Ⅳ-0621女人往生聞書 彌陀如來の四十八願のなかに、第三十五の願は女人往生の願なり。あるひはこれを轉女成男の願といひ、あるひはまた聞名轉女の願となづく。その願文にいはく、「設我得佛、十方世界其有女人、聞我名字歡喜信樂、發菩提心、厭惡女身、壽終之後、復爲女像者、不取正覺」(大經*卷上意)。この文のこゝろは、たとひわれ佛をえたらんに、十方世界にそれ女人ありて、わが名字をききて歡喜信樂し、菩提心をおこして女身を厭惡せん。いのちをはりてのち、また女像とならば、正覺をとらじとなり。 問ていはく、第十八の願に「十方衆生」(大經*卷上)とちかひたまへり。しかれば、もろもろの善人・惡人、男子・女人一切みなそのなかにもるゝことなし。しかるにいま別してこの願あり、いまだそのこゝろをえず。かくのごとくならば、かみの第十八の願に「十方衆生」(大經*卷上)といへることばのうちには、女人をばのぞかれたりとこゝろうべき歟。もしのぞかれば、第十八の願に一切の機を攝受するにあらず。Ⅳ-0622もしのぞかずして一切を攝受すべくは、第三十五の願その用なきににたり。いかんがこれをこゝろうべきや。 こたへていはく、第十八の念佛往生の願に男女をえらばず、みな攝すべき條は勿論なり。しかれども、かさねてこの願をたてたまへることは、如來の大慈大悲のきはまりなり。そのゆへは、女人はさはりをもくつみふかし。別してあきらかに女人に約せずは、すなはちうたがひをなすべきがゆへに、ことさらこの願をおこしたまへるなり。これすなはち先德の料簡なり。 問ていはく、女人のさはりをもくつみふかきこと、その證いかん。 こたへていはく、經論のなかにその證これおほし。略して少々をあぐべし。 『涅槃經』にいはく、「所有三千界男子諸煩惱合集、爲一人女人之業障」。この文のこゝろは、あらゆる三千界の男子のもろもろの煩惱をあはせあつめて、一人の女人の業障とすとなり。 またいはく、「女人大魔王、能食一切人、現世作纏縛、後生爲怨敵」。この文のこゝろは、女人は大魔王なり、よく一切のひとをくらふ。現世には纏縛となし、後生にはあだ・かたきとなるなり。 Ⅳ-0623『心地觀經』にいはく、「三世諸佛、眼墮落於大地、法界諸女人、永无成佛願」。この文のこゝろは、三世の諸佛のまなこは大地におちおつとも、法界のもろもろの女人はながく成佛の願なしとなり。 『優塡王經』(意)にいはく、「女人最爲惡難一、縛著牽人入罪門」。この文のこゝろは、女人もとも惡難をなすこと一なり、縛著してひとをひいて罪門にいるとなり。 『寶積經』にいはく、「一見於女人、能失眼功德、縱雖見大蛇、不可見女人」。この文のこゝろは、ひとたび女人をみれば、よくまなこの功德をうしなふ。たとひ大蛇をみるといふとも、女人をみるべからずとなり。 阿含經にいはく、「一見於女人、永結三塗業、何況於一犯、定墮无間獄」。この文のこゝろは、ひとたび女人をみれば、ながく三塗の業をむすぶ。いかにいはんや、ひとたびをかしぬるにをいては、さだめて无間獄におつとなり。 『智度論』(卷一四*初品意)にいはく、「淸風无色猶可捉、蚖蛇含毒猶可觸、執劍向敵猶可勝、女賊害人難可禁」。この文のこゝろは、淸風のいろなきなをとりつべし、蚖蛇の毒をふくめるなをふれつべし、劍をとりてむかへるかたきにはなをかちぬべし、女賊のひとを害するは禁ずべきことかたしとなり。 Ⅳ-0624『唯識論』にいはく、「女人地獄使、永斷佛種子、外面似菩薩、内心如夜叉」。この文のこゝろは、女人は地獄のつかひなり、ながく佛の種子をたつ。ほかのおもては菩薩ににたり、うちのこゝろは夜叉のごとしとなり。 經論の文おほしといへども、略してのぶることかくのごとし。これらの文をきかん女人、さだめて卑下のおもひをなして、往生ののぞみをかけがたし。かるがゆへに別して女人往生の願をおこさるゝなり。この願によりて、かさねて第十八の願を案ずるに、かの願に「十方衆生」(大經*卷上)といへるも、男女にわたり善惡をきらはずとはいよいよしらるゝなり。