるは、いまの名號念佛なり。『觀經』には化前序をとける、そのこゝろなり。『阿彌陀經』には「釋迦牟尼佛能爲甚難希有之事、能於娑婆國土五濁惡世、劫濁・見濁・煩惱濁・衆生濁・命濁中得阿耨多羅三藐三菩提、爲諸衆生說是一切世間難信之法」といへり。出世の元意なることあきらかなり。また「三部經」のみならず、餘經のなかにもその文證あり。いはゆる『六字神呪經』に「如來本Ⅳ-0692意者非他事。出現於五濁爲說念佛往生門」といへり。分明の文なり。 問ていはく、たとひ二藏敎の敎相によるとも、なんぞ勝劣淺深なからんや。ともに大乘ならば、菩薩藏といふとも、そのなかに權實・偏圓等の差別なかるべきにあらざるものをや。 答ていはく、二藏敎のこゝろ、聲聞藏も菩薩藏も、一藏のなかにをいて淺深なし。「諸大乘經見道無別」(大乘玄論*卷四意)といひて、開悟の一道にむけてみるとき、またく差別なきなり。なを再往いふときは、「大小乘經見道無別」(大乘玄論*卷五意)といひて、小乘までもみな一理をあらはせば、一なりと談ずるなり。かくのごとく差別なくして、しかもまた諸經にをいてたがひに等・勝・劣の三の義あり。いま法華と淨土の敎とを對せんにも、この三の義あるべし。聖のために卽身頓悟を本とするときは、法華は勝なり、念佛は劣なり。凡のために順次往生を本とするときは、念佛は勝なり、法華は劣なり。いづれも佛智一乘にして、ともに出離の因となるかたは、二法またく等同なり。 問ていはく、天台の五時をば他宗の敎相なりとて、これをまもるべからずといひながら、しかもまた三論の敎相たる二藏をへつらひて、淨土の敎をこゝろうるこⅣ-0693と、その義如何。 こたへていはく、二藏の名目、三論宗ひとりこれを領すべきにあらず。そのゆへは、みなもと龍樹の『智論』よりいでたるがゆへなり。嘉祥もこれをもちゐ、和尙もこれをもちゐたまふなり。 問ていはく、龍樹は三論宗の祖師なり。二藏の名目、『智論』よりいでたらば、すなはちこれ三論の敎相をもちゐるにあらずや。 こたへていはく、龍樹は三論にかぎらず、總じて八宗の祖師なり。眞言には第三の祖師、天台には第二の祖師とせり。淨土宗にをいてまた根本の祖師なり。いはゆる彌陀について、別して『十二禮』をつくり、『十住毗婆沙論』に難易の二道をあかせり。かるがゆへに龍樹の『智論』によるは、他宗の名目をへつらふにあらず、我宗の高祖の論判をもちゐるなり。たとひまた他宗の敎相なりといふとも、宗義にをいてたがふところなくは、用否ときによるべし。いはんや、いまの二藏敎は自宗の判敎なるゆへに、これを依用するなり。 問ていはく、法華と念佛と一法なりといふこと不審なり。そのゆへは、法華は開示悟入佛之知見の妙理なり、念佛は捨身他世往生極樂の事敎なり。なんぞおなじⅣ-0694かるべきや。 こたへていはく、法華と念佛とを相對するに、分別・開會の二門あるべし。分別門のときは異なり。かれは實相これは稱名、彼は理敎此は事敎、彼は成佛此は往生、彼は爲聖これは爲凡、かれは難行これは易行、かれは自力これは他力、二敎各別にして、機に應ずるときたがひに勝劣あり。開會門のときは同なり。ともに一實の佛智なるがゆへなり。實相と名號とあひはなれず、おなじく佛智一乘なり。理事つゐに別ならず、事理不二なり。成佛・往生は一旦の二益なり。剋するところは開悟にあり。爲聖の敎も凡夫をすてず、一切衆生皆成佛道の實說なるがゆへに。爲凡の敎も聖人をきらはず、五乘齊入の佛智なるがゆへなり。おほよそ如來の敎法はもとより無二なり。たゞ一乘の法のみあり。八萬四千の法門をとけるは、衆生の根性にしたがへるなり。