Ⅳ-0635顯名鈔[本] おほよそ三界やすきことなし、六道みな苦なり。無始生死のうち、曠劫流轉のほど、うけぬかたちもなく、むまれぬところもなし。焦熱无間の苦患にもしづみ、鬼畜修羅の罪報をもえたりき。あるひは欲界六天のくものあひだにむまれて、五衰の退沒をかなしむときもありけん。あるひは色・無色界のかすみのうへにあそびて、上天の快樂にほこることもありけん。これみな身にをいて、みづからへたるところなり。しかれども、苦といひ樂といひ、生をへだてぬれば、すなはちわすれぬ。たゞわづかに聖敎の說をひらいて、おもひやるばかりなり。 そのなかに、人界の依身は今生にゑたるすがた、當體に受たる報なれば、苦果のありさま身のうへにおもひしられ、無常のかなしみもまなこのまへにみえたり。おもひいれずして世間にのみ著し、後生をしらずしてむなしくすぎんことは、くちをしかるべきことなり。この人間にをいて增上の煩惱あり、三毒をもて本とす。難治の苦惱あり、四苦をもて最とす。 まづ三毒といふは、貪欲・瞋恚・愚Ⅳ-0636癡なり。貪欲といふは、いろに著し、たからにふけるこゝろなり。瞋恚といふは、いかりをなし、はらをたつるこゝろなり。愚癡といふは、無明におほはれ正理にまどひたるこゝろなり。貪欲を生じ、瞋恚をおこすことも、そのみなもとをいへば、愚癡よりいでたり。八萬の塵勞さまざまにわかれ、一切の煩惱そのかずおほけれども、根本をたづぬるに、みな三毒より生ぜり。もし人毒をくひぬれば、かならず死するがごとく、この三の煩惱をおこせば、かならず三途におもむくがゆへに三毒となづく。またこれをなづけて三縛ともいふ、有情を結縛して生死をいださゞるがゆへなり。つぎに四苦といふは、生・老・病・死なり。生苦といふは、むまるゝときの苦なり。十月のあひだ三百餘日胎内に處して五位をへ、血肉にまじはりて諸苦をうく。月みち期いたりてのち、はじめてむまるゝとき、頭をさかさまにし、身をつゞめていづ。一切の骨節つゞまりてのぶることあたはず、その苦痛によりて前生の事ことごとくわする。老苦といふは、日月すみやかにゆきて、さかんなるよはひはやくすぐ。やまひはとしををひてくはゝり、かたちは日にしたがひておとろふ。かゞみにうつるかげにむかへば、しらぬおきなにあへるかとうたがひ、けぬきにみてるしらがをかぞふれば、けさはきのふよりⅣ-0637もおほし。ちからよはくして春の柳ににたり、ねぶりはやくさめて夏の夜をのこす。老少ともに不定なれども、おひぬればすでに死にちかづくこと、まことにこゝろぼそかるべし。病苦といふは、人身を成ずるは地・水・火・風の四大なり。四大ごとに百一の病あり、あはすれば四百四病なり。一病たちまちにおこれば、五體ことごとくいたむ。病はこれ苦のきはまりなり、病はすなはち死の因なり、たゞ身心を惱亂するのみにあらず、また佛法の修行をさまたぐ、たれかこの苦をいとはざらん。死苦といふは、一期の報命ながくつきて、當生の果報にうつる一刹那なり。水・火・風の三大をのをの散壞し、壽・煖・識の三法、みな捨離するとき、百處支節きりさくがごとし。つゐにいきたえ、まなことぢぬれば、これを野外にをくる。花のかほばせのゑみをふくみし、にはかに無常の風にさそはれ、雲の鬢のなさけありし、むなしく一夜の煙とのぼりぬ。たかきもいやしきも、この苦のがるゝことなく、かしこきもをろかなるも、このかなしみまぬかるゝことなし。しづかにおもへば、たのしむべきところにあらず、つらつら案ずれば、著すべき生にあらず。しかるにあけてもくれても五欲にまつはれて、我も人も生死をおそるゝことなし。五欲といふは、色・聲・香・味・觸の境界なり。Ⅳ-0638この五欲にをいて、想念し、趣向し、貪著して、惡業を現在にたくはへ、苦報を來世にうくるなり。まづ五欲を想念すといふは、人ごとにこゝろを欲境にかけて、世をわたるはかりごとをめぐらし、とかく思惟し、さまざまに憶念するなり。つぎに五欲に趣向すといふは、思惟しをはり、案じしたゝめてのち、まさしく手ををろして、その業をなすなり。あしたには霜をはらひて君につかへ、ゆふべには星をいたゞきてわたくしにかへる。これみな名聞のために馳走し、利養のために辛苦す。あるひは江海にふねをうかべて商賣を能とし、あるひは山野にひづめをかりて殺生をことゝす。かくのごとくいとなみわしること、たゞ一期の身命をたすけんがためなり。もしそのこゝろざしをとげざるときは、身心をなやますこと、毒の箭のむねにあたるがごとし。これ五欲に趣向するありさまなり。つぎに五欲に貪著すといふは、すでにその境界をえてのち、これを受用しこれに愛著するなり。金銀のたからをまへにとりならべ、五穀のたくはへをくらにつみみてゝ、これをもて妻子をはぐゝみ、これにをいて飽足することなし。