Ⅳ-0483淨土眞要鈔[本] それ一向專修の念佛は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大經』(卷上意)のなかに彌陀如來の四十八願をとくなかに、第十八の願に念佛の信心をすゝめて諸行をとかず、「乃至十念の行者かならず往生をうべし」ととけるゆへなり。しかのみならず、おなじき『經』(大經*卷下)の三輩往生の文に、みな通じて「一向專念无量壽佛」とときて、一向にもはら无量壽佛を念ぜよといへり。「一向」といふはひとつにむかふといふ、たゞ念佛の一行にむかへとなり。「專念」といふはもはら念ぜよといふ、ひとへに彌陀一佛を念じたてまつるほかに二をならぶることなかれとなり。これによりて、唐土の高祖善導和尙は、正行と雜行とをたてゝ、雜行をすてゝ正行に歸すべきことはりをあかし、正業と助業とをわかちて、助業をさしをきて正業をもはらにすべき義を判ぜり。こゝにわが朝の善知識黑谷の源空聖人、かたじけなく如來のつかひとして末代片州の衆生を敎化したまふ。そののぶるところ釋尊の誠說にまかせ、そのひろむるところもはら高祖の解釋Ⅳ-0484をまもる。かの聖人のつくりたまへる『選擇集』にいはく、「速欲離生死、二種勝法中、且閣聖道門選入淨土門。欲入淨土門、正雜二行中、且抛諸雜行選應歸正行。欲修於正行、正助二業中、猶傍於助業選應專正定。正定之業者卽是稱佛名。稱名必得生。依佛本願故」といへり。この文のこゝろは、すみやかに生死をはなれんとおもはゞ、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門をさしをきてえらんで淨土門にいれ。淨土門にいらんとおもはゞ、正雜二行のなかに、しばらくもろもろの雜行をなげすてゝえらんで正行に歸すべし。正行を修せんとおもはゞ、正助二業のなかに、なを助業をかたはらにしてえらんで正定をもはらにすべし。正定の業といふはすなはちこれ佛名を稱するなり。みなを稱すればかならずむまるゝことをう。佛の本願によるがゆへにとなり。すでに南无阿彌陀佛をもて正定の業となづく。「正定の業」といふは、まさしくさだまるたねといふこゝろなり。これすなはち往生のまさしくさだまるたねは念佛の一行なりとなり。自餘の一切の行は往生のためにさだまれるたねにあらずときこへたり。しかれば、決定往生のこゝろざしあらんひとは、念佛の一行をもはらにして、專修專念・一向一心なるべきこと、祖師の解釋はなはだあきらⅣ-0485かなるものをや。しかるにこのごろ淨土の一宗にをいて、面々に義をたて行を論ずるいへいへ、みなかの黑谷のながれにあらずといふことなし。しかれども、解行みなおなじからず。をのをの眞假をあらそひ、たがひに邪正を論ず。まことに是非をわきまへがたしといへども、つらつらその正意をうかゞふに、もろもろの雜行をゆるし諸行の往生を談ずる義、とをくは善導和尙の解釋にそむき、ちかくは源空聖人の本意にかなひがたきものをや。しかるにわが親鸞聖人の一義は、凡夫のまめやかに生死をはなるべきをしへ、衆生のすみやかに往生をとぐべきすゝめなり。そのゆへは、ひとへにもろもろの雜行をなげすてゝ、もはら一向專修の一行をつとむるゆへなり。これすなはち餘の一切の行はみなとりどりにめでたけれども、彌陀の本願にあらず、釋尊付屬の敎にあらず、諸佛證誠の法にあらず。念佛の一行はこれ彌陀選擇の本願なり、釋尊付屬の行なり、諸佛證誠の法なればなり。釋迦・彌陀をよび十方の諸佛の御こゝろにしたがひて念佛を信ぜんひと、かならず往生の大益をうべしといふこと、うたがひあるべからず。かくのごとく一向に行じ、一心に修すること、わが流のごとくなるはなし。さればこの流に歸して修行せんひと、ことごとく決定往生の行者なるⅣ-0486べし。しかるにわれらさひはひにそのながれをくみて、もはらかのをしへをまもる。宿因のもよほすところ、よろこぶべし、たうとむべし。まことに恆沙の身命をすてゝも、かの恩德を報ずべきものなり。釋尊・善導この法をときあらはしたまふとも、源空・親鸞出世したまはずは、われらいかでか淨土をねがはん。たとひまた源空・親鸞世にいでたまふとも、次第相承の善知識ましまさずは、眞實の信心をつたへがたし。善導和尙の『般舟讚』にいはく、「若非本師知識勸、彌陀淨土云何入」といへり。文のこゝろは、もし本師知識のすゝめにあらずは、彌陀の淨土いかんしてかいらんとなり。知識のすゝめなくしては、淨土にむまるべからずとみえたり。また法照禪師の『五會法事讚』にいはく、「曠劫已來流浪久、隨縁六道受輪廻、不遇往生善知識、誰能相勸得廻歸」といへり。この文のこゝろは、曠劫よりこのかた流浪せしことひさし、六道生死にめぐりてさまざまの輪廻のくるしみをうけき。往生の善知識にあはずは、たれかよくあひすゝめて彌陀の淨土にむまるゝことをえんとなり。しかれば、かつは佛恩を報ぜんがため、かつは師德を謝せんがために、この法を十方にひろめて、一切衆生をして西方の一土にすゝめいれしむべきなり。『往生禮讚』にいはく、「自信敎人信、難中轉更Ⅳ-0487難、大悲傳普化、眞成報佛恩」といへり。こゝろは、みづからもこの法を信じ、ひとをしても信ぜしむること、かたきがなかにうたゝさらにかたし。彌陀の大悲をつたへてあまねく衆生を化する、これまことに佛恩を報ずるつとめなりといふなり。 問ていはく、諸流の異義まちまちなるなかに、往生の一道にをいて、あるひは平生業成の義を談じ、あるひは臨終往生ののぞみをかけ、あるひは來迎の義を執し、あるひは不來迎のむねを成ず。いまわが流に談ずるところ、これらの義のなかにはいづれの義ぞや。 こたへていはく、親鸞聖人の一流にをいては、平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、不來迎の談にして來迎の義を執せず。たゞし平生業成といふは、平生に佛法にあふ機にとりてのことなり。