Ⅳ-0581破邪顯正抄上 專修念佛の行人某等、謹で言上。 はやく山寺聖道の諸僧ならびに山臥・巫女・陰陽師等が無實非分の讒言濫妨を停止せられて、かつは歸佛信法の懇志に優せられ、かつは治國撫民の恩憐をたれられて、もとのごとく本宅に還住して念佛を勤行すべきよし、裁許をかうぶらんとおもふ子細の事。 右專修念佛の勝業は、決定往生の正因なり。安樂の能仁はねんごろにきたれとをしへ、娑婆の化主はしゐてゆけとすゝめたまへり。しかのみならず、六方の諸佛はしたをのべて佛語を證誠し、一切の菩薩はいたゞきをなでゝ行者を護念す。これを行ずれば佛陀も納受をたれ、これを修すれば神明も擁護をいたす。これによりて當流の祖師親鸞聖人、明師源空聖人のをしへをうけられしよりこのかた、こゝろを弘誓の佛地にたて、念を難思の法海にながす。歸依のこゝろ他事なく、渴仰のおもひ餘念なし。このゆへにとをく末代罪濁の愚鈍をかゞみ、こⅣ-0582とに在家无智の群類をあはれみて、をしふるに彌陀の一行をもてし、すゝむるに西方の一路をもてせり。しかるあひだ京中・洛外、遠邦・近國、かのながれをくみ、そのをしへをつたふるひと、濟々焉たり。われらすなはちその隨一なり。 おほよそ當流の勸化にをいては、あながちに捨家棄欲のすがたを標せず。出家發心の儀をことゝせざるあひだ、農業をつとむるものは、つとめながらこれを行じ、官仕をいたすものは、いたしながらこれを信ず。しかれば、つとむべき所役ををこたらず、かぎりある公務をいるかせにすることなし。くにゝをいてわづらひなく、ところにをいてつゐえなし。たゞ愚癡闇鈍のあま入道等、聖道諸宗の修行にたへざるあひだ、涯分相應の易行を修して、順次の往生を期するばかりなり。これすなはち時機をはかるがゆへなり。佛法につけ、世間につけて、さらにそのあやまつところなし。しかるに山寺聖道の僧徒をはじめとして、別解・異學・偏執・邪見のともがら、種々の无實をたくみ、條々の惡名をかまへて、みだりがはしく上訴にをよび、あまさへ在所を追出せらるゝ條、愁吟のいたりなにごとかこれにしかん。淨土の大祖善導和尙とをくこのことをかゞみて、「見有修行起瞋毒、方便破壞競生怨」(法事讚*卷下)と釋したまへり。はじめておどろくⅣ-0583べきにあらず。末代の邪惡をかへりみて、しりぞいて正法の再興をまつべしといへども、耳目にふるゝところの无實、いかでか披陳せざらん。ほゞ一端をあげて、たゞ萬察をあをぐ。つぶさに高聞に達して恩裁にあづからんとおもふものなり。 (一) 一 一向專修念佛といふは佛法にあらず、外道の法なるによりてこれを停止せらるべき事。 この條、おそらくは經釋をうかゞはざるひとのことば歟。そのゆへは、一向といふはわたくしのことばにあらず、修多羅の直說なり。『无量壽經』(卷下)のなかに三輩の往生をとくとして、一々にみな「一向專念無量壽佛」といへり。みなもとこの誠說よりいでゝ、高祖善導和尙またこの義を判じたまへり。いはゆる『觀經』の「汝好持是語」の文を釋するとき、「望佛本願、意在衆生一向專稱彌陀佛名」(散善義)といへる釋、これなり。こゝをもて源空聖人は、五竺の三種のてらをひいて『雙卷』の一向の義を成ぜり。かくのごとく、かみ佛說よりおこりて、しも先德の解釋にいたるまで、その文證炳焉なり。たれかこれを見聞せざらん。もし見聞せば、いかんが一向の名言を謗說せん。もしまた見聞しながらこれをⅣ-0584禁ぜしめば、あに偏執にあらずや。おほよそ八萬四千の敎門は、衆生入聖の要路なり。ともに釋迦一佛の所說なれば、いづれを是し、いづれを非すべきにあらず。このゆへに善導和尙、あるひは「隨縁者卽皆蒙解脫」(玄義分)と釋し、あるひは「佛敎多門八萬四、正爲衆生機不同」(般舟讚)と判ぜり。機にしたがひてこれを行ずればみな生死をいで、縁におもむいてこれを修すればことごとく菩提にいたる。いま專修の行人は、彌陀有縁の機なるがゆへに念佛を行じて往生をねがふ。かの聖道の學者は、諸敎有縁の機なるがゆへに衆行を修して成佛を期する歟。なんぞあながちに、わが有縁の要行にあらざるをもて、他人の行用をさまたぐるや。しかれば、『本願藥師經』には「自是非他、嫌謗正法、爲魔伴黨」ととき、『智度論』(卷一*初品)には「自法愛染故、毀呰他人法、雖持戒行人、不脫地獄苦」と判ぜり。なかんづくに、誹謗正法のものは彌陀の本願に除却せり。たれかこれをおそれざらんや。しかのみならず善導和尙は、「他の有縁の敎行を輕毀して、自の有縁の要法を讚ずることをえざれ。すなはちこれみづから諸佛の法眼をあひ破壞するなり。法眼すでに滅しなば、菩提の正道履足するによしなし。淨土の門、Ⅳ-0585なんぞよくいることをえん」(般舟讚)といましめられたり。これによりていまこの一向專念の行者は、これらの文理をまもりてさらに餘行を謗ぜず、あへて諸宗を非せず。しかるにかの僧徒等は、すがたは佛法修行のうつはものににたりといへども、こゝろはたゞ撥無因果のたぐひにおなじ。そのゆへは、在々處々にをいて念佛者の堂舍を破壞し、ことにふれおりにつけて、淨土門の行者を阿黨す。彌陀の畫像・木像をば外道の形像なりといひて、あしをもてこれを蹂躙し、眞宗の法門聖敎をば外道の所說なりと稱して、つばきをはいてこれを毀破す。