かやうに貪求するほどに、一生むなしくはせすぎて、また三途の舊里にかへる。十二因縁の流轉、無明より老死にいたり、二十五有の生死、上界よりまた下界Ⅳ-0639におつ。三世に輪轉して片時もやむことなし。たとへば車の庭にめぐるがごとし、また鳥の林にあそぶににたり。かたちつねの主なし、一所にとゞまらず。たましゐつねの家なし、すてゝまたさりぬれば、あるひは阿鼻の薪となりて洞燃猛火のほのほにこがれ、あるひは鬼畜の報をうけて飢饉殘害のかなしみをいだく。これすなはち五欲に貪著する罪業のいたすところなり。しかるに世のならひ人のこゝろ、かゝる罪報をばかへりみず、まづしきはまづしきにつけて悕望のおもひたえず、とめるはとめるにつけて染著のこゝろつくることなし。ねがふも著するも、ともに妄心なれば、とめるもまづしきも、みな惡道におもむく。なげきてもあまりあり、これいかゞせん。 たゞしもとより欲界の衆生具縛の凡夫なれば、煩惱を身にそなへたることは目鼻のむまれつきたるがごとし、いとふともかなふべからず。ひとへに萬事をなげすて、たちまちに妻子をふりすてんことも、末代の機にはかたかるべし。さればたとひ五欲にまつはるといふとも、たとひ三毒を斷ぜずといふとも、凡夫のすみやかに生死をはなれぬべき道をもとむべきなり。おほよそ六趣のなかには人身もともうけがたく、四州のうちには南州ことにねがふべし。妙樂大師は「若論Ⅳ-640果報、卽以南州爲下々。若約値佛、卽以南州爲上々」(輔行*卷四)と釋して、世間の果報をいふときは、いのちみじかく苦おほくして、いづれのところにもおとりたれども、佛にあひたてまつることをいふときは、この南州をもてすぐれたりとす。佛この州にいでたまふによりて、衆生これより出離すべきがゆへなり。佛の在世にむまれあひし機は、をのをの益をえ記にあづかりしこと、いふにをよばず、滅後の衆生なりといふとも、敎法流布の世にむまれて、かたのごとくも因果のことはりをわきまへ、まして善知識にあひ佛法の道理をもきくは、ありがたき宿縁なり。 佛法東漸のゆへに、正法には天竺の佛法さかりにひろまり、像法には震旦の敎迹ことにおこり、末法には我朝の利益ひとへにあまねし。神の代のすゑつかたにあたりて、釋尊涅槃にいりたまひしよりこのかた二千二百餘年、末法にいりていまだ三百年にみたず。欽明天皇の御宇に佛法はじめてわたり、聖德太子さかりにこれをひろめたまひしよりいまゝで七百餘歲、聖敎傳來ののちいまだ千年にたらず。末法萬年の最初、佛法繁昌の最中なり。よくよくをもひいれて有縁の敎門にいり、このたび出離をとぐべし。 Ⅳ-0641こゝに佛敎にをいてさまざまの道あり。あるひは一乘法華の妙典をたもちて直至成佛の道をたづね、あるひは三密瑜伽の觀行をつとめて卽身頓悟の證をもとめ、あるひは不立文字の宗旨をつたへて一念不生のはじめをあきらめ、あるひは三聚・十重の戒品をうけて止惡修善の敎をまほる。これみな生死をはなるゝ要行、菩提にいたる正道なり。しかるにこれらの修行をたづぬるに、あるひは淸淨にして行ずべき門もあり、不淨にして行ぜば勝利をゑがたし。あるひは心地をすましてうべき道もあり、心源もしひらけずはその益なきに似たり。このゆへに『大集經』(卷四〇日藏分護持品意*卷五五月藏分閻浮提品意)の文には「我末法時中、億々衆生起行修道、未有一人得者」といひ、善導和尙の釋には「若待娑婆證法M-N忍、六道恆沙劫未期」(般舟讚)といへり。 たゞ彌陀の一敎、淨土の一門のみ、ひとへに末代相應の要行、凡夫出離の直道なり。されば釋尊は安養をさして易往の淨土ととき、龍樹は念佛をもて易行の道と判じたまへり。得生の因をさだむとしては、本願を一念・十念の稱名におこし、大悲のきはまりをあらはしては、利益を五濁・五苦の衆生にほどこしたまふ。きかずや、韋提幽閉のまどのうちに住立の尊を禮して、無生の益をえしこⅣ-0642とを。凡夫の往生これよりおこる。またきかずや、月蓋長者が門のまへに影向のかたちを拜して、惡鬼の難をはらひしことを。現世の巨益もむなしからざるものなり。經に破戒・五逆を攝する證あり、罪惡に怯弱して佛智をうたがふべからず。釋に專修專念をすゝむる文あり、一向につとめて往生をうべし。一向につとむるといふは、ひとへに彌陀一佛を稱して餘の一切の行業をまじへず、もはら名號の一行をたもちてひとすぢに極樂をねがふなり。これ彌陀の本願なるがゆへに、決定往生の正業なり。天親の『淨土論』に無㝵光如來の名號を讚嘆するに、「稱彼如來名、如彼如來光明智相、如彼名義欲如實修行相應故」と判ぜり。しかるに南无阿彌陀佛と稱するは、すなはち如實の修行なるがゆへに、いかなるゆへありとしらねども、これをとなふるに往生をとげ、いかなる德ありとわきまへざれども、これを信ずれば定聚のかずにいる。たとへば耆婆が藥童子にむかへば、をのづから萬病をのぞくがごとし。