されば實相圓融の法と指方立相の敎と、しばらくことなるがゆへに、文にあらはれて一法といはざれども、實には佛智一乘のほかにさらに餘法なし。このまなこをもてみるときは、『法華』の文々句々みな念佛なりとしらるゝなり。少々文をいだし、おろおろ料簡すべし。 一には、「藥王品」(法華經*卷六)に「卽往安樂」の益をとく、これまづまさしき證なり。 一には、「方Ⅳ-0695便品」(法華經*卷一)には「諸佛智惠甚深無量。其智惠門難解難入。一切聲聞・辟支佛所不能知」といひ、『大經』(卷下)には「如來智惠海、深廣無涯底、二乘非所測、唯佛獨明了」といへる。佛智甚深の義をのぶること、兩經の說相またくあひおなじきものなり。 一には、おなじき「品」(法華經卷*一方便品)に「不求大勢佛及與斷苦法、深入諸邪見以苦欲捨苦」といへり。「大勢佛」といへるは、隱に彌陀佛をさすなるべし。そのゆへは、『觀經』に勢至菩薩の利生をとくに、「以智惠光普照一切、令離三塗得無上力。是故號此菩薩名大勢至」といへり。「智惠光」は彌陀の一名なり。されば大勢至と彌陀とは一體なるがゆへに、その名たがひに通ぜり。このゆへに、いまの文には「至」の字を略して「佛」の字ををける。これ彌陀佛なるべし。したがひて「斷苦の法」といへるその義、除苦惱法の體なり。大勢佛は彌陀、斷苦法は除苦惱法なれば、法華と念佛とまさに一なり。 一には、天台の釋には「觀音すなはち妙法なり」といへり。しかるに觀音は彌陀の慈悲の一門なり。觀音妙法の體ならば、彌陀また妙法の體なるべきこと、その理顯然なり。 一には、「不輕品」(法華經*卷六)には「若我於宿世不受持讀誦此經爲人演說、不能疾得阿耨多羅三藐三菩提」といひ、『阿彌陀經』には「當知、我於五濁惡Ⅳ-0696世行此難事、得阿耨多羅三藐三菩提」といへり。おなじく釋尊久遠の本行ととくがゆへに、かれこれ一法なるべし。 一には、かの『經』を「妙法蓮華經」となづけて、妙法の體は蓮華なり、天竺にはこれを「薩達磨芬陀利素怛纜」といふ。『觀經』には念佛の行者をもて「人中の芬陀利華なり」といへり。「芬陀利」はすなはち蓮華なり。しかれば、かれは所行の法にをいて名とし、これは能行の機にをいて稱をたつ。能所不二にして人法一體なるがゆへに、念佛と法華ともとより一法なり。 一には、法華本迹二門の肝心、しかしながら彌陀をはなれず。そのゆへは、迹門のこゝろは諸法の實相をとくにあり。その實相といふは空・假・中の三諦なり。この三諦はすなはち次のごとく阿彌陀の三字なり。本門のこゝろは如來の遠壽をとくにあり。しかるに阿彌陀は無量壽佛なるがゆへに、遠壽の至極は彌陀なり。かるがゆへに本迹二門の正意、たゞ彌陀の功德を表するなり。されば楞嚴の先德の釋には「三世十方諸佛三身、普門塵數無量法門、佛衆法海圓融萬德、凡無盡法界、備在彌陀一身。不縱不橫、亦非一異非實非虛、亦非有無、本性淸淨心言路絶」(要集*卷中)といへり。實相圓融の義、本性淸淨の理、彌陀の内證、名號の一法なること分明なり。法華・念佛ともに佛智一乘の頓敎として一法なるⅣ-0697こと、大概料簡かくのごとし。 問ていはく、これみな推義なり、經文にたしかにときあらはさずは、信をとりがたきをや。 答ていはく、聖敎の說に隱顯の義あること、法門のつねのならひなり。もとより聖道・淨土の敎相、その門各別なるがゆへに、顯に一なりととかば、敎門錯亂すべし。これによりて、あらはれて一なりとはとかざれども、淨土宗のこゝろをもてみるとき、隱にこの說ありとこゝろうるなり。いかにいはんや「藥王品」の說相は隱說にあらず、文にありてあきらかなり。