Ⅳ-0299改邪鈔 (一) 一 今案の自義をもて名帳と稱して、祖師の一流をみだる事。 曾祖師黑谷の聖人の御製作『選擇集』(意)にのべらるゝがごとく、「大小乘の顯密の諸宗におのおの師資相承の血脈あるがごとく、いままた淨土の一宗において、おなじく師資相承の血脈あるべし」と[云々]。しかれば、血脈をたつる肝要は、往生淨土の他力の心行を獲得する時節を治定せしめて、かつは師資の禮をしらしめ、かつは佛恩を報盡せんがためなり。かの心行を獲得せんこと、念佛往生の願成就の「信心歡喜乃至一念」(大經*卷下)等の文をもて依憑とす。このほかいまだきかず。曾祖師W源空R祖師W親巒R兩師御相傳の當敎において、名帳と號してその人數をしるすをもて往生淨土の指南とし、佛法傳持の支證とすといふことは、これおそらくは祖師一流の魔障たるをや。ゆめゆめかの邪義をもて法流の正義とすべからざるものなり。もし「卽得往生住不退轉」(大經*卷下)等の經文をもて平生業Ⅳ-0300成の他力の心行獲得の時剋をきゝたがへて、名帳勘錄の時分にあたりて往生淨土の正業治定するなんどばし、きゝあやまれるにやあらん。たゞ別の要ありて人數をしるさばそのかぎりあり。しからずして、念佛修行する行者の名字をしるさんからに、このとき往生淨土のくらゐ、あに治定すべけんや。この條、號するところ、黑谷・本願寺兩師御相承の一流なりと[云々]。展轉の說なれば、もしひとのきゝあやまれるをや。ほゞ信用するにたらずといへども、こと實ならば付佛法の外道歟。祖師の御惡名といひつべし。もともおどろきおもひたまふところなり。いかに行者名字をしるしつけたりといふとも、願力不思議の佛智をさづくる善知識の實語を領解せずんば往生不可なり。たとひ名字をしるさずといふとも、宿善開發の機として他力往生の師說領納せば、平生をいはず臨終を論ぜず、定聚のくらゐに住し滅度にいたるべき條、經釋分明なり。このうへになにゝよりてか經釋をはなれて自由の妄說をさきとしてわたくしの自義を骨張せんや。おほよす本願寺の聖人御門弟のうちにおいて二十餘輩の流々の學者達、祖師の御口傳にあらざるところを禁製し、自由の妄義を停廢あるべきものをや。なかんづくに、かの名帳と號する書において序題をかき、あまさへ意Ⅳ-0301解をのぶと[云々]。かの作者においてたれのともがらぞや。おほよす師傳にあらざる謬說をもて祖師一流の說と稱する條、冥衆の照覽に違し、智者の謗難をまねくもの歟。おそるべし、あやぶむべし。 (二) 一 繪系圖と號して、おなじく自義をたつる條、謂なき事。 それ聖道・淨土の二門について生死出過の要旨をたくはふること、經論章疏の明證ありといへども、自見すればかならずあやまるところあるによりて、師傳口業をもて最とす。これによりて、意業におさめて出要をあきらむること、諸宗のならひ勿論なり。いまの眞宗においては、もはら自力をすてゝ他力に歸するをもて宗の極致とするうへに、三業のなかには口業をもて他力のむねをのぶるとき、意業の憶念歸命の一念おこれば、身業禮拜のために、竭仰のあまり瞻仰のために、繪像・木像の本尊をあるひは彫刻しあるひは畫圖す。しかのみならず、佛法示誨の恩德を戀慕し仰崇せんがために、三國傳來の祖師・先德の尊像を圖繪し安置すること、これまたつねのことなり。そのほかは祖師聖人の御遺訓として、たとひ念佛修行の號ありといふとも、道俗男女の形體を面々各々圖繪しⅣ-0301て所持せよといふ御おきて、いまだきかざるところなり。しかるにいま祖師・先德のおしへにあらざる自義をもて諸人の形體を安置の條、これ竭仰のため歟、これ戀慕のためか、不審なきにあらざるものなり。本尊なをもて『觀經』所說の十三定善の第八の像觀よりいでたる丈六八尺隨機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。天親論主の禮拜門の論文、すなはち「歸命盡十方无㝵光如來」(淨土論)をもて眞宗の御本尊とあがめましましき。いはんや、その餘の人形において、あにかきあがめましますべしや。末學自己の義すみやかにこれを停止すべし。 (三) 一 遁世のかたちをことゝし、異形をこのみ、裳無衣を著し、黑袈裟をもちゐる、しかるべからざる事。 それ出世の法においては五戒と稱し、世法にありては五常となづくる仁・義・禮・智・信をまもりて、内心には他力の不思議をたもつべきよし、師資相承したてまつるところなり。