あまさへ淨土の本書「三部經」以下五祖の釋等數十帖をして、これをうばひとらしめをはりぬ。世間の財寶にあらずといへども、盜犯の罪責そのとがおなじかるべき歟。そのときくだんの諸僧等、人勢惡徒を引率して念佛の行者の住宅に發向す。行者の所犯なにごとぞや、われらが贓物なにものぞや。そのとがといふは佛法の修行、その贓物といふは念佛の一行歟。言語道斷の所行なり。その體たらく、解脫幢相のころものうへには、かたじけなく放逸のよろひを帶し、剃除鬚髮のいたゞきのあひだにはほしいまゝに邪見のかぶとを著せり。弓箭をよこたへ刀劍をさゝげて、よそほひ目をおどろかし、高天にさけび厚地をたゝひて、こⅣ-0586えみゝに徹す。おほよそその勢力、大千界をひゞかす。ほとほと修羅の軍衆にすぎたり。しかりといへども、われらほかには合戰の重犯を眼前におそれ、うちには出離の大事を生後にかなしむがゆへに、一分の遺恨をさしはさまず、一言の返答にをよばず。すみやかに住所をしりぞいておだやかに訴訟をふるところなり。いまかの僧徒にさいだちて穢土をいでんおもひをなして、年來の在所をいづるわれらをば、三世の諸佛もさだめて隨喜をくはへ、十方の薩埵もあらたに納受をたれたまふらん。しかるにとき末代にをよべりといへども、日月なを天にかゝれり。世五濁に屬すといへども、佛法いまだ地におちず。いまの所行すでに常篇にたえたり。冥の照覽はゞかりあり、ひとの謗難いくそばくぞや。一向專念の行者等にをいては、身のうへにきたれる災難なをかくのごとくこれをふせがず。いはんや、みづからそのわざはひをおこさず。このゆへにいにしへよりいまにいたるまで、いまだ惡行のくはだてにをよばざるものなり。身にをいてあやまりなき條、これらをもて御𨗈迹あるべきもの歟。 (二) 一 法華・眞言等の大乘をもて雜行と稱する條、しかるべからざるよしの事。 Ⅳ-0587この條、しづかに善導和尙の解釋をひらいて、つらつら淨土一家の廢立を案ずるに、彌陀一佛にをいて歸するところの行體をもて正行と稱し、自餘の佛經にをいてなすところの行業をもて雜行と號す。たとひ法華・眞言等の甚深の敎なりといふとも、なんぞ雜行のことばにおさまらざらんや。これ彌陀如來の往生の本願にあらざるがゆへなり。けだし敎の淺深を論ずるにあらず、行の優劣を比するにあらず。此土の得道をあかす敎をもて聖道門とし、他土の得生を期する門をもて淨土宗とす。かのもろもろの大乘は、もはら卽身頓悟のむねををしふるがゆへに、すでに聖道の敎門なり。しかれば、たとひこれを修して西方に廻向すれども、彌陀如來の本願にあらざるがゆへに、これを雜行となづけて往生不定なり。淨土の正行といふは、もとより西方の入因たる行體にをいて正行の名をたつるところなり。一宗の敎相、すでにみだるゝところなし。二行の差別、さらに混ずべからざるものなり。これによりて惠心の先德の『往生要集』に十門をたつるなかに、第九の往生諸業門にをいて、法華・眞言等のもろもろの大乘の行をいれたり。諸業といひ雜行といへる、そのことばことなりといへども、その體これおなじ。善導和尙は彌陀の化身、釋尊の再誕、源信僧都は遠劫Ⅳ-0588の古佛、靈山の聽衆なり。たれのひとか、かの兩師の解釋を難破すべきや。 (三) 一 念佛は天台・法相等の八宗のうちにあらず、淨土宗と號して宗の名をたつること自由たるよしの事。 この條、もとより宗の名をたつることは佛說にあらず。滅後の人師、こゝろざすところの經論についてその名をたつるところなり。いま世間に流布するところの八宗といふは、眞言・天台・華嚴・三論・法相・律宗・倶舍・成實なり。これすなはち聖武天皇の敕願として東大寺をたてられしとき、このてらにはこの八宗を兼學すべきよし、さだめをかれしよりこのかた、八宗の號あり。しかれば、諸寺・諸山にこれを學し、南京・北京にこれを行じて朝用にかなひ、公請をつとむるについて八宗といふものなり。淨土の一宗にをいては、かのときいまだわが朝にわたらず、桓武天皇の御とき、智證大師おほくこれを請來したまへり。そのゝちもこの宗にいたては公請をのぞまず、名利をもとめず、たゞ无上菩提のために修行する敎なるがゆへに、かの一烈にこれをいれず。しかりといひて、この八宗のほかに宗なきにはあらず。すなはちかの佛心宗もそのときわが朝にわⅣ-0589たらざるゆへに八宗にいらず。これまた朝用にあらざる宗なれども、請來ののちひとこれをよびくはふるとき九宗と稱す。淨土宗をくはへんとき十宗と號せんこと、またなにのさまたげかあらん。おほよそ震旦にをいては、この八宗にかぎらず種々の宗あり。いはゆる四論宗・涅槃宗・地論宗・攝論宗等なり。これみなその經をもて所依とし、その論をもて本論として義をたて行を修すれば、すなはちその宗となづく。なんぞ淨土の一門にかぎりて宗の名ををさゑられんや。しかれば、善導一師のみにあらず、元曉・迦才・慈恩等の諸師みな念佛の門にをいて宗の名をたてられたり。はじめて難破にをよぶべからざるものをや。 (四) 一 念佛は小乘の法なるがゆへに、眞實出離の行にあらざるよしの事。 この條、安養は大乘善根の妙土、念佛は大乘无上の勝行なり。なんぞ小乘の修行をもてたやすく大乘の國土にいらんや。