もし臨終に法にあはゞ、その機は臨終に往生すべし、平生をいはず、臨終をいはず、たゞ信心をうるとき往生すなはちさだまるとなり。これを卽得往生といふ。これによりて、わが聖人のあつめたまへる『敎行證の文類』の第二(行卷)、「正信偈」の文にいはく、「能發一念喜愛心、不斷煩惱得涅槃、凡聖逆謗齊廻入、如衆水入海一味」といへり。この文のこゝろは、よく一念歡喜の信心をおこせば、煩惱を斷ぜざる具縛の凡夫Ⅳ-0488ながらすなはち涅槃の分をう。凡夫も聖人も五逆も謗法もひとしくむまる。たとへばもろもろのみづのうみにいりぬれば、ひとつうしほのあぢはひとなるがごとく、善惡さらにへだてなしといふこゝろなり。たゞ一念の信心さだまるとき、竪に貪・瞋・癡・慢の煩惱を斷ぜずといへども、橫に三界六道輪廻の果報をとづる義あり。しかりといへども、いまだ凡身をすてず、なを果縛の穢體なるほどは、攝取の光明のわが身をてらしたまふをもしらず、化佛・菩薩のまなこのまへにましますをもみたてまつらず。しかるに一期のいのちすでにつきて、いきたへ、まなことづるとき、かねて證得しつる往生のことはりこゝにあらはれて、佛・菩薩の相好をも拜し、淨土の莊嚴をもみるなり。これさらに臨終のときはじめてうる往生にはあらず。されば至心信樂の信心をえながら、なを往生をほかにをきて、臨終のときはじめてえんとはおもふべからず。したがひて信心開發のとき、攝取の光益のなかにありて往生を證得しつるうへには、いのちをはるとき、たゞそのさとりのあらはるゝばかりなり。ことあたらしくはじめて聖衆の來迎にあづからんことを期すべからずとなり。さればおなじきつぎしもの解釋にいはく、「攝取心光常照護、已能雖破无明闇、貪愛嗔憎之雲霧、常覆眞實信心天、Ⅳ-0489譬如日光覆雲霧、雲霧之下明无闇」(行卷)といへり。この文のこゝろは、阿彌陀如來の攝取の心光はつねに行者をてらしまもりて、すでによく无明のやみを破すといへども、貪欲・瞋恚等の惡業、くも・きりのごとくして眞實信心の天をおほへり。たとへば日のひかりのくも・きりにおほはれたれども、そのしたはあきらかにしてくらきことなきがごとしとなり。されば信心をうるとき攝取の益にあづかる。攝取の益にあづかるがゆへに正定聚に住す。しかれば、三毒の煩惱はしばしばおこれども、まことの信心はかれにもさへられず。顚倒の妄念はつねにたへざれども、さらに未來の惡報をばまねかず。かるがゆへに、もしは平生、もしは臨終、たゞ信心のおこるとき往生はさだまるぞとなり。これを正定聚に住すともいひ不退のくらゐにいるともなづくるなり。このゆへに聖人またのたまはく、「來迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆへに。臨終まつことゝ來迎たのむことは、諸行往生のひとにいふべし。眞實信心の行人は、攝取不捨のゆへに、正定聚に住す。正定聚に住するがゆへにかならず滅度にいたる。滅度にいたるがゆへに大涅槃を證するなり。かるがゆへに臨終まつことなし、來迎たのむことなし」(古寫消*息四意)といへり。これらの釋にまかせば、眞實信心のひと、一向專念のともがら、臨終をまつⅣ-0490べからず、來迎を期すべからずといふこと、そのむねあきらかなるものなり。 問ていはく、聖人の料簡はまことにたくみなり。あふいで信ず。たゞし經文にかへりて理をうかゞふとき、いづれの文によりてか來迎を期せず臨終をまつまじき義をこゝろうべきや。たしかなる文義をきゝて、いよいよ堅固の信心をとらんとおもふ。 こたへていはく、凡夫、智あさし。いまだ經釋のおもむきをわきまへず。聖敎萬差なれば、方便の說あり、眞實の說あり。機に對すれば、いづれもその益あり。一偏に義をとりがたし。たゞ祖師のをしへをきゝて、わが信心をたくはふるばかりなり。しかるに世のなかにひろまれる諸流、みな臨終をいのり來迎を期す。これを期せざるは、ひとりわがいへなり。しかるあひだ、これをきくものはほとほとみゝをおどろかし、これをそねむものははなはだあざけりをなす。しかれば、たやすくこの義を談ずべからず。他人謗法のつみをまねかざらんがためなり。それ親鸞聖人は、深智博覽にして内典・外典にわたり、惠解高遠にして聖道・淨土をかねたり。ことに淨土門にいりたまひしのちは、もはら一宗のふかきみなもとをきはめ、あくまで明師のねんごろなるをしへをうけたまへり。あるひはそのゆるされをかうぶりて製作をあひつたへ、あるひはかのあはれみにあづかりて眞Ⅳ-0491影をうつしたまはらしむ。としをわたり日をわたりて、そのをしへをうくるひと千萬なりといへども、したしきといひ、うときといひ、製作をたまはり眞影をうつすひとはそのかずおほからず。したがひて、この門流のひろまれること自宗・他宗にならびなく、その利益のさかりなること田舍・邊鄙にをよべり。化導のとをくあまねきは、智惠のひろきがいたすところなり。しかれば、相承の義さだめて佛意にそむくべからず。ながれをくむやから、たゞあふいで信をとるべし。无智の末學なまじゐに經釋について義を論ぜば、そのあやまりをのがれがたきか。よくよくつゝしむべし。たゞし、一分なりとも信受するところの義、一味同行のなかにをいてこれをはゞかるべきにあらず。いまこゝろみに料簡するに、まづ淨土の一門をたつることは「三部妙典」の說にいでたり。そのなかに彌陀如來、因位の本願をときて凡夫の往生を決すること、『大經』の說これなり。その說といふは四十八願なり。四十八願のなかに、念佛往生の一益をとくことは第十八の願にあり。しかるに第十八の願のなかに、臨終・平生の沙汰なし、聖衆來現の儀をあかさず。かるがゆへに、十八の願に歸して念佛を修し往生をねがふとき、臨終をまたず來迎を期すべからずとなり。すなはち第十八の願にいはく、「設我Ⅳ-0492得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念。