しかるにいま風聞するところの異樣の儀においては、世間法をばわすれて佛法の義ばかりをさきとすべしと[云々]。これによりて、世法をⅣ-0303放呵するすがたとおぼしくて、裳無衣を著し黑袈裟をもちゐる歟、はなはだしかるべからず。『末法燈明記』W傳敎大師諱最澄製作Rには、「末法にはけさ變じてしろくなるべし」(意)とみへたり。しかれば、末世相應の袈裟は白色なるべし、黑袈裟においてはおほきにこれにそむけり。當世都鄙に流布して遁世者と號するは、多分、一遍房・他阿彌陀佛等の門人をいふ歟。かのともがらは、むねと後世者氣色をさきとし、佛法者とみへて威儀をひとすがたあらはさんとさだめ、振舞歟。わが大師聖人の御意は、かれにうしろあはせなり。つねの御持言には、われはこれ賀古の敎信沙彌Wこの沙彌の樣、禪林の永觀の『十因』にみへたりRの定なりと[云々]。しかれば、縡を專修念佛停廢のときの左遷の敕宣によせましまして、御位署には愚禿の字をのせらる。これすなはち僧にあらず俗にあらざる儀を表して、敎信沙彌のごとくなるべしと[云々]。これによりて、たとひ牛盜人とはいはるとも、もしは善人、もしは後世者、もしは佛法者とみゆるやうにふるまふべからずとおほせあり。この條、かの裳無衣・黑袈裟をまなぶともがらの意巧に雲泥懸隔なるものをや。顯密の諸宗・大小乘の敎法になを超過せる彌陀他力の宗旨を心底にたくはへて、外相にはその德をかくしまします。大聖權化の救世觀音の再誕、本願寺W親巒Rの御門弟と號しⅣ-0304ながら、うしろあはせにふるまいかへたる後世者氣色の威儀をまなぶ條、いかでか祖師の冥慮にあひかなはんや。かへすがへす停止すべきものなり。 (四) 一 弟子と稱して、同行等侶を自專のあまり、放言・惡口すること、いはれなき事。 光明寺の大師の御釋には、「もし念佛するひとは、人中の好人なり、妙好人なり、最勝人なり、上人なり、上上人なり」(散善*義意)とのたまへり。しかれば、そのむねにまかせて、祖師のおほせにも、「それがしはまたく弟子一人ももたず。そのゆへは、彌陀の本願をたもたしむるほかはなにごとをおしへてか弟子と號せん。彌陀の本願は佛智他力のさづけたまふところなり。しかれば、みなともの同行なり。わたくしの弟子にあらず」と[云々]。これによりて、たがひに仰崇の禮儀をたゞしくし、昵近の芳好をなすべしとなり。その義なくして、あまさへ惡口をはく條、ことごとく祖師・先德の御遺訓をそむくにあらずや、しるべし。 (五) 一 同行を勘發のとき、あるひは寒天に冷水をくみかけ、あるひは炎旱に艾灸Ⅳ-0305をくはふるらのいはれなき事。 むかし役の優婆塞の修驗のみちをもはらにせし山林斗藪の苦行、樹下石上の坐臥、これみな一機一縁の方便、權者權門の難行なり。身をこの門にいるゝともがらこそ、かくのごときの苦行をばもちゐげにはんべれ。さらば出離の要路にあらず、ひとへに魔界有縁の僻見なり。淨土の眞宗においては、超世希有の正法、諸佛誠證の祕懷、他力卽得の直道、凡愚橫入の易行なり。しかるに末世不相應の難行をまじへて、當今相應の他力執持の易行をけがさんこと、總じては三世諸佛の冥應にそむき、別しては釋迦・彌陀二尊の矜哀をわすれたるににたり。おそるべし、はづべしならくのみ。 (六) 一 談議かくるとなづけて、同行、知識に鉾楯のとき、あがむるところの本尊・聖敎をうばひとりたてまつる、いはれなき事。 右、祖師W親巒R聖人御在世のむかし、ある御直弟御示誨のむねを領解したてまつらざるあまり、忿結して貴前をしりぞきてすなはち東關に下國のとき、ある常隨の一人の御門弟、この仁にさづけらるゝところの聖敎の外題に聖人の御名をⅣ-0306のせられたるあり、すみやかにめしかへさるべきをやと[云々]。ときに祖師のおほせにいはく、本尊・聖敎は衆生利益の方便なり、わたくしに凡夫自專すべきにあらず。いかでかたやすく世間の財寶なんどのやうにせめかへしたてまつるべきや。釋親鸞といふ自名のりたるを、法師にくければ袈裟さへの風情に、いかなる山野にもすぐさぬ聖敎をすてたてまつるべきにや。たとひしかりといふとも親鸞またくいたむところにあらず、すべからくよろこぶべきにたれり。そのゆへはかの聖敎すてたてまつるところの有情蠢々のたぐひにいたるまで、かれにすくはれたてまつりて苦海の沈沒をまぬかるべし。