Ⅳ-0557持名鈔[本] ひそかにおもんみれば、人身うけがたく佛敎あひがたし。しかるにいま、片州なれども人身をうけ、末代なれども佛敎にあへり。生死をはなれて佛果にいたらんこと、いままさしくこれときなり。このたびつとめずして、もし三途にかへりなば、まことにたからのやまにいりて、手をむなしくしてかへらんがごとし。なかんづくに、无常のかなしみはまなこのまへにみてり、ひとりとしてもたれかのがるべき。三惡の火坑はあしのしたにあり、佛法を行ぜずはいかでかまぬかれん。みなひとこゝろをおなじくして、ねんごろに佛道をもとむべし。 しかるに佛道においてさまざまの門あり。いはゆる顯敎・密敎、大乘・小乘、權敎・實敎、經家・論家、その部八宗九宗にわかれ、その義千差萬別なり。いづれも釋迦一佛の說なれば、利益みな甚深なり。說のごとく行ぜばともに生死をいづべし、敎のごとく修せばことごとく菩提をうべし。たゞし、とき末法におよび、機下根になりて、かの諸行においては、その行成就して佛果をえんことはなはⅣ-0558だかたし。いはゆる釋尊の滅後において、正像末の三時あり。そのうち正法千年のあひだは敎行證の三ともに具足しき、像法千年のあひだは敎行ありといへども證果のひとなし、末法萬年のあひだは敎のみありて行證はなし。いまの世はすなはち末法のはじめなれば、たゞ諸宗の敎門はあれども、まことに行をたて證をうるひとはまれなるべし。されば智慧をみがきて煩惱を斷ぜんこともかなひがたく、こゝろをしづめて禪定を修せんこともありがたし。 こゝに念佛往生の一門は末代相應の要法、決定往生の正因なり。この門にとりて、また專修・雜修の二門あり。專修といふは、たゞ彌陀一佛の悲願に歸し、ひとすぢに稱名念佛の一行をつとめて他事をまじへざるなり。雜修といふは、おなじく念佛をまふせども、かねて他の佛・菩薩をも念じ、また餘の一切の行業をもくはふるなり。このふたつのなかには、專修をもて決定往生の業とす。そのゆへは彌陀の本願の行なるがゆへに、釋尊付屬の法なるがゆへに、諸佛證誠の行なるがゆへなり。おほよそ阿彌陀如來は三世の諸佛の本師なれば、久遠實成の古佛にてましませども、衆生の往生を決定せんがために、しばらく法藏比丘となのりて、その正覺を成じたまへり。かの五劫思惟のむかし、凡夫往生のⅣ-0559たねをえらびさだめられしとき、布施・持戒・忍辱・精進等のもろもろのわづらはしき行をばえらびすてゝ、稱名念佛の一行をもてその本願としたまひき。「念佛の行者もし往生せずは、われも正覺をとらじ」(大經*卷上意)とちかひたまひしに、その願すでに成就して、成佛よりこのかたいまに十劫なり。如來の正覺すでに成じたまへり、衆生の往生なんぞうたがはんや。これによりて、釋尊はこの法をえらびて阿難に付屬し、諸佛はしたをのべてこれを證誠したまへり。かるがゆへに一向に名號を稱するひとは、二尊の御こゝろにかなひ、諸佛の本意に順ずるがゆへに往生決定なり。諸行はしからず。彌陀選擇の本願にあらず、釋尊付屬の敎にあらず、諸佛證誠の法にあらざるがゆへなり。されば善導和尙の『往生禮讚』のなかに、くはしく二行の得失をあげられたり。まづ專修の得をほめていはく、「もしよくかみのごとく念々相續して、畢命を期とするものは、十はすなはち十ながらむまれ、百はすなはち百ながらむまる。なにをもてのゆへに。外の雜縁なくして正念をうるがゆへに、佛の本願に相應するがゆへに、敎に違せざるがゆへに、佛語に隨順するがゆへに」といへり。「外の雜縁なくして正念をうるがゆへに」といふは、雜行雜善をくはへざれば、そのこゝろ散亂せずしてⅣ-0560一心の正念に住すとなり。「佛の本願と相應するがゆへに」といふは、彌陀の本願にかなふといふ。「敎に違せざるがゆへに」といふは、釋尊のおしへにたがはずとなり。「佛語に隨順するがゆへに」といふは、諸佛のみことにしたがふとなり。つぎに雜修の失をあげていはく、「もし專をすてゝ雜業を修せんとするものは、百のときにまれに一二をえ、千のときにまれに五三をう。