なかんづくに、『般舟經』(一卷本*勸助品意)の說のごときは「三世の諸佛、念彌陀三昧によりて正覺をなる」とゝき、『彌陀經』の說にまかせば、釋迦如來この念佛三昧を行じて阿耨菩提をうとゝけり。諸佛成道の要法、むしろ小乘の劣行ならんや。釋尊凡地の本行、あに半字の小業Ⅳ-0590ならんや。しかれば、『雙卷』(大經*卷下意)には「无上大利の功德」ととき、『淨土論』には「眞實功德の相」と判ぜり。これ大乘の義をあらはすものなり。こゝをもて善導和尙、一宗の敎相を判ずるとき、「菩薩藏頓敎」(玄義分)と釋せり。いかでか小乘の敎たりといふべきや。いかにいはんや、善導和尙の解釋のみにあらず。諸師の釋、その義また一致なり。くはしくしるすにいとまあらずといへども、略して少々をあぐべし。いはゆる天台大師は『觀經』をもて方等大乘の部に判屬し、三論の祖師嘉祥大師はまたこの經をもて和尙の料簡のごとく菩薩藏と釋成し、法相の祖師慈恩大師は念佛をもて大善と釋し、律宗の祖師大智律師は「大乘圓頓成佛の法」(小經*義疏)と釋せり。念佛三昧の敎行、大乘大善の要法なる條、文釋ほゞかくのごとし。そもそも、また曇鸞法師は四論宗の賢哲なり、その講說をすてゝ一向に淨土に歸せり。道綽禪師は涅槃宗の學生なり、かの廣業をさしをいて、ひとへに西方の行をひろめき。また惠心の古德は天台宗の碩才なり、三諦相卽のまどをいでゝ順次往生ののぞみをかく。永觀律師は三論宗の明匠なり、八不正觀のゆかを辭して西方往詣のこゝろざしをいたす。念佛の行もし小乘ならば、これらの名德あに大乘の修行をすてゝ小乘の敎門にいらんや。謗難のむねすこぶるⅣ-0591不足言のいたりなり。おほよそ自宗・他宗の高祖といひ、晨旦・日域の人師といひ、念佛をもて小乘に判屬すること、いまだその一文をみず。もし難破をいたさんとおもはんひとは、すべからく誠證をかんがへまふすべきものなり。しかるに經論の說文をいださず、解釋の證據をひかず。たゞ自由の荒言をはいて、あるひは外道の法にして佛敎にあらざるよし、これを謗じ、あるひは淨土宗の名をたつべからざるむねをこれを難じ、あるひは小乘の敎にして大乘の法にあらざるよし、これをまふす條、不可說の次第なり。誹謗のおもむき、そのむねいさゝかことなれども、みなこれ謗法の大罪なり。その報、捺落にあるべし。毀破のともがら、はやく日ごろの先非をあらためて、當來の罪苦を懺ずべきものなり。 (五) 一 念佛は世間のため不吉の法なるによりて停止せらるべきよしの事。 この條、また員外の次第歟。念佛の行はたとひ世間のため不吉の法なりといふとも、往生のため決定の業ならば、これを制止せらるべきにあらず。生あるものはかならず滅し、さかんなるものはつゐにおとろふ。世間は一旦の浮生、出世は永劫の樂果なるがゆへなり。いかにいはんや、念佛の行は現當かねて利し、Ⅳ-0592存沒ともに益す。彌陀は諸佛の本師、念佛は萬善の總體なるがゆへなり。しかるあひだ、これを念じこれを行ずれば、たゞ淨土の往生をうるのみにあらず。また今生の災難をはらふものなり。これによりて、『金光明經』の「壽量品」をば彌陀如來息災延命の敎主としてこれをとき、傳敎大師はこの六字の名號をもて七難消滅の誦文としたまへり。なかんづくに、『觀念法門』(意)に念佛の行者にをいて五種の增上縁をたつるなかに、護念增上縁を釋すとして諸經の文をひけり。そのなかに『譬喩經』・『惟无三昧經』・『淨土三昧經』等のこゝろによりて「念佛の行人は、菩薩聖衆の護念をかうぶりて、としをのべいのちを轉じて、長命安樂なることをう」と釋せり。すでに長命の業因なり、なんぞ不吉の劣行たらんや。謗難のむね、言語のをよぶところにあらず。 破邪見正抄上 大谷本願寺親鸞上人之御流之正理也。 本願寺住持存如(花押) Ⅳ-0593破邪顯正抄中 (六) 一 戒行をたもつは佛法の修行にあらずといひて、これを停止すべきむね、勸化せしむるよしの事。 この條、持戒・持齋の行をもて佛法の修行にあらざるよし、宣說のむねまふさしむる條、不可說の謀言なり。戒はこれ佛法の大地、衆行の根本なり。これを受持せんは佛法の威儀なり、たれかこれを非せんや。たゞし在家愚鈍の道俗をこしらへて、專修念佛の一法を行ぜよとをしふるとき、あながちに持戒をことゝすべきよし、勸化をいたさざることはしかなり。そのゆへは、『大集經』(卷五五月藏分*閻浮提品意)のこゝろを案ずるに、「釋尊の滅後にをいて五箇の五百年あり。いはゆる第一の五百年は、解脫堅固なり。第二の五百年は、禪定堅固なり。第三の五百年は、持戒堅固なり。第四の五百年は、多聞堅固なり。第五の五百年は、Ⅳ-0594鬪諍堅固なり」といへり。この經のこゝろならば、たとひ正法五百年の義によるとも、たとひ正法千年の說によるとも、ともに持戒の行は像法のときにあたれり。また『像法決疑經』の所說によらば、正法五百年は持戒堅固なり、像法一千年は坐禪堅固なり、末法萬年は念佛堅固なりとみえたり。この二經の說をおもふに、あるひは正法のときの行ととき、あるひは像法のときの法とあかせり。いまだ末法にをいて持戒堅固の義をとかず。これによりて、傳敎大師の『末法燈明記』(意)には、「正法のときは持戒の僧をもてたからとし、像法のときは破戒の僧をもてたからとし、末法のときは无戒名字の比丘をもてたからとす。もし末法のなかに持戒のものあらば、怪異なり、いちにとらのあらんがごとし」といへり。