ゆめゆめこの義あるべからざることなりとおほせごとありけり。そのうへは、末學としていかでか新義を骨張せんや。よろしく停止すべし。 (七) 一 本尊ならびに聖敎の外題のしたに、願主の名字をさしおきて、知識と號するやからの名字をのせおく、しかるべからざる事。 この條、おなじく前段の篇目にあひおなじきもの歟。大師聖人の御自筆をもて諸人にかきあたへわたしまします聖敎をみたてまつるに、みな願主の名をあそⅣ-0307ばされたり。いまの新儀のごとくならば、もとも聖人の御名をのせらるべき歟。しかるにその義なきうへは、これまた非義たるべし。これを案ずるに、知識の所存に同行あひそむかんとき、わが名字をのせたればとて、せめかへさん料のはかりごと歟。世間の財寶を沙汰するににたり。もとも停止すべし。 (八) 一 わが同行ひとの同行と簡別して、これを相論する、いはれなき事。 曾祖師W源空R聖人の「七ケ條の御起請文」にいはく、「諍論のところにはもろもろの煩惱おこる。智者これを遠離すること百由旬、いはんや一向念佛の行人においてをや」と[云々]。しかれば、たゞ是非を糺明し邪正を問答する、なをもてかくのごとく嚴制におよぶ。いはんや人倫をもて、もし世財に類する所存ありて相論せしむる歟。いまだそのこゝろをえず。祖師聖人御在世に、ある御直弟のなかにつねにこの沙汰ありけり。そのときおほせにいはく、世間の妻子眷屬もあひしたがふべき宿縁あるほどは、別離せんとすれども捨離するにあたはず。宿縁つきぬるときはしたひむつれんとすれどもかなはず。いはんや、出世の同行等侶においては、凡夫のちからをもてしたしむべきにもあらず、はなるべきにもあらⅣ-0308ず。あひともなへといふとも、縁つきぬれば疎遠になる。したしまじとすれども、縁つきざるほどはあひともなふにたれり。これみな過去の因縁によることなれば、今生一世のことにあらず。かつはまた宿善のある機は正法をのぶる善知識にしたしむべきによりて、まねかざれどもひとをまよはすまじき法燈にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもをのづから惡知識にちかづきて善知識にはとをざかるべきいはれなれば、むつびらるゝもとをざかるも、かつは知識の瑕瑾もあらはれしられぬべし。所化の運否、宿善の有无も、もとも能所ともにはづべきものをや。しかるにこのことはりにくらきがいたすゆへ歟、一旦の我執をさきとして宿縁の有无をわすれ、わが同行ひとの同行と相論すること、愚鈍のいたり、佛祖の照覽をはゞからざる條、至極つたなきもの歟、いかん、しるべし。 (九) 一 念佛する同行、知識にあひしたがはずんば、その罰をかうぶるべきよしの起請文をかゝしめて、數箇條の篇目をたてゝ連署と號する、いはれなき事。 まづ數箇條のうち、知識をはなるべからざるよしのこと。祖師聖人御在世のむⅣ-0309かし、よりよりかくのごときの義をいたすひとありけり。御制のかぎりにあらざる條、過去の宿縁にまかせられてその御沙汰なきよし、先段にのせおはりぬ。また子細、かの段に違すべからず。つぎに、本尊・聖敎をうばひとりたてまつらんとき、おしみたてまつるべからざるよしのこと。またもて同前、さきに違すべからず。つぎに、堂をつくらんとき、義をいふべからざるよしのこと。おほよす造像起塔等は、彌陀の本願にあらざる所行なり。これによりて、一向專修の行人、これをくはだつべきにあらず。されば祖師聖人御在世のむかし、ねんごろに一流を面授口決したてまつる御門弟達、堂舍を營作するひとなかりき。たゞ道場をばすこし人屋差別あらせて、小棟をあげてつくるべきよしまで御諷諫ありけり。中古よりこのかた、御遺訓にとをざかるひとびとの世となりて造寺土木のくはだてにおよぶ條、おほせに違するいたり、なげきおもふところなり。しかれば、造寺のとき、義をいふべからざるよしの怠狀、もとよりあるべからざる題目たるうへは、これにちなんだる誓文、ともにもてしかるべからず。すべてこと數箇條におよぶといへども、違變すべからざる儀において嚴重の起請文を同行にかゝしむること、かつは祖師の遺訓にそむき、かつは宿縁の有无をしらず、无法Ⅳ-0310の沙汰ににたり。詮ずるところ、聖人御相傳の正義を存ぜんともがら、これらの今案に混じてみだりに邪義にまよふべからず。つゝしむべし、おそるべし。 (一〇) 一 優婆塞・優婆夷の形體たりながら出家のごとく、しゐて法名をもちゐる、いはれなき事。 本願の文に、すでに「十方衆生」(大經*卷上)のことばあり。宗家の御釋に、また「道俗時衆」(玄義分)とらあり。釋尊四部の遺弟に、道の二種は比丘・比丘尼、俗の二種は優婆塞・優婆夷なれば、俗の二種も佛弟子のがはにいれる條、勿論なり。なかんづくに、不思議の佛智をたもつ道俗の四種、通途の凡體においては、しばらくさしおく。佛願力の不思議をもて无善造惡の凡夫を攝取不捨したまふときは、道の二種はいみじく、俗の二種が往生のくらゐ不足なるべきにあらず。その進道の階次をいふとき、たゞおなじ座席なり。しかるうへは、かならずしも俗の二種をしりぞけて、道の二種をすゝましむべきにあらざるところに、女形・俗形たりながら法名をもちゐる條、本形としては往生淨土のうつはものにきらはれたるににたり。たゞ男女・善惡の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思Ⅳ-0311議をもてむまるべからざるものをむまれさせたればこそ、超世の願ともなづけ、橫超の直道ともきこへはんべれ。この一段、ことに曾祖師W源空Rならびに祖師W親鸞R已來、傳授相承の眼目たり。あへて聊爾に處すべからざるものなり。 (一一) 一 二季の彼岸をもて念佛修行の時節とさだむる、いはれなき事。 それ淨土の一門について、光明寺の和尙の御釋をうかゞふに、安心・起行・作業の三ありとみへたり。そのうち起行・作業の篇をば、なを方便のかたとさしおいて、往生淨土の正因は安心をもて定得すべきよしを釋成せらるゝ條、顯然なり。しかるにわが大師聖人、このゆへをもて他力の安心をさきとしまします。それについて三經の安心あり。そのなかに『大經』をもて眞實とせらる。『大經』のなかには第十八の願をもて本とす。十八の願にとりては、また願成就をもて至極とす。「信心歡喜乃至一念」(大經*卷下)をもて他力の安心とおぼしめさるゝゆへなり。この一念を他力より發得しぬるのちは、生死の苦海をうしろになして涅槃の彼岸にいたりぬる條、勿論なり。この機のうへは、他力の安心よりもよほされて佛恩報謝の起行・作業はせらるべきによりて、行住坐臥を論ぜず、長時不退にⅣ-0312到彼岸の謂あり。このうへは、あながち中陽院の衆聖、衆生の善惡を決斷する到彼岸の時節をかぎりて、安心・起行等の正業をはげますべきにあらざる歟。かの中陽院の斷惡修善の決斷は、佛法疎遠の衆生を濟度せしめんがための集會なり。いまの他力の行者においては、あとを娑婆にとをざかり、心を淨域にすましむるうへは、なにゝよりてかこの決判におよぶべきや。しかるに二季の時正をえりすぐりてその念佛往生の時分とさだめて起行をはげますともがら、祖師の御一流にそむけり。いかでか當敎の門葉と號せんや、しるべし。 (一二) 一 道場と號して簷をならべ牆をへだてたるところにて、各別各別に會場をしむる事。 おほよす眞宗の本尊は、盡十方无㝵光如來なり。かの本尊所居の淨土は、究竟如虛空の土なり。こゝをもて祖師の『敎行證』(眞佛*土卷)には、「佛はこれ不可思議光佛、土はまた无量光明土なり」とのたまへる、これなり。されば天親論主は、「勝過三界道」(淨土論)と判じたまへり。しかれども聖道門の此土の得道といふ敎相にかはらんために、他土の往生といふ廢立をしばらくさだむるばかりなり。Ⅳ-0313和會するときは、此土・他土一異に凡聖不二なるべし。これによりて、念佛修行の道場とて、あながち局分すべきにあらざる歟。しかれども廢立の初門にかへりて、いくたびも爲凡をさきとして、道場となづけてこれをかまへ、本尊を安置したてまつるにてこそあれ、これは行者集會のためなり。一道場に來集せんたぐひ、遠近ことなれば、來臨の便宜不同ならんとき、一所をしめてもことのわづらひありぬべからんには、あまたところにも道場をかまふべし。しからざらんにおいては、町のうち、さかひのあひだに、面々各々にこれをかまへてなんの要かあらん。あやまてことしげくなりなば、その失ありぬべきもの歟。そのゆへは、「同一念佛无別道故」(論註*卷下)なれば、同行はたがひに四海のうちみな兄弟のむつびをなすべきに、かくのごとく簡別隔略せば、をのをの確執のもとゐ、我慢の先相たるべきをや。この段、祖師の御門弟と號するともがらのなかに、當時さかんなりと[云々]。