若不生者、不取正覺」(大經*卷上)といへり。この願のこゝろは、たとひわれ佛をえたらんに、十方の衆生、心をいたし信樂して、わがくにゝむまれんとおもふて、乃至十念せん。もしむまれずは、正覺をとらじとなり。この願文のなかに、またく臨終ととかず平生といはず、たゞ至心信樂の機にをいて十念の往生をあかせり。しかれば、臨終に信樂せば臨終に往生治定すべし。平生に至心せば平生に往生決得すべし。さらに平生と臨終とによるべからず、たゞ佛法にあふ時節の分齊にあるべし。しかるにわれらはすでに平生に聞名欲往生の義あり。こゝにしりぬ、臨終の機にあらず平生の機なりといふことを。かるがゆへに、ふたゝび臨終にこゝろをかくべからずとなり。しかのみならず、おなじき第十八の願成就の文にいはく、「諸有衆生、聞其名號信心歡喜、乃至一念。至心廻向。願生彼國、卽得往生、住不退轉」(大經*卷下)といへり。この文のこゝろは、あらゆる衆生、その名號をきゝて信心歡喜し、乃至一念せん。至心に廻向したまへり。かのくにゝむまれんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退轉に住すとなり。こゝろは、一切の衆生、无㝵光如來のみなをきゝえて、生死出離の強縁ひとへに念佛往生の一道にあるべしと、よろこⅣ-0493びおもふこゝろの一念おこるとき往生はさだまるなり。これすなはち彌陀如來、因位のむかし、至心に廻向したまへりしゆへなりとなり。この一念につゐて隱顯の義あり。顯には、十念に對するとき一念といふは稱名の一念なり。隱には、眞因を決了する安心の一念なり。これすなはち相好・光明等の功德を觀想する念にあらず、たゞかの如來の名號をきゝえて、機敎の分限をおもひさだむるくらゐをさすなり。されば親鸞聖人はこの一念を釋すとして、「一念といふは信心を獲得する時節の極促をあらはす」(信卷意)と判じたまへり。しかればすなはち、いまいふところの往生といふは、あながちに命終のときにあらず。无始已來、輪轉六道の妄業、一念南无阿彌陀佛と歸命する佛智无生の名願力にほろぼされて、涅槃畢竟の眞因はじめてきざすところをさすなり。すなはちこれを「卽得往生住不退轉」とときあらはさるゝなり。「卽得」といふは、すなはちうとなり。すなはちうといふは、ときをへだてず日をへだてず念をへだてざる義なり。されば一念歸命の解了たつとき、往生やがてさだまるとなり。うるといふはさだまるこゝろなり。この一念歸命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如來淸淨本願の智心なり。しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもて、一處にⅣ-0494は如來の願力にたとへ、一處には行者の信心にたとへたり。如來の願力にたとふといふは、「念々无遺乘彼願力之道」(散善義)といへるこれなり。こゝろは、貪瞋の煩惱にかゝはらず、彌陀如來の願力の白道に乘ぜよとなり。行者の信心にたとふといふは、「衆生貪瞋煩惱中能生淸淨願往生心」(散善義)といへるこれなり。こゝろは、貪瞋煩惱のなかによく淸淨願往生の心を生ずとなり。されば、水火の二河は衆生の貪瞋なり。これ不淸淨の心なり。中間の白道は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如來の願力の道と釋せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如來の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、淸淨の心といへるも如來の智心なりとあらはすこゝろなり。もし凡夫我執の心ならば淸淨の心とは釋すべからず。このゆへに『經』(大經*卷上)には、「令諸衆生功德成就」といへり。こゝろは、彌陀如來、因位のむかし、もろもろの衆生をして功德成就せしめたまふとなり。それ阿彌陀如來は三世の諸佛に念ぜられたまふ覺體なれば、久遠實成の古佛なれども、十劫已來の成道をとなへたまひしは果後の方便なり。これすなはち「衆生往生すべくはわれも正覺をとらん」(大經*卷上意)とちかひて、衆生の往生を決定せんがためなり。しかるに衆生Ⅳ-0495の往生さだまりしかば、佛の正覺もなりたまひき。その正覺いまだなりたまはざりしいにしへ、法藏比丘として難行苦行・積功累德したまひしとき、未來の衆生の淨土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことはりをきゝて、一念解了の心おこれば、佛心と凡心とまたくひとつになるなり。このくらゐに无㝵光如來の光明、かの歸命の信心を攝取してすてたまはざるなり。これを『觀无量壽經』には「光明遍照十方世界念佛衆生攝取不捨」ととき、『阿彌陀經』には「皆得不退轉於阿耨多羅三藐三菩提」ととけるなり。「攝取不捨」といふは、彌陀如來の光明のなかに念佛の衆生をおさめとりてすてたまはずとなり。これすなはちかならず淨土に生ずべきことはりなり。「不退轉をう」といふは、ながく三界六道にかへらずして、かならず无上菩提をうべきくらゐにさだまるなり。 淨土眞要鈔[本] 本願寺住持存如(花押) 大谷本願寺上人之御流之聖敎也 Ⅳ-0496淨土眞要鈔[末] 問ていはく、念佛の行者、一念の信心さだまるとき、あるひは正定聚に住すといひ、あるひは不退轉をうといふこと、はなはだおもひがたし。そのゆへは、正定聚といふは、かならず无上の佛果にいたるべきくらゐにさだまるなり。不退轉といふは、ながく生死にかへらざる義をあらはすことばなり。そのことばことなりといへども、そのこゝろおなじかるべし。これみな淨土にむまれてうるくらゐなり。