されば名號を往生の正因なりとふかく信じて、一向に稱するよりほかは、またしるべきところもなし。 しかりといへども、おなじくはかの名義の功德をきかば、いよいよ信心をもよほⅣ-0643すたよりなるべし。その名義といふは、『阿彌陀經』に阿彌陀佛の名義をとくとして、「彼佛光明無量、照十方國无所障㝵。是故號爲阿彌陀」ととき、また「彼佛壽命及其人民、無量無邊阿僧祇劫。故名阿彌陀」ととけり。さればあみだは天竺のことばなり。こゝには翻じて、あるひは無量光といひ、あるひは無量壽と稱す。これすなはち光明の無量なるは、橫に十方の利益のほとりなきことをあらはし、壽命の無量なるは、竪に三世の化導のかぎりなきことをしめすなり。しかれば、南無阿彌陀佛といふは、光明無量の德に歸して攝取不捨の益にあづかり、壽命無量の德に歸して永無生滅の身をえんとねがふこゝろなりとしるべし。この二種の功德は、十二・十三の願よりいでたり。まづ光明無量の德といふは、第十二の願にいはく、「設我得佛、光明有能限量、下至不照百千億那由他諸佛國者、不取正覺」(大經*卷上)ととけり。おなじき願成就の文には、「佛告阿難、無量壽佛威神光明、最尊第一、諸佛光明所不能及。W乃至R是故無量壽佛、號無量光佛・無邊光佛・無㝵光佛・無對光佛・炎王光佛・淸淨光佛・歡喜光佛・智惠光佛・不斷光佛・難思光佛・無稱光佛・超日月光佛。其有衆生、遇斯光者、三垢消滅、身意柔輭、歡喜踊躍善心生焉。若在三Ⅳ-0644塗勤苦之處、見此光明、皆得休息無復苦惱。壽終之後、皆蒙解脫。無量壽佛光明顯赫、照耀十方諸佛國土、莫不聞焉。W乃至R佛言、我說無量壽佛光明威神巍々殊妙、晝夜一劫、尙未能盡」(大經*卷上)といへり。おほよそ諸佛の功德のなかにも、光明をもておほく利益をほどこし、聖者の奇特を現ずるときも、光明をもて威德をあらはす、光明はこれ智惠なるがゆへなり。大聖釋迦如來、靈山法花のむしろにしては、まづ眉間の光明をはなちて東方萬八千の土をてらし、『觀經』設化のみぎりにしては、光臺に諸佛の淨土を現じて韋提に西方をえらばしめたまふ。觀音は擧身のひかりのうちに五道の衆生の色相を現じてその苦患をすくひ、勢至は頂上の天冠にもろもろの光明をいれて種々の利益をなしたまふ。聖德太子は誕生のとき光明ありて殿内をてらし、日羅聖人は先生の善因によりて身より光明をはなつ。法性制底の妙典をば『金光明最勝王經』と題し、圓頓一實の妙戒をば「一戒光明金剛寶戒」(梵網經*卷下)となづく。これみな光明について殊勝の功をそなへ、希奇の益を具するがゆへなり。しかるに阿彌陀如來は、無量光をもて名としたまへるがゆへに、一切の光明ことごとく彌陀の光明よりいで、諸佛の智惠しかしながら彌陀の智惠をはなれざるなⅣ-0645り。このゆへに十方一切の諸佛も、こぞりてこの光明を讚嘆し、釋迦無㝵の辯才も、かの光明の功德をばときつくすべからずとのたまへり。しかりといへども、要をとりてこれをいふとき、十二光佛の名をたてたり。第一に「無量光佛」といふは、利益の長遠なることをあらはす。過現・未來にわたりてその限量なし、かずとしてさらにひとしきかずなきがゆへなり。第二に「無邊光佛」といふは、照用の廣大なる德をあらはす。十方世界をつくしてさらに邊際なし、縁としててらさずといふことなきがゆへなり。第三に「無㝵光佛」といふは、神光の障㝵なき相をあらはす。人法としてよくさふることなきがゆへなり。㝵にをいて内外の二障あり。外障といふは、山河・大地・雲霧・煙霞等なり、内障といふは、貪・嗔・癡・慢等なり。「光雲無㝵如虛空」(讚彌*陀偈)の德あれば、よろづの外障にさへられず、「諸邪業繫無能㝵者」(定善義)のちからあれば、もろもろの内障にさへられず。かるがゆへに天親菩薩は「盡十方無㝵光如來」(淨土論)と讚じたまへり。第四に「無對光佛」といふは、光としてこれに相對すべきものなし、もろもろの菩薩のをよぶところにあらざるがゆへなり。第五に「炎王光佛」といふは、または光炎王佛と號す、光明自在にして無上なるがゆへなり。『大經』(卷下)に「猶如Ⅳ-0646火王、燒滅一切煩惱薪故」ととけるは、このひかりの德を嘆ずるなり。火をもてたきゞをやくにつくさずといふことなきがごとく、光明の智火をもて煩惱の薪をやくに、さらに滅せずといふことなし。三塗黑闇の衆生も、光照をかうぶりて解脫をうるはこのひかりの益なり。第六に「淸淨光佛」といふは、無貪の善根より生ず、かるがゆへにこの光をもて衆生の貪欲を治するなり。第七に「歡喜光佛」といふは、無嗔の善根より生ず、かるがゆへにこの光をもて衆生の嗔恚を滅するなり。第八に「智惠光佛」といふは、無癡の善根より生ず、かるがゆへにこの光をもて無明の闇を破するなり。第九に「不斷光佛」といふは、一切のときに、ときとしててらさずといふことなし、三世常恆にして照益をなすがゆへなり。