祖師聖人御在世のむかし、かつてかくのごとくはなはだしき御沙汰なしと、まのあたりうけたまはりしことなり。たゞ、ことにより便宜にしたがひてわづらひなきを、本とすべし。いま謳歌の說においては、もとも停止すべし。 Ⅳ-0314(一三) 一 祖師聖人の御門弟と號するともがらのなかに、世出世の二法について得分せよといふ名目を行住坐臥につかふ、こゝろえがたき事。 それ得分といふ疊字は、世俗よりおこれり。出世の法のなかに經論章疏をみるに、いまだこれなし。しかれども、おりによりときにしたがひてものをいはんときは、このことば出來せざるべきにあらず。謳歌のごとくんば、造次顚沛、このことばをもて規模とすと[云々]。「七箇條の御起請文」(意)には、「念佛修行の道俗男女、卑劣のことばをもてなまじゐに法門をのべば、智者にわらはれ、愚人をまよはすべし」と[云々]。かの先言をもていまを案ずるに、すこぶるこのたぐひ歟。もとも智者にわらはれぬべし。かくのごときのことば、もとも頑魯なり。荒涼に義にもあたらぬ疊字をつかふべからず。すべからくこれを停止すべし。 (一四) 一 なまらざる音聲をもて、わざと片國のなまれるこゑをまなんで念佛する、いはれなき事。 それ五音七聲は、人々生得のひゞきなり。彌陀淨國の水・鳥・樹林のさへづるⅣ-0315おと、みな宮・商・角・徵・羽にかたどれり。これによりて、曾祖師聖人のわが朝に應たれましまして、眞宗を弘興のはじめ、こゑ、佛事をなすいはれあればとて、かの淨土の依報のしらべをまなんで、迦陵頻伽のごとくなる能聲をえらんで念佛を修せしめて、萬人のきゝをよろこばしめ、隨喜せしめたまひけり。それよりこのかた、わが朝に一念多念の聲明あひわかれて、いまにかたのごとく餘塵をのこさる。祖師聖人の御ときは、さかりに多念聲明の法燈、倶阿彌陀佛の餘流充滿のころにて、御坊中の禪襟達も少々これをもてあそばれけり。祖師の御意巧としては、またく念佛のこはびき、いかやうにふしはかせをさだむべしといふおほせなし。たゞ彌陀願力の不思議、凡夫往生の他力の一途ばかりを、自行化他の御つとめとしましましき。音聲の御沙汰さらにこれなし。しかれども、とき世の風儀、多念の聲明をもて、ひとおほくこれをもてあそぶについて、御坊中のひとびと、御同宿達もかの聲明にこゝろをよするについて、いさゝかこれを稽古せらるゝひとびとありけり。そのとき東國より上洛の道俗等、御坊中逗留のほど、みゝにふれける歟。またく聖人のおほせとして、音曲をさだめて稱名せよといふ御沙汰なし。さればふしはかせの御沙汰なきうへは、なまれるⅣ-0316をまねび、なまらざるをもまなぶべき御沙汰におよばざるものなり。しかるにいま生得になまらざるこゑをもて、生得になまれる坂東ごゑをわざとまねびて字聲をゆがむる條、音曲をもて往生の得否をさだめられたるににたり。詮ずるところ、たゞおのれがこゑの生得なるにまかせて、田舍のこゑはちからなくなまりて念佛し、王城のこゑはなまらざるおのれなりのこゑをもて念佛すべきなり。こゑ、佛事をなすいはれもかくのごとくの結縁分なり。音曲さらに報土往生の眞因にあらず。たゞ他力の一心をもて往生の時節をさだめまします條、口傳といひ御釋といひ顯然なり、しるべし。 (一五) 一 一向專修の名言をさきとして、佛智の不思議をもて報土往生をとぐるいはれをば、その沙汰におよばざる、いはれなき事。 それ本願の三信心といふは、至心・信樂・欲生これなり。まさしく願成就したまふには、「聞其名號信心歡喜乃至一念」(大經*卷下)とらとけり。この文について、凡夫往生の得否は乃至一念發起の時分なり。このとき願力をもて往生決得すといふは、すなはち攝取不捨のときなり。もし『觀經義』(散善*義意)によらば「安心定Ⅳ-0317得」といへる御釋、これなり。また『小經』によらば「一心不亂」ととける、これなり。しかれば、祖師聖人御相承弘通の一流の肝要、これにあり。こゝをしらざるをもて他門とし、これをしれるをもて御門弟のしるしとす。そのほか、かならずしも外相において、一向專修行者のしるしをあらはすべきゆへなし。しかるをいま風聞の說のごとくんば、三經一論について文證をたづねあきらむるにおよばず、たゞ自由の妄義をたてゝ信心の沙汰をさしおきて、起行の篇をもて、まづ雜行をさしおきて正行を修すべしとすゝむと[云々]。これをもて一流の至要とするにや。