しかれば、「卽得往生住不退轉」(大經*卷下)といへるも、淨土にしてうべき益なりとみえたり。いかでか穢土にしてたやすくこのくらゐに住すといふべきや。 こたへていはく、土につき機につきて退不退を論ぜんときは、まことに穢土の凡夫、不退にかなふといふことあるべからず。淨土は不退なり、穢土は有退なり。菩薩のくらゐにをいて不退を論ず、凡夫はみな退位なり。しかるに薄地底下の凡夫なれども、彌陀の名號をたもちて金剛の信心をおこせば、よこさまに三界流轉の報をはなるゝゆへに、その義、不退をうるにあたれるなり。これすなはち菩Ⅳ-0497薩のくらゐにをいて論ずるところの位行念の三不退等にはあらず。いまいふところの不退といふは、これ心不退なり。されば善導和尙の『往生禮讚』には、「蒙光觸者心不退」と釋せり。こゝろは、彌陀如來の攝取の光益にあづかりぬれば、心不退をうとなり。まさしくかの『阿彌陀經』の文には、「欲生阿彌陀佛國者、是諸人等、皆得不退轉於阿耨多羅三藐三菩提」といへり。願をおこして阿彌陀佛のくにゝむまれんとおもへば、このもろもろのひとら、みな不退轉をうといへる、現生にをいて願生の信心をおこせば、すなはち不退にかなふといふこと、その文はなはだあきらかなり。またおなじき『經』(小經)のつぎかみの文に、念佛の行者のうるところの益をとくとして、「是諸善男子・善女人、皆爲一切諸佛共所護念、皆得不退轉於阿耨多羅三藐三菩提」といへり。こゝろは、このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸佛のためにともに護念せられて、みな不退轉を阿耨多羅三藐三菩提にうとなり。しかれば、阿彌陀佛のくにゝむまれんとおもふまことなる信心のおこるとき、彌陀如來は遍照の光明をもてこれをおさめとり、諸佛はこゝろをひとつにしてこの信心を護念したまふがゆへに、一切の惡業煩惱にさへられず、この心すなはち不退にしてかならず往生をうるなり。これを「卽得Ⅳ-0498往生住不退轉」(大經*卷下)ととくなり。「すなはち往生をう」といへるは、やがて往生をうといふなり。たゞし、「卽得往生住不退轉」といへる、淨土に往生して不退をうべき義を遮せんとにはあらず。まさしく往生ののち三不退をもえ、處不退にもかなはんことはしかなり。處々の經釋、そのこゝろなきにあらず、與奪のこゝろあるべきなり。しかりといへども、いま「卽得往生住不退轉」といへる本意には、證得往生現生不退の密益をときあらはすなり。これをもてわが流の極致とするなり。かるがゆへに聖人『敎行證の文類』のなかに、處々にこの義をのべたまへり。かの『文類』の第二(行卷)にいはく、「憶念彌陀佛本願、自然卽時入必定、唯能常稱如來號、應報大悲弘誓恩」といへり。こゝろは、彌陀佛の本願を憶念すれば、自然にすなはちのとき必定にいる。たゞよくつねに如來のみなを稱して、大悲弘誓の恩を報ずべしとなり。「すなはちのとき」といふは、信心をうるときをさすなり。「必定にいる」といふは、正定聚に住し不退にかなふといふこゝろなり。この凡夫のみながら、かゝるめでたき益をうることは、しかしながら彌陀如來の大悲願力のゆへなれば、つねにその名號をとなへてかの恩德を報ずべしとすゝめたまへり。またいはく、「十方群生海、この行信に歸命するⅣ-0499ものを攝取してすてず。かるがゆへに阿彌陀佛となづけたてまつる。これを他力といふ。こゝをもて龍樹大士は卽時入必定といひ、曇鸞大師は入正定之聚といへり。あふいでこれをたのむべし。もはらこれを行ずべし」(行卷)といへり。「龍樹大士は卽時入必定といふ」といふは、『十住毗婆沙論』(卷五*易行品)に「人能念是佛、无量力功德、卽時入必定、是故我常念」といへる文これなり。この文のこゝろは、ひとよくこの佛の无量力功德を念ずれば、すなはちのとき必定にいる。このゆへに、われつねに念ずとなり。「この佛」といへるは阿彌陀佛なり。「われ」といへるは龍樹菩薩なり。さきにいだすところの「憶念彌陀佛本願力」の釋も、これ龍樹の論判によりてのべたまへるなり。「曇鸞大師は入正定之聚といへり」といふは、『註論』の上卷に「但以信佛因縁願生淨土、乘佛願力、便得往生彼淸淨土。佛力住持、卽入大乘正定之聚」といへる文これなり。文のこゝろは、たゞ佛を信ずる因縁をもて淨土にむまれんとねがへば、佛の願力に乘じて、すなはちかの淸淨の土に往生することをう。佛力住持してすなはち大乘正定の聚にいるとなり。これも文の顯說は、淨土にむまれてのち正定聚に住する義をとくににたりといへども、そこには願生の信を生ずるとき不退にかなふことをあらⅣ-0500はすなり。なにをもてかしるとならば、この『註論』の釋は、かの『十住毗婆沙論』のこゝろをもて釋するがゆへに、本論のこゝろ現身の益なりとみゆるうへは、いまの釋もかれにたがふべからず。聖人ふかくこのこゝろをえたまひて、信心をうるとき正定のくらゐに住する義をひき釋したまへり。「すなはち」といへるは、ときをうつさず、念をへだてざる義なり。またおなじき第三(信卷)に、領解の心中をのべたまふとして、「愛欲の廣海に沈沒し、名利の太山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、眞證の證にちかづくことをたのしまず」といへり。これすなはち定聚のかずにいることをば現生の益なりとえて、これをよろこばずと、わがこゝろをはぢしめ、眞證のさとりをば生後の果なりとえて、これにちかづくことをたのしまずと、かなしみたまふなり。「定聚」といへるはすなはち不退のくらゐ、また必定の義なり。「眞證のさとり」といへるはこれ滅度なり。また常樂ともいふ、法性ともいふなり。またおなじき第四(證卷意)に、第十一の願によりて眞實の證をあらはすに、「煩惱成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相廻向の心行をうれば、すなはちのときに大乘正定聚のかずにいる。