第十に「難思光佛」といふは、佛をのぞきてよりほかは、この光明の德をはかるべからざるがゆへなり。第十一に「無稱光佛」といふは、神光相をはなれてなづくべきところなし、はるかに言語の境界にこえたるがゆへなり。こゝろをもてはかるべからざれば難思光佛といひ、ことばをもてとくべからざれば無稱光佛と號す。『無量壽如來會』(卷上)には、難思光佛をば「不可思議光」となづけ、無稱光佛をば「不可稱量光」といへり。第十二に「超日月光佛」といふは、Ⅳ-0647日月はたゞ四天下をてらして、かみ上天にをよばず、しも地獄にいたらず、佛光はあまねく八方上下をてらして、障㝵するところなし、かるがゆへに日月にこえたり。また日輪は火珠の所成として能熱・能照の德あり、月輪は水珠の所成として能冷・能照の用あり。しかるに彌陀の光明は、淸涼の光明をはなちて焦熱・大焦熱のほのほをてらすこと、月輪のすゞしき德にこゑ、溫和の光明をはなちて紅蓮・大紅蓮のこほりをとくこと、日輪のあたゝかなるひかりにすぐれたり。また日光は觀音の應化、月光は勢至の權化なれば、これ彌陀如來の悲智の二門なり。因位・果位、そのくらゐ各別なるがゆへに彌陀の功德にはをよぶべからず、かるがゆへに超日月光佛といふなり。この十二光佛は、一々の德につきてその名をあげたり、別體なるにはあらず。そもそもこの光明の德用の、かやうに不可思議なることは、しかしながら衆生を利益せんがためなり。その利益といふは、念佛の衆生を攝取してすてず、かならず淨土に生ぜしむるなり。こゝをもて『觀經』には「光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨」ととけり。善導和尙の『往生禮讚』のなかに、『觀經』・『阿彌陀經』のこゝろによりて阿彌陀の名義を釋したまふとき、「唯觀念佛衆生、攝取不捨、故Ⅳ-0648名阿彌陀」と判ぜり。こゝにしりぬ、たとひ光明あまねく十方をてらすといふとも、もし攝取の利益なくは、佛をあみだ佛となづけたてまつるべからず、衆生また往生をとぐべからず。しかるにこの光明は、念佛の人を照攝して、かならず往生をとげしむるがゆへに、行者は名號を稱して佛願に歸すれば、如來はこれを觀知して、攝取の益をあたへたまふ。これ名號の大利、念佛の巨益なり。解第一義の智人をもてらさず、讀誦大乘の持者をも攝せず、持戒修慈の機をもすくはず、孝養父母の人をもえらばず。因果の理をわきまへざる癡人なれども、佛號をとなふるものあれば、これをもとめててらし、菩提心をおこさゞる愚者なれども、念佛のこゑあるところには、これをたづねて攝取したまふ。されば善導和尙、處々の解釋をみるに、あるひは「彼佛心光常照是人、攝護不捨。總不論照攝餘雜業行者」(觀念*法門)といひ、あるひは「唯有念佛蒙光攝、當知本願最爲強」(禮讚)と釋し、あるひは「不爲餘縁光普照、唯覓念佛往生人」(般舟讚)と判じ、あるひは「莫論彌陀攝不攝、意在專心廻不廻」(般舟讚)とのべたり。これみな諸行の行人は光照をかうぶらざることをあかし、念佛の行者のみ攝取にあづかることをあらはすなり。阿彌陀を無量Ⅳ-0649光と翻ずるにつきて、いさゝか光明の德をのぶることかくのごとし。名號のなかにかゝる攝取不捨の益あるがゆへに、南无阿彌陀佛ととなふれば、決定して往生をとぐるなり。 顯名鈔[本] 應永卅一年W甲辰R十二月廿二日終書寫之微功、則于性順授與之畢。 信州水内郡太田庄長沼淨興寺住侶 常樂臺御眞筆也、仍不可他人相續殊可奉貴敬W云々R。 Ⅳ-0650顯名鈔[末] つぎに壽命無量の德といふは、第十三の願にいはく、「設我得佛、壽命有能限量、下至百千億那由他劫者、不取正覺」(大經*卷上)といへり。おなじき願成就の文には、「佛語阿難、又無量壽佛壽命長久不可稱計。汝寧知乎。假使十方世界無量衆生、皆得人身、悉令成就聲聞・縁覺、都共集會、禪思一心。竭其智力、於百千萬劫悉共推算計其壽命長遠之數、不能窮盡知其限極」(大經*卷上)といへり。また敎主にかぎらず、極樂の菩薩聖衆の壽命も無量なることをときて、「聲聞・菩薩・天・人之衆壽命長短亦復如是。非算數・譬喩所能知也」(大經*卷上)といへり。また『阿彌陀經』には、「彼佛壽命及其人民無量無邊阿僧祇劫。故名阿彌陀」ととけり。されば能化の佛も所化の聖衆も、ともに壽命無量にして、算數・譬喩もをよぶところにあらず。かくのごとく壽命の無量なることは、利益三世にわたりて衆生を化度すること、かぎりなからんがためなり。諸佛の壽命は長短ともに機にⅣ-0651したがひてその益ありといへども、壽命のいたりてみじかきは利益にもるゝ衆生おほし。釋尊の住世は八十年、化導の時分はたゞ五十年なり。そのあひだ在世當機の衆は得益まことにしげかりしかども、滅後の凡惑はさとりをひらくものすくなし。