例せば、眞言敎より妙法の體は、すなはち阿字本不生の理なりといふがごとし。かの敎のこゝろによりていふに、いまの『法華經』は、しばらくこれをみれば五味の醍醐なりといへども、ふたゝびこれを案ずるに兩部の祕奧にあらずといふことなし。衆生の心蓮、大日の心地をもて『妙法蓮華經』となづくといへり。顯密の二敎、そのおもむきことなるがゆへに、この『經』には一實圓融の妙理をあかして、三密加持の功用をとかずといへども、開示悟入の眞理、如實知自心の宗旨、その剋するところひとつなるべきがゆへに、かくのごとくこゝろうるなり。淨土宗もまたかくのごとし。諸宗の領解、さらにⅣ-0698なんとすべからず。しかれば、これをもてかれをおもふに、ひろくこれをいはゞ、法華の諸法實相、眞言の阿字不生、華嚴の三界唯心、涅槃の悉有佛性、般若の盡淨虛融、禪宗の都莫思量、法相の五重唯識、三論の八不中道、みな彌陀佛智の一法異名なるべし。『法事讚』(卷下)に「門々不同亦非別、別々之門還是同」といへる、このこゝろなり。 問ていはく、法華の行人のいはく、淨土宗は小乘なり。されば大乘にあらざる念佛をもて、いかでか三界流轉の果報をはなるべきやといふ、この義如何。 こたへていはく、この難はなはだ非なり。天台宗の敎相、すでに淨土の三部經をもて方等部に判屬するうへは、法華の學者、この難をいたすべからず。嘉祥・淨影等の諸師、また判ずるところ一同なり。自他宗さらに大乘の義をあらそはず。胸臆の謗難、員外といふべきものなり。 問ていはく、天台の釋はしかりといふとも、まさしく淨土宗にをいて、所依の經論等に大乘とみえたる證ありや。 こたへていはく、天台の釋のみにあらず。龍樹の『十住毗娑沙論』(卷五易*行品意)には、易行の益を判じて「便得往生彼淸淨土、佛力住持、卽入大乘正定之聚」といひ、Ⅳ-0699天親『淨土論』には、大義門功德成就を頌して「大乘善根界、等無譏嫌名」といへり。曇鸞和尙これを釋するに「門者通大義之門。大義者大乘所以也。如人造城得門則入。若人得生安樂者、是則成就大乘之門也」(論註*卷上)といへり。しかのみならず、おなじき『論』(淨土論)に淨土の三經をさして「我依修多羅眞實功德相」といへり。曇鸞またこの文を解するに、いはく、「修多羅者、十二部經中直說者名修多羅。謂四阿含・三藏等。三藏外大乘諸經亦名修多羅。此中依修多羅者、是三藏外大乘修多羅。非阿含等經也。眞實功德相者、有二種功德。一者從有漏心生不順法性。所謂凡夫人天諸善、人天果報、若因若果、皆是顚倒、皆是虛僞。是故名不實功德。二者從菩薩智惠淸淨業起莊嚴佛事、依法性入淸淨相。是法不顚倒不虛僞。名曰眞實功德」(論註*卷上)といへり。これによりて、善導和尙は『觀經』を釋して「菩薩藏頓敎一乘」(玄義分)と判じたまへり。 問ていはく、大乘のことは經文にこれなし。いまひくところはみな論文、ならびに人師の釋なり。されば左右なくゆるしがたきをや。 答ていはく、經文に大乘の詞、その要なくは、ことあたらしくとくにをよばず。文には封ぜらるべからず。たゞ所說の義趣について、大小・漸頓をばさだむるとⅣ-0700ころなり。したがひて論文あきらかなり。龍樹・天親はともに千部の論師、諸宗の高祖なり。世こぞりてこれをあふぐ。經は機に對してとくとき、たとひ方便を帶することあれども、論は法にをいて實義を定判するがゆへに、ことに指南とす。無上の大善にをいて、たれか小乘の妄見をいたすべきや。 問ていはく、淨土の敎、大乘の攝なることは論判なれば、まことにあらそふべからず。されば『觀經』を菩薩藏と釋することは、その義これにおなじ。