この條、總じては眞宗の廢立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の稱名をもて正定業とすぐりとり、餘の四種をば助業といへり。正定業たる稱名念佛をもて往生淨土の正因とはからひつのるすら、なをもて凡夫自力のくはだてなれば、報土往生かなふべからずと[云々]。そのゆへは願力の不思議をしらざるによりてなり。當敎の肝要、凡夫のはからひをやめて、たゞ攝取不捨の大益をあふぐものなり。起行をもて一向專修の名言をたつといふとも、他力の安心決得せずんば、祖師の御己證を相續するにあらざるべし。宿善もし開發の機ならば、いかなる卑劣のともがらも願力の信Ⅳ-0318心をたくはへつべし、しるべし。 (一六) 一 當流の門人と號するともがら、祖師・先德報恩謝德の集會のみぎりにありて、往生淨土の信心においてはその沙汰におよばず、沒後葬禮をもて本とすべきやうに衆議評定する、いはれなき事。 右、聖道門について密敎所談の「父母所生身速證大覺位」(金剛頂發*菩提心論)とらいへるほかは、淨刹に往詣するも苦域に墮在するも、心の一法なり。またく五薀所成の肉身をもて、凡夫速疾に淨刹のうてなにのぼるとは談ぜず。他宗の性相に異する自宗の廢立、これをもて規とす。しかるに往生の信心の沙汰をば手かけもせずして、沒後喪禮の助成扶持の一段を當流の肝要とするやうに談合するによりて、祖師の御己證もあらはれず、道俗男女、往生淨土のみちをもしらず、たゞ世間淺近の无常講とかやのやうに諸人おもひなすこと、こゝろうきことなり。かつは本師聖人のおほせにいはく、某W親鸞R閉眼せば、賀茂河にいれてうほにあたふべしと[云々]。これすなはちこの肉身をかろんじて佛法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆへなり。これをもておもふに、いよいよ喪葬を一大事とⅣ-0319すべきにあらず。もとも停止すべし。 (一七) 一 おなじく祖師の御門流と號するやから、因果撥無といふことを持言とすること、いはれなき事。 それ三經のなかにこの名言をもとむるに、『觀經』に「深信因果」の文あり、もしこれをおもへる歟。おほよす祖師聖人御相承の一義は、三經ともに差別なしといへども、『觀无量壽經』は機の眞實をあらはして、所說の法は定散をおもてとせり。機の眞實といふは、五障の女人・惡人を本として、韋提を對機としたまへり。『大无量壽經』は深位の權機をもて同聞衆として、所說の法は凡夫出要の不思議をあらはせり。大師聖人の御相承はもはら『大經』にあり。『觀經』所說の「深信因果」のことばをとらんこと、あながち甘心すべからず。たとひかの『經』の名目をとるといふとも、義理參差せばいよいよいはれなかるべし。そのゆへは、かの『經』(觀經)の「深信因果」は、三福業の隨一なり。かの三福の業はまた人天有漏の業なり。なかんづくに、深信因果の道理によらば、あに凡夫往生ののぞみをとげんや。まづ十惡において、上品に犯するものは地獄道に墮し、中Ⅳ-0320品に犯するものは餓鬼道に墮し、下品に犯するものは畜生道におもむくといへり。これ大乘の性相のさだむるところなり。もしいまの凡夫所犯の現因によりて當來の果を感ずべくんば、三惡道に墮在すべし。人中・天上の果報なをもて五戒・十善またからずは、いかでかのぞみをかけんや。いかにいはんや、出過三界の无漏无生の報國・報土にむまるゝ道理あるべからず。しかりといへども、彌陀超世の大願、十惡・五逆・四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとゞめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、うふるところの惡因のひかんところは惡果なるべければ、たとひ彌陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念佛の衆生、三途に墮在すべきをや。もししかりといはゞ、彌陀五劫思惟の本願も、釋尊无虛妄の金言も、諸佛誠諦の證誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよす他力の一門においては、釋尊一代の說敎にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道斷の不思議なりといふは、凡夫の報土にむまるゝといふをもてなり。