正・像・末の三時、その證をとること次第に減ず。これすなはち在世の機縁ひさしからざるによりて、大聖をさること遙遠なるがゆへなり。いかにいはんや、住無住佛の壽命はたゞ一日一夜、所說の法門いくばくならず。月面如來の壽命はわづかに一日、あしたに出世してゆふべに入滅す。しかるに彌陀如來は、過去をかぞふれば成佛ののち劫數すでにひさし。『雙卷經』(卷上)ならびに『阿彌陀經』にはともに「十劫」ととき、『大阿彌陀經』(卷上)には「十小劫」ととけり。また『法華經』の說のごとくならば、三千塵點の古佛なり。『般舟經』の說によらば、三世の諸佛の本師なり。過去かくのごとし、未來また限量なし。千劫・萬劫・恆沙劫・兆載永劫にして、また無央數劫なり。しかれば、たとひ一世二世に利益にもるとも、如來つねに世にましますがゆへに、つゐにその濟度にあづかるべし。『阿彌陀經』(意)のなかに「已發願・今發願・當發願のもの、みな往生すべし」ととけるは、このこゝろなり。第二十の果遂の願、またその義なり。修行にⅣ-0652眞假あれば、往生に遲速あるべきがゆへに、あるひは順次にも往生し、あるひは二生三生にも往生するもの、相續してたゆべからず。念を彌陀の名號にかけ、おもひを安養の淨刹にはこぶもの、娑婆の一國なを無量なり、他方世界もまた無數なるべし。過去・現在すでに無量なり、未來また無窮なるべし。もし如來の壽命に際限あらば、利益にもるゝ衆生あるべきがゆへに、十方の有情をもらさず、三世の群類をのこさず、みな極樂淨土に生ぜしめ、無量壽の佛智に契當せしめんがために、如來の壽命はかぎりなきものなり。これによりて『涅槃經』(北本卷三壽命品意*南本卷三壽命品意)には「阿耨達池出四大河、如來亦爾、出一切壽。一切人天壽命大河、流入如來壽命大海」といへり。しかれば、阿彌陀如來は久遠實成の覺體、無始本有の極理なり。迷悟・染淨、一切の萬法ことごとく阿彌陀の三字に攝在せずといふことなし。しかるに衆生、一念の迷妄によりて、眞如のみやこをまよひいで、流轉の凡夫となりしよりこのかた、ひさしく塵勞におほはれて、本有の理性をわすれたり。しかるあひだ、無作の誓願やむことなく、無縁の慈悲にもよほされて、かの群類を度し、その迷情をひるがへさしめんがために、かりに法藏比丘となり、さらに四十八の大願を超發したまへり。このゆへに、十念Ⅳ-0653往生の誓願をおこし、十劫成道の方便をしめして、一心專念の行者をば十八の願をもて攝受し、修諸功德の行人をば十九の願にて引攝し、乃至かりにも念をかの國にかくる機をば二十の願をもて果遂せしめたまふがゆへに、發心に前後あれば往生にまた遠近あれども、つゐには六道生死、無常の壽命を攝して、みな一實眞如、本有無量壽の佛智に流入せしむべしとしるべきなり。諸佛のなかに、ひとり無量壽佛と號す。壽命は一切の根元なれば、諸佛も彌陀の智惠より流出し、衆生もまたかの壽命よりいでゝ、かへりてみな如來の壽命に流入すべきなり。いま『涅槃經』(北本卷三壽命品意*南本卷三壽命品意)に「如來の壽命」といへる、すなはち彌陀の壽命なるべし、壽命のなかに無量壽なるがゆへなり。されば眞言敎には、無量壽佛をもて大日法身の常住の壽命と談ず。法身の壽命ならば、一切の壽命これよりいづること、うたがふべからず。天台には、たゞ彌陀をもて法門の主とすといふ。法門の主ならば、一切の諸佛また彌陀をはなるべからずといふこと、あきらかなり。おほよそ佛を無量壽となづけ、國を極樂と號するは、如來の名をきゝて、無量壽常住の果をえんとねがひ、國土の名をきゝて、涅槃常樂のさとりをひらかんとねがふべきことはりあるがゆへなり。そのゆへは、生あるものは、Ⅳ-0654みな死をおそるゝがゆへに壽をもてたからとし、業をうくるものは、ことごとく苦をにくむがゆへに樂をねがふこゝろあり。『觀經の疏』(序分義)に『涅槃經』をひきていはく、「一切諸衆生無不愛壽命。勿殺、勿行杖。怒己可爲喩」といへり。一切のいきとしいけるもの、もし人をみるとき、おそれ・はしり・かくれ・にぐることは、たゞ惡縁をさり壽命をまもらんがためなり。畜類のものしらずをろかなる、なを身を愛しいのちをおしむことかくのごとし。いはんや、人として生を愛し死をにくまざらんや。まことに七珍萬寶も死すればしたがふものなし、榮華榮耀もいのちのあるうへのことなり。人間よりも天上の壽はながく、天上にとりても六欲天・四禪・四无色、次第に上天のいのちのひさしきは、果報のすぐれ修因のまさりたるゆへなり。されば果報のすぐれたるといふは、いのちのながきをもてその詮とす、たれかいのちをねがはざらんや。つぎによろづの有情、ことごとく苦をにくみ樂をねがふこゝろありといふは、『大論』(大智度論*卷七初品)の文をみるに、「一切衆生、皆願得樂無願苦惱」と判ぜり。