しかるに頓敎といひ一乘といふこと、おほきにおもひがたし。そのゆへは、『觀經』のなかに頓敎の名言もなし、一乘の說相もみえず。すなはち經文をひらきて九品の說相をたづぬるに、上輩は大乘の益をえ、中輩は小乘の益をえたり。しかれば、三乘敎となづくべし、一乘敎とはいふべからず。すでに三乘敎ならば、上輩大乘の分齊も漸敎の攝なるべし。いはんや、中輩は廻小入大の義を談ず。その得益まさしく漸敎なり。これによりて、上・中兩輩の說相、頓敎ともいひがたく一乘ともなづけがたし、如何。 こたへていはく、九品の說相は五乘齊入の能入の機をあかすなり。所入の土は一乘淸淨の土、所行の法は一乘頓敎なり。『大經』(卷下)にかの土の益をとくとして、Ⅳ-0701「究竟一乘至于彼岸」といひ、『智論』(大智度論卷*三八往生品)には「一乘淸淨無量壽世界」といへり。所入の土、すでに一乘の土なり。能入の念佛、むしろ一乘にあらざらんや。これまさしく佛智をもて一乘とするがゆへなり。されば一乘のことは、その文なしとはいふべからず。つぎ頓敎の義といふは、『觀經』には「當坐道場生諸佛家」といひ、『阿彌陀經』には聞名不退の益をとく。これみな速疾の益をあかすがゆへに頓敎といふなり。このゆへに『般舟讚』には「『瓔珞經』中說漸敎、萬劫修功證不退、『觀經』・『彌陀經』等說、卽是頓敎菩提藏」といへり。これ頓敎の義を釋する文なり。 問ていはく、眞言・天台・華嚴等の大乘のこゝろは、顯密の談ずるところ、いさゝかことなれども、一念頓成の義をもて頓敎の宗致とす。淨影の釋に「大從小入、目之爲漸。大不由小、名之爲頓」(觀經義*疏卷本)といへる、このこゝろなり。しかるにいま『般舟讚』の釋のごときは、『瓔珞經』の長遠の修行に對して、一日七日の念佛をもて頓の義を成ず。たゞこれは不退にいたる遲速に約して漸頓を論ずるなり。しかれば、修行の時節も一念にあらず、所得の益も成佛にをよばず。これを頓敎と號すること、かつは諸宗の敎相にそむき、かつは甚深の義にあらず、Ⅳ-0702如何。 こたへていはく、この難は淨土宗の所立をしらざるがいたすところなり。いまの釋のこゝろは、此土の入聖得果の道はたとひ一念頓成と談ずとも、下機にをいては成じがたきがゆへに頓益をえず。しかるにいまの彌陀佛智一乘頓敎は、他力の住持するところなるがゆへに、佛名をきくときにをいて心不退の益にあづかり、金剛のこゝろざしをおこせば、橫に四流を超斷して垢障の凡夫直に高妙の報土にいる。これ諸敎のいまだとかざるところ、諸宗のいまだ談ぜざるところなり。この報土といふは、彌陀の果德涅槃の土なるがゆへに、生ずれば無生に契當してすみやかに無爲法性の身を證す。これすなはち頓敎の極致なり。かの法華の深理を達する人、たれか南岳・天台にしかんや。しかるに南岳は相似内凡のくらゐにのぼり、天台は觀行外凡のくらゐにいたるをもて奇異とす。されば南岳は『法華懺法』の發願には「願臨命終神不亂、正念往生安樂國、面奉彌陀値衆聖、修行十地證常樂」と願じ、天台大師は「是妙法華本迹二門、其理深遠難解難入。速詣西方、値佛開悟」(智者大師*別傳意)とちかひたまへり。かの兩大師、なを卽身の悟入をさしおきて、安養の往詣をねがひたまへり。以下のともがら、Ⅳ-0703いかでかかの智解にこえて頓悟の益をえんや。これをもておもふに、自力修入の道をはげまん人よりも、他力往生の門にいらん人は、はやく不退にかなひて、すみやかに佛果にすゝむべきいはれあるがゆへに、頓敎のなかの頓敎、念佛に至極すとこゝろうるなり。 