もし因果相順の理にまかせば、釋迦・彌陀・諸佛の御ほねおりたるⅣ-0321他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆへは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫むまるべからざるゆへなり。いま報土得生の機にあたへまします佛智の一念は、すなはち佛因なり。かの佛因にひかれてうるところの定聚のくらゐ、滅度にいたるといふは、すなはち佛果なり。この佛因佛果においては、他力より成ずれば、さらに凡夫のちからにてみだすべきにあらず、また撥無すべきにあらず。しかれば、なにゝよりてか因果撥無の機あるべしといふことをいはんや。もともこの名言、他力の宗旨をもはらにせらるゝ當流にそむけり。かつてうかゞひしらざるゆへ歟。はやく停止すべし。 (一八) 一 本願寺の聖人の御門弟と號するひとびとのなかに、知識をあがむるをもて彌陀如來に擬し、知識所居の當體をもて別願眞實の報土とすといふ、いはれなき事。 それ自宗の正依經たる三經所說の廢立においては、ことしげきによりてしばらくさしおく。八宗の高祖とあがめたてまつる龍樹菩薩の所造『十住毗婆沙論』Ⅳ-0322(卷五易*行品意)のごときんば、「菩薩、阿毗跋致をもとむるに、二種の道あり。一には難行道、二には易行道。その難行といふは多途あり。ほゞ五三をあげて義のこゝろをしめさん」といへり。「易行道といふは、たゞ信佛の因縁をもて淨土にむまれんと願ずれば、佛力住持してすなはち大乘正定の聚にいれたまふ」といへり。曾祖師黑谷の先德、これをうけて「難行道といふは聖道門なり、易行道といふは淨土門なり」(選擇集)とのたまへり。これすなはち聖道・淨土の二門を混亂せずして、淨土の一門を立せんがためなり。しかるに聖道門のなかに大小乘・權實の不同ありといへども、大乘所談の極理とおぼしきには己身の彌陀・唯心の淨土と談ずる歟。この所談においては、聖のためにして凡のためにあらず。かるがゆへに淨土の敎門はもはら凡夫引入のためなるがゆへに、己身の觀法もおよばず唯心自說もかなはず、たゞとなりのたからをかぞふるににたり。これによりて、すでに別して淨土の一門をたてゝ、凡夫引入のみちを立せり。龍樹菩薩の所判あにあやまりあるべけんや。眞宗の門においてはいくたびも廢立をさきとせり。廢といふは、捨なりと釋す。聖道門の此土の入聖得果・己身の彌陀・唯心の淨土等の凡夫不堪の自力の修道をすてよとなり。立といふは、すなはち彌陀他力の信Ⅳ-0323をもて凡夫の信とし、彌陀他力の行をもて凡夫の行とし、彌陀他力の作業をもて凡夫報土に往生する正業として、この穢界をすてゝかの淨刹に往生せよとしつらひたまふをもて眞宗とす。しかるに風聞の邪義のごとくんば、廢立の一途をすてゝ、此土・他土をわけず淨穢を分別せず、此土をもて淨土と稱し、凡形の知識をもてかたじけなく三十二相の佛體とさだむらんこと、淨土の一門においてかゝる所談あるべしともおぼへず。下根・愚鈍の短慮おほよす迷惑するところなり。己身の彌陀・唯心の淨土と談ずる聖道の宗義に差別せるところいづくぞや、もとも荒涼といひつべし。ほのかにきく、かくのごとくの所談の言語をまじふるを夜中の法門と號すと[云々]。またきく、祖師の御解釋『敎行證』にのせらるゝところの顯彰隱密の義といふも、隱密の名言はすなはちこの一途を顯露にすべからざるを隱密と釋したまへりと[云々]。これもてのほかの僻韻歟。かの顯彰隱密の名言は、わたくしなき御釋なり。それはかくのごとくこばみたる邪義にあらず。子細多重あり。ことしげきによりて、いまの要須にあらざるあひだ、これを略す。善知識において、本尊のおもひをなすべき條、渴仰のいたりにおいてはその理しかるべしといへども、それは佛智を次第相承しまします願力の信心、Ⅳ-0324佛智よりもよほされて佛智に歸屬するところの一味なるを仰崇の分にてこそあれ、佛身・佛智を本體とおかずして、たゞちに凡形の知識をおさへて、如來の色相と眼見せよとすゝむらんこと、聖敎の施設をはなれ祖師の口傳にそむけり。本尊はなれていづくのほどより知識は出現せるぞや。荒涼なり、髣髴なり。たゞ實語をつたへて口授し、佛智をあらはして決得せしむる恩德は、生身の如來にもあひかはらず。