なにをもてのゆへに。雜縁亂動して正念をうしなふによるがゆへに、佛の本願と相應せざるによるがゆへに、敎と相違するがゆへに、佛語に順ぜざるがゆへに、係念相續せざるがゆへに、憶想間斷するがゆへに、廻願慇重眞實ならざるがゆへに、貪・瞋・諸見の煩惱きたりて間斷するがゆへに、慚愧してとがをくゆることなきがゆへに、また相續して佛恩を念報せざるがゆへに、心に輕慢を生じて業行をなすといへども、つねに名利と相應するがゆへに、人我みづからおほひて同行・善知識に親近せざるがゆへに、ねがひて雜縁にちかづきて、往生の正行を自障々他するがゆへに」(禮讚意)といへり。雜修のひとは彌陀の本願にそむき、釋迦の所說にたがひ、諸佛の證誠にかなはずときこえたり。なをかさねて二行の得失を判じていはく、「こゝろをもはらにしてなすものは、十はすなはち十ながらむまる。Ⅳ-0561雜を修して心をいたさざるものは、千のなかにひとりもなし」(禮讚)といへり。雜修のひとの往生しがたきことをいふに、はじめには、しばらく百のときに一二をゆるし、千のときに五三をあぐといへども、のちにはつゐに千人のなかにひとりもゆかずとさだむ。三昧發得の人師、ことばをつくして釋したまへり。もともこれをあふぐべし。おほよそ「一向專念无量壽佛」といへるは、『大經』(卷下)の誠說なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向專稱彌陀佛名」(散善義)と判ずるは、和尙の解釋なり。念佛をつとむべしときこえたり。このゆへに源空聖人このむねをおしへ、親鸞聖人そのおもむきをすゝめたまふ。一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向專修の念佛を行ずべきなり。 しかるに、うるはしく一向專修になるひとはきはめてまれなり。「かたきがなかにかたし」といへるは、『經』(大經*卷下意)の文なれば、まことにことはりなるべし。そのゆへを案ずるに、いづれの行にても、もとよりつとめきたれる行をすてがたくおもひ、日ごろ功をいれつる佛・菩薩をさしおきがたくおもふなり。これすなはち、念佛を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、彌陀に歸すれば諸佛のⅣ-0562御こゝろにかなふといふことを信ぜずして、如來の功德をうたがひ、念佛のちからをあやぶむがゆへなり。おほよそ持戒・坐禪のつとめも轉經・誦呪の善も、その門にいりて行ぜんに、いづれも利益むなしかるまじけれども、それはみな聖人の修行なるがゆへに、凡夫の身には成じがたし。われらも過去には三恆河沙の諸佛のみもとにして、大菩提心をおこして佛道を修せしかども、自力かなはずしていまゝで流轉の凡夫となれり。いまこの身にてその行を修せば、行業成ぜずしてさだめて生死をいでがたし。されば善導和尙の釋に、「わが身无際よりこのかた、他とともに同時に願をおこして惡を斷じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命をおしまず。道を行じくらゐにすゝみて、因まどかに果熟す。聖を證せるもの大地微塵にこえたり。しかるにわれら凡夫、乃至今日まで、虛然として流浪す」(散善義)といへるはこのこゝろなり。しかれば、佛道修行は、よくよく機と敎との分限をはかりてこれを行ずべきなり。すべからく末法相應の易行に歸して、決定往生ののぞみをとぐべしとなり。 そもそも、この念佛はたもちやすきばかりにて功德は餘行よりも劣ならば、おなじくつとめながらもそのいさみなかるべきに、行じやすくして功德は諸行にすⅣ-0563ぐれ、修しやすくして勝利は餘善にすぐれたり。彌陀は諸佛の本師、念佛は諸敎の肝心なるがゆへなり。これによりて、『大經』には一念をもて大利无上の功德ととき、『小經』には念佛をもて多善根福德の因縁とするむねをとき、『觀經』には念佛の行者をほめて人中の分陀利華にたとへ、『般舟經』には三世の諸佛みな彌陀三昧によりて正覺をなるととけり。