これすなはち死をにくみて生をもとめ、貧をいとひて福を愛する、みな苦をにくむこゝろよりおこり、樂をねがふおもひよりいでたり。乃至病をえて藥をたづね、Ⅳ-0655飢にのぞみて食をもとめ、あつき天に風をまち、さむきときに火をもとむるまでも、苦をいとひ樂をねがふこゝろにあらずといふことなし。しかれば、衆生は死をにくみていのちを愛するがゆへに、長遠の壽命をもとめんとするに、北州の千年もつくる期あれば、人間の長命もねがふべきにあらず。非想の八萬劫もそのをはりなきにあらざれば、天上の壽命ももとむるにたらず。まことに无常生滅の報をはなれ、常住無爲の果をえんとおもはゞ、無量壽の國にむまれんとおもふこゝろあるべし。また衆生は、苦をにくみて樂をもとむるがゆへに、不退の快樂をえんとするに、人天の樂はなをし電光のごとし、須臾にすなはちすつ。かへりて三惡に入て長時に苦をうくれば、これまた著すべきところなし。このゆへに、淺より深にいたりて、次第に苦をいとひ樂をもとむるこゝろ至極せば、かならず極樂淨土にむまれんとおもふべし。こゝをもて三世の諸佛のなかに無量壽の名をえ、十方の淨土のなかに極樂となづくることは、一切衆生ことごとくこの名號によりてかの淨土をねがひ、みな無量壽の壽命に歸入して、ひとしく極樂無爲の法樂をうくべきゆへなり。しかれば、南無阿彌陀佛ととなふることばのうちに、無量光に歸命する義もあり、無量壽に南无するこゝろもあるがゆⅣ-0656へに、光明を念ずるいはれあれば、攝取不捨の益にあづかり、壽命を念ずることはりあれば、如來の壽命に流入し、涅槃のさとりをひらくべき義あるなり。まことに如來の功德おほしといへども、光明・壽命の功德にはすぎず。この二種の功德のなかに、萬德ことごとくそなはれり。かの萬德、しかしながら名號の一行にこもれるなり。かるがゆへにもろもろの雜行をさしをきて、この一行をつとめ、種々の助業をかたはらにして、その一心をもはらにせよとすゝむるなり。これ經釋のをしふるところなり、あふいでこれを信ずべし。 問ていはく、樂といふは苦に對することばなり。苦はすなはち樂のよるところ、樂はすなはち苦のふすところなり。その體をたづぬるに實體なし。されば苦にあらず樂にあらざるを捨受となづけて、樂受よりはまされりとす。いはゆる色界四禪のうち、三禪までは樂受、第四禪は捨受なり。すでに三界有漏の果報のうちに、なを下地は樂受、上地は捨受なり。しかるにいま淨土無爲のさかひにをいて、なんぞ樂をきはむといはんや。もし樂をきはむといはゞ、かへりて有漏の果報に同ずべきをや。 こたへていはく、曇鸞和尙の『注論』(卷下)をみるに、「樂有三種。一者外樂、Ⅳ-0657謂五識所生樂。二者内樂、謂初禪・二禪・三禪意識所生樂。三者法樂樂、謂智惠所生樂。此智惠所生樂、從愛佛功德起」といへり。このなかに、外樂といへるは欲界の樂なり、内樂といへるは色界三禪の樂なり。第四禪の捨受は、三禪の樂よりはいさゝかすぐれたれども、たゞ三界のうちの勝劣なるがゆへに、淨土の樂にはことなり。されば善導和尙、三界の苦樂を釋せらるゝとき、「苦則三塗・八難等、樂則人天五欲・放逸・繫縛等樂。雖言是樂、然是大苦。必竟無有一念眞實樂也」(定善義)といへり。三界のうちの樂は、まことの樂にはあらざるなり。法樂といへるは、念佛の行者についていへば、いまだ穢土にありて凡身をすてざるとも、内に智惠と相應して虛僞ならず顚倒ならず、いはんや淨土にしてうくるところの樂は、法性に隨順せる眞實無爲の樂なり。『大經』(卷上)には「但有自然快樂之音、是故其國名曰安樂」といひ、『阿彌陀經』には「但受諸樂、故名極樂」ととき、『論』(淨土論)には「受樂常無間」とも判じ、「觸者生勝樂」(淨土論)とも讚ずるは、みなこの樂なり。これを釋するには、あるひは「法性の常樂」(玄義分)ともいひ、あるひは「寂靜無爲の樂」(定善義)ともいへり。これすなはち『涅槃經』にいふところの涅槃の大樂なⅣ-0658り。かの『經』(北本卷二三德王品*南本卷二一德王品)には「涅槃之性無苦無樂、是故涅槃名爲大樂」といへり。涅槃の樂と淨土の樂とひとつなりとはなにをもてかしるといふに、「彌陀の妙果を號して無上涅槃といふ」(法事讚*卷下)ともいひ、「極樂は無爲涅槃の界なり」(法事讚*卷下)とも釋するがゆへなり。さきにいふがごとく、衆生は樂をねがふこゝろあるがゆへに、極樂の名あれば、かれをねがふこゝろあるべし。「願生何意切、正爲樂無窮」(禮讚)といへるは、このこゝろなり。快樂のためにきゝてねがひ、ねがひてかの生因をたづね、たづねて念佛に歸し、歸して淨土に生じ、生じぬれば無生を證し、涅槃のさとりをひらくがゆへに、かのさとりにかなひぬれば、無苦・無樂のくらゐにいたる、すなはちこれを大樂となづくるなり。