おほよそ女人のつみのふかきこと、しづかにおもひてこれをいとふべし。まさしく目にあらはれたる大罪などをばつくらざる樣なれども、行住坐臥のふるまひ、晝夜朝暮のおもひ、罪業にあらずといふことなく、惡因にあらずといふことなし。あしたには明鏡にむかひて靑黛のよそほひをかいつくろひ、ゆふべには衣裳にたきものして馨香のはなはだしからんことをおもへり。愛著をもておもひとし、嫉妬をもてことゝせり。身を執しひとをそねむこゝろ、しかしながら輪廻のなかだちとなり、かみをなでかたちをかざるわざ、ことごとく生死のみなもとなり。このこゝろをあらためずして、しかⅣ-0625も佛法を行ぜずは、いかでか惡道をまぬかれんや。このゆへに、南山の道宣律師は經をひいて、「十方世界に女人あるところには、すなはち地獄あり」(淨心誡*觀卷上)といへり。いかにいはんや、うちに五障あり、ほかに三從あり。五障といふは、一には梵天王となりて高臺の閣にゐず、二には帝釋となりて善見城にたのしまず、三には魔王となりて第六天にほこらず、四には轉輪聖王となりて七寶千子を具せず、五には佛身となりて八相成道をとなへず。三從といふは、いとけなうしてはおやにしたがひ、さかりにしてはおふとにしたがひ、おひては子にしたがふ、これなり。されば樂天のことばには、「ひとむまれて婦人の身たることなかれ、百年の苦樂は他人によれり」(白氏*文集)といひて、萬事こゝろにまかせず、一生ひとにしたがふよしみえたり。まことに十二因縁の流轉、三從をもて縁として十方の佛土に生ぜず。百八煩惱の根源、五障をもて因として八萬の聖敎にきらはるゝものなり。祖師黑谷の源空聖人、『大經の講釋』のなかにくはしくこのことを釋せられたり。その大概をあげて業障のをもきことをしらしめ、往生の決定なるむねをしめすべし。そのこゝろのいはく、大梵、高臺の閣にもきらはれて、梵衆・梵輔のくもをのぞむことなく、帝釋、柔輭のゆかにもくだされて、三十Ⅳ-0626三天のはなをもてあそぶことなし。六天魔王のくらゐ、四種輪王のあと、のぞみながくたえてかげをもさゝず。天上・人間のかりなるさかひ、无常生滅のつたなき身にだにもならず。いはんや、報佛の淨土にはおもひよるべからず。これによりて、女人の身は諸經論のなかにきらはれ、在々處々に擯出せられたり。三塗八難にあらずは、おもむくべきかたもなく、六道四生にあらずは、うくべきかたちもなし。この日本國にも、たうとくやんごとなき靈地・靈驗のみぎりには、みなことごとくきらはる。まづ比叡山は、これ傳敎大師の建立、桓武天皇の御願なり。大師みづから結界して、たにをさかひみねをかぎりて女人のかたちをいれず。一乘のみね、たかくそばだちて五障のくもたなびくことなく、一味のたに、ふかくたゝへて三從のみづながるゝことなし。藥師醫王の靈像、みゝにききてまなこにみず、大師結界の靈地、とをくみてちかくのぞまず。高野山は、弘法大師結界のみね、眞言上乘繁昌の地なり。三密の月輪、あまねくてらすといへども、女人非器のやみをばてらさず、五瓶の智水、ひとしくながるといへども、女人垢穢のすがたにはそゝがず。これらのところにをいてなをそのさはりあり。いはんや、出過三界道の淨土にをいてをや。しかのみならず、東大寺は聖武天Ⅳ-0627皇の御願なり。その十六丈金銅の遮那のまへ、はるかにこれを拜見すといへども、とびらのうちにはいらず。笠置寺は天智天皇の建立なり。かの五丈石像の彌勒のまへ、たかくあふいでこれを禮拜すといへども、なを壇のうへにははゞかりあり。乃至金峯山のくものうへ、男子にあらざればいたることなく、かみの醍醐のかすみのうち、女身をもておもむかず。かなしきかな、ふたつのあしをそなへたりといへども、のぼらざる法峯あり、ふまざる佛庭あり。はづかしきかな、ふたつのまなこを具せりといへども、みざる靈地あり、拜せざる靈像あり。