このゆへに、善導和尙の釋にいはく、「自餘衆善雖名是善、若比念佛者全非比校也」(定善義)といへり。こゝろは、自餘のもろもろの善も、これ善となづくといへども、もし念佛にたくらぶれば、またくならべたくらぶべきにあらずとなり。またいはく、「念佛三昧功能超絶、實非雜善得爲比類」(散善義)といへり。こゝろは、念佛三昧の功能、餘善にこえすぐれて、まことに雜善をもてたぐひとすることをうるにあらずとなり。たゞ淨土の一宗のみ念佛の行をたうとむにあらず。他宗の高祖またおほく彌陀をほめたり。天台大師の釋にいはく、「若唱彌陀、卽是唱十方佛、功德正等、但專以彌陀、爲法門主」(止觀*卷二上)といへり。こゝろは、もし彌陀をとなふれば、すなはちこれ十方の佛をとなふると功德まさにひとし。たゞもはら彌陀をもて法門のあるじとすとなり。また慈恩大師の釋にいはく、「諸佛願行、成此果名、但能念號、具包衆德」(西方*要決)Ⅳ-0564といへり。こゝろは、諸佛の願行、この果の名を成ず。たゞよくみなを念ずれば、つぶさにもろもろの德をかぬとなり。おほよそ諸宗の人師、念佛をほめ西方をすゝむること、あげてかぞふべからず。しげきがゆへにこれを略す。ゆめゆめ念佛の功德をおとしめおもふことなかれ。しかるにひとつねにおもへらく、つたなきものゝ行ずる法なれば念佛の功德はおとるべし、たうときひとの修する敎なれば諸敎はまさるべしとおもへり。その義しからず。下根のものゝすくはるべき法なるがゆへに、ことに最上の法とはしらるゝなり。ゆへいかんとなれば、くすりをもてやまひを治するに、かろきやまひをばかろきくすりをもてつくろひ、おもきやまひをばおもきくすりをもていやす。やまひをしりてくすりをほどこす、これを良醫となづく。如來はすなはち良醫のごとし。機をかゞみて法をあたへたまふ。しかるに上根の機には諸行をさづけ、下根の機には念佛をすゝむ。これすなはち、戒行もまたく、智慧もあらんひとは、たとへばやまひあさきひとのごとし。かゝらんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。智慧もなく惡業ふかき末世の凡夫は、たとへばやまひおもきものゝごとし。これをば彌陀の名號のちからにあらずしてはすくふべきにあらず。かるがゆへに罪惡の衆生のたⅣ-0565すかる法ときくに、法のちからのすぐれたるほどは、ことにしらるゝなり。されば『選擇集』のなかに、「極惡最下のひとのために、しかも極善最上の法をとく。例せば、かの无明淵源のやまひは中道府藏のくすりにあらざればすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念佛は靈藥の府藏なり。このくすりにあらずは、なんぞこのやまひを治せん」といへるは、このこゝろなり。そもそも、彌陀如來の利益のことにすぐれたまへることは、煩惱具足の凡夫の界外の報土にむまるゝがゆへなり。善導和尙の釋にいはく、「一切佛土皆嚴淨、凡夫亂想恐難生、如來別指西方國、從是超過十萬億」(法事讚*卷下)といへり。こゝろは、一切の佛土はみないつくしくきよけれども、凡夫の亂想おそらくはむまれがたし。如來別して西方國をさしたまふ。これより十萬億をこえすぎたりとなり。ことに阿閦・寶生の淨土もたえにしてすぐれたり。密嚴・花藏の寶刹もきよくしてめでたけれども、亂想の凡夫はかげをもさゝず、具縛のわれらはのぞみをたてり。しかるに阿彌陀如來の本願は、十惡も五逆もみな攝して、きらはるゝものもなく、すてらるゝものもなし。安養の淨土は謗法も闡提もおなじくむまれて、もるゝひともなく、のこるひともなし。諸佛の淨土にきらはⅣ-0566れたる五障の女人は、かたじけなく聞名往生の益にあづかり、无間のほのほにまつはるべき五逆の罪人は、すでに滅罪得生の證をあらはす。されば超世の悲願ともなづけ、不共の利生とも號す。かゝる殊勝の法なるがゆへに、これを行ずれば諸佛・菩薩の擁護にあづかり、これを修すれば諸天・善神の加護をかうぶる。