大樂と極樂と、その義これおなじ。 問ていはく、衆生も無量壽のなかよりいでゝ、かへりて無量壽の佛智に歸入すべしといひ、三界六道の苦樂をはなれて、涅槃大樂の理をきはむべしといはゞ、いふところの義門は聖道門の所談ににたり。愚暗のともがら、たやすくしりがたし。しらずは往生をとぐべからずといふべしや。 答ていはく、「一切衆生悉有佛性」(涅槃經)といひ、「心佛及衆生是三無差Ⅳ-0659別」(晉譯華嚴經卷*一〇夜摩說偈品)といへる。ともに經文なり、たれかこれを信ぜざらん。されども聖道は、われと心性の源底を觀達して、卽身にこの理をあきらめんとし、淨土門には「但以垢障覆深、淨體無由顯照」(玄義分)といひて、無明煩惱にひさしくおほはれたる衆生は、こゝにしてかの佛性をあらはしがたきがゆへに、その機のためにまうけたまへる彌陀の敎なれば、かの佛智に乘じて極樂に往生し、かしこにしてその佛性をあらはすべしと談ずるなり。たゞ南无阿彌陀佛ととなふるは、往生の正業なるがゆへに、この名號のなかに光明壽命の無量なる德をそなへて、さまざまに利益をほどこし、衆生これによりて涅槃をうる德のあることをしめすばかりなり。さればとて、こゝにして佛性常住の妙理をさとり、卽身に生佛一體の觀解をなせとすゝむるにはあらず。しるもしらぬも往生のためにはさはりともならず、たねともならず、たゞ佛智の不思議を信じ他力の名號に歸して、こゝろを餘敎の出離にかけず、一行一心にこれを信行すれば、かの名號は圓融至德の嘉號、法身同體の功德なるゆへに、しらざるに法性の深奧を觀達する義ありて、すみやかに極樂の往生をとげ、無始の迷妄をひるがへして、彌陀の本家にかへり、無生の理をさとるなり。これすなはち他力の不思議なり。 Ⅳ-0660問ていはく、衆生と佛ともとより一體なり。されば自心をはなれて佛道をもとむべからず、なんぞ他力をかるべきや。そもそも他力といふは、いかやうにこゝろうべきことぞや。 こたへていはく、萬法しかしながら心をはなれず、心もとより佛なることはしかなり。されどもこの心法にをいて、さとれるのちを佛といひ、まよへるほどを衆生といふ。玉の性はおなじけれども、みがくとみがゝざるとによりて、寶ともなり石にもおなじきがごとし。これによりて、佛は萬行の薰修にこたへてよく佛性のたまをみがきたまへり、衆生はひさしく生死の泥にしづみてかのたまをけがせり。かるがゆへに生佛あひへだゝりて迷悟さかひをわかてり。しかるあひだ、まどへる凡夫、われとさとりがたきゆへに、さとりにかなへる佛智に歸すれば、かの力をもて、もとより法性をはなれざりける自心の佛性をあらはすなり。彌陀の本願のおこり、他力往生のみち、そのこゝろこれにあり。無始曠劫よりこのかた、こゝろに三毒の煩惱をたくはへ、六道輪廻のあひだ、身に十惡の業因をつめり。しかりといへども、煩惱をも斷ぜず、罪障をも滅せず、身にをいて淨不淨を論ぜず、念にをいて善惡をいはず、たゞ凡夫攝取の佛力をたのみて念Ⅳ-0661佛の一行を修し、ひとへに佛願難思の強縁に託して西方の往生をとぐるなり。これすなはち名號に不思議の德あるがゆへに、この益をえしむるなり。その不思議といふは、明よく闇を破し、空よく有をふくみ、地よく載養し、水よく生潤し、火よく成壞するがごとし。世間待對の法みなかくのごときの德用あり、これ法爾の道理なり。いはんや、佛法不思議のちから、凡夫をして往生をとげしめんこと、これをうたがふべからず。滅罪の德あれば重罪の惡人なれども生死をはなれ、生善の德あれば無善の凡夫なれども往生をうるなり。これを他力といふなり。聖敎のなかに、念佛の功能をあかし、他力の不思議をあらはすに、おほくのたとへをいだせり。いま少々これをあぐべし。 一には、「千年のあひだたてこめてくらからんところに、日のひかりしばらくいたらば、ひさしかりつるやみ、すなはちさりてあきらかなることをうべし」(論註*卷上意)。くらきことは千年なり、日のひかりはわづかなるときのほどなればとて、そのやみさらざることあらんや。念佛もまたかくのごとし。衆生無始よりこのかた無明のやみにおほはれて、罪障を身にそなへたることは千年のやみのごとし。しかれども、一稱一念の功は、かの片時の日のひかりのごとくにて、衆生の癡闇Ⅳ-0662をのぞき往生をえしむるなり。 一には、「人ありて毒の箭にいらるゝとき、箭ふかく毒あつからんに、もしひとたび滅除藥の鼓のこえをきけば、毒の箭すなはちのぞこる」(論註*卷上意)。「滅除藥のつゞみ」といふは、いくさの陣にむかふとき、毒をぬく藥をもて鼓にぬりてもつなり。かのつゞみのこえをきくといふとも、毒の箭ふかくいりたればとて、ぬけじといふことあらんや。「毒の箭」といふは、衆生の罪惡なり。かの鼓は彌陀の名號なり。