木像ものいはず經典くちなければ、つたへきかしむるところの恩德をみゝにたくはえん行者は、謝德のおもひをもはらにして、如來の代官とあふいであがむべきにてこそあれ、その知識のほかは別の佛なしといふこと、智者にわらはれ愚者をまよはすべき謂これにあり。あさましあさまし。 (一九) 一 凡夫自力の心行をおさへて佛智證得の行體といふ、いはれなき事。 三經のなかに、『觀經』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心ぞとさだめ、『大經』所說の至心・信樂・欲生等の三信をば、他力よりさづけらるゝところの佛智とわけられたり。しかるに方便より眞實へつたひ、凡夫發起の三心より如來利他の信心に通入するぞとおしへおきまします祖師W親鸞R聖Ⅳ-0325人の御釋を拜見せざるにや。ちかごろこのむねをそむひて自由の妄說をなして、しかも祖師の御末弟と稱する、この條ことにもておどろきおぼゆるところなり。まづ能化・所化をたて、自力・他力を對判して、自力をすてゝ他力に歸し、能化の說をうけて所化は信心を定得するこそ、今師御相承の口傳にはあひかなひはんべれ。いまきこゆる邪義のごとくは、煩惱成就の凡夫の妄心をおさへて金剛心といひ、行者の三業所修の念佛をもて一向一心の行者とすと[云々]。この條、つやつや自力・他力のさかひをしらずして、ひとをもまよはし、われもまよふもの歟。そのゆへはまづ、金剛心成就といふ、金剛はこれたとへなり、凡夫の迷心において金剛に類同すべき謂なし。凡情はきはめて不成なり。されば大師の御釋には、「たとひ淸心をおこすといへども、みづに畫せるがごとし」(序分義)と[云々]。不成の義、これをもてしるべし。しかれば、凡夫不成の迷情に令諸衆生の佛智滿入して不成の迷心を他力より成就して、願入彌陀界の往生の正業成ずるときを、「能發一念喜愛心」(行卷)とも、「不斷煩惱得涅槃」(行卷)とも、「入正定聚之數」とも、「住不退轉」とも、聖人釋しましませり。これすなはち卽得往生の時分なり。この娑婆生死の五薀所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流Ⅳ-0326轉の本源をつなぐ自力の迷情、共發金剛心の一念にやぶれて、知識傳持の佛語に歸屬するをこそ、自力をすてゝ他力に歸するともなづけ、また卽得往生ともならひはんべれ。またくわが我執をもて隨分に是非をおもひかたむるを他力に歸すとはならはず。これを金剛心ともいはざるところなり。三經一論、五祖の釋以下、當流W親鸞R聖人自證をあらはしまします御製作『敎行信證』等にみへざるところなり。しかれば、なにをもてかほしいまゝに自由の妄說をのべて、みだりに祖師一流の口傳と稱するや。自失誤他のとが、佛祖の知見にそむくもの歟。おそるべし、あやぶむべし。 (二〇) 一 至極末弟の建立の草堂を稱して本所とし、諸國こぞりて崇敬の聖人の御本廟本願寺をば參詣すべからずと諸人に障㝵せしむる、冥加なきくはだての事。 それ慢心は聖道の諸敎にきらはれ、佛道をさまたぐる魔と、これをのべたり。わが眞宗の高祖光明寺の大師釋してのたまはく、「憍慢弊懈怠難以信此法」(禮讚)とて、憍慢と弊と懈怠とは、もてこの法を信ずることかたしとみへたれば、憍慢の自心をもて佛智をはからんと擬する不覺鈍機の器としては、さらに佛智无上の他Ⅳ-0327力をきゝうべからざれば、祖師の御本所をば蔑如し、自建立のわたくしの在所をば本所と自稱するほどの冥加を存ぜず、利益をおもはざるやから、大憍慢の妄情をもては、まことにいかでか佛智无上の他力を受持せんや。「難以信斯法」の御釋、いよいよおもひあはせられて嚴重なるもの歟、しるべし。 [本云] 右此抄者、祖師本願寺聖人W親鸞R、面授口決于先師大網如信法師之正旨、報土得生之最要也。余、壯年之往日、忝從受三代[黑谷 本願寺 大網]傳持之血脈以降、鎭所蓄二尊興說之目足也。遠測宿生之値遇、倩憶當來之開悟、佛恩之高大宛超于迷盧八之巓、師德之深廣過于蒼瞑三千之底。爰近曾號祖師御門葉之輩中、構非師傳之今案自義、謬黷權化之淸流、恣稱當敎自失誤他W云々R。太不可然。不可不禁遏。因茲、爲碎彼邪幢而挑厥正燈錄斯。名曰改邪鈔而已。 建武丁丑第四曆、季商下旬廿五日、染翰訖。不圖相當曾祖聖人遷化之聖日。是知、不違師資相承之直語。應尊、可喜矣。 釋宗昭W六十八R