たゞねがふべきは西方の淨土、行ずべきは念佛の一行なり。 持名鈔[本] Ⅳ-0567持名鈔[末] 問ていはく、念佛の行者、神明につかふまつらんこと、いかゞはんべるべき。 こたへていはく、餘流の所談はしらず、親鸞聖人の勸化のごときは、これをいましめられたり。いはゆる『敎行證の文類』の六に諸經の文をひきて、佛法に歸せんものは、その餘の天神・地祇につかふまつるべからざるむねを判ぜられたり。この義のごときは念佛の行者にかぎらず、總じて佛法を行じ佛弟子につらならんともがらは、これにつかふべからずとみえたり。しかれども、ひとみなしからず、さだめて存ずるところある歟。それを是非するにはあらず。聖人の一流におきては、もともその所判をまもるべきものをや。おほよそ神明につきて權社・實社の不同ありといへども、内證はしらず、まづ示同のおもてはみなこれ輪廻の果報、なをまた九十五種の外道のうちなり。佛道を行ぜんもの、これをことゝすべからず。たゞしこれにつかへずとも、もはらかの神慮にはかなふべきなり。これすなはち和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のおはりなるゆへに、垂Ⅳ-0568迹の本意は、しかしながら衆生に縁をむすびてつゐに佛道にいらしめんがためなれば、眞實念佛の行者になりてこのたび生死をはなれば、神明ことによろこびをいだき、權現さだめてゑみをふくみたまふべし。一切の神祇・冥道、念佛のひとを擁護すといへるはこのゆへなり。 問ていはく、念佛の行者は、諸佛・菩薩の擁護にもあづかり、諸天・善神の加護をもかうぶるべしといふは、淨土に往生せしめんがためにたゞ信心を守護したまふ歟、また今生の穢體をもまもりてもろもろの所願をも成就せしめたまふ歟。あきらかにこれをきかんとおもふ。 こたへていはく、かの佛の心光、このひとを攝護してすてずともいひ、六方の諸佛、信心を護念すとも釋すれば、信心をまもりたまふことは佛の本意なればまふすにおよばず。しかれども、まことの信心をうるひとは、現世にもその益にあづかるなり。いはゆる善導和尙の『觀念法門』に、『觀佛三昧經』・『十往生經』・『淨土三昧經』・『般舟三昧經』等の諸經をひきて、一心に彌陀に歸して往生をねがふものには、諸佛・菩薩かげのごとくにしたがひ、諸天・善神晝夜に守護して、一切の災障をのづからのぞこり、もろもろのねがひかならずみつⅣ-0569べき義を釋したまへり。されば阿彌陀佛は、現世・後生の利益ともにすぐれたまへるを、淨土の三部經には後生の利益ばかりをとけり、餘經にはおほく現世の益をもあかせり。かの『金光明經』は鎭護國家の妙典なり。かるがゆへに、この『經』よりときいだすところの佛・菩薩をば、護國の佛・菩薩とす。しかるに正宗の四品のうち、「壽量品」をときたまへるは、すなはち西方の阿彌陀如來なり。これによりて阿彌陀佛をば、ことに息災延命、護國の佛とす。かの天竺に毗舍離國といふくにあり。そのくにゝ五種の疫癘おこりて、ひとごとにのがるゝものなかりしに、月蓋長者、釋迦如來にまひりて、いかにしてかこのやまひをまぬかるべきとまふししかば、西方極樂世界の阿彌陀佛を念じたてまつれとおほせられけり。さていえにかへりて、おしへのごとく念じたてまつりければ、彌陀・觀音・勢至の三尊、長者のいえにきたりたまひしとき、五種の疫神まのあたりひとの目にみえて、すなはち國土をいでぬ。ときにあたりて、くにのうちのやまひことごとくすみやかにやみにき。そのとき現じたまへりし三尊の形像を、月蓋長者、閻浮檀金をもて鑄うつしたてまつりけり。その像といふは、いまの善光寺の如來これなり。靈驗まことに嚴重なり。またわが朝には、嵯峨の天皇の御Ⅳ-0570とき、天下に日てり、あめくだり、やまひおこり、いくさいできて國土おだやかならざりしに、いづれの行のちからにてかこの難はとゞまるべきと、傳敎大師に敕問ありしかば、七難消滅の法には南无阿彌陀佛にしかずとぞまふされける。