これらの所說をうかゞふに、たとひ剃髮染衣のすがたとなりて持戒・持律の儀をかいつくろふといふとも、眞實にたもちうるひとはかたかるべし。これ行人のとがにあらず、すでに末法のしるしたり。いかにいはんや、在家止住のやからにいたりては、たもちうべきひとなし。このゆへに、末法相應の要法たるにより、下根易行の本願たるについて、ひとへに安養の一土をねがひ、念佛の一行をつとむべきよし、みづからもふかくこれを信じ、ひとををしえても行Ⅳ-0595ぜしむるものなり。持戒の行にをいては、をのれが分にあらざるあひだ、これを樂行せずといへども、敬重のおもひにをいては、もともあさからず。なにゝよりてか佛法にあらざるよし、惡言をはくべきや。末世のなかには名字の比丘なをくにのたからなり。いはんや末代なりとも、もし持得のひとあらば、ことにこれをたうとむべし。いかでか慢想を生ずべきや。しかしながら上察をあふぐところなり。 (七) 一 『阿彌陀經』ならびに『禮讚』をもて外道の敎となづけて地獄の業と稱し、わが流にもちゐる和讚をば往生の業なりと號するよしの事。 この條、不可思議の虛誕なり。『四紙の小經』は諸佛證誠の實語、『六時の禮讚』は五部九卷の隨一なり。これをはなれては、念佛の功能をしるべからず。これにあらずは、往生の行願をたつべからず。外道の敎なりといはゞ、そのひとすなはち外道なるべし。地獄の業なりと稱せば、かのひとすなはち地獄をまぬかれがたし。たゞしかの誦經・禮讚等は善導和尙のこゝろによるに、正行・雜行と分別するときは、正行にして雜行にあらず。正業・助業と選擇するときは、助業にして正業にあらず。そのゆへは、淨土の行にをいて五種のしなあり。一Ⅳ-0596には讀誦、二には觀察、三には禮拜、四には稱名、五には讚嘆供養なり。このなかに第四の稱名をもて正定の業とし、自餘の四種をもて助業となづく。かの『觀經義』の第四(散善義)に「一心專念彌陀名號、行住坐臥不問時節久近念々不捨者、是名正定之業、順彼佛願故、若依禮誦等卽名爲助業」といへる釋、このこゝろすでに稱名をもて正定の業となづくれば、その餘は正定の業にあらずときこえたり。念佛をもて佛の本願に順ずと釋すれば、そのほかは本願に順ぜずとしられたり。かるがゆへに讀經にもたへぬべく、禮讚をも行じつべからんひとは、これを修せんこと淨土の正行にそむかず、これもとも往生の助業なり。たとひまたこれを行ぜずといへども、往生の業には念佛を本とするがゆへに不足あることなし。しかれども、いたりてつたなき一文不通のあま入道等は、『阿彌陀經』を讀誦することもはなはだかたく、『六時禮讚』を勤行することもかなひがたし。たとひまた、いさゝか黑白をわきまふるたぐひなれども、あるひは主君につかへて奉公をはげむもの、あるひは商賣をことゝして世路をわしるやから、六字の名號すらこれをとなふるになをものうく、なをいとまなし。いはんや長日に『阿彌陀經』を誦せよとすゝめ、六時に『禮讚』を行ぜよとをⅣ-0597しへば、淨土をねがふものはいとありがたかるべし。このゆへに祖師親鸞聖人、もとより下根の衆生をさきとしておこしたまへる本願の意趣をしりて、こゝろを四種の助業にかくべからず、行を第四の正業にもはらにすべきよし、これをすゝめらるゝところなり。これ如來の本誓にそむくべからず、また和尙の釋義にたがふべからざるをや。つぎに和讚の事。かみのごときの一文不知のやから、經敎の深理をもしらず、釋義の奧旨をもわきまへがたきがゆへに、いさゝかかの經釋のこゝろをやはらげて无智のともがらにこゝろえしめんがために、ときどき念佛にくはへてこれを誦しもちゐるべきよし、さづけあたへらるゝものなり。これまた往生の正業にあらず、たゞ念佛の助行なり。もし五種の正行に配せば、第五の讚嘆に攝すべき歟。またく誦經等に對して差別を論ずるに、全分文盲のともがらにをいては、かの誦經等はなを成じがたく、この和讚等はまなびやすきがゆへに、もし稱名にものうからんとき、かつは音聲をやすめしめんがため、かつは法味をあぢはゝしめんがために、これをしめしをかるゝばかりなり。しかりといひてこれを誦せざらんもの、往生をえざるべきにあらず。往生の正業は、たゞ南無阿彌陀佛の一行なり。 Ⅳ-0598(八) 一 神明をかろしめたてまつるよしの事。 この條あとかたなき虛誕なり。そのゆへは神明について權實の不同ありといへども、おほくはこれ諸佛・菩薩の變化なり。衆生を利益せんがため、群類を化度せんがために、かりに凡惑のちりにまじはりて、しばらく分段のさかひに現じたまへり。これすなはち佛法にをいて、さしたる善因をたくはへざる无縁无怙のともがら、信をいたしてわがまえにいたらば、これをもて來縁として、つゐに三界の火宅をいださしめて、すみやかに一實の金刹にいたらしめんとなり。いま念佛の行者は、ふかくその垂迹の本意をしり、かの大悲の恩致をさとりて、專心に往生をもとめ一向に念佛を修す。さだめて釋迦・彌陀ならびに六方恆沙諸佛をよび一切の菩薩等の本懷にかなふべし。佛・菩薩の本懷にかなはゞ、その垂迹たらん神明、したがひてまた隨喜をいたしたまふべしといふこと、その道理必然なり。これによりて、かみ梵天・帝釋・四大天王よりはじめて、しも琰魔法王・五道冥官、乃至六十餘州普天率土、大小權實の神祇冥道にいたるまで、ことごとく隨逐して行者を影護したまふ。