正定聚に住するがゆへにかならず滅度にいたる。かならず滅度にいたるはすなはちこれ常Ⅳ-0501樂なり。常樂はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ无上涅槃なり。无上涅槃はすなはちこれ无爲法身なり。无爲法身はすなはちこれ實相なり。實相はすなはちこれ眞如なり。眞如はすなはちこれ一如なり」といへる、すなはちこのこゝろなり。聖人の解了、常途の所談におなじからず。甚深の敎義、よくこれをおもふべし。 問ていはく、『觀經』の下輩の機をいふに、みな臨終の一念・十念によりて往生をうとみえたり。またく平生往生の義をとかず、いかん。 こたへていはく、『觀經』の下輩は、みなこれ一生造惡の機なるがゆへに、むまれてよりこのかた佛法の名字をきかず、たゞ惡業をつくることをのみしれり。しかるに臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐといへり。これすなはちつみふかく惡をもき機、行業いたりてすくなけれども、願力の不思議によりて刹那に往生をとぐ。これあながちに臨終を賞せんとにはあらず、法の不思議をあらはすなり。もしそれ平生に佛法にあはゞ、平生の念佛、そのちからむなしからずして往生をとぐべきなり。 問ていはく、十八の願について、因位の願には「十念」(大經*卷上)と願じ、願成就の文Ⅳ-0502には「一念」(大經*卷下)ととけり。二文の相違いかんこゝろうべきや。 こたへていはく、因願のなかに「十念」といへるは、まづ三福等の諸善に對して、十念の往生をとけり。これ易行をあらはすことばなり。しかるに成就の文に「一念」といへるは、易行のなかになを易行をえらびとるこゝろなり。そのゆへは『觀經義』の第二(序分義)に、十三定善のほかに三福の諸善をとくことを釋すとして、「若依定行、卽攝生不盡、是以如來方便顯開三福、以應散動根機」といへり。文のこゝろは、もし定行によれば、すなはち生を攝するにつきず、こゝをもて如來、方便して三福を顯開して、散動の根機に應ずとなり。いふこゝろは、『觀經』のなかに定善ばかりをとかば、定機ばかりを攝すべきゆへに、散機の往生をすゝめんがために散善をとくとなり。これになずらへてこゝろうるに、散機のなかに二種のしなあり。ひとつには善人、ふたつには惡人なり。その善人は三福を行ずべし。惡人はこれを行ずべからざるがゆへに、それがために十念の往生をとくとこゝろえられたり。しかるにこの惡人のなかにまた長命・短命の二類あるべし。長命のためには十念をあたふ。至極短命の機のためには一念の利生を成就すとなり。これ他力のなかの他力、易行のなかの易行をあらはすなり。Ⅳ-0503一念の信心さだまるとき往生を證得せんこと、これその證なり。 問ていはく、因願には「十念」(大經*卷上)ととき、成就の文には「一念」(大經*卷下)ととくといへども、處々の解釋おほく十念をもて本とす。いはゆる『法事讚』(卷下)には「上盡一形至十念」といひ、『禮讚』には「稱我名號下至十聲」といへる釋等これなり。したがひて、よのつねの念佛の行者をみるに、みな十念をもて行要とせり。しかるに一念をもてなを易行のなかの易行なりといふことおぼつかなし、いかん。 こたへていはく、處々の解釋、「十念」と釋すること、あるひは因願のなかに「十念」(大經*卷上)とゝきたれば、その文によるとこゝろえぬれば相違なし。よのつねの行者のもちゐるところ、またこの義なるべし。「一念」といへるもまた經釋の明文なり。いはゆる經には『大經』(卷下)の成就の文、おなじき下輩の文、おなじき流通の文等これなり。成就の文はさきにいだすがごとし。下輩の文といふは、「乃至一念々於彼佛」といへる文これなり。流通の文といふは、「其有得聞彼佛名號、歡喜踊躍乃至一念。當知、此人爲得大利。卽是具足无上功德」といへる文これなり。この文のこゝろは、それかの佛の名號をきくことをえて、歡喜踊躍して乃至一念することあらん。まさにしるべし、このひとは大利をうとす。すなはⅣ-0504ちこれ无上の功德を具足するなりとなり。釋には、『禮讚』のなかに、あるひは「彌陀本弘誓願、及稱名號下至十聲一聲等、定得往生、乃至一念无有疑心」といひ、あるひは「歡喜至一念、皆當得生彼」といへる釋等これなり。おほよそ「乃至」のことばををけるゆへに、十念といへるも十念にかぎるべからず、一念といへるも一念にとゞまるべからず。一念のつもれるは十念、十念のつもれるは一形、一形をつゞむれば十念、十念をつゞむれば一念なれば、たゞこれ修行の長短なり。かならずしも十念にかぎるべからず。しかれば、『選擇集』に諸師と善導和尙と、第十八の願にをいて名をたてたることのかはりたる樣を釋するとき、このこゝろあきらかなり。そのことばにいはく、「諸師の別して十念往生の願といへるは、そのこゝろすなはちあまねからず。しかるゆへは、かみ一形をすて、しも一念をすつるがゆへなり。善導の總じて念佛往生の願といへる、そのこゝろすなはちあまねし。しかるゆへは、かみ一形をとり、しも一念をとるがゆへなり」となり。しかのみならず、『敎行證文類』の第二(行卷)に『安樂集』をひきていはく、「十念相續といふは、これ聖者のひとつのかずまくのみ。すなはちよく念をつみ、おもひをこらして他事を縁ぜざれば、業道成辨せしめてすなはちやⅣ-0505みぬ。またいたはしくこれを頭數をしるさじ」といへり。「十念」といへるは、臨終に佛法にあへる機についていへることばなり。されば經文のあらはなるについて、ひとおほくこれをもちゐる。これすなはち臨終をさきとするゆへとみえたり。平生に法をきゝて畢命を期とせんひと、あながちに十念をことゝすべからず。さればとて十念を非するにはあらず。たゞおほくもすくなくも、ちからのたへんにしたがひて行ずべし。