おほよそ彌陀の利生にて、わざはひをはらひ難をのぞきたるためし、異國にも本朝にもそのあとこれおほし。つぶさにしるすにいとまあらず。さればくにの災難をしづめ、身の不祥をはらはんとおもはんにも、名號の功用にはしかざるなり。たゞし、これはたゞ念佛の利益の現當をかねたることをあらはすなり。しかりといへども、まめやかに淨土をもとめ往生をねがはんひとは、この念佛をもて現世のいのりとはおもふべからず。たゞひとすぢに出離生死のために念佛を行ずれば、はからざるに今生の祈禱ともなるなり。これによりて『藁幹喩經』(蘇婆呼請問經*卷上除障分品意)といへる經のなかに、信心をもて菩提をもとむれば現世の悉地も成就すべきことをいふとして、ひとつのたとへをとけることあり。「たとへばひとありて、たねをまきていねをもとめん。またくわらをのぞまざれども、いねいできぬれば、わらおのづからうるがごとし」といへり。いねをうるものはかならずわらをうるがごとくに、後世をねがへば現世ののぞみもかなふなり。わらをうるものはいねをⅣ-0571えざるがごとくに、現世の福報をいのるものはかならずしも後生の善果をばえずとなり。經釋ののぶるところかくのごとし。たゞし、今生をまもりたまふことは、もとより佛の本意にあらず。かるがゆへに、前業もしつよくは、これを轉ぜぬこともおのづからあるべし。後生の善果をえしめんことは、もはら如來の本懷なり。かるがゆへに、无間に墮すべき業なりとも、それをばかならず轉ずべし。しかれば、たとひもし今生の利生はむなしきににたることありとも、ゆめゆめ往生の大益をばうたがふべからず。いはんや現世にもその利益むなしかるまじきことは聖敎の說なれば、あふいでこれを信ずべし。たゞふかく信心をいたして一向に念佛を行ずべきなり。 問ていはく、眞實の信心をえてかならず往生をうべしといふこと、いまだそのこゝろをえず。南无阿彌陀佛といふは、彌陀の本願なるがゆへに決定往生の業因ならば、これをくちにふれんもの、みな往生すべし、なんぞわづらはしく信心を具すべしといふや。また信心といふは、いかやうなるこゝろをいふぞや。 こたへていはく、南无阿彌陀佛といへる行體は往生の正業なり。しかれども、機に信ずると信ぜざるとの不同あるがゆへに、往生をうるとえざるとの差別あⅣ-0572り。かるがゆへに、『大經』には三信ととき、『觀經』には三心としめし、『小經』には一心とあかせり。これみな信心をあらはすことばなり。このゆへに、源空聖人は、「生死のいえにはうたがひをもて所止とし、涅槃のみやこには信をもて能入とす」(選擇集)と判じ、親巒聖人は、「よく一念喜愛の心をおこせば、煩惱を斷ぜずして涅槃をう」(行卷)と釋したまへり。他力の信心を成就して報土の往生をうべしといふこと、すでにあきらかなり。その信心といふは、うたがひなきをもて信とす。いはゆる佛語に隨順してこれをうたがはず、たゞ師敎をまもりてこれに違せざるなり。おほよそ无始よりこのかた生死にめぐりて六道四生をすみかとせしに、いまながき輪廻のきづなをきりて无爲の淨土に生ぜんこと、釋迦・彌陀二世尊の大悲によらずといふことなく、代々相承の祖師・先德・善知識の恩德にあらずといふことなし。そのゆへは、われらがありさまをおもふに、地獄・餓鬼・畜生の三惡をまぬかれんこと、道理としてはあるまじきことなり。十惡・三毒、身にまつはれて、とこしなへに輪廻生死の因をつみ、五塵・六欲こゝろにそみて、ほしいまゝに三有流轉の業をかさぬ。五篇・七聚の戒品ひとつとしてこれをたもつことなく、六度・四攝の功德ひとつとしてこゝろにもかけず。あさなⅣ-0573ゆふなにおこすところはみな妄念、とにもかくにもきざすところはことごとく惡業なり。かゝる罪障の凡夫にては、人中・天上の果報をえんこともなをかたかるべし。いかにいはんや出過三界の淨土にむまれんことは、おもひよらぬことなり。こゝに彌陀如來、无縁の慈悲にもよほされ、深重の弘願をおこして、ことに罪惡生死の凡夫をたすけ、ねんごろに稱名往生の易行をさづけたまへり。