このゆへに神明は擁護を一向專修の行人にたれ、行人は尊敬を一切諸Ⅳ-0599神の明德にぬきいづ。西方欣求の行者、なにゝよりてか神明を忽諸したてまつらんや。ひとたとひ讒言をいたすといふとも、神むしろ照鑑をたれたまはざらんや。 (九) 一 觸穢をはゞからず日の吉凶等をえらばざる條、不法の至極たるよしの事。 この條、佛法のなかには生死煩惱をもて穢とし、功德善根をもて淨とす。これすなはち佛陀の敎をたるゝおもむき、菩薩の生を利するみちなり。世間の儀には死生等の禁忌をもて穢とし、これをさるをもて淨とす。これすなはち神明のひとをいましむる法、王法の制をさだむる式なり。かるがゆへに俗塵をいでゝ山林にまじはり、世務をすてゝ佛法を行ぜんひとは、たとひ死生の穢にまじはるといふとも、佛陀まなじりをめぐらしたまふべからざる歟。しかれども、いま一向專修の行者にをきては、さらに世俗をはなれず公役をつとめながら、しかも内心に佛道をねがふゆへに、あるひは神職につかふるやからもあり、あるひは奉公をつとむるたぐひあり。かくのごときのともがら、たとひ佛法のなかに死生・淨穢等の差別なきことをしるといふとも、いかでか世間の風俗をわすれて、みだりがはしく觸穢をはゞからざらんや。不法をいたすよし、かすめまふす條、毛をふいⅣ-0600てきずをもとむるいひ、まことにこのたぐひ歟。つぎに日月の吉凶の事。『涅槃經』(北本卷二〇梵行品*南本卷一八梵行品)の說を案ずるに、「如來の法のなかには良日・吉辰を選擇することなし」といへり。このゆへに、あるひは恆例、あるひは臨時、念佛を勤行し追善をいとなむとき、さらに日の吉凶をえらばず。これ公方にむけて不忠を存ずるにあらず、他人に對して不法をいたすにあらず。かの僧徒等なんぞこれをとがめまふすべきや。もし如來の法のなかに吉日をえらぶべきことはりなきむね信知せしむる條、邪見のいたりにして佛神の照覽にそむかば、神は非禮をうけず。佛質直をさきとするがゆへに、その罰すでに自身にあるべし。そのわざはひ他人にをよぶべからず。しかれば、かみとして禁遏せらるべきにあらず、ひとゝしてまた說諫にあたはざる歟。いかにいはんや、もしは神事にしたがひ公役をつとむるとき、ところの法にまかせ、つねの式について、日ついでをまもること子細にをよばず。たゞあながちに吉凶ををのれがこゝろにかけざるばかりなり。あゑて普通の儀を違失せずうたへまふすむき、かたがたよどころなきものをや。 (一〇) 一 佛法を破滅し王法を忽諸するよしの事。 Ⅳ-0601この條、佛法・王法は一雙の法なり。とりのふたつのつばさのごとし、くるまのふたつの輪のごとし、ひとつもかけては不可なり。かるがゆへに佛法をもて王法をまもり、王法をもて佛法をあがむ。これによりて上代といひ當時といひ、國土をおさめまします明主、みな佛法紹隆の御願をもはらにせられ、聖道といひ淨土といひ、佛敎を學する諸僧、かたじけなく天下安穩の祈請をいたしたてまつる。一向專念のともがら、なんぞこのことはりをわすれんや。なかんづくに、曠劫流轉のあひだ、多生沈沒のほど善根薄少にして、いまだ火宅をいでざるところに、たまたま南浮の人身をうけて、さいはひに西方の佛敎にあへり。このゆへに生々にうけし六道の生よりは、このたびの人身はもともよろこばしく、世々にかうぶりし國王の恩よりは、このところの皇恩はことにをもし。世間につけ出世につけ、恩をあふぎ德をあふぐ。いかでか王法を忽諸したてまつるべきや。いかにいはんや專修念佛の行者、在々所々にして一渧をのみ、一食をうくるにいたるまで、總じては公家・關東の恩化なりと信じ、別しては領主・地頭の恩致なりとしる。公私につけてさらに違背の儀なし。たゞ自身得道のためにこれを修するばかりなり。けだしこれ末法にいたり濁世にをよびぬれば、智目・行足ともにかけて出離のみⅣ-0602ちにまどへる在家无智のやから、後生の惡果はおそるべしといへども、自餘の諸行は修することあたはざるがゆへに、ひとへに易行の一道におもむいて、たゞ西方の往生をねがふものなり。これなんぞ王法をそむくならんや、これむしろ佛法を破するならんや。たちまちに國中を追出せらるゝ條、不便の次第なり。そもそも、王法をいのり佛法をあがむと稱する山寺聖道の僧徒等、所行のくはだてもとも隱便ならず。一天四海の要器として公家・武家の人民たるわれら、後世をねがひ佛法を信ずる、さらになにのとがゝあらん。しかるにこれをもて重科と稱し、これをもて大罪と號して、あるひは在所に發向して追出をいたし、あるひは住宅を破却して愁歎をくはふ。濫吹のはなはだしきこと、すこぶる是非にまどふものなり。しかのみならず、あるひは念佛を行ずべからざるよし、起請文をかゝしめて三塗の苦患をうれへしめ、あるひは國中を追放すべきむね、綸旨ありと稱して自由虛誕をかまへ、あるひは打擲刃傷をくはへて面々に恥辱をあたへ、あるひは逃脫牢籠にをよんで一々に山林にまじはらしむる條、惡行のいたりおほよそ常篇にこえたり。すでに人民をわづらはすは王法をかろしむるなり。また念佛をさまたぐるは佛法を滅するなり。なにをもてか王法をいのると稱し、なにゝよりてか佛法をⅣ-0603あがむと號すべきや。