かならずしもかずをさだむべきにあらずとなり。いはんや聖人の釋義のごとくは、一念といへるについて、行の一念と信の一念とをわけられたり。いはゆる行の一念をば眞實行のなかにあらはして、「行の一念といふは、いはく稱名の遍數について選擇易行の至極を顯開す」(行卷)といひ、信の一念をば眞實信のなかにあらはして、「信樂に一念あり。一念といふはこれ信樂開發の時剋の極促をあらはし、廣大難思の慶心をあらはす」(信卷)といへり。かみにいふところの十念・一念は、みな行について論ずるところなり。信心についていはんときは、たゞ一念開發の信心をはじめとして、一念の疑心をまじへず、念々相續してかの願力の道に乘ずるがゆへに、名號をもてまたくわが行體とさだむべからざれば、十念とも一念ともいふべからず、たゞ他力の不思議をあふぎ、Ⅳ-0506法爾往生の道理にまかすべきなり。 問ていはく、來迎は念佛の益なるべきこと、經釋ともに歷然なり。したがひて、諸流みなこの義を存ぜり。しかるに來迎をもて諸行の益とせんこと、すこぶる淨土宗の本意にあらざるをや。 こたへていはく、あにさきにいはずや、この義はこれわが一流の所談なりとは。他流の義をもて當流の義を難ずべからず。それ經釋の文にをいては自他ともに依用す。たゞ料簡のまちまちなるなり。まづ來迎をとくことは、第十九の願にあり。かの願文をあきらめてこゝろうべし。その願にいはく、「設我得佛、十方衆生、發菩提心、修諸功德、至心發願、欲生我國。臨壽終時、假令不與大衆圍遶現其人前者、不取正覺」(大經*卷上)といへり。この願のこゝろは、たとひわれ佛をえたらんに、十方の衆生、菩提心をおこし、もろもろの功德を修して、心をいたし願をおこして、わがくにゝむまれんとおもはん。いのちをはるときにのぞみて、たとひ大衆と圍遶してそのひとのまへに現ぜずは、正覺をとらじとなり。「修諸功德」といふは諸行なり。「現其人前」といふは來迎なり。諸行の修因にこたへて來迎にあづかるべしといふこと、その義あきらかなり。されば得生は十八のⅣ-0507願の益、來迎は十九の願の益なり。この兩願のこゝろをえなば、經文にも解釋にも來迎をあかせるは、みな十九の願の益なりとこゝろうべきなり。たゞし念佛の益に來迎あるべきやうにみえたる文證、ひとすぢにこれなきにはあらず。しかれども、聖敎にをいて、方便の說あり眞實の說あり、一往の義あり再往の義あり。念佛にをいて來迎あるべしとみえたるは、みな淺機を引せんがための一往方便の說なり。深理をあらはすときの再往眞實の義にあらずとこゝろうべし。當流の料簡かくのごとし。善導和尙の解釋にいはく、「道里雖遙、去時一念卽到」(序分義)といへり。こゝろは、淨土と穢土と、そのさかひはるかなるににたりといへども、まさしくさるときは、一念にすなはちいたるといふこゝろなり。往生の時分一念なれば、そのあひだにはさらに來迎の儀式もあるべからず。まどひをひるがへしてさとりをひらかんこと、たゞたなごゝろをかへすへだてなるべし。かくのごときの義、もろもろの有智のひと、そのこゝろをえつべし。 問ていはく、經文について、十八・十九の兩願をもて得生と來迎とにわかちあつる義、一流の所談ほゞきこえをはりぬ。たゞし解釋についてなを不審あり。諸師の釋はしばらくこれをさしをく。まづ善導一師の釋にをいて處々に來迎を釋せⅣ-0508られたり。これみな念佛の益なりとみえたり。いかゞこゝろうべきや。 こたへていはく、和尙の解釋に來迎を釋することはしかなり。たゞし一往は念佛の益ににたれども、これみな方便なり。實には諸行の益なるべし。そのゆへは、さきにのぶるがごとく念佛往生のみちをとくことは第十八の願なり。しかるに和尙、處々に十八の願をひき釋せらるゝに、またく來迎の義を釋せられず。十九の願にとくところの來迎、もし十八の願の念佛の益なるべきならば、もとも十八の願をひくところに來迎を釋せらるべし。しかるにその文なし。あきらかにしりぬ、來迎は念佛の益にあらずといふことを。よくよくこれをおもふべし。 問ていはく、第十八の願をひき釋せらるゝ處々の解釋といふは、いづれぞや。 こたへていはく、まづ『觀經義』の「玄義分」に二處あり。いはゆる序題門・二乘門の釋これなり。まづ序題門の釋には、「言弘願者如『大經』說。一切善惡凡夫得生者、莫不皆乘阿彌陀佛大願業力爲增上縁」といへり。こゝろは、弘願といふは『大經』にとくがごとし。一切善惡の凡夫、むまるゝことをうるものは、みな阿彌陀佛の大願業力に乘じて增上縁とせずといふことなしとなり。これ十八の願のこゝろなり。つぎに二乘門の釋には、「若我得佛、十方衆生、稱我名Ⅳ-0509號願生我國、下至十念、若不生者、不取正覺」(玄義分)といへり。また『往生禮讚』には、「若我成佛、十方衆生、稱我名號下至十聲、若不生者、不取正覺」といひ、『觀念法門』には、「若我成佛、十方衆生、願生我國、稱我名字、下至十聲、乘我願力、若不生者、不取正覺」といへり。これらの文、そのことばすこしき加減ありといへども、そのこゝろおほきにおなじ。文のこゝろは、もしわれ成佛せんに、十方の衆生、わがくにゝ生ぜんと願じて、わが名字を稱すること、しも十聲にいたらん、わが願力に乘じて、もしむまれずは、正覺をとらじとなり。あるひは「稱我名號」といひ、あるひは「乘我願力」といへる、これらのことばゝ本經になけれども、義としてあるべきがゆへに、和尙この句をくはへられたり。しかれば、來迎の益も、もしまことに念佛の益にしてこの願のなかにあるべきならば、もともこれらの引文のなかにこれをのせらるべし。しかるにその文なきがゆへに、來迎は念佛の益にあらずとしらるゝなり。處々の解釋にをいては、來迎を釋すといふとも、十八の願の益と釋せられずは、その義相違あるべからず。 問ていはく、念佛の行者は十八の願に歸して往生をえ、諸行の行人は十九の願Ⅳ-0510をたのみて來迎にあづかるといひて、各別にこゝろうることしかるべからず。