無始の三毒の箭ふかく身のうちにいりたりといへども、名號滅罪のつゞみをきけば罪毒すなはちのぞこるなり。 一には、「めぐり十圍あらんふときなはを千人とりつきてひききらんとせんに、きるべからず。しかるにおさなきもの一人つるぎをもてこれをきらば、すなはちふたつにならんがごとし」(略論意)。煩惱業繫のきづな、つよくむすぼゝれてたやすくきれがたきがゆへに、かのなはに千人とりつきたるがごとく、諸善諸行をもて不善の心のうへに行ずれば、そのちからかなはざれども、一念名號の利劍をもてこれをきるに、さらにきれずといふことなし。 一には、「あしなへたるものも、ふねにのりぬれば、ふねのちからにより、風のⅣ-0663縁によりて、一日に數千里のみちをすぐ」(略論意)、あしはやき人の、ちからをはげましてゆくにまされり。行業のあしおれたるものも、智惠のまなこしゐたるものも、大願のふねに乘じぬれば、頓に生死の大海をわたりて、自力のもろもろの行業をはげむ人よりもはやく菩提の岸にいたる。かるがゆへに念佛は頓敎なり。 一には、「いやしき劣夫の驢にのることだにもなければ、地をはなれてあゆむべきちからなけれども、轉輪王のみゆきにしたがひぬれば、虛空にかけりて自在なり」(論註*卷下意)。常沒底下の凡夫、六道四生の地をはなれて法性の虛空にかけるべからずといへども、彌陀法王のちからにひかれて淨土にいたるなり。自力の行をもて生死をはなるゝことかなはざれども、他力の縁によりて往生をとぐること、これらのたとへにてしりぬ。また「鴆といふ毒鳥、水にいりぬれば、そのなかの魚類ことごとく死す。しかるに犀角をもてこれにふるれば、死するところのいろくづ、みなよみがへることあり」(論註*卷上意)。また「師子のすぢをもて、琴の絃として、ひとたびこれをひくに、餘の一切の絃ことごとくみなたゆることあり」(安樂集*卷上意)。世間の法にをいて、なをかくのごときの事あり、まして五不思議のなかには、佛Ⅳ-0664法ことに不思議なり。衆生の罪業をもしといへども、佛力これを對治する能あり。凡夫のをろかなるこゝろをもて佛の利生をうたがふべからず。五不思議といふは、一には衆生多少不可思議、二には業力不可思議、三には龍力不可思議、四には禪定力不可思議、五には佛法力不可思議なり。すでに不可思議といふ、なんぞ是非の思量をいたさんや。たゞふたごゝろなく佛智の不思議をたのみ、ふかく知識のをしへをまことゝ信じて、一分もわがはからひをくはへず、無疑無慮になりかへるをもて他力に乘ずるすがたとす。これを決定往生の機とす。かやうに安心しなば、今生をば、かりのやどゝおもひなして、これがために、執著をなすことなく、後世をば永生の樂果とおもひて、それがためには身財をもおしむべからず。佛願を信ずるこゝろまことあれば、稱名もをこたらず。稱名をこたらざれば、信心もいよいよ增長す。行者に欣求淨土の願あり、稱名念佛の行あり、如來に攝取不捨の益あり、凡夫引接の願あり。願行あひたすけ機感相應して、ひとたび歸命するものは、よこさまに生死をこえ、ふかく信行するものは、すみやかに往生をうるなり。 問ていはく、佛道を行じて菩提をもとむるは、生死をはなれんがためなり。しかⅣ-0665るに往生を願ずるはなを生をもとむるにあらずや。これ妄見なり、如-何。 答ていはく、龍樹菩薩は易行の道をすゝめて「便得往生彼淸淨土」(十住論卷五*易行品意)といひ、天親菩薩は五念門の行をあかして、「願生安樂國」(淨土論)と判ぜり。それより以下三國の祖師、諸宗の高僧、みな往生を願ず。もし淨土にゆくといふとも、生死をはなれざる義あらば、かくのごときの深位の大士、高行の智德、なんぞ往生を願ぜん。末代無智の道俗、たゞ如來の說を信じ、先賢のあとをしたひて、ひとへに念佛を修し、もはら往生を願ずべし。あへて疑謗にをよぶべからざるものなり。たゞししゐてこの義をあきらめんとおもはゞ、鸞師の『注論』をみるべし。かの釋にこのことを判ずるに、あるひは「非如凡夫謂有實衆生實生死」(論註*卷上)といひ、あるひは「彼淨土是阿彌陀如來淸淨本願無生之生、非如三有虛妄生也。何以言之、夫法性淸淨畢竟無生。言生者是得生者之情耳」(論註*卷下)といへり。されば往生といふは、凡夫の情量におほせて、これをいふことばなり、實の生死にはあらざるなり。他力の本願に乘じ、無生の名號を稱して、一乘淸淨の土に往生すれば、かの土はこれ法性無生のさかひなるがゆへに、凡情には生ずとおもへば、自然に無生の理にⅣ-0666かなふなり。これらの義、くはしくはかの釋にみえたり。 顯名鈔[末] [本云] 依明光大德誂記之畢、于時建武四年W丁丑R八月 日也。去春此令誂之間、當年備州在國之間、所染筆也。 釋【存】―覺 此兩帖雖爲祕藏之書、性順頻致望之間、且表信心之懇篤所令授與也。于時應永卅二年W乙巳R正月十三日終書寫之微功畢。