問ていはく、淨土宗の所談、成佛を期せず、念佛の利益、往生をすゝむ。この義もとも淺近なり。出離をもとむるはなんのゆへぞ、たゞ生死をまぬかるゝにあり。しかるに往生のことは、なを生死をはなれずときこえたり。しからば、佛のすゝむるところも方便の益なり。行者のねがふところも輪廻の報なり。いかゞこゝろうべきや。 こたへていはく、このこと、往生の名言佛說歷然なるうへは、あふいで信をとるべし。文字のあらはなる義について一往の假難をいたし、甚深の奧旨にをいて邪執の疑惑をなす。いまだ再往の義趣を達せざるがゆへなり。その義趣といふは、鸞師は生卽無生の義を成じ、和尙は「淨土無生亦无別」(法事讚*卷上)と釋する、これなり。おほよそ『大經』(卷下意)には「十四佛國の菩薩、佛智に乘じて往生す」ととき、『華嚴經』(般若譯卷四*〇行願品意)には「普賢菩薩、安樂國に往生せん」と願ぜり。しかのみならず、龍Ⅳ-0704樹菩薩の初地にのぼりし、あるひは「往生不退至菩提、故我頂禮彌陀尊」(十二禮)と讚じ、あるひは「所獲善根淸淨者、廻施衆生生彼國」(十二禮)といひ、天親菩薩の向滿にいたりし、あるひは「世尊我一心、歸命盡十方無㝵光如來、願生安樂國」(淨土論)と願じ、あるひは「故我願生彼、阿彌陀佛國」(淨土論)と禮せり。往生淨土の益、もし輪廻の報をまぬかれずは、これらの菩薩、これを願ずることあらんや。そのほか曇鸞・道綽・善導・懷感・天台・嘉祥・淨影・慈恩・傳敎・慈覺・惠心・檀那・智光・賴光・永觀・珍海等の自宗・他宗の高祖、震旦・日域の先德、をのをの西方の往生をもとめ、おほく淨土の章疏をつくれり。かゝる智德の西方にむまれんとねがへるをみながら、往生にをいていかでか淺近のおもひをなすべきや。如來の使者として佛敎をひろむる論師、衆生の依怙として出離をすゝむる祖師、しかしながら西方の往生をねがへり。賢をみてはひとしからんことをおもふがゆへに、こゝろあらん人、たれか彌陀の淨土に生ずることをもとめざらんや。たゞ先哲のあとをしたひて一心に念佛を修すべし。短慮のまどひをいだきて自他を損失すべからず。たゞし、いまの難勢をば、さきにいふがごとく、曇鸞みづからこのうたがひをあげて往生といへる、すなはち無生なる義を釋成せⅣ-0705られたり。かの釋をいだして疑情をしりぞくべし。いはゆる『註論』の上にいはく、「問曰、大乘經論中、處々說衆生畢竟無生如虛空。云何天親菩薩言願生耶。答曰、說衆生無生如虛空有二種。一者如凡夫所謂實衆生、如凡夫所見實生死、此所見事畢竟無所有如龜毛、如虛空。二者謂諸法因縁生故卽是不生。無所有如虛空。天親菩薩所願生者、是因縁義。因縁義故假名生。非如凡夫謂有實衆生實生死也」といへり。またおなじき下にいはく、「疑言、生爲有本、衆累之元。棄生願生、生何可盡。爲釋此疑、是故觀彼淨土莊嚴功德成就。明彼淨土是阿彌陀如來淸淨本願無生之生、非如三有虛妄生也。何以言之、夫法性淸淨畢竟無生。言生者是得生者之情耳」(論註*卷下)といへり。これらの釋のこゝろをもておもふに、往生はすなはち无生、無生はすなはち法性、法性はすなはち寂滅、寂滅はすなはち實相、實相はすなはち眞如、眞如はすなはち涅槃、涅槃はすなはち法身、法身はすなはち如來なり。されば理觀も念佛ももとより一法にして、往生も成佛もおなじく一益になるなり。かゝる道理あるによりて、いみじき智者達も淨土をもとめ往生を願じたまへり。いはんや、濁世末代の衆生、在家愚鈍の凡夫、まめやかに生死をはなれんとおもはゞ、一心Ⅳ-0706に西方をねがひ、一向に念佛を行ずべきものなり。 應永廿六年W己亥R卯月十四日 以祕本而書寫之畢