これを行じこれを信ずるものは、ながく六道生死の苦域をいでゝ、あまさへ无爲无漏の報土にむまれんことは、不可思議のさひはひなり。しかるに彌陀如來超世の本願をおこしたまふとも、釋迦如來これをときのべたまはずは、娑婆の衆生いかでか出離のみちをしらん。されば『法事讚』(卷下)の釋に、「不因釋迦佛開悟、彌陀名願何時聞」といへり。こゝろは、釋迦佛のおしへにあらずは、彌陀の名願いづれのときにかきかんとなり。たとひまた、釋尊西天にいでゝ三部の妙典をとき、五祖東漢にむまれて西方の往生をおしへたまふとも、源空・親巒これをひろめたまふことなく、次第相承の善知識これをさづけたまはずは、われらいかでか生死の根源をたゝん。まことに連劫累劫をふとも、その恩德をむくひがたきものなり。これによりて善導和尙の解釋をうかがふに、「身を粉にしほねⅣ-0574をくだきても、佛法の恩をば報ずべし」(觀念法*門意)とみえたり。これすなはち、佛法のためには身命をもすて財寶をもおしむべからざるこゝろなり。このゆへに『摩訶止觀』(卷一*上意)のなかには、「一日にみたび恆沙の身命をすつとも、なを一句のちからを報ずることあたはじ。いはんや兩肩に荷負して百千萬劫すとも、むしろ佛法の恩を報ぜんや」といへり。恆沙の身命をすてゝも、なを一句の法門をきけるむくひにはおよばず。まして順次往生の敎をうけて、このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命をすてんはものゝかずなるべきにあらず。身命なをおしむべからず。いはんや財寶をや。このゆへに斯笒王の私訶提佛につかへ、梵摩達が珍寶比丘につかへし飮食・衣服・臥具・醫藥の四事の供養をのべき。これみな念佛三昧の法をきかんがためなり。おほよそ佛法にあふことは、おぼろげの縁にてはかなはず、おろかなるこゝろざしにてはとげがたきことなり。大王の妙法をもとめし給仕を千載にいたし、常啼の般若をきゝし五百由旬の城にいたる。されば佛法を行ずるには、いえをもすて欲をもすてゝ修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき无上の佛法をきゝて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさひはひなり。まことにこれ、本Ⅳ-0575師知識の恩德にあらずといふことなし。ちからのたへんにしたがひて、いかでか報謝のこゝろざしをぬきいでざらんや。『長阿含經』(卷一一)のなかに、師長につかふまつるにいつゝのことあることをとけり。「一には給仕をいたし、二には禮敬供養す、三には尊重頂戴す、四には師、敎敕あれば敬順してたがふことなし、五には師にしたがひて法をきゝ、よくたもちてわすれず」といへり。しかれば、きくところの法をよくたもち、その命をすこしもそむかず、こゝろざしをぬきいでゝ給仕・供養をいたし、まことをはげまして尊重・禮敬すべきなり。これすなはち、木像ものいはざればみづから佛敎をのべず、經典くちなければてづから法門をとくことなし。このゆへに佛法をさづくる師範をもて、滅後の如來とたのむべきがゆへなり。しかのみならず善導和尙は「同行・善知識に親近せよ」(禮讚意)とすゝめ、慈恩大師は「同縁のともをうやまへ」(西方*要決)とのべられたり。そのゆへは、善知識にちかづきてはつねに佛法を聽聞し、同行にむつびては信心をみがくべしといふこゝろなり。わろからんことをばたがひにいさめ、ひがまんことをばもろともにたすけて、正路におもむかしめんがためなり。かるがゆへに、師のおしへをたもつはすなはち佛敎をたもつなり、師の恩を報ずるはすなはち佛恩をⅣ-0576報ずるなり。同行のことばをもちゐては、すなはち諸佛のみことを信ずるおもひをなすべし。他力の大信心をうるひとは、その内證、如來にひとしきいはれあるがゆへなり。 持名鈔[末] 康正第三之天自孟夏初比令漸寫訖是則爲自要也 釋蓮如W四十三歲R