そのゆへは、念佛の行者の往生をうといふは、往生よりさきには來迎にあづかるべし。諸行の行人の來迎にあづかるといふは、來迎ののちには往生をうべし。なんぞ各別にこゝろうべきや。 こたへていはく、親鸞聖人の御意をうかゞふに、念佛の行者の往生をうるといふは、化佛の來迎にあづからず。もしあづかるといふは、報佛の來迎なり。これ攝取不捨の益なり。諸行の行人の來迎にあづかるといふは、眞實の往生をとげず。もしとぐるといふも、これ胎生邊地の往生なり。念佛と諸行とひとつにあらざれば、往生と來迎とまたおなじかるべからず。しかれば、他力眞實の行人は、第十八の願の信心をえて、第十一の必至滅度の願の果をうるなり。これを念佛往生といふ。これ眞實報土の往生なり。この往生は一念歸命のとき、さだまりてかならず滅度にいたるべきくらゐをうるなり。このゆへに聖人の『淨土文類聚鈔』にいはく、「必至无上淨信曉、三有生死之雲晴、淸淨无㝵光耀朗、一如法界眞身顯」といへり。文のこゝろは、かならず无上淨信のあかつきにいたれば、三有生死のくもはる。淸淨无㝵の光耀ほがらかにして、一如法界の眞身あⅣ-0511らはるとなり。「三有生死のくもはる」といふは、三界流轉の業用よこさまにたえぬとなり。「一如法界の眞身あらはる」といふは、寂滅无爲の一理をひそかに證すとなり。しかれども煩惱におほはれ業縛にさへられて、いまだその理をあらはさず。しかるにこの一生をすつるとき、このことはりあらはるゝところをさして、和尙は、「この穢身をすてゝかの法性の常樂を證す」(玄義分)と釋したまへるなり。されば往生といへるも、生卽无生のゆへに、實には不生不滅の義なり。これすなはち彌陀如來淸淨本願の无生の生なるがゆへに、法性淸淨畢竟无生なり。さればとて、この无生の道理をこゝにして、あながちにさとらんとはげめとにはあらず。无智の凡夫は法性无生のことはりをしらずといへども、たゞ佛の名號をたもち往生をねがひて淨土にむまれぬれば、かの土はこれ无生のさかひなるがゆへに、見生のまどひ、自然に滅して无生のさとりにかなふなり。この義くはしくは曇巒和尙の『註論』にみえたり。しかれば、ひとたび安養にいたりぬれば、ながく生滅去來等のまどひをはなる。そのまどひをひるがへして、さとりをひらかん一念のきざみには、實には來迎もあるべからずとなり。來迎あるべしといへるは方便の說なり。このゆへに高祖善導和尙の解釋にも、「彌陀如Ⅳ-0512來は娑婆にきたりたまふ」とみえたるところもあり、また「淨土をうごきたまはず」とみえたる釋もあり。しかれども當流のこゝろにては、「きたる」といへるはみな方便なりとこゝろうべし。『法事讚』(卷下)にいはく、「一坐无移亦不動。徹窮後際放身光。靈儀相好眞金色。魏々獨坐度衆生」といへり。こゝろは、ひとたび坐してうつることなくまたうごきたまはず。後際を徹窮して身光をはなつ。靈儀の相好眞金色なり。魏々としてひとり坐して衆生を度したまふとなり。この文のごとくならば、ひとたび正覺をなりたまひしよりこのかた、まことの報身はうごきたまふことなし。たゞ淨土に坐してひかりを十方にはなちて攝取の益ををこしたまふとみえたり。おほよそしりぞいて他宗のこゝろをうかゞふにも、まことにきたると執するならば、大乘甚深の義にはかなひがたきをや。されば眞言の祖師善无畏三藏の解釋にも、彌陀の眞身の相を釋すとして、「理智不二名彌陀身、不從他方來迎引接」といへり。こゝろは、法身の理性と報身の智品と、このふたつきはまりてひとつなるところを彌陀佛となづく。他方より來迎引接せずとなり。眞實報身の體は來迎の義なしとみえたり。自力不眞實の行人は、第十九の願にちかひましますところの「修諸功德乃至現其人前」(大經*卷上)の文をたのみて、Ⅳ-0513のぞみを極樂にかく。しかれどももとより諸善は本願にあらず、淨土の生因にあらざるがゆへに、報土の往生をとげず。もしとぐるも、これ胎生邊地の往生なり。この機のためには臨終を期し來迎をたのむべしとみえたり。これみな方便なり。されば願文の「假令」(大經*卷上)の句は、現其人前も一定の益にあらざることをときあらはすことばなり。この機は聖衆の來迎にあづからず。臨終正念ならずしては邊地胎生の往生もなを不定なるべし。しかれば、本願にあらざる不定の邊地の往生を執せんよりは、佛の本願に順じて臨終を期せず來迎をたのまずとも、一念の信心さだまれば平生に決定往生の業を成就する念佛往生の願に歸して、如來の他力をたのみ、かならず眞實報土の往生をとぐべきなり。 問ていはく、諸行の往生をもて邊地の往生といふこと、いづれの文證によりてこゝろうべきぞや。 こたへていはく、『大經』(卷下意)のなかに胎生・化生の二種の往生をとくとき、「あきらかに佛智を信ずるものは化生し、佛智を疑惑して善本を修習するものは胎生する」義をとけり。しかれば、「あきらかに佛智を信ずるもの」といふは第十八の願の機、これ至心信樂の行者なり。その「化生」といふはすなはち報土の往Ⅳ-0514生なり。つぎに「佛智を疑惑して善本を修習するもの」といふは、第十九の願の機、修諸功德の行人なり。その「胎生」といへるはすなはち邊地なり。この文によりてこゝろうるに、諸行の往生は胎生なるべしとみえたり。されば十八の願に歸して念佛を行じ佛智を信ずるものは、得生の益にあづかりて報土に化生し、十九の願をたのみて諸行を修するひとは、來迎の益をえて化土に胎生すべし。化土といふはすなはち邊地なり。 問ていはく、いかなるをか胎生といひ、いかなるをか化生となづくるや。 こたへていはく、おなじき『經』(大經*卷下)に、まづ胎生の相をとくとしては、「生彼宮殿壽五百歲、常不見佛、不聞經法、不見菩薩・聲聞聖衆。是故於彼國土謂之胎生」といへり。こゝろは、かの極樂の宮殿にむまれていのち五百歲のあひだ、つねに佛をみたてまつらず、經法をきかず、菩薩・聲聞聖衆をみず。