みづからのとがをもて他人にゆづる條、奸曲の至極なり。 (一一) 一 念佛の行者はひとの死後にみちををしえざる條、邪見のきはまりなるよしの事。 この條にをいては、まことにしかなり。一向專修の行者、死人にみちををしへざる條、さらにあらがひまうすべからず。たゞし、をしへざるは邪見のよしまふさしむる條、理不盡の申狀なり。そのゆへは、田舍等にみちををしふと稱して、もちゐるところの无常導師の作法は、六道方角ををしへ、極樂の方所をしめす歟。しかれば、念佛往生のひとにをいては、これををしふべきにあらず、六道の幽途にまよふべからず。西方の淨刹にいたるべきがゆへなり。たとひまた往生をとげざるひとなりといふとも、これををしへて詮なし。こゝにしてみちををしへんによりて、かのひと淨土にむまるべからざるゆへなり。そのゆへは、冥途のありさまをとぶらひ、出離の方法をしめさんこと、もとも佛說の誠言にまかせ聖敎の施設によるべし。しかるに亡者の死後に六道のちまたををしふべき條、いまだ經論解釋の正說をきかず。たゞのちのひとのをろかなるたくみをもて、もちゐはじめたるところ歟。これをもちゐこれをもちゐざらんこと、よろしくひⅣ-0604とのこゝろにあるべし。他人のいろふところにあらず。おほよそ沒後の追善にをいては、たとひ讚佛・講經等の殊勝の功德を修して廻向すれども、七分がなかにをいて、わづかにその一分のみ冥途に達すとみえたり。いはんや、佛敎にあらざるわたくしの意巧をもて六趣のつじをしめさん、あにその利益あらんや。しかるあひだ、念佛の行者にをいては、かの作法をもちゐざるところなり。なかんづくに、『觀佛三昧經』の說をうかゞふに、念佛三昧は失道のものゝ指南なり。黑闇のものゝ燈燭なりとみえたり。しからば、六道のくらきちまたにまよひ、三有のかすかなるみちにやすらはんとき、この念佛を修して、かの生處をとぶらはゞ、そのみちしるべとなり、かのあきらかなるともしびとならんこと、佛說すでにたなごゝろをさす。感應なんぞくびすをめぐらさんや。かるがゆへに專修の行人は、ふかく佛敎の誠言をまもりて、愚人の意巧をもちゐざるものなり。 破邪見正抄中 大谷本願寺親鸞上人之御流之正理也。 本願寺住持存如(花押) Ⅳ-0605破邪顯正抄下 (一二) 一 佛前にをいて、山野・江河のもろもろの畜類の不淨の肉味をそなふるよしの事。 この條、ほとほと言上にをよばず。虛誕のいたり、しかしながら御推量にたりぬべきものをや。そのゆへは、彌陀如來は安養淨刹の能忍、勝過三界の敎主なり。しかれば、色・聲・香・味の境界に著せず、みづから法喜禪悅のあぢはひをなめたまふ。三界穢土の供養にをいては、ひとつとして淸淨なることなければ、奉獻するにあたはずといへども、いま住持の三寶にむかひたてまつるとき、散華・燒香・燃燈・懸幡等の供養をもちゐるべきむねみえたり。これすなはち凡夫のために利益をなしたまふ體なるがゆへに、穢土の供養をまうくるものなり。このほか佛前の供具、淨土門にをいていまだこれをことゝせず。なにゝよりてか山禽・野獸のけがらはしき肉味をそなふべきをや、さらに御信用にたらざるものⅣ-0606なり。たゞし結衆の同行、一味の道俗、そのかずすでにもておほし、たやすくたづねあなぐるにをよばず。もし萬が一にかくのごときの非法をいたすひとあらば、すみやかに交名をさゝるべし。こともし實ならば、すでに佛法破滅のともがらなり。これ放逸邪見のたぐひなり。はやく門徒を追放すべし。たゞ展轉の浮言を信じて偏執の上訴にをよばゞ、かつは荒涼なり、かつは奸謀なり、ことにあきらめ御沙汰あるべきものなり。 (一三) 一 魚鳥に別名をつけて、念佛勤行の時中に道場にしてこれを受用せしむるよしの事。 この條、さらに御承引にをよぶべからず。いまこの專修の行者は、おほくはこれ在家止住のともがらなり。このゆへにあるひは妻子にともなひて愛欲にまつはれ、あるひは主君につかへて弓箭を帶せり。あるひはまた耕作をことゝして、鋤鍬をひさぐるものもあり。あるひは商沽を業として朝夕のさゝへとするものもあり。しかるに彌陀如來は、五劫思惟の本願深重超絶にして諸佛にすぐれ、兆載永劫の修行不可思議にして群生を利しまします。たとひ十惡・五逆・四Ⅳ-0607重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪人なりといへども、廻心念佛すれば、これをもらさず。至心信樂すれば、かならずこれを度したまふ。破戒无慚のともがら、在家無智のたぐひ、もともこれを行ずべきむね、知識勸進のあひだ、一心にかのをしへをたのみて、一向にこの行をつとむるばかりなり。もとより煩惱を斷ぜず山林にまじはらざる根機なれば、魚鳥を食するをもてひとにはゞからず。いはんや、念佛勤修の日は一道場の分、大旨は一月に一度なり。しかれば、長時にはゞかりをなさずして魚鳥を食用するともがら、いづれの篇によりてか、かだましく別名をつけて念佛勤行の片時のあひだにこれをもちゐるべきや。さらに御信用のかぎりにあらざるものなり。 (一四) 一 念佛勤行のついでに、佛前にして親子の儀を存ぜず、自他の妻をいはず、たがひにこれをゆるしもちゐるよしの事。 この條、子細またさきにおなじかるべし。