この穢土の瓦礫・荊棘のやま、泥木素像の佛像にだにもさはりあり。いかにいはんや、衆寶莊嚴の淨土、萬德究竟の佛をや。これによりて、往生にそのうたがひあるべし。かるがゆへにこのことはりをかゞみて、別してこの願ありと釋して、すなはち善導和尙の『觀念法門』の釋をひきのせられたり。その釋にいはく、「乃由彌陀本願力故、女人稱佛名號、正命終時、卽轉女身得成男子。彌陀接手、菩薩扶身坐寶花上、隨佛往生、入佛大會證悟无生」と。この文のこゝろは、すなはち彌陀の本願力によるがゆへに、女人佛の名號を稱すれば、まさしくいのちをはるとき、すなはち女身を轉じて男子となることをえて、彌陀手を接し、菩薩Ⅳ-0628身をたすけて寶華のうへに坐して、佛にしたがひて往生し、佛の大會にいりて无生を證悟すとなり。またいはく、「一切女人、若不因彌陀名願力者、千劫・萬劫・恆河沙等劫、終不可得轉女身。或云、道俗云女人不得生淨土者、此是妄說、不可信也」(觀念法*門意)と。この文のこゝろは、一切の女人、もし彌陀の名願力によらずは、千劫・萬劫・恆河沙等の劫にも、つゐに女身を轉ずることをうべからず。あるひは道俗ありて、女人淨土に生ずることをえずといはゞ、これはこれ妄說なり、信ずべからずとなり。これすなはち女人の苦をぬきて、女人に樂をあたへたまふ慈悲の御こゝろの誓願利生なり。この二重の釋、ともに第三十五の願のこゝろをひき釋せらるゝところなり。三昧發得の高祖、ちからをつくし、ことばをくはへて釋したまへり。もともこれをあふぐべし。親鸞聖人の『和讚』(淨土*和讚)にいはく、「彌陀の大悲ふかければ 佛智の不思議をあらはして 變成男子の願をたて 女人成佛ちかひたり」。またいはく、「彌陀の名願によらざれば 百千萬劫すぐれども いつゝのさはりはなれねば 女身をいかでか轉ずべき」(高僧*和讚)といへり。はじめの和讚は『大經』の願文のこゝろを釋し、のちの和讚は『觀念法門』の釋のこゝろをやはらげられたり。五障の女身をあらためて萬德の佛果にいⅣ-0629たらんこと、經釋の明文といひ、先德の義趣といひ、さらにうたがふべからず。 あるとき、空聖人の御まへに女人あまたまいりたりけるに、おほせられけるは、かくのごときの女人、彌陀の本願にすがりて西方の淨土にまいらずしては、无數劫にも女身を轉じがたく、无量世にも成佛をとげがたし。无始よりこのかた女身をうけて、一切こゝろにまかせざることはかなしかるべきことなり。たゞ女身をあらためざるのみにあらず、三塗八難にしづみ、六道四生にめぐりて、とこしなへに苦患をうけんこと、後悔すともたれかすくはん。しかるに阿彌陀佛の本願にあひたてまつりて、名號をとなへ弘誓をたのむがゆへに、いきたえまなことぢんとき、女身を轉じて男子となり、穢土をいでゝ淨土にむまれ、須臾に安養の往生をとげて、長時に无量の快樂をうけんことは、よろこびのなかのよろこびにあらずや。かるがゆへにゆめゆめ念佛にものうからずして、一向に彌陀如來に歸したてまつるべきよし、かきくどきおほせられければ、その座につらなりける女人、慚愧のたもとをしぼり、隨喜のなみだをながしけり。おほよそ『大經』の四十八願には、まづ女人往生の願をたてて別してこれをすくひ、つぎに『觀經』には、韋提希夫人を正機として、これがために念佛往生のみちをとき、つゐⅣ-0630に『阿彌陀經』には、「善男子・善女人」とつらねて、念佛の機男女にわたることをあらはせり。されば如來の慈悲は總じて一切の衆生にかうぶらしむれども、ことに女人をもてさきとし、淨土の機縁はあまねく十方の群類にわたるといへども、もはら女人をもて本とせり。このゆへに、天竺・晨旦・わが朝、三國のあひだに彌陀を念ずる女人、往生をとげ阿鞞跋致の菩薩となること、傳記等にのせてかずをしらず。しかれば、このたび女身をあらためてかならず佛道をならんとおもはんひとは、ひとへに超世の本願をたのみて、一心に彌陀の名號を稱すべきものなり。