このゆへに、かの國土にをいてこれを胎生といふなり。これ疑惑のものゝ生ずるところなり。つぎに化生の相をとくとしては、「於七寶花中自然化生、跏趺而坐。須臾之頃身相・光明・智惠・功德、如諸菩薩具足成就」(大經*卷下)といへり。こゝろは、七寶のはなのなかにをいて自然に化生し、跏趺してしかも坐す。須臾のあひだⅣ-0515に身相・光明・智惠・功德、もろもろの菩薩のごとくして具足し成就すとなり。これ佛智を信ずるものゝ生ずるところなり。 問ていはく、なにゝよりてか、いまいふところの胎生をもてすなはち邊地とこゝろうべきや。 こたへていはく、胎生といひ邊地といへる、そのことばことなれども別にあらず。『略論』のなかに、いまひくところの『大經』の文をいだして、これを結するに「謂之邊地亦曰胎生」といへり。かくのごとく宮殿のなかに處するをもて、これを邊地ともいひ、または胎生ともなづくとなり。またおなじき釋のなかに「邊言其難胎言其闇」(略論)といへり。こゝろは、邊はその難をいひ、胎はその闇をいふとなり。これすなはち報土のうちにあらずして、そのかたはらなる義をもては邊地といふ。これその難をあらはすことばなり。また佛をみたてまつらず法をきかざる義については胎生といふ。これそのくらきことをいへる名なりといふなり。されば邊地にむまるゝものは、五百歲のあひだ、佛をもみたてまつらず、法をもきかず、諸佛にも歷事せず。報土にむまるゝものは、一念須臾のあひだにもろもろの功德をそなへて如來の相好をみたてまつり、甚深の法門をきゝ、一切Ⅳ-0516の諸佛に歷事供養して、こゝろのごとく自在をうるなり。諸行と念佛と、その因おなじからざれば、胎生と化生と勝劣はるかにことなるべし。しかればすなはち、その行因をいへば、諸行は難行なり、念佛は易行なり。はやく難行をすてゝ易行に歸すべし。その益を論ずれば、來迎は方便なり、得生は眞實なり。もとも方便にとゞまらずして眞實をもとむべし。いかにいはんや來迎は不定の益なり、「假令不與大衆圍遶」(大經*卷上)ととくがゆへに。得生は決定の益なり、「若不生者不取正覺」(大經*卷上)といふがゆへに。その果處をいへば、胎生は化土の往生なり、化生は報土の往生なり。もはら化土の往生を期せずして、直に報土の无生をうべきものなり。されば眞實報土の往生をとげんとおもはゞ、ひとへに彌陀如來の不思議の佛智を信じて、もろもろの雜行をさしをきて、專修專念・一向一心なるべし。第十八の願には諸行をまじへず、ひとへに念佛往生の一道をとけるゆへなり。 問ていはく、一流の義きこえをはりぬ。それにつきて、信心をおこし往生をえんことは、善知識のをしへによるべしといふこと、かみにきこえき。しからば、善知識といへる體をばいかゞこゝろうべきや。 Ⅳ-0517こたへていはく、總じていふときは、眞の善知識といふは諸佛・菩薩なり。別していふときは、われに法をあたへたまへるひとなり。いはゆる『涅槃經』(北本卷二五德王品*南本卷二三德王品)にいはく、「諸佛・菩薩名知識。善男子、譬如船師善度人。故名大船師。諸佛・菩薩亦復如是。度諸衆生生死大海。以是義故名善知識」といへり。この文のこゝろは、もろもろの佛・菩薩を善知識となづく。善男子、たとへば船師のよくひとをわたすがごとし。かるがゆへに大船師となづく。もろもろの佛・菩薩もまたまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもてのゆへに善知識となづくとなり。されば眞實の善知識は佛・菩薩なるべしとみえたり。しからば、佛・菩薩のほかには善知識はあるまじきかとおぼゆるに、それにはかぎるべからず。すなはち『大經』の下卷に、佛法のあひがたきことをとくとして、「如來興世、難値難見。諸佛經道、難得難聞。菩薩勝法諸波羅蜜、得聞亦難。遇善知識、聞法能行、此亦爲難」といへり。文のこゝろは、如來の興世、あひがたくみたてまつりがたし。諸佛の經道、えがたくきゝがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、きくことをうることまたかたし。善知識にあひて、法をきゝよく行ずること、これまたかたしとすとなり。されば如來にもあひたてまつりがⅣ-0518たしといひ、菩薩の勝法もきゝがたしといひて、そのほかに善知識にあひ法をきくこともかたしといへるは、佛・菩薩のほかにも衆生のために法をきかしめんひとをば、善知識といふべしときこへたり。またまさしくみづから法をときてきかするひとならねども、法をきかする縁となるひとをも善知識となづく。いはゆる「妙莊嚴王の雲雷音王佛にあひたてまつり、邪見をひるがへし佛道をなり、二子夫人の引導によりしをば、かの三人をさして善知識ととけり」(法華經卷七*莊嚴王品意)。また法花三昧の行人の五縁具足のなかに得善知識といへるも、行者のために依怙となるひとをさすとみえたり。されば善知識は諸佛・菩薩なり。諸佛・菩薩の總體は阿彌陀如來なり。その智惠をつたへ、その法をうけて、直にもあたへ、またしられんひとにみちびきて法をきかしめんは、みな善知識なるべし。しかれば、佛法をきゝて生死をはなるべきみなもとは、たゞ善知識なり。このゆへに、『敎行證文類』の第六(化身*土卷)に諸經の文をひきて善知識の德をあげられたり。いはゆる『涅槃經』には、「一切梵行の因は善知識なり。一切梵行の因无量なりといへども、善知識をとけば、すなはちすでに攝在しぬ」といひ、『華嚴經』には、「なんぢ善知識を念ぜよ。われを生ずること父母Ⅳ-0519のごとし、われをやしなふこと乳母のごとし、菩薩分を增長す」といへり。このゆへに、ひとたびそのひとにしたがひて佛法を行ぜんひとは、ながくそのひとをまもりてかのをしへを信ずべきなり。 淨土眞要鈔[廣末] 永享十年W戊午R八月十五日奉書寫之畢 右筆蓮如 大谷本願寺上人之御流之聖敎也 本願寺住持存如(花押)