すみかを在家にしめて晝夜に妻子にまつはるゝ身、なにのかだましきこゝろありてか、念佛のとき佛前にしてかくのごときの邪行をいたすべきや。なかんづくに、婬事を行ずるは愛欲の所爲なり。Ⅳ-0608欲をはなれずして婬を行ぜん機、いかでか嫉妬をはなれて自妻を他人にゆるすべきや。御𨗈迹にたりぬべし。いかにいはんや、われら曠劫よりこのかた、ひさしく六道四生にめぐりて、いたづらに十惡・三毒にまつはれたり。このゆへにむなしく多生の親子、各々恩愛のかうばしきよしみをもわすれ、三世の諸佛、番々出世の慈悲をもわきまへずして、いまにいたるまで生死の長夜にさまよい、三界の牢獄にとぢられたり。これをなげき、これをかなしむがゆへに、穢土を厭離する身となり、淨土を欣求するこゝろをおこせり。希有の佛法にあひて今度の出離をねがふ身、なにゝよりてか山野のとり・けだものに同じて、しかのごときの不調をいたさんや。もとも高察あるべきものなり。 (一五) 一 一向專修の行者、燈明となづけて錢貨を師範に沙汰する條、邪法のいたすところなるよしの事。 この條、佛敎に歸依するやから、佛前の燈明料を沙汰せむ條、道理にそむくべからざる歟。おほよそ佛法修行の法、供佛施僧のいとなみをさきとし、佛道欣求のならひ、不惜身命のをもゐを本とす。身命なをおしむべからず、いはんや財寶Ⅳ-0609にをいてをや。これによりて一向專修の行人等、かつは師恩を報謝せんがため、かつは自身の冥加のため、佛前の燈明に擬し、後生の資糧にあてゝ、わたくしにもちゐるところの活計の上分をもて師範のところにをくりあげん條、これすでに信心のいたすところなり。さらに他人のいろふところにあらず。わたくしのちからをもちいて公事を減ぜざれば、かみとして禁ぜらるべきにあらず。わがこゝろざしをはげまして國土をつゐやさゞれば、ひとゝしてうたへをいたすべきにあらず。なすところの功は少分なりといへども、うるところの益はさだめて莫太ならん歟。なかんづくに、『觀念法門』(意)に『般舟三昧經』の說をひいて、「この念佛三昧にをいて四事供養あり。飮食・衣服・臥具・湯藥をもて、それをたすけて歡喜す。三世の諸佛みな念阿彌陀佛三昧四事助歡喜をもて、成佛したまへり」といへり。すなはち斯笒王の私訶提佛にあひ、梵摩達が珍寶比丘につかへし、みな四事の供養をのべ六字の名號をきゝて、つゐに得益せることをあかせり。この說のごとくならば、念佛の行者、ちからのたえんにしたがひて供養を師長にいたし、こゝろざしのひかんにまかせて財寶を佛道になぐべしとみゑたり。しかれども、とき末代にをよび、ひとおほく慳貪にして、そのまことをぬきいづるⅣ-0610ともがら、はなはだもてかたし。たまたま隨分のつとめをいたさんものをば、これをみな隨喜すべし、なんぞかへりて毀辱にをよばんや。 (一六) 一 念佛もし往生の業ならば、みづからこれをとなへんに往生をうべし。あながちに知識をあふいで師資相承をたつべからざるよしの事。 この條、總じて佛法修行の法をみるに、みな師資相承あり。なんぞ淨土の一家にをいて血脈なからんや。なかんづくに、彌陀の本願をきくによりてすでに往生の信心をたくはふ。きくことをうるは知識の恩なり、なんぞ知識をあふがざらん。これをあふがば、むしろ血脈なからんや。このゆへに『大經』(卷下)のなかには、「遇善知識、聞法能行」ととけり。知識にあひて法をきかば、その義相承なり。これによりて善導和尙處々の解釋のなかに、知識のをしへにあらずは、往生をえがたきむねを判ぜり。いましげきがゆへにこれを略す。おほよそ佛敎の門にいりて出離のみちをしること、あるひは經卷のをしへにより、あるひは知識のすゝめによる。しかるに一文不通の愚鈍のともがらにいたりては、經敎をひらいてみづから佛敎のことはりをさとることなし。たゞひとへに知識のちからによⅣ-0611るがゆへに、そのことばをたのみて佛語を信ずるおもひをなし、かのをしへをまもりて經敎に歸するこゝろに住す。いかでか面授の恩德をわすれ、いかでか口決の血脈をあふがざらん。しかれば、黑谷の源空聖人、淨土宗にをいて師資相承の義あるべきことを判じて、五祖等の血脈をひかれたり。上古にをいてすでに血脈あり、末代にいたりなんぞ相承なからんや。 (一七) 一 念佛を修せば自行のためにこれをつとめて往生をねがふべし、無智の身をもてひとを敎化せしむる條、しかるべからざるよしの事。 この條、上求菩提・下化衆生は菩薩の行願なり。したがひて淨土門の行者、このこゝろなきにあらず。いはゆる願作佛心、度衆生心これなり。しかれば、善知識にあひてわが往生の信心をうるゆへに、踊躍歡喜のあまり、在家无智のやからをあひかたらひて末代相應の易行を修すべきよし、縁にしたがひてこれをすゝめん條、佛法修行の大意にそむくべからざる歟。无智の身をもて有智のひとををしへば、まことにおほけなきににたり。无智の身なりといふとも、無智のひとをこしらへて念佛せしめんこと、なんぞ如來の本懷にたがはんや。これにⅣ-0612よりて善導和尙の解釋をうかゞふに、『觀經義』(定善*義意)のなかには「一人をしても生死をいづることをえしむるは、眞に佛恩を報ずとなづく。このゆへに今時の有縁、あひすゝめてちかひて淨土に生ぜしむるは、すなはち諸佛の本願のこゝろにかなふなり」といひ、『往生禮讚』には、「みづからも信じ、ひとをしても信ぜしむる、かたきがなかにうたゝさらにかたし、大悲つたへてあまねく化する、眞に佛恩を報ずるになる」と釋せり。ちからのをよばんにしたがひて親疎をこしらへ、縁にふれて道俗をすゝめんこと、二尊の本意にかなひ、諸佛の方便に順ずべきをや。難破のむね、もとも存知しがたきものなり。 以前條々、風聞の說について子細を勒して言上することかくのごとし。おほよそ念佛三昧は、彌陀選擇の本願、釋尊付屬の勝行、諸佛證誠の實語、衆生得脫の正門なり。八萬四千の行願この三昧より成就し、十方三世の諸佛この六字より出生せり。なかんづくに、末代の行者、无智の道俗、この行にあらずは生死をいでがたく、この法にあらずは菩提を成じがたし。いはゆる如來の滅後にをいて三時の不同あり、正・像・末法これなり。衆生の根性について三種の差別あり、上・中・下根これなり。このゆへに如來、ときをはかり機をはかりて、Ⅳ-0613法をさづけたまふ。衆生また、ときをはかり機をはかりて、これを行ずべし。かの正・像二時のあひだには、戒定惠の三學みな堅固にして得道のひとおほく、末法濁亂のいまは、念佛三昧の得道さかりなるべきむねををしへたまへり。しかるにかの三時をもてその三根に配せば、正法は上根、像法は中根、末法は下根にあたれり。しかれば、正・像二時の上・中の根機は、聖道の敎を行じても生死を解脫すべし。末法萬年の最下の群類は、淨土の行にあらずは、菩提を證得しがたし。かるがゆへに時機相應すれば、修行成就することをえ、機敎あひそむけば、利益速疾なることなし。このむねを存ぜずして、正法のときの修行をもて像法の機にをしへ、像法のときの修行をもて末法の機にすゝめば、ときと機と相違し、機と法と相應せずして、勝利はなはだすくなかるべし。またその根機について、上・中・下の別あるのみにあらず。在家・出家の二衆あひわかれたるがゆへに、佛在世には住處また各別なり。まづ在家の衆といふは、五欲を貪求すること相續してこれつねなり。たとひ淸心をおこせども、なをしみづにゑがくがごとし。この衆は男女交懷、飮酒食肉等をいましむるにをよばず。つぎに出家のものといふは、身を亡じいのちをすて、欲を斷じ眞に歸し、こゝろ金剛のごⅣ-0614とく圓鏡に等同なり。佛地を悕求して自他を弘益す。もし囂塵を絶離するにあらずは、この德證すべきによしなし。この衆をば、婬酒食肉等をいましめたまへり。こゝにしりぬ、如來大悲をもてひとにしたがひ、ときによりて、あるひはゆるし、あるひは制したまへり。しかれば、傳敎大師の解釋にも、「正法のときの制文をもて、末法の世の名字の比丘を制せば、人と法と合せず。これによりて『律』のなかには、非制を制すれば、三明を斷ず。記說するところつみあり」(末法燈*明記意)といましめたまへり。かるがゆへに、その欲を斷じ眞に歸せん出家淸淨のひとをば、をいてこれを論ぜず。かの聖道門の學者等はこのたぐひ歟。たゞし當今末法のありさまをみるに、剃髮染衣のともがらおほしといへども、在世の出家の作法のごとく、まことに身を亡じいのちをすつるひと、はなはだまれなり。おほくはこれ住處を在家・出家にわかたず、おなじく妄念を愛塵・欲塵におこすものなり。かうべをそるといへども、俗家につかへて弓箭を帶し劍戟をさゝぐるひともあり。ころもをそむといへども、妻子にまつはれて田畠をたがへし屠沽をことゝするものもあり。出家のひとのなかに、なをかくのごときのたぐひあり。けだしこれ末代のならひ、法のごとくなること、もともかたきがゆへなり。いかⅣ-0615にいわんや、いまわれらがともがらは、もとより在家止住のたぐひ、愚癡無智のあま入道等なれば、五欲を貪ずるをもて朝夕のおもひとし、三毒にまつはるゝをもて晝夜の能とせり。かくのごときの機、この法によらずは、たやすく生死をいでがたきがゆへに、一心に歸依し一向に勤修するものなり。これすなはち彌陀の本願はもと凡夫をすくひ、如來の大悲はことに罪人にかうぶらしむるがゆへなり。おほよそ佛法修行のならひ、をのをの自行をつとめしむるに、あへて餘業を遮せず。縁にしたがひて行をおこせば、みな解脫をう。一向專修の行人にかぎりて、なんぞあながちに種々の無實をかまへ、條々の惡名をあげて在所を追放せしめ、念佛を停止せらるゝや。末弟もしあやまつところあらば、とがを制し非をあらたむべきよし、示誨をくわへられん條、これ自他宗の學者の本意なり。しかるにことを左右によせ、とがを縱橫にもとめて、佛道の修行を障㝵せらるゝ條、言語道斷の所行なり。まことにこれ惡世のさだまれる法、邪見の至極なり。和尙の未來記みぎにのせて炳焉なり。かなしむべし、かなしむべし。なげかずはあるべからず。しかれば、はやく御哀憐をたれられて、山寺聖道の諸僧ならびに山臥・巫女・陰陽師等の念佛誹謗のともがらと、一向專念の行者とⅣ-0616兩方をめし決せられて、稱名念佛の勝行、外道邪見の法にあらず。西方往生の要路、時機相應の敎たる條、理致の淵源をきわめられてのち、もとのごとく本宅に還住して專修念佛を勤行すべきよし、御成敗をかうぶらば、いよいよ憲政の無偏をあふいで、まさに眞宗の巨益をしらんとおもふ。よてほゞ言上、くだんのごとし。 破邪見正抄